琵琶湖の北の方にいる。





道を走っていると、そこかしこで藁焼きをしている、それに混ざって広葉樹の枯葉が燃えた匂いもするものだから、無性に焼き芋が食べたくなる。
秋が深まっている。
百舌鳥がちきちきと鳴いている、きっと冬に向けて早贄をせっせとこしらえているのだと思う。
エナガがじゅるりと鳴いている。じきに終わる飽食の時期を謳歌しているのだろう。
昨日まで福井に行っていた。
恐竜博物館に行ったり、知り合いの駄菓子屋を手伝ったりして、それも終わった。
年が過ぎて日々が過ぎて人が過ぎて、なんでもかんでも過ぎていって、急いではつまずいて、擦りむいて泣き言を吐いて、その間にも時間は過ぎて、そんな時を嘆くことは多いが、その時間は無駄じゃない。
それは絶対だ、だから大丈夫だよと思う。

歳を重ねていくと、こういうことを言うのは恥ずかしいよね、みたいな風潮になっていく。しかし恥ずかしいことがない生き方の方がよっぽど恥ずかしいのだと思う。人を馬鹿にするってことは自分自身を馬鹿にすることと同義だ、もっと丁寧に言葉を選んでいきたい。

人と別れる時、もう2度と会わないかもな、と思いながら別れることが多い。
また会えたらそれはそれでいい事だし、会わなければ会わなかったでそれだけの話なのだと思う。
今日は友人の命日なのだけれど、たまたま連絡を取った共通の友人に、(彼に)手を合わせたかと聞いたら「当然だ」ときた。「今日はナイキのスニーカーの抽選があるんだ、当たるように祈ったさ」だそうだ。よい、友達になるならこういうことを嫌味なく言えるやつが良い。
人の死に立ち会うと、「不謹慎な行為は慎む」みたいなことばかりがフォーカスされ、一緒に追悼しましょう、悲しみましょうという流れに乗せられそうになるが、当事者からしたらきっと「お前じゃないだろ」だ。「泣きたいのはこっちの方だ」だと思う。
乏しい死生観によるポーズやファッションに付き合っている場合ではない、死んだのが悲しいなんて当たり前のこと言ってるんじゃねえと思う。
そいつは生きていたんだよ。と思う。
いなくなったことじゃない、いたことの方がよっぽど大事だ。
かなしいとか、つらいとか、そういう言葉ばかりを並べる人に限って、次の週にはそいつのことを忘れているんじゃないかと思っている。(偏見)
もはやその日に悲しめば1年間忘れてもいいくらいのことを考えていてもおかしくない。(それはそれで別にいいのか)
…過激な思想を展開してしまった気がする、めちゃくちゃ反感を買いそう。
僕もちゃんと手を合わせようと思う。
明日晴れますように!
(外での予定はひとつもない)

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます