ターンアラウンドコンサルティングオフィス 代表 保倉久雄

経営を今一度再生いたし申し候にいたすべく心願にて候。坂本龍馬は今も生きている、私達の心の中で。

坂本龍馬よ現代に甦れ24

2012年10月31日 00時03分14秒 | ターンアラウンドマネージャー
紀州藩との賠償金交渉は1867年(慶応3年)5月29日に落着したが、龍馬にはなお、いろは丸に関連して調整しなければならないことが残されていた。問題を難しくしたのは、いろは丸の所有権が大洲藩にあることだった。そのため、紀州藩から支払われる賠償金をいくら大洲藩に支払い、残りを海援隊がもらうのかなどを調整する必要があり、大洲藩の担当者との打ち合わせなどに忙殺される日々を送っていた。 この賠償金問題には後 . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ23

2012年10月30日 00時03分56秒 | ターンアラウンドマネージャー
いろは丸と衝突した紀州藩の帆船明光丸は、いろは丸の乗員34名を乗せて鞆ノ浦(現在の広島県福山市近く)の港に停泊した。龍馬をはじめとするいろは丸の船員と、高柳楠之助船長以下の明光丸の船員は互いに別の宿を取り、翌日から責任問題を話し合う交渉に臨むことになった。4月23,24,25日と交渉は続いたが、平行線のまま膠着状態となる。互いの航海日誌を検証し合い、海路図に照らし合わせるなどして、衝突事故はどちら . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ22

2012年10月29日 00時01分45秒 | ターンアラウンドマネージャー
後藤象二郎との会談を終えた龍馬は、会談に応じたことにさえ不満を漏らしていた亀山社中の土佐藩脱藩者をなだめ、土佐藩との新しい提携関係を模索していく。龍馬が後藤を信頼できる人物だと考えるようになったことは、、会談から4日~5日後に三吉慎蔵に宛てて出した手紙の中で「近頃の人物にて候」と書いていることからも伺われる。 後藤象二郎も龍馬との会談後に、その評価を高めたようだ。龍馬と土佐藩のために奔走する中岡慎 . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ21

2012年10月28日 00時21分48秒 | ターンアラウンドマネージャー
1867年(慶応3年)の1月5日、龍馬は中岡慎太郎が下関に来ている事を知って会いに行った。そこで、龍馬は中岡から土佐藩が勤王の体制に移りつつあるという情報を知らされる。武力倒幕に執念を燃やし続けている中岡は、京都の公卿や、大宰府に流された三条実美ら五卿との打ち合わせを終え、薩摩藩に向かう途中だった。そして、薩長両藩に土佐24万石の武力を加えることで、より強固な倒幕軍ができると考え、調整役として走り . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ⑳

2012年10月27日 00時07分08秒 | ターンアラウンドマネージャー
龍馬が亀山社中の再興を誓い、会社経営に力を注いでいた頃、徳川幕府は長州藩と和議を目指していた。薩長戦争を実質的にリードし、第15代将軍への就任が確実視されていた徳川慶喜が、和議の調停役に幕府代表として指名したのは、軍艦奉行に再任された勝海舟だった。勝は用心のために護衛の軍団をつける申し出を断り、単身で和議の会議場所となった安芸宮島に向かう。1866年(慶応2年)9月2日のことだ。この頃長州藩は、ま . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ⑲

2012年10月26日 04時45分19秒 | ターンアラウンドマネージャー
兄の権平に「何の心配なく」と書かせたほど、圧倒的な多数を誇っていた幕府軍は弱かった。もともと戦う前から士気が低かったが、長州軍を圧倒できない原因だったのだろう。龍馬は権平への手紙の中で「肥後の兵などは強かりければ」と、わずかに肥後藩の軍勢の健闘振りを評価している程度だ。天下の直参である旗本たちは、戦う前に隠居してしまうなど敵前逃亡を図っており、幕府軍を組織するのに時間がかかった。第二次征長令を発し . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ⑱

2012年10月25日 06時25分51秒 | ターンアラウンドマネージャー
是が後に、亀山社中の運営が苦しくなった時期に役立つことになる。 収入の道が途絶えていた亀山社中が、米を売って隊員たちの生活費に当てることができたからだ。薩長の間で供給が約束された米を、龍馬が無断でもらうことはもちろん許されない行為だ。龍馬は6月16日、下関で桂小五郎に会って西郷の気持ちを伝え、米を返そうとした。ところが、今度は桂小五郎がへそを曲げる。藩の許可を得て、同盟藩の苦境を助けようとして供出 . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ⑰

2012年10月24日 00時01分58秒 | ターンアラウンドマネージャー
寺田屋から脱出することができた龍馬は、指の怪我だけですんだ。九死に一生を得た形となったのだが、傷は想像以上に深く重いものだった。しばらく布団から起き上がることさえままならないほどで、お龍が献身的に世話をした。新撰組などに付狙われている中で変装することもなく京の街中を歩いた付けが回った形となったわけだが、もともと龍馬はあれだけ暗殺が横行する時代の中でも、きわめて楽観的な死生観の持ち主だった。脱藩して . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ⑯

2012年10月23日 03時12分35秒 | ターンアラウンドマネージャー
桂小五郎はもともと神経質な性格の上に、疑い深いところもあった人物。ましてや、過去は長州藩の敵だった薩摩藩との密約だ。桂は西郷との会談後、すぐに薩摩藩京都藩邸を出て大阪に向かったが、会談の翌1月23日付けで条約を成文化し、内容を確かめたうえで龍馬に証人の意味を持つ裏書をして、署名したうえで長州に送り返して欲しいと頼んでいる。 是を受け、龍馬は朱書きで「後来といえども決して変わり候事無之」と裏書。意味 . . . 本文を読む

坂本龍馬よ現代に甦れ⑮

2012年10月22日 02時24分39秒 | ターンアラウンドマネージャー
龍馬は三吉慎蔵を伴って、1866年(慶応2年)1月18日に大阪に到着。そのまま薩摩藩大阪藩邸に入る。大阪は厳重な警備体制が敷かれていて、薩摩藩邸に無事に到着するのも一苦労という状況になっていた。折しも大阪城には、長州藩を討つべく江戸を出発した第二次長征軍の総師であり、徳川14代将軍でもある徳川家茂が入城して本陣を構えていた。警戒がより厳重になるのは当然のことだった。 中でも龍馬は警備担当者たちにと . . . 本文を読む