おでかけのーと

城跡めぐり、ガーデニング、編物。

備中兵乱

2016-10-18 | 日記

1507年(永正4)、細川政元が暗殺され、細川家が内乱に陥る。
1508年(永正5)、クーデターを起こされ周防に逃げてた将軍・足利義材は、大内氏の軍事力をアテにした細川高国派に迎えられ復職。
備中は出雲の塩冶、尼子の旗下に加わる者、四国の細川・三好や、播磨の赤松の旗下に加わる者もあり、国が乱れてたんで。
将軍に国侍を味方に引き入れるよう命ぜられた、上野民部大輔は下道郡下原郷の鬼邑山に、伊勢貞信は小田郡江原村の高越山に、二階堂政行は浅口郡片島に在城し、任に当たった。
将軍が山陽道を巡見した際、「二階堂氏は、幸山城・石川久次、松山城・高橋備中守と縁を結んで国中を平定し、家柄もいいし、備中国の探題にしてもいい器だ」と特に選ばれ、経山城へ移るよう命ぜられた。
二階堂氏は常に将軍を敬い、大内家の幕下に加わり、呼び出しがあるたびに諸国へ出陣し軍忠を尽くした。
二階堂を中心に備中国衆は大内系列に。

三村宗親-家親-元祐(庄氏へ養子・猿掛城)
****-**-元親(備中松山城
****-**-女(幸山城・石川久式)
****-**-女(常山城・上野隆徳)
****-**-元範(𣜿城)
****-**-女(月田城・楢崎元兼)
****-**-実親(鬼身城
****-阿西
****-親頼-親成(鶴首城
****-**-元高
****-**-元成
****-政親(国吉城)

承久の変(1221)後の人事で、三村能実は信州荒馬郷から備中国星田郷の地頭として赴任。
元弘の乱(1333)には後醍醐天皇を船上山に守護し、南北朝時代は足利尊氏に味方した。
子・親家が法雲山城を築き、成羽郷に攻め込むも備中守護・細川氏に怒られ退く。
1553年(天文2)、家親が成羽郷に侵入して成羽城を築き、毛利氏の支援で近隣の諸城を攻めた。
陶晴賢の新体制が発足した1552年(天文21)、備後諸将が相次いで大内氏から離反。
毛利元就が制圧に乗り出す。
10月には尼子晴久が備後に侵入して来たり。
1553年(天文22)、猿掛城・庄実近を破り、子・元祐を後継者として入れる。
1560年(永禄3)、備中松山城・庄高資を破り、本拠を移す。
備中全土を攻略したんで、美作や備前にも侵攻。
1562年(永禄5)、毛利隆元が備中守護に。
1566年(永禄9)2月、宇喜多直家が放った刺客に、興禅寺の陣所で家親は暗殺された。
翌年(永禄10)、明禅寺合戦を起こしたけど惨敗。
猿掛城・庄元祐、幸山城・石川久智、経山城・中島輝行などが戦死。

1574年(天正2)、将軍・足利義昭が織田信長に追われ、毛利氏を頼って鞆城へ。
反信長で利害一致した宇喜多直家と毛利輝元は和睦を結ぶ。
仇敵宇喜多と手を組むってどういうこと!な三村氏は、信長と手を結ぶことに。
反対したけど容れられなかった成羽城・三村親成父子は毛利軍に参じ。
妹婿・楢崎元兼は、早々に宇喜多直家を月田城内に引き入れた。
毛利氏は諸国に笠岡浦へ集合をかけ。
1574年(天正2)12月、猿掛城、佐井田城、国吉城、鶴首城、矢倉畦城、庄田山城、野山城、新見城を攻め落としていった。
続いて、弟・三村元範の籠るゆずりは城へ。
譜代の郎党・富屋大炊介、曾禰大蔵、八田主馬を調略したら、意外にもOKで落城。
元範は石指まで退くも、追いつかれ討死。
首は鬼身城・上田実親へ送られた。
兄の結末を見たらビビって降伏するだろうとの策略だったけど、かえって煽る結果に。
小早川隆景は伊世部山城に、毛利元清は木村山城に移り、全軍体制で包囲。
まず、支城の箕腰山砦を攻めると、わずかな兵力の城兵は本城へ避難。
荒平山城・川西之秀は、調略により城兵の助命を条件に流刑。
鬼身城も調略により城兵の助命を条件に落城、実親は自害した。
美袋山城・三村忠秀も、中島大炊介に降伏を勧められ開城し、流刑に。
1575年(天正3)3月、毛利輝元が鬼身城に入り、毛利隆景ご一行は成羽に陣を移す。
備中松山城から盛んに合戦を挑んでくるも、相手にせず。
そこらじゅうの麦を残らず回収して撤収し、内部からの崩壊を待つ。
5/20、竹井直定&河原直久が調略に応じ、天神の丸が陥落した。
毛利軍に本丸まで迫られた三村元親は腹を切ろうとするも、石川久式に止められ脱出することに。
途中で怪我して動けなくなり、小早川隆景に切腹を願い出て、6/2松連寺で切腹。

6/4、娘婿・上野高徳の籠る常山に陣を移す。
隆景は八幡山城へ、元清は島尾城に、麒麟城には宍戸備前が入り、麦飯山城に諸大将が陣取って、常山城を遠巻きにした。
6/6、二の丸へ攻め入る。
三村家は滅亡し、味方してくれる者はなく。
翌日明け方、城内で別れの酒宴が開かれ、継母、嫡男は自害した。
嫁の鶴姫は、女の身であってもひと軍もせずに死ねるかと討って出て。
続いた侍女や城兵たち共さんざん戦った後、戻って自害した。
隆徳も大石の上で切腹。(常山合戦)