別府温泉ツアー

2022-12-13 09:24:44 | 旅行
同じホテルを基地とした長期滞在、といっても6泊7日だが、旅行に出かけた。国内旅行支援を利用した旅行商品から、別府温泉を選んだ。たいていの都道府県には地域クーポンもついているから、お得感があると錯覚させてくれる。コロナ禍で鬱屈感にさいなまされていた我々庶民には、国が行動規制を取っ払ってお墨付きを与えてくれたと自分の良心に言い訳しながらプラン選択を夢見るが、旅行代本体価格は、いつの間にかかなり値上がりしており、「でも、旅行支援があるのだから」と納得させる。デ、私たち2人は、足腰はじめ不調を訴えあうことを日課にしているようなところがあるから、湯治客をイメージして別府にしたのです

●最近の長期滞在型旅行
 ホテルは同じだが、ほったらかしてべったり温泉につかっていろ、というのではなく、観光客を飽きさせないよう、連日のようにバスを仕立てて 近隣観光地めぐりをする。そのプラニングの妙で差別化を図っている。(ただし入場料も旅行代金に含まれている)
 朝食はホテルのバイキングだが、昼食・夕食はついていない。その分は地域クーポンか自費というシステムとなっていた。夕食はホテルや駅前の店に行けばいいのだが、昼食は事前調査しておかないと困ることもある。観光客の常として、その街の有名店や名物を食したいものだが、集合時間までに間に合わせなければならない。また、コースにより出発時間が早い日は、朝食も早く済ませておく必要がある。6時40分のレストランオープンに併せて、朝から行列騒ぎになるときもある。
 この一文は温泉情報のはずだが、私の好みとしてつい食べ物の話になったので、いっそのこと食レポから始めるとしよう。。

● 食レポ ランキング ふうに

1位 別府駅前の宴では、観光案内に掲載されているような店は満員で断られることが多い。
目当ての店を断られてうろついて飛び込んだ店(豊後屋 竹かんむり 別 府市駅前町 池崎ビル2F)で、関あじ、関さばの入った造り盛り合わせ(¥1580)に出会えたのはラッキーでした。
そのうえ、(後述 地獄めぐり 参照)その時まで食べれず心残りだった温泉蒸し、地獄蒸しも注文できたし、大分特産九重椎茸のトリフバター焼きにもありつけた。

2位 情報誌に掲載されている「いづつ」は、地元でも人気店と思われるので、予約し、開店前には店の前にいた。新鮮なアジは入荷できず、関サバがあるというのでその定食を頼んだ。とれたてのしっかりした魚肉は、大阪で味わう鯖とは別物の感じがした。他の客の注文していた地魚等の定食もうまそうだった。
ただ、気になったのは、大分ではコロナ感染者も多くなく、行動規制を経験したことがないのか、多人数で食卓を囲み、乾杯のオンパレードが続いていたので、盃を重ねることなく退散した。
・2位おまけ この店のすぐ近くに和洋菓子店がある。もともとアンコの和菓子専門店だそうで、入手した菓子は、美味です。干菓子ならいいお土産になります。

・コスパ1位 昼食で味も良く、コスパがダントツのNo1の店に、なんとあの有名な湯布院で出くわした。「石窯ピッツァ奈ら~と」というお店である。湯布院は、韓国語とタイ語の飛び交う超混雑地であったが、たまたまピッツァ(以下ややこしいのでピザ)の文字が目に入り立ち寄った。ピザを食するのは久しぶりだ。メニューを見て、妻はオーソドックスなマルゲリータを、私も同じでは芸がないので「ビスマルク」というものを注文した。出された皿を見て、そして食べて少なからず 感動した。たっぷりの野菜と、4切れのローストビーフがついており、これが甘みのある肉の味で最 高。ピザには半熟卵が乗っており、崩してピザ本体と食べるのだそうだ。帰ってから調べてみたら、 かの鉄血宰相ビスマルクは焼肉のうえに半熟卵をのせて食べるのを好んだそうな・・ これに飲み物と、デザートにアイスクリームまでついて何と¥1550、これまた、ラッキーでした。

・変わり種 変わったところでは、⑧の豊後高田市は商店街が昭和の街並みとして有名なところであったが、 大した昭和の食堂は見つからず、有名なのは壺焼き芋らしい。それで焼き芋を買ったが、座る場所も見当たらず、歩きながらの買い食いをし始めたところ、甘酒と韓国コーヒーという変わった店を見つけた。焼き芋昼食とあいなった。昭和も我々も寂れたというのが実感!

●温泉 部門別ランキング風に
・庶民の温泉No1 竹瓦温泉
建物が歴史を感じさせる。道後温泉に負けちゃいない。かつての番台と思われる横の自販機で300円の入場券を買う。オカシイな?! 情報誌には100円と書いてあるが・・湯舟で出会ったよくしゃべるじいさんの話で疑問は解けた。確かに、観光客も100円の時代があったが、熊本大地震で、この銭javascript:void(0)湯も屋根などが壊れ、修理の必要性が出てきた。地元民が日常的に使用しているのに、長期間閉めてておれない。そこで、観光客からは300円取り出したということらしい。ホテルの近所にも公衆浴場があり、新しいな と思っていたが、これもその時にできたということである。ただ、入ってみると体洗いようのカランはない。湯舟が深くて、足の不自由な私には、結構きつい湯であった。風呂上がりの帳場の自販機には、コーヒー牛乳や最終日の前日フリータイムでまたこの辺りを通った。もう一つ有名なのは砂風呂があることで、受付で聞いてみると次のサイクルで入れるとのこと。初めて挑戦した。素裸で浴衣に着替え、眼鏡・タオル・飲料水だけ別の物入れにおく。10人分くらいの人型が掘られた砂に木の枕をおいて横たわる。係員が砂をかけてくれるのだが、胸や腹の上は結構キツイ。圧迫感がすごいのだ。やがて熱くなってくる。「熱くなりすぎたと思ったら腕や足は出してもいい」との係員の注意に素直に従う。目線移動で横のじいさんを見たら額に凄い汗。係員が親切にも、タオルで汗をふき取っていフルーツ牛乳があり、懐かしく昔を思い出した。外に出た横丁の路地は、木造のアーケードとしては日本一古いということであり、崩れてこないかと心配しながらも、記念に通って帰った。

 最終日の前日フリータイムでまたこの辺りを通った。もう一つ有名なのは砂風呂があることで、受付で聞いてみると次のサイクルで入れるとのこと。初めて挑戦した。素裸で浴衣に着替え、眼鏡・タオル・飲料水だけ別の物入れにおく。10人分くらいの人型が掘られた砂に木の枕をおいて横たわる。係員が砂をかけてくれるのだが、胸や腹の上は結構キツイ。圧迫感がすごいのだ。やがて熱くなってくる。「熱くなりすぎたと思ったら腕や足は出してもいい」との係員の注意に素直に従う。目線移動で横のじいさんを見たら額に凄い汗。係員が親切にも、タオルで汗をふき取っていたが、剥げている頭も拭いていた。プレッシャーに弱い私としては、早く終わりたい。「あとどれくらい」「2分」 まあそれなら我慢できる。全身に積まれた砂をどけ立ち上がろうとするが、うまく立てない。人の間を通って出たいのだが、足がなかなか動かず、係員に手を引いてもらって何とかシャワー、洗い場で砂を落としたが、まあ体験しただけで、二度目は希望しない。

・多彩で楽しい温泉 No1 湯快リゾート風月ー夢たから筥(500円)
 夕刻に帰路集合の最終日、いろいろな温泉を体験しておこうと有名ホテルに行く計画をしたが、シャトルバスの運転手が改築中と告げてくれた。会話を聞きつけた客が勧めてくれたのがスーパー銭湯。鉄輪のバスセンターからも遠くないとのこと。低周波風呂、滝状の打たせ湯、ヒノキの風呂、ジェット風呂となずけたジャグジー等々。私はうまくいかなかったのだが、妻は箱風呂がおもしろかったという。観音開きの扉を開け首だけ出してこちら向きに座る。ギロチンで上半身を前に折るのではなく垂直にしたままでいると、蒸気が噴出してきて個室サウナができあがるという次第。無料のジュースを飲みながら、宇宙空間にいるきにさせるというマッサージ器で癒され至福の時間を持てた。お奨めです。

・なんとなく薬効があるような気にさせる温泉No1  別府温泉保養ランド 泥風呂(1500円)
 鉄輪ー海地獄下の次、紺屋地獄のバス停を降りる。別府八湯の一つに数えられる古くからの明礬温泉。いろんな効能があると九州大医学部も分析している。ツアーでお知り合いになった先輩夫婦(80歳を少しまわったくらいか?)から「この施設に来るのは3回目。泥の中から熱い蒸気が上がってくるので、足をサッと動かさなければならない」と入浴のコツを聞く。効きそうだと期待する。ところが浸かってみたが、底の泥はあまり少なかった。知り合いの爺さんが「今年は泥が少ない、去年はもっとあった」という。二人の声を聞きつけたのか、奥さんが「泥少ないわね」と話しながら板塀の向こうから姿を見せる。板で間仕切りをしているが、混浴!!なのです。パンフレットにも明記されている。奥さんの上半身を見てしまった‼ 何気ない風を装って、さらに奥の泥湯のほうに向かう。、底の泥を足にこすりつけながら、かなり長い時間浸っていた。温泉の効用というより、いやあ眼福?!眼福?!

・地獄めぐりについて
 別府に来たら地獄めぐりが欠かせない、というのが観光客の常識のようだ。上記の保養ランドからバスで一駅の「海地獄下」まで歩き、そのまま入口に向かった。「一人400円。10近い地獄をめぐっていくのなら5か所分の2000円、どちらにします?」 とりあえず400円で入場する。なるほど、凄くきれいなオーシャンブルーをたたえた池に、引いてきたパイプから噴煙が立ち上がる。「うーん」 足湯もあってそれも体験。
そこを出て隣の血の池地獄を外からのぞき外から撮影すれば、湯の色が違う。「うーん」 
 分かった。ガイドブックの写真でいけそう。
駅前から専用の地獄めぐりバスなら3900円もするそうナ。腹が減ったので、その分温泉地獄蒸しを豪華に、との目論見は2時間待ちと聞いて、ポシャッテしまいました。空きっ腹抱えて、駅前に着くまでのバスの遠いこと。空腹地獄でした

・期待外れNo1 長湯温泉のラムネ温泉(500円)
内湯から露天にでてみると風強く湯も冷たい。吹き出し口に近づけば、少しはましだろうが、寒い! 炭酸ガスが体の表面に付着し、細かな泡で覆われるが、それがどうした、寒いんじゃ!

●バスツアーに関して 
初日は集合し、新幹線 小倉ー日豊線 別府 ホテル
2日目 ①原尻の滝 ②豊後竹田城跡、③長湯温泉 希望者はラムネ温泉まで引率(昼食)→ホテル
3日目 ④日田市豆田町 ⑤九重夢大吊橋 ⑥湯布院散策(昼食)→ホテル
4日目 ⑦宇佐神宮 ⑧豊後高田市(昼食)⑨富貴寺 ⑩熊野摩崖仏→ホテル
5日目 フリー(上記別府観光保養ランドー地獄めぐり
6日目 午前中 ⑪臼杵大仏めぐり→ホテル 午後フリー 
7日目 チェックアウト 集合時間までフリー 湯快ガーデン 夢たから筥(はこ)

・何といっても涙なくして語りえぬ道No1 ⑩熊野摩崖仏
 ⑪の臼杵大仏もそうだが、山間の崖に彫りつけられた仏像が大分県の有名観光地になっている。半世紀以上も前、九州への一人旅行を行い、臼杵大仏を訪れた記憶がある。保護する建物に守られ、立派な観光地になっていて、驚いた。
 
 熊野摩崖仏は初めてであったが、そこまでの道筋が大変であった。
 私は、4年前帯状疱疹に苦しみ、予後もよくなくて疼痛が続いたうえ、加えて2年ほど前から脊柱管の異常による足のしびれ、右膝への痛みに悩まされている。正座やジャンプができないうえ、階段の下りに難渋している。病院に行けばいいのにと言われるだろう。行きましたヨ! 26年前の脳動脈瘤切除のオペで、MRIは一生厳禁と言われた。遡ってその病院まで問い合わせたが20年以上たったカルテは廃棄されていたので、病院の医師も腰痛ストレッチと血行改善の投薬でお手上げ状態。かくて、サブ3のフルマラソン完走者の成れの果てが、ジョギングもできぬ体たらくになってしまった。
 それでも妻に見守られながら、チャレンジ。登りはまだよい。10mほど先の、太って体力なさそうな夫婦を目標に頑張れる。片手に登り口で借りた杖、片手で手すりの鉄柵つかみ、4点歩行で摩崖仏に着いた。大日如来像と不動明王像へお挨拶もそこそこに戻る。私にとって下りのほうが難物。リズム感とバランス感覚が昔通りならヒョイ、ヒョイと行けそうなのだが、浮石に足を取られた日には旅行中断になりかねない。もっと眺望の良い上まで行った同じツアー仲間が「ガンバッテ」と声をかけて追い抜いて行く。妻は、何メートルか先を歩いている。ありがたいものだ。転落しかけたら、支えてくれる覚悟なのだろう?!。それとも・・・なんどと ばかなことを考えている場合ではない。何とか、何とか、出発予定時間には間に合いました。バスに戻ると、温かい眼差しの人と、そうでない人が・・ ハイ、ホテルに向け出発進行。

・ 期待外れは ⑤九重夢大吊橋 吊り橋の海抜としては173m(長さ190m)で日本一高いというだけで、コンクリートの頑丈な橋(長さ390m)。祖谷のかずら橋みたいなものと、こっちが勝手に思い込んでいただけ。期待外れというより事前調査不足。

・ あと残念なのは④豆田町、朝が早すぎて開いているお店が少ない。国重要文化財の草野本家は開館前。仕方なく開いていた赤司という羊羹屋、帰って食べてみたら美味しい、お薦めの一品。9時になり開いた天領ひな御殿を見るも、今度は集合時間まで間がない。見事で、多くのお雛様に目を奪われたのに・・。

・ ⑦宇佐神宮は、祭神が3人もおられて、一之御殿は八幡大神、二之御殿は比売大神、三之御殿は神宮皇后が祀られており、各御殿は連なり、横から見ればM字に見える特徴的なもの。なので、賽銭箱も三つあり、100円玉では足らないことを覚悟しなければならない。このうち、一之御殿の八幡大神とは、わが町羽曳野は誉田八幡宮にまします応神天皇を指す。

ということで、あるツアー客の独断的別府温泉ツアーの筆をおきます。






私の轍 WatashiのWadachi 第16回

2022-07-07 10:36:58 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第16回

④ 教員との闘い 留年をめぐって
頭の痛いことも当然あった。国旗・国歌問題がその一つだが、この学校ではそれなりの妥協点がみつかっていた。しかし、留年に対する考え方は、それぞれの教員の教育観に応じて実に多様である。教科担当者は出席時数と学習成績によって成績を評価し、当該教科の単位を認定する権限をもっており、進級・卒業のためには、各学校で定められている単位を取得しなければならない。生徒の中には、教科内容が不得手・苦手ゆえ単位を落とす場合もある。しかし生徒指導上の問題が出欠や成績に影響を及ぼす場合も少なくない。
 問題は、単位認定についての各教員の考え方がバラバラであることだ。もちろん内規や申し合わせでできるだけ齟齬が無いように努めているが、最後の判断に迫られたとき、生徒の「自己責任」と考えるか、何とかしようとするかは、いわば各教員の教育観に任されているといっても過言ではない。すでに「平野高校」のところで述べたが、3年生の卒業認定に関して、疑義を提出して論争を引き起こした。平野の場合では、生徒実態等から何とかすべきだろうと思う教員も少なくなかったと思われ、内規の見直しにまで及んだ。
 ところが、この学校の判定会議には驚いた。単位不認定による留年者が予想以上に多かった。形式でいうと、教員の判定会議結果を校長が認めることによって進級-留年が決定する。
各学期ごとに、「この生徒は、こんな状態ですよ」という情報交換を行い、担任等は指導の参考にする。最終の判定会議には、それでも無理と判断された生徒名があがる、と私は思っていた。甘かった・・、なんと、多くの生徒が不認定になっていた。私は、「認められない」と宣言したところ、多くの教員からの反論は、結局は「自己責任」だった。若いころの論争を思い出す。「馬を水飲み場に連れていくまでは教員の責任ですが、水を飲むか、飲まないかは馬次第です」
生徒は馬ちゃうゾ。水が欲しくなるような引っ張って行き方が、教師のスキルじゃ!
 のちに、ある教員から言われた。「あの時の校長、片手をズボンのポケットに突っ込み、目線鋭かった」 スイマセン、育ちがあまりおよろしくないんで。結局、何人が助かったかまでは覚えていない。しかし、直後の選抜試験で、冒頭にあげた全員合格が明らかになり、教員の学力に対する危機意識も高まったのか、学年主任の教員が、「校長の意向は理解されていたので、できるだけ不認定をださないよう努力しました」と言ってくれた。
 この論議を経て、上述の取り組みにつながっていったと思っている。

  ちょっと自慢
(大阪の教育専門ジャーナル紙 「教育タイムス」記者の取材感想記事 2001.11.26)
「高校教育の新しい流れ」
 先日、大東市人権教育協議会主催の研修会で、高校の教育について、野崎高校と大東高校の先生の話を聞きました。ここ数年、変化していることを知らなかったので、少し驚いて帰ってきました。7~8年くらいまでの大東高校は、どちらかといえば暗い感じの学校でした。学校の中もゴミがよく落ちていたし、汚い感じでした。私の子どもが通っていたころは、先生たちも「大東の生徒は勉強しない。これじゃあ大学に行けないのも当たり前だ。もっとましな子を送ってきてくれ。地元集中なんていらん。内申の低い子は敬遠」といった感じでした。 
 ところが今回話を聞いた先生からは全く違う印象を受けて帰って来ました。まず、大東の中学の先生たちの取り組みのおかげで、大東と野崎が協力して高校の統廃合に立ち向かってがんばれているんです、という言葉から始まって、とても精力的な話になりました。元気が出る話でした。九九ができない生徒に7限目を作って教え込んでいるそうです。また大学受験者には、0時間目があって、早朝学習だそうです。私は、九九が出来ない中学や小学校が問題だというより、高校で7時間目に勉強しているということにすくなからず感動しました。子どもたちは「あきらめていない」という感じがしました。高校の先生も子どものニーズによく応えているからでしょう。子どもたちの「学びたい」という思いがなんとなく感じられる話でした。・・・

私の轍 WatashiのWadachi

2022-06-10 21:48:52 | 日記
私の轍 WatashiのWadachi 第15回

このブログの読者へ  5月末に 第12回の平野高校以来、全然アップされていない、どうなっているのかという疑念をお持ちの方も少なくないかと思います。それ以降の大阪府教育委員会時代について、第13回と第14回の原稿を投稿したのです。しかし、「アフェリエイト、商用利用、公序良俗」にかかるgooの規定にひっかかり、公開できないというのです。どこがどういけないのかは示されません。そら、いろいろ書きましたよ。委員会業務の幅広さ大変さ、体質の問題、上司との意見衝突、おかげで健康を損なうどころか、命さえとられかけた話とか・・また何かの折に読んでいただく機会もあるでしょう。このままでは進みませんので、次 行こう!

第4章 校長時代 1校目 大東高校

2000年4月、校長として現場への転出が命じられた。大東高校どころか、JR学研都市線でしか行けない大東市にもあまりなじみがない。守口で生まれ育ったので、京阪沿線の街のほうがよほど知っており、近場でないことに少しがっくりした。羽曳野から通うには1時間半かかる。懲戒でも停学以上は校長が申し渡すことになっており、バスの始発が6:43だったので、まず生徒指導部長に要請したのは、「8時の校長申し渡しは無理だ。8:15にしてくれ」という通勤事情だった。不安を抱きつつも、現場復帰できる、高校生の顔が見れることに期待して赴任した。
ところが、大東高校校長の初年度と2年目、嫁さんがいなかった。JICA(国際協力機構)のシニア海外協力隊に応募してラオスに行ってしまったのだ。理学療法士PTの仕事をしていたが、海外旅行が好き、ボランティア活動を何度も経験しており、募集のあったPTの職種で行くことになった。子どもはとっくに成人となっており、妻の一生の望みであったので、反対はしなかった。昼食は学校で、夜の食事は、下校が遅くなる時は外食となるので、先生方ともよく飲みに行った。顔ぶれが偏っていると、他の先生から苦情を受けたこともあったが、あまりこだわりなく振舞った。 思いっきり仕事できたと思うし、思いっきり生活も楽しめた。

① 大東高校の状況
2000年当時の大東高校は、入学試験の競争倍率が低く定員割れを起こしかねない状況であったし、過去4回実際に定員割れを経験している。また、生徒の学力差が大きい、大きすぎるという特有の問題があった。北摂・三島地域と並んで、北河内の中学校は地元校育成を目指す「地元校集中受験運動」という取り組みの歴史を持っていた。赴任した当時、この運動は功罪相半ばしていると思った。中卒者の漸減で、府立高校全体が私立とどう拮抗できるかという問題があった。そこで中学からいえば、地元校育成のスローガンのもと、学力の高い生徒も低い生徒も一緒に同じ地元校に行かせて、進路を確保しようと努めていた。このことは、障害のある生徒の高校への進路保障とも連動する。しかし高校の側から言えば、教育効率が甚だしく悪い。実際、赴任1年目の初めての高校選抜の陣頭指揮に当たってたまげた。定数320名に対し、志願者320名、つまりふたを開けた途端、基本的には全員合格が約束されているのだ。しかも、中学校からの内申書は10段階から1段階まで、中学校の学年トップとベッタが、地元校というだけで一緒に受験しに来ている。そして両者とも合格、桜の樹の下でともに手を取り合い、障害生徒も高校に進学できた、保護者も感激の涙・・・絵にしたらキレイ、だがキレイなだけでは現実に対処できるわけではない。学力低位の生徒に対するケアには人的措置が必要なのだ。

② 特色づくり ア 習熟度別授業の導入、 
府教委は先をにらんで、定員割れやそれに準ずる府立高校については、統廃合の対象と考えており、本校も将来的な候補校の一つと考えていたようだ。しかし、現今の対応としては甚だしい学力差をどのような方法で克服するかが、教員がそれにむかって目標を共有し、日々実践しようという方向にもっていくのが校長のやるべき道であろうと考えた。
戦略は、より徹底した中高連携の強化、地元校育成の質的充実がそれである。特に、もう一つの府立高校である野崎高校とも一緒に、大東市8中学校校長会との協議・連携、大東市教育委員会との懇談を中心に、地元校の育成に注力してもらうとともに、それまではほとんど送り込まれてこなかった門真市の中学校訪問も行った。とりわけ隣接の深野中学校や、同和教育推進中学校との相互訪問、意見交換は頻繁に行った。また、大東市教委には、府教委時代に机を共にした方がおられ、中高連携に理解を示され協力して頂いたことはラッキーであった。
 校内的には、英数の習熟度別学習の必要性を説いてまわった。意外なことに、革新を標榜する労働組合員の中には、学習指導に関しては旧式な考えをもっている者が少なくなかった。「差別につながる」という幼稚な論理であった。もちろん習熟度別学習の実施には教員の加配が必要で、財政逼迫の当時、そんな要望は通らないと思われていた。何度もまさに粘り強く「内申書1~10が一緒に学ぶ学校に対して、何も手を打てないのか」と、担当者に恫喝めいた言説で折衝し、数学と英語の講師時間を取ってきた。これには、組合教員が驚いたくらいで、「それなら・・」ということで2クラス3展開の習熟度別学習が始まった。

③ 特色づくり イ 中高・地域連携
次の一手はこうだ。やはり、この周辺地区で何か特徴をもって保護者や中学校教員の話題に上るような学校づくりをすることだ。ちょうど、府教委が私学との競合に打ち勝てるように、各学区のトップ校に知恵を出さすための施策として、「エル・ハイスクール」の募集があったので、それに応募することにした。非常に優秀な教員が何人もおり、彼らと知恵を出し合って書類を作った。学校宣伝用パンフレットの表紙に大東のアルファベットDA I T Oを頭にすえた英語を使った「アイウエオ作文」
  D―diversity多様な個性を持った生徒が、
  A―activity様々な活動を通して、
  I― interest自分の興味・関心を発見し、
  T―trialいろんな可能性を試みる、
  O―organizationそんな組織(=学校)です
を掲げ、改編したカリキュラムを説明したものだ。従来の標準コース、理数コースから、文科コース、理文コース、理数専門コースにした。(後2006年、総合学科と普通科専門コースをもつ高校として再編統合された)
 
さてエル・ハイスクールの選考は書類審査を経て、面接プレゼンテーションによるが、書類審査の予選は合格したが、担当指導主事に呼ばれて「降りてくれないか」と打診されたことがあった。府教委の方では意中の高校は決めているらしい。学区のトップ校+αのようだ。もと府教委にいた者としては言いにくいが、やり方が汚い。うたい文句はともかく、大阪型進学重点校の制度化が狙いだ。プレゼンもしたが、最終選考は落ちた。審査結果は見事に予想通りだった。こんなことなら、募集―審査などという手続き無しで決めたらいいのに、と思わぬえもなかった。しかし私にとっては、スタッフになってくれた先生方はそれぞれ有能で、生徒指導、教科指導、進路指導、同和教育実践などで力を発揮しており、ともに論議した経験は楽しかったし、教員の実力もついていくことを実感した。(スタッフのうち5人がその後校長になった。)
 生徒たちは学力も多様だが、授業での反抗や、生徒指導上の問題をおこす生徒も少なくなかった。また、経済的にも府下の平均なみで、授業料減免生徒や滞納者もそこそこいた。
生徒指導主事や担任等が、問題が生起すれば丁寧に家庭訪問をする一方、教員も多様で家庭訪問などした経験がない者もおり、驚いた。
平成13年(2001年)創立30周年記念式典の中で、地元の同和地区が太鼓文化を継承しているので、教えを請い、立派に演奏しきった。日ごろから同和教育主担が連携に勤めていたからだ。
 この記念行事や、エル・ハイスクールの立案の過程で、教員のやる気も盛り上がり、「丸かじり 大東高校」という企画につながっていった。PTAや、小中学校の教職員・保護者と、約300人の地元の中学生の学校訪問時に、同じ中学校出身の生徒に校内のガイド役を任せたり、希望で公開授業を受けてもらったりした。その後3つの分科会で、保幼小中高の教職員、保護者とで意見交換、交流をした。中学校での出前授業や、ボランティア・サークルを立ち上げ、デイサービスや保育所等との交流など地域社会との連携協力に取り組むなどが始まった。おもしろい企画を実行にうつす取り組みは面白く、3年はすぐに過ぎた。(妻も2年の派遣という約束通り、戻ってきた。
(大東高校は次回も続きます)


レダック 私の轍 WatashiのWadachi 第12回

2022-05-11 23:14:54 | 日記
 私の轍 WatashiのWadachi 第12回
教員生活3 平野高校 


① 平野高校の立ち位置

 大阪府中学校卒業者数は増加の一途を辿り、ために新設校の建設ラッシュが続いた時期があった。通常はその学区内で新設校が一つできるたびに、学区内のポジションが下から一つ上がるというような格差構造があった。新設高校は目標や主観的願望というより、中学校や地元中学生の保護者の意識が、そのような格差を暗黙の内に認めていたといえよう。もちろん、居住区が比較的富裕な保護者が占められている所や、何かしらの特徴を持つ学校は、その格差構造から外れていた。
 藤井寺高校勤務は12年の長きにわたっていたので転勤すべき時期に差し掛かってはいた。藤井寺の創設が1974(昭和49)年、平野高校は1980(昭和55)年であり、7学区ではすでに新設校の計画はなくなっていた。さらに、学校用地はひっ迫している状況であるから、大和川の南の平野区の飛び地で隣接の小学校は松原市立という特殊条件であった。転勤時にはすでに8年目を迎えていたが、このようなポジションから、困難校であった。
 もちろん、指導力もあり熱心な教員もいたが、腰が引けて転勤を願っていることを公言する教員の存在には驚いた。生徒にいいようになめられ、遊ばれているのに教員の信念として「いつか、あの子らも分ってくれる」と(今度は)高言する教員もいて、そのアンバランスぶりには呆れた。行った年、2年生の担任なり手が不足していたので応じたら「大丈夫か」と心配された。担任になることにしり込みをするなんど私には理解不能だったが、やってみてりかいできなくもない。

 学校生活の様子 に驚いて、最初の年の卒業文集に書いた贈る文章がコレ
四(五)字熟語 感想 贈る言葉
 今年転勤 初持授業 驚天動地 口     紅妖艶 茶髪脱色 怠学大好 睡眠又好
 授業騒然 叱声無視 憤怒爆発 暫時静粛  試験欠点 平気平左 方針変更 少々甘言 時々冗談 空気白白
 補充授業 人数少数 就職解禁 又々少数
 二学期中間 少々努力 初見是誰 今迄長欠 自縄自縛 未履修目前 残零時間 予想的中 留年確定
 冬休課題 皆目無視 増々増加 不認定単位      然祝卒業 摩訶不思議
 頑張人生 不撓不屈
 君達長所 要領愛嬌 君達不足 誠実努力
 苦楽禍福 色々存在 某所再見 乾杯期待


平野分会新聞に出た私の紹介記事  (1987.6.9付)                   
ようこそ平野へ 腰に 光る除けベルト
 着任早々2年9組を担任し、SHRで愛しい生徒諸君から「不二夫―(漫画家の赤塚不二夫のイメージから)早よ終わろうやあ~」、「俺は不二夫とちゃう。タミゾーや」生徒ドワアと爆笑、という日々を送っていらっしゃいますのは赤塚民三先生です。・・中略
 学生時代から現在まで一貫していることは大の左きき。・・中略・・〇前校長とは藤井寺時代によく飲みに行って、二人で交代で競い合うように眼鏡を失くした話とか、その武勇伝は枚挙にいとまがありません。ご家族は・・中略・・家事能力抜群! 冷蔵庫の中を見て酒の肴を手早く作る、昔は子供を連れてHRをしたこともあるとか、・・中略・・
 腰に光るのは厄除けベルト、旧き良き時代の旧人類中の旧人類にお会いできたという感じで、なぜか私はホッとしました。


② 担任として
 授業は結構シンドカッタが、2年時の担任クラスとしてはまずまずであったと思う。文化祭の模擬店は、優秀賞をいただいた。残念ながら2名の退学者を出してしまった。一人は遊ぶ方が好きで、学校生活を真面目に続ける意思にかけていた。もう一人は典型的な不登校で、家庭訪問しても出てこない、何を考えているのかよくわからないままやめてしまった。10年ほどたって、たまたま行った中華料理店で店員をしていた。「ああ、どうも」という程度であったが、それから何回か行ったものだ。ヨカッタ!
3年時は、文理系クラスということで看護師志望の生徒もいたが、2年よりしんどかった。3年になったのだから、今更学校を辞めようなどと考える生徒はいなかったが、こちらの指導が入らない。長欠気味の生徒が多く、手がまわらない。欠席が多すぎるので面談したら、「家は出るのだが、公園でボーとして鳩さんの動きを見ている」と言った生徒に気づいたのは、1学期も半分過ぎており、うかつさに今更のように悔やんだことを思い出す。体育の結果時数オーバーで通常なら留年になるが、多すぎるので、運動場の長距離走で代替してもらえるのに、それも来ず、家庭まで行って無理やり引っ張り出して生徒もいた。

③ 教育相談の取り組み
 校内でも、不登校生徒への取り組みは、創立当初より熱心に展開されていたようだ。私の赴任した時には、Y先生が、知り合いになったドクターを定期的に招請しており、研究会が持たれていたので参加させてもらった。これは大阪府の保健事業の一環として行われていたようで、精神科のH医師と保健所のAさんとが、教員の持ち込んだ相談事例に対して指導助言を与えてくれるもので、実践的にも大いに役立った。(後に教育委員会に行ったときの教育相談施策化のイメージは、この時の経験が参考になった)
青年期に好発する統合失調症で精神科に通院している生徒への対応も含めて、生活指導的観点と保健指導的観点の両側面、校内での生徒指導部と保健部の連携が必要であることを教示してもらった。当該生徒の通う病院の主治医と懇談したこともある。
自分なりに保護者啓発が重要と考え、学校新聞に保護者向けの「心の窓」を掲載してH理論をかみ砕いて解説するなどの活動もした。保護者アンケートでは一番好評だったようだ。

④ 教務内規への問題提起
 職員会議で論争を挑んだのは、生徒の卒業・進級判定をめぐっての問題で、教務内規の検討にまでつながった。上記漢文擬きにもあげたように、ビックリするような成績で課題も不十分なまま、判定会議の俎上に上がっても、何とか通す傾向が強くあったように思う。留年させても翌年改善が見込めるか?結局退学者を増やすだけではないか?という問いに応えきれないという側面もあるからだ。その代わり、欠席日数、結果時数は厳しく審査する。初めての卒業判定会議に臨んで、一人の生徒の卒業取り消しに反対したのだ。就職も決まっている韓国籍の女子生徒の欠課時数が少しだけ規定オーバーであったと記憶する。留年させればやめてしまうのは確定的だった。せっかく学校斡旋で就職が決まったのに、それをパーにする権限があるのか、と言って粘り勝ちだった。しかし、教務の先生方には、翌年規定そのものの検討をおしつけることになり、恨まれた。

⑤ 1988(昭和63)年 差別落書き教科書放置事件
 卒業を目前にした3年生が教科書を整理処分することとした。ただ捨てるのではなく、昔住んでいた小学校区には寄せ屋があることを思い出した。古着や紙くずなどを再利用する、今の言葉ならリサイクルショップだが、教科書がひょっとしたら売れて金になるかもしれないと思ったのである。懐かしい地でもあるし、自転車に教科書を積んで寄せ屋を探したが昔のことでもあり、見つけられなかった。このまま持って帰るのもしゃくなので、どこかに捨てよう、どうせ捨てるなら思い切り悪口を落書きしようと思いついた。熱心な阪神ファンであった彼は、まず巨人の悪口、それもこの年活躍した黒人選手のクロマティの悪口を考えた。「二グロ クソマティ」 クロをクソと表記したのは糞、汚いのイメージだからである。それから、次々悪口を書いていくうち、この近辺にあった同和地区へのマイナスイメージを喚起し、何冊もあった教科書の表・裏表紙に書き付けていった。そのまま放置した場所は、同和地区内の保育所の外壁であった。翌日、登園してきた職員が捨ててある大量の教科書に気が付き、手に取ってみれば、差別の言葉が並んでいる。職員にすれば、当該保育所、同和地区への攻撃と受け取ってもやむを得ない。
 当該支部で大問題になり、行為者探しが始まった。府教委には、毎年使用教科書を届け出ることになっており、その組み合わせから、平野高校で使用されているものと判明した。さて、そこからが問題である。府教委は学校に当該学年の入試作文との字体を照合させ、生徒(仮にA君)を特定したのである。それなら、A君の意図や気持ちを調べ指導する必要がある。ところが、同和問題に対しては意見対立が激しく、特に高校は組合が〇党系で、担任が党員、学年主任はこの学校の党員のリーダーであり、適切な聞き取り、指導ができるか府教委や校長は危ぶんだらしい。そこで、学年主任がその任を果たしたという、複雑な、そして問題のある経過をたどった。
 私は、当初知らなかった。教頭から相談を受けたのは、職員会議で全体に初めて経緯を報告する直前であった。これはヤバい、関わり方が問題だと思った。教頭が、子どもの書いた文章を見せてくれた。クロマティに始まり書いているうちに、どんどん差別意識が覚醒されていった様子、自分も母子家庭で育ち苦労した話などが綴られていたと思う。職員会議でも一度だけ教頭が読んだ。失礼な言い方だが、平野高校生としてはかなり高い見識、文章力であったように思う。
 職員会議では、予想通り猛反発が起こった。入試作文が利用された点(これは後に文部省にも取り上げられ、新聞にも報道された)、担任ぬきの不適切な指導の二点が教頭、校長への攻撃だった。そのうち、「彼らが解放同盟支部とあっている。解放同盟の糾弾を受けたら、灰皿が飛び暴力も受けかねない。八鹿高校では重傷を受けた先生もいる」というあたりまで発言が続いた。こちらもプッツンきてしまった。幸い、同推校からの中高派遣教員もおり、圧倒的少数ながら、議論は続ける、Aの差別行動は、本校の同和教育が計画だけで何も実施されていない点にも責任があることを突き付けることができた。
 翌年、とにかく人権教育を始めましょう、という合意をとりつけ、野坂昭如原作「火垂るの墓」の上映と指導HRを行うことができた。マ、当たり障りの少ない妥協の産物の平和教育だが、指導案を私が書いて、一歩でも進めることができた。後に府教委に勤め、その支部の方にあった時、「先生方には、私らの悔しい、哀しい気持ちは分からないでしょうネ」と言われた。

 翌年、新1年生の学年生徒指導を担当したが、これがスゴイ。平野区・東住吉区・松原市等の中学校の番長クラスが「集中受験」するという噂を聞いていたが、それに近い顔ぶれだった。一方で、教育委員会指導主事試験を受けるよう勧められたところ合格し、1年の学年主任だった先生も教頭試験に合格した。2年の新主任になった先生かと3人で飲み明かしたが、ぼやかれることしきり・・。

 かくて、堺市工4年、藤井寺12年、平野3年の教員生活だった。




私の轍 WatashiのWadachi 第11回

2022-05-03 10:03:08 | 日記
教員生活 2 藤井寺高校

藤井寺高校 その2

③ 5期生担任の思い出 教員として 絶好調の時期
 同和教育主担者をやりながら、しかし、担任を持たないのが寂しくなってきたので、1978年入学の5期生の3年生の担任をした。文系クラスで男18名女子28名であったが、本当に楽しいクラスであった。潤滑油的存在としてひょうきんな野球部のG君、アイデアマンの放送部のH君を軸に、女子も活発、快活、大人しくまじめ、無口等々、数グループが競い合って、2学期以降、学園ドラマのような事件?出来事が続く毎日であった。
クラスが最高の盛り上がりを見せたのは文化祭でのクラス出し物としての「盆踊り」だった。盆踊り+フォークダンス+流行しているディスコ様の踊りを、自分たちで作った法被を着て、当時流行った山下達郎などの曲に振り付け、踊るのだ。練習が始まると、見学していた3年の他のクラスが負けじと、自分のクラスのシンボルカラーの法被を作って競い合い、以降何年か、藤高文化祭のメインイベントに定着していった。集会台を基礎にして、櫓まで組んでの演舞だったので見どころもあったし、参加している生徒たちも陶酔して、さながらTVの青春番組のようであったと未だに私も卒業生も懐かしがっている。
 2学期末から3学期、少なくない進学者にとって最後の追い込みのはずであるが、クラスみんなで楽しむという空気が勝ち、結果、進路実績は惨敗に近かった。それを問い詰めるのではなく、卒業式の日には校舎の4階から、手製のくす玉わりをやって中から「先生ありがとう」という垂れ幕(紙)が現れたのは、少々気恥ずかしかったが、人生最高の瞬間といってもいいほど嬉しかった。卒業後も毎年のように同窓会が続いている。
 反省も多い。国語の教材に出てきた「白痴」という言葉をある生徒を指すときの呼び名としているという噂が耳に入った。冗談ではない。その生徒は2年時の修学旅行を前にして宿泊を伴う頻繁な対人接触の恐怖から、破瓜型の精神障害を発症したため、知り合いのドクターに繋げ、3年時にわがクラスに引っ張ってきたという経緯がある。関係生徒の親玉を呼び説諭したところ、以降ぴたりとやみ、同窓会にもたまに顔を出す。また、喧騒を伴う女子グループの中で、独自の物静かな世界に浸っている異色の2人の一方が、家庭では暴力的であると聞かされた。見守ることしかできなかったが、無事卒業、専門学校進学ができた。

 これ以降、生徒指導部長、学年主任等で3年の担任を持てなかったのは残念であった。

 *1980(昭和55)年、羽曳野市にマイホームを購入した。府住宅供給公社の抽選に当たった。大工の棟梁だった父親が建築途中を見に来て、OK  を出してくれた。私の勤務地には近いが、資金繰りには苦労したし、祖母の支援も受けれなくなるが、チャンスだと思った。兄は小学生だからまだしも、弟は保育所なので、環境変化に不安を抱き、朝送るとき、自転車の荷台にしがみつき引き剥がすのに苦労したことを思い出す。

④ K君の自死
そして1985年(昭和60年)、教員として最大の衝撃を受けたK君が自死するという出来事に立ち会った。K君の母親は韓国籍、父親とは内縁の関係で庶子。母は家を飛び出し、養育者たる父は新聞購読の勧誘員として各地を飛び回っていたことから、社会監護施設で生活していた。複雑な成育歴から、私たちも当初より彼の言行には関心を持っていたが、まじめで快活、文化祭等ではスターとして活躍、2年生の後期生徒会では会長に立候補して信任されるなど、好感を持って受け止めていた。そのK君が、施設を飛び出したという一報を受けて、捜索したが、力及ばず。3日後、グランドで縊死していた。あまりにもショックが大きく、実際に深く関わっていたこともあって、記録とフィクション化し小説風に文章を書きつけたが、公表するような気になれない。
そこで、K君と一緒に入学した藤高11期生「卒業文集」に学年主任として掲載した「卒業生に贈る言葉」
 この原稿を書いている今、追試も期末考査も終わっていない。心配な諸君も多く、素直に「卒業おめでとう」とは言いにくい。色々な事情で、入学の時に並んだ顔が欠けたのは残念だ。特に僕たちは、二年の時K君の死という悲しい体験を共有した。生徒会やバンドで活動していた時の快活な笑顔が思い出されるが。彼の背負っていた「重い荷物」の意味を、どう自分の中で生かせるかが問題だろう。勿論、彼の中断された生を、代わりに生きるなんてことは誰にもできないことだ。君たちは自分の人生を自信をもって生き抜いていってほしいと思うだけだ。それが体験を生かすことになるだろうと思う。
 では、自分の人生を自信をもって生き抜くとはどういうことだろうか。僕の考えでは、一つは、結果万能の世の中だけれど、過程を大切にするという考えだ。仮に結果が不運であったとしてもどうせ偶然性もあることだし、「自分は悔いなくやりきった」と言える姿勢を持つことだ。「今ここで」を大事にするともいえる。反省はしても後悔はしない気構えを持つことだ。
 今一つは、人間には個性差・財産や社会的地位・権力等、分断する条件が山ほどあるが、同時代の人間は通じ合える、人間性は通底していると観念しておくことだと思う。権威におもねることなく、人を差別することなく生活できると信ずれば、多分自信をもって人生を送れるんではないかと思う。 元気でがんばって下さい。


1987(昭和62)年3月、11期生を送り出し、4月平野高校に転勤した。