おでかけのーと

城跡めぐり、ガーデニング、編物。

早瀬城(兵庫・佐用郡)

2019-05-11 | 日記
上月城(Pあり)
2012

上月城手前に、江戸時代に上月村の大庄屋を務めた大谷さんちが。
倉敷騒動を引き起こした立石孫一郎の生家。
いっちょ写真でも撮ってやろうと歩いてくと、赤松円心公廟所って石碑があった。
 
登山口にある上月歴史資料館(200円)で縄張つきのパンフがもらえるとか。
16:00までで残念。

赤松一族の上月景盛によって築かれた→嘉吉の乱で上月氏は滅亡。
赤松家復活後、政元(七条家)が置塩城から入城し、子・政範は佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領し「西播磨殿」と呼ばれた→織田信長から西国攻略を命ぜられた羽柴秀吉の攻撃を受け落城。
尼子勝久が入ったけど、翌天正6年に毛利の大軍に囲まれた。
東を佐用川、南北は谷という要害で、旧本城だった太平山城、大亀山出城とともに守りを固めていた。
「浅野文庫・諸国古城之図」に、周辺の山に毛利勢がビッシリ布陣し、その後ろの高倉山に秀吉軍の陣所が描かれている。
ゴージャス援軍を連れた織田信忠も出陣したけど、狭隘な地形では勝敗のメドが立たず、上月城は捨てて他の城を攻めろと信長の指示で撤退。
取り残された尼子勝久、山中鹿之介、上月合戦で亡くなった人たちの石碑にお参りだけ。
 
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福原城(←Pゴミ置き場)
2014
奥へ歩き→堀跡の道なりに右折すると平城跡がある。
 
元弘の乱の際、幕軍・名越高家を久我畷の戦いで一箭に討ち取った、弓の名手・佐用範家が築城。
戦国時代末期は、上月城、高倉城、利神城と共に赤松一統の城郭群を形成してたけど、1577年(天正5)秀吉軍の兵衛'zに落とされた。
その時に自刃した城主・福原則尚の首級を奉るため、本丸の櫓台跡に福原霊社が置かれている。

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★早瀬城(白山神社←P早瀬公民館) MAP
2019
上月城・赤松政範の弟・政直の居城。

公民館横の道を突き当りまで行き、左の坂道を上ると防獣柵があった。