庭の生垣に沿って金木犀が植えられていた。
季節は秋で、裏口に進んで行くと甘い香りが押し寄せてきた。
四方八方に伸びた剪定されていない金木犀の枝をかき分けながら進むと、白衣の肩にオレンジ色の小さな花がパラパラとついた。
裏口のすぐ横に犬小屋があった。
塗装のしていない木製の犬小屋は湿気で木の一部が腐り、苔の生えた屋根は抜けていた。
犬小屋の中にはバケツやホースなどが入れてあり、犬はいないようだった。
「失礼いたします」
といいながら裏口を開けたが、足の踏み場がないぐらい靴が散乱していた。
靴の上に靴を乗せる訳にはいかないので、自分の靴は外に出すことにした。
「お邪魔します」
びっしりと敷き詰めた靴の山をまたいで薄暗い台所に入った。
川田愛子さん(82歳)は専業主婦だった。
夫亡き後は共働きの息子夫婦を支え、孫たち二人の世話もしてきた。
二人の孫たちも成人し、早期退職した息子さん以外の三人は働いている。
愛子さんは昨年脳出血で倒れ、右半身に麻痺が残った。
川田家には毎週木曜日に訪問することになった。
しばらくたってから、廊下の方から息子さんらしい男性がのそのそと歩いてきた。
「今日から川田さんのマッサージをさせていただくことになりました、『愛・ピンポンサービス』の、のり丸と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
と私は頭を下げた。
「あ、ああ…部屋はココ…」
と男性は廊下の右側を無造作に指さすと、またのそのそと奥に戻っていった。
「失礼しま……」
愛子さんの部屋に一歩入った私はひるんだ。
部屋は三畳ぐらいの物置のようなスペースで、そこにベットが無理やり入れられていた。
カーテンはボロボロに破れており、破れた隙間から西日が差し込んでいた。
換気はないようで、部屋中に鼻をつく異臭が漂っていた。
ベットの両脇には物が積み上げられており、ベットの上にも衣類や雑誌などが積み上げられていた。
愛子さんはシングルベットの半分のスペースに両足を屈曲して小さくなって寝ていた。
私が挨拶をしている間、愛子さんはしばらく私の顔をジッと見つめていたが、急に叫び始めた。
「右が痛い!右が痛い!ああ、もう痛い!痛いから死にたい!死にたいよーっ!」
愛子さんの枕カバーは真っ黒に変色していたし、シーツも染みだらけだった。
「今からマッサージをするので、ベットの上の物を下におろしますね」
と私は言いながら、ベットの上にあるものを全部下におろした。
私は愛子さんの手首をそっと握って動かしてみた。
「こうすると痛いですか?」
そんな感じで、各関節を動かしながらチェックしていった。
どうやら痛みの原因は関節や筋肉から来ているのではなく「脳」からの可能性が高いような気がした。
脳の体性感覚の異常伝導が痛みの原因を作っている「視床痛」というものだったら(…かなり厄介だな)と私はひそかに思った。
2回目の木曜日に訪問した時は、もう息子さんは出てこなかった。
愛子さんは以前と同じように私の顔を見ると、すぐに「右が痛い!」と訴えた。
ベットの上には再び物が積み重ねてあり、私はそれらを全部おろした。
「痛いことはしないですからね。手の関節をちょと触らせてください」
と言いながら手を握っていると、愛子さんがぽつりぽつりと話し始めた。
「今、カラスが鳴いているよ。今鳴いているのは一番変な声のカラスだよ。…カラスによって鳴き方が全部違うんだよ…」
「そうですか、初めて知りました」
当時の私は(まだ)カラスに興味がなく、心の中で(ふ~ん)と思っただけだった。
3回目の木曜日に訪問した時も、愛子さんは私の顔を見ると「右が痛い!」と同じように叫んだ。
「痛い!痛い!はよ死ねばいいのに!痛い!痛い!痛いよー!なかなかお迎えが来てくれないよ!」
私は愛子さんの手を握りながら話しかけた。
「そういえば裏に犬小屋がありましたが、犬がいるんですか?」
愛子さんは初めてにこっと笑った。
「そうだよ、黒柴がいるんだよ。ゴンというんだよ」
ゴンは優しい犬でね…と話し始めていると、急に思い出したように
「ひろしーっ、ひろしやーっ、ひろし、ひろし、ひろし、ひろし、ちょっと来てーっ」
と息子さんを呼び始めた。
その声があまりにも甲高くて、年齢と共に低くなっているはずの老女の声がおそろしく通ることに私は驚いた。
すると何かを蹴散らかしながら突進してくる足音がした。
「じゃかましーわ、ばばあ!叫ぶなや!」
ひろしは目をむき出して怒号した。
「ひろしや、どうかゴンに餌をやってくれ。ドックフードが置いてあるから、ボールいっぱいやっとくれ」
愛子さんはひろしに哀願した。
「うっせーばばあ!犬はもうおらんのや、ボケやがって!ボケばばあが!二度とじゃますんな!クソばばあ!」
ひろしは愛子さんの部屋に積み上げてあった衣類を力いっぱい蹴った。
そして「あーくっそ、くっそ腹立つ、クソばばあが!ばばあマジしね!マジしね!さっさとしね!」と悪罵しながら戻っていった。
ひろしは部屋でサバイバル系のオンラインゲームをしている最中のようだった。
4回目の木曜日に訪問した時は、台所に険しい顔をした中年の女性が立っていた。
その女性は私を見ると顔をしかめながら、
「…おたくは?おたくはいったい何?」
と言った。
私が挨拶をしかけたら、女性は聞きもせずに、すぐに玄関の方に行ってしまった。
愛子さんの部屋をのぞくと、愛子さんはベットにいなかった。
玄関の方から、「今、おばあちゃんが病院から戻られました」という大きな声が聞こえた。
(愛子さんは病院に行っていたのか)
私は反射的に玄関の方を見た。
玄関のドアが大きく開け放たれ、白い棺を抱えた人たちが入ってきた。
一瞬で私は状況を察した。
なんの連絡も受けてなかった私は、場違いな白衣でいつものように入ってきてしまったのだ。
すぐに裏口から出て靴を履きながら、私は頭を整理していた。
クンクン…一匹の痩せた犬が鼻を鳴らしながら近寄っていた。
「…ゴン?ゴンか?」
と名前を呼ぶと、鼻をすりよせてきた。
「ゴン、今までどこにいたんだ?」
ゴンは尻尾を振りながら全身を押し付けてきた。
(なんだ、ゴンはちゃんと生きているじゃないか)
裏口のドアの脇にはステンレスのボールが置いてあり、中にドックフードが入っていた。
ゴンはドックフードに全く口をつけていないようだった。
「クー、クー」
ゴンは寂しそうな声で鳴いた。
ゴンはなんともいえない目で私を見つめていた。
金木犀の枝をかき分けて道路に出ると、すぐに『愛・ピンポンサービス』に電話をした。
「のり丸先生、すみませーん。川田さん、一昨日、病院でお亡くなりになったそうです…えーと、ケアマネさんからの連絡が遅くて、先生にはご足労おかけしましたー。」
私は住宅街をもくもく歩いた。
その日に限ってたくさんのカラスが電線にとまって、にぎやかに鳴いていた。
カァッカァッカァッ
グァッグァッグァッ
アーッアーッアーッ
クェックェックェッ
なんだよ、本当だった。
愛子さんの言う通り、鳴き声がカラスによって全部違う。
愛子さんはいつもあの部屋で、カラスの鳴き声に耳を澄ませていたのだ。
バス停でバスを待っている間も私は呆然としていた。
(なんか、もう…)
私は回想していた。
「『視床痛』についてお聞きしたいんですが」
私は知り合いの医師に電話で相談した。
「あぁ、それ無理無理。だって『視床痛』はマッサージなんかでなんとかできるもんじゃないから。まぁ…ん〜おばあちゃんの気晴らしになってあげるようにしてたらいいんじゃない?」
医師はそう言った。
(…自分は、本当に無力だな)
バスが来たのでバスに乗った。
バスの中は愛子さんと同じ年齢ぐらいの老人だらけだった。
二人席の通路側が開いていたので、私は座った。
私は目を閉じていた。
(バッカヤロー、バッカヤロー、ちくしょーっ、ちくしょーっ)
目を閉じたまま、自分のやっている仕事にひたすらむなしさを感じていた。
隣の席に座っている老人がふいに私の両手をギュッと握ってきた。
私が落ち込んでいるように見えたのだろうか。
それにしても、なぜ他人がこんなに私の手を握っているのだろうか?
手はポカポカと温かかった。
私は目を開けた。
しかし、だれも私の手を握っていなかった。
隣の老人は本を読んでいるし、私の手は自分の膝の上に置かれたままだった。
(気のせい…)
けれども手はまだしっかりと握られている感触を感じていた。
やがて手のひらがぼうっと明るく輝き、かすかに感触を残したまま、スーッと光が抜けていった。