午後2時過ぎ頃だったか、ふと窓の外が気になった。
曇天に大きな重い雲が幾つか在った。濁った橙色の日が急に差し込んだ。
奇妙なバランスの光景に目を奪われた。が、直ぐ我にかえった。
その揺れは、最初は、免震構造高層ビル特有の大袈裟なものに感じられた。
が、瞬く間にいつもと違うと判り、ヤバイ、ヤバイぞと思わず声を上げた。
ヘルメットを被れと声を荒げた。立って居れず転げるように机の下に潜った。
机から這い出し、窓際から外を見下ろす。
お台場の煙は何だ?煙の上がっている橋は?対岸の千葉工業地帯、火災?
柱のモニターからは、とてつもない津波の映像。
電車の止まった駅付近には人だかり。道路は徐々に渋滞。騒然とし始めた。
館内放送 「緊急連絡網で安否確認開始」「歩いて帰宅できる者は帰宅可」
- 日没 -
館内放送 「今後の帰宅は危険。会社に逗留」「非常食毛布等を支給する」
家族親族への連絡はつかない。
午後8時頃、甥っ子からの電話がつながり、全員の無事を知る。
が、私の部屋は、倒れた棚と落ちたCDと本の山で一歩も踏み入れられぬと。
父母は妹夫婦の家に避難し、もう一人の妹は外出先から帰れず避難所泊まり。
念の為に数日分の水と食料を準備するように言って、電話を切った。
部屋の復旧を土日でやるには、今晩のうちに帰宅せねば、と考え始める。
Google mapで調べると、会社から自宅まで、徒歩約24km、5時間弱と出た。
逗留すべきか、こんな時にスーツと革靴で家まで歩ききれるのか、迷う。
が、こんな時でなければ、会社から自宅まで歩くなど、有り得なかった。
誰も何をするでもなく、重い空気が満ちてきた。
午後9時半頃、「飲んで不始末を起こさぬように」と言い残し、帰宅開始。
皇居の端を抜け、桜田門で国道20号線に出た。
甲州街道に出れば、自宅までは迷いようが無かった。
だが、黙々と路上を急ぐ人の流れから、漠然とした不安が伝染してくる。
風が殆ど無いのは助かったが、未明にかけてかなり冷え込む気配がした。
麹町あたりで、朝からサンドイッチしか食ってないのを思い出す。
空腹感はなかったが、体が冷え切る前に何か食おうとコンビニに寄る。
飯になりそうなものは当然無かった。チョコ飴ナッツ等を買い鞄に詰める。
ついでにATMで現金を多めにおろす。ドラッグストアでホカロンも買う。
四谷を抜け新宿三丁目に差し掛かる辺りで、一人の外人がすれ違いざまに、
「池袋はあっちか」と聞くので、「いや違う」と90度右に腕を振ってみせた。
方角感覚が全く無いようだった。道路標識が見えたので、それを見させた。
「タクシーの方がいいか?」と聞くので「いや捕まらない、歩いて1時間だ」
と答えると、外人は来た道を返し猛烈な勢いで人混みに消えてしまった。
気になったので、明治通りまで見届けようと後を追った。
半ば走るように後を追って歩くペースが崩れたのは、後になって影響した。
携帯で西武新宿線が動き始めたのを知る。
西武新宿駅前に行ってみると人波であふれ、何時間も待ちそうに見えた。
暫く様子を伺ったが、待って凍えるより歩き続けた方が良い、と考えた。
徐々に手足が冷えてきた為、チョコレートを1箱一気に食べ尽くした。
青梅街道を西へ歩いた。環状七号線を渡った。歩き続けた。
慣れ親しんだ高円寺駅に入る道を、知らぬまに通り過ぎていた。
いつもと違う青梅街道沿いの様子に惑わされたのか、疲れが出始めたのか、
どっちにせよ、あの道を気付かず通りすぎたのは、ショックだった。
そのころから手足の凍えがきつくなり、歩みが鈍ってきた。
小さなホッカイロを握っても一向に手指の凍えは回復しなくなった。
マズイな、と思った。
青梅街道から阿佐ヶ谷駅に抜ける中杉通り沿いのデニーズを目指した。
営業していることを願った。やっていた。
午前零時過ぎ。会社を出て約3時間後、はじめて動きを止め腰を落とした。
体は冷え切っていたが暖房は効いていた。鼻水が止まらなかった。
カレーライスを一気に平らげた。チョコ一気食いの所為か急に腹が痛み出す。
疲れが毛穴じゅうから噴出するような錯覚。脚の関節の痛みに気付く。
ここで帰宅難民になれば、会社を出てきた意味が無くなると思った。
午前1時過ぎ、外に出て歩き続けることにした。
西へ歩きだすと、外は更に冷え込み、直ぐに手足は再び凍えた。
両脚の関節が強く痛む。歩が進まなくなった。
その先、石神井の辺りまで休める店は無い。阿佐ヶ谷にも戻れそうにない。
進退窮まったと思った。判断を誤った、と思った。
足を引き摺り、天沼陸橋を超え、環状八号線と青梅街道の交差点を渡った。
どうにもこうにも、脚が出なくなった。
車道に寄りタクシーを待つも、空車は全く通らなかった。
反対の上り方向の車線を見ていると、ごくまれに空車が走っていた。
反対の歩道に渡った。
午前2時過ぎ、漸く最初の空車が向かってきた。手を上げる。止まった。
Uターンは断られると思ったが、そうはならなかった。助かったと思った。
ドライバーは福島県出身だった。下りは依然渋滞していた。
午前3時過ぎ。漸く家に辿り着く。妹夫婦の家に電話する。
母が入院したと。訳が分からん。父を迎えに病院に妹の車で向かう。
家に戻り自室を見た。甥から聞いた通り壊滅に近い状態で呆然とする。
1968年、十勝沖大地震に青森で被災した時の事を思い出しながら、
取り敢えず居間の床にうずくまり、眠った。