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宇喜多直家

2016-10-19 | 岡山戦国物語

http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20150104 上寺山館
1529年(享禄2)、宇喜多直家、砥石城で誕生。
祖父・能家は、浦上宗助・村宗・宗景の3代に仕え、知勇兼備の名将として幾度となく合戦に武功を立てるも、1534年(天文3)、同僚の高取山城・島村貫阿弥に急襲され自害。
父・興家は城を捨てて豪商・阿部善定のもとに身を寄せ、1536年(天文5)に死去
直家は叔母のいた尼寺で育てられる。
1543年(天文12)8月、浦上宗景に出仕し、12月、守護・赤松晴政との播州合戦に初陣。
翌年、元服して乙子城を任される。
1549年(天文18)、主君の命で備中勢と内通の噂があった砥石城・浮田大和守を攻略。
ご褒美に奈良部を貰い、新庄山城に入った。
1551年(天文20)、松田氏→浦上氏にチェンジした沼城・中山信正の娘を嫁にする。
1559年(永禄2)、主君の命で舅&祖父の仇・島村貫阿弥を備中勢と内通した容疑で謀殺。
ご褒美に沼城と砥石城(4城所有)をもらう。
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松田氏の支配する西備前へ。
1561年(永禄4)、龍の口城・穝所元常を討ち、出城の両宮山城・和田伊織も攻め敗走させた。
備中を支配下においた鶴首城・三村家親が西へ触手を伸ばしてきたんで、1562年(永禄5)、金川城・松田氏&三星城・後藤氏と和睦。
7月、三村軍を備前津島付近で迎え討ち、追っ払った。(千騎谷合戦)
1563年(永禄6)、三村軍が来襲し、舟山城・須々木行連を降伏させ、石山城・金光宗高を降して足固め。
1565年(永禄8)5月、三星城を攻めたけど、直家の援軍に攻めあぐみ。
11月、鉾先を転じて高田城を攻め、重臣・金田源左衛門の内通で落城させた。
1566年(永禄9)2月、直家は刺客を放って、興禅寺の陣所で三村家親を暗殺。
4月、子・元親が仇討ちに大軍を率いて備前へ攻め込んできたのを全滅に。
1567年(永禄10)の明禅寺合戦でもボコボコにした。
5月、戸川秀安を芝場城攻めへ。
8月、弟・忠家に佐井田城を攻めさせた。
城主・植木秀長は三村元親の援軍をうけて防戦につとめたけど降参。
付近の地侍たちは直家にビビって先を争い服した。
1569年(永禄12)、毛利氏についた金川城・松田元輝を攻め滅ぼす。
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http://d.hatena.ne.jp/rina-chan/20171229 白石城
10月頃、尼子氏と組んで毛利氏に対する。
在番のいる高田城を落とし、美作の諸城を攻め。
1570年(元亀1)正月、花房職之を祝山城に残し、備中攻めへ。
三村氏の妹婿・幸山城、石蟹山城・石賀氏、甲籠城・安達氏らを攻め落とし。
彼らを先鋒として、丸山城、山王山城を落とした。
尼子方の備中松山城・庄高資らは、鴨山城・細川氏などを攻め落とす。
毛利元清が備中奪回へ、まず備中松山城を一気に落とした。
次は自分がボコられると察した諸城は次々と毛利氏に寝返る。
佐井田城だけ抵抗したけど計略で討ち果たし、備中全土は毛利氏の支配下に。
1571年(元亀2)1月、三村元親が浦上宗景の属城・常山城と鼻高山城を陥れた。
2月、直家は杉山城を攻める。
この時期、備中の侍大将衆は九州へ出陣しており、尼子・宇喜多勢に包囲され壊滅状態に。
5月、三好三人衆の協力を得て、児島エリアを奪回。
9月、毛利氏が佐井田城へ来襲。
浦上&宇喜多勢は早朝に出撃して不意打ちし、猿掛城・荘元祐を討ち取る。
尼子氏、本国で毛利氏に敗れる。
1572年(元亀3)、毛利輝元は備中の宇喜多方の城に攻撃を始めた。
あまりの大軍に今回は将軍・足利義昭に頼んで、備中の全城を譲渡する和睦を結ぶ。
1573年(天正1)秋、岡山城へ引っ越し。
1574年(天正2)春、毛利軍が福山城を落とし、虎倉城へ攻め寄せたけど伊賀久隆が大勝。
秋から備中兵乱が起こり、三村氏滅亡。
1575年(天正3)9月、浦上本家の遺子・久松丸を奉じて天神山城を攻め、没落させた。
1577年(天正5)、お次は赤松氏を滅ぼそうと西播州に出陣、諸城を落として有年城上月城などに武将を入れる。
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http://blog.goo.ne.jp/rina-go/e/1a345ae74ed821a3b49d176f3aa35081 三木合戦
織田方の秀吉軍が西国平定に播州入り。
上月城を落とされたんで、別府城を攻めたけど負け。
もっかい上月城をめぐって戦うも、織田氏の配下に入ることを選択。
1578年(天正6)11月、毛利氏に忍山城を攻められる。
織田方になったのが不満で毛利方に内通する者が出て落城。
1579年(天正7)2月頃から美作攻略へ。
周匝城、飯岡城、鷲山城、反宇喜多のリーダー、三星城・後藤勝基を落とし、支配下に。
4月、吉川元春が美作に来襲し、小寺畑城、大寺畑城、篠葺城、岩屋城、宮山城、祝山城など落として帰った。
更に8月、小早川隆景が備前へ来襲したのは、戸川達安が辛川で迎え討って退けた。
1580年(天正8)3月、小早川隆景が児島に来襲し常山城を囲んだ。
兵をコチラに向かわせて岡山城を手薄にさせるための作戦と、戸川秀安は見抜く。
秀吉の援軍が来るという噂に、小早川隆景は攻撃なしで幸山城に引いた。
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1581年(天正9)、直家は病死したけどナイショ。
播磨・因幡を征した秀吉の西進を阻むため、毛利元清は麦飯山城を築いて児島を制圧に。
宇喜多氏は急ぎ八浜城に入り、大激突したけど、水軍に不意を突かれ完敗。
 
 
戸川達安
1579年(天正7)、初陣の辛川合戦で毛利軍を撃退。
父・秀安の引退で、家督を相続して常山城に移る。
秀吉のもとで転戦し、宇喜多秀家の家中で随一の地位&知行地を得る。
も、1599年(慶長4年)から内紛が起こり、旧臣の多くが去った。
達安は家康の庇護を受け、関ヶ原合戦に東軍で戦って庭瀬城主に。
1627年(寛永4)に死去。
3男・安尤が遺産相続で早島の領主となる。