おでかけのーと

城跡めぐり、ガーデニング、編物。

明延鉱山(兵庫・養父市)

2022-09-28 | 銀の馬車道・鉱石の道

神子畑から標高差のある山越えを2回経て明延へ。
トロッコが敷設されるまで、どんだけ苦労して運搬してたんだろと思う。

明延鉱山(1200円) MAP
奈良の大仏にココの銅も使われたと古文書に書かれてる。
豊臣秀吉、江戸幕府の管理下でも採掘されたけど下火になってたのが、明治14年に本格開坑。
明治29年、明治政府→三菱合資会社の経営となり、海外技術が導入されて近代化鉱山と進化していった。
明治41年、捨てられたスリ石の中からタングステンが発見され。
翌年には錫石が発見され、日本一の錫鉱山として大発展。

ここは出口で、坂道をあがってく道の先に入口があるよう。
あけのべ自然学校で受付。

✕大仙粗砕場
明延鉱山で掘り出した鉱石を、こぶし大に砕いてた。
それを明和電車で神子畑選鉱所に運んで選鉱・製錬し、生野銀山で錫のインゴットを製造。
してたけど、円高によって安い鉱物が輸入され、昭和62年に閉山。
歩いて行ことしたけど、車で行った方が怖くないと止められた。
インクラインの軌道が残ってて、右へ行くと神子畑、左へ行くと不要物の捨て場があったとか。


昭和35年頃ピークを迎え、鉱山従業員は1500人、4000人が居住。
最盛期には780戸の社宅があった。
☆プレコン団地
 
★明和寮
独身寮。

★北星社宅
戦時中に増産体制が強いられるようになり、農園だった北星には昭和8年頃から木造長屋社宅が建てられ始めた。
大住宅地となったけど、終戦とともに大半の人たちが出て行く。
戦後の復興に伴ってまた活気を取り戻し、縮小された佐渡鉱山、尾平鉱山、槙峰鉱山から転入者を迎え入れる。
昭和28年頃には近代的なプレコン2階建社宅が建てられた。
   
あたり一帯埋め尽くす社宅群だったけど取り壊され、木造長屋4棟、プレコン社宅8棟が残ってる。
 
草に近寄るとヤマビルがいると注意をもらった。
イベント時に内部見学できる。