>>これがあれば、もやが晴れたような気分になれるでしょう。と同時に、「読んでもわらない詩って何なのだろうか」と思う。この本の著者のような研究者が居なければわからない詩って・・・いままで、もっともらしい解釈での解説に騙されてきたようです。社会も世間も顧みない中也、ごくごく私的な出来事を揶揄したような言葉の数々に過ぎない、というのが良く分かりました。そのまま読んでもわからない詩が評価されるのですから、詩に限らず、自分の作品を自ら解説する勘違い芸術家とやらが増えるわけですね。
まったく、ごもっともですね。
いくら言葉をなぞってもわからなかった詩の全貌が明らかにされている、画期的な本です。連休だけれども、クソ暑いので読書中。小林氏、泰子さんとのドロドロの三角関係の詩だったとはね、有名な「サーカス」でさえも。性的表現も多いのだが、時代のせいか幾重にもオブラートで包み込んだような表現になっているようです。詩集を買うより、これを買えば中原中也の詩も通釈も揃うのでおすすめです。在りし日の歌 全釈もあります。ただし絶版本なので、少し高価ですが。
汚れっちまった悲しみに・・・・
当たり前のように、中也の絶望を象徴する詩のように扱われているが、大きな間違いのようだ。「よごれっちまった悲しみに」ではなく「けがれっちまった悲しみに」と読むと理解しやすい。実際は、小林氏に逃げられた泰子さんだが、中也のところへ戻ってくることはなく、演出家との情交をするようになってその結果、身ごもってしまった。その泰子さんを中也が救おうと言葉を綴った詩ということだ。また「たとえば狐の革衣」の一節が、今まで唐突過ぎて謎であった。「毛皮にされてしまった憐れな狐のような悲しみ」と自分なりに思っていたが、どうも違和感ありであった。実際は、狐の革衣は中国由来の貴重な高級品だそうで、それに泰子さんを重ねたものだとすると「狐の革の衣装のように高貴な品性であるにもかかわらず、けがされてしまった悲しさ」となり、すっきりする。NHKの番組では、この一節の朗読シーンが突然、雪の中の狐の映像になって、さっぱりわからなかった。また「汚れっちまった悲しみに」というテレビドラマでは、中也が小林氏に裏切られた怒りと悲しみに絶望しているところへ、小雪が降っているシーンにこの詩が使われていた。そうすれば、ドラマチックではあるのだけれど、中也が「いたいたしくも怖気づき」するようなことは晩年以外にはなかったので、但し書き通りのフィクションドラマということになりますね。
山羊の歌 冒頭詩 「春の日の夕暮」
トタンがせんべい食べて・・・
ダダ表現で意味不明とか、読む人それぞれに解釈すれば良い、自由だなんて解説ばかり。解説になってないじゃないか。そもそも情景描写はしない中也、詩が書かれた時期とその頃に三角関係がどうなっていたかが、重要なポイントになる様だ。中也の詩に出てくる女性は、泰子さん、妹も年増女もみちこも。それに月や空、野原、瓦などなど泰子さんの象徴語は多数だそう。「在りし日の歌」のボタンは、妻となった孝子さんだそうです。
「春の日の夕暮」より解釈一部抜粋
ガサガサとゲスっぽくなった泰子の
バリバリと音を立ててせんべいを食べるようなヒステリーがおさまって
春の夕暮れは穏やかになりました
泰子にまき散らされた火鉢の灰がおさまると
春の夕暮れは穏やかになりました
案山子みたいに勃起する精力は自分にあるか あるまい
気持ち良くて馬みたいによがる精気は泰子にあるか あるまい
(略)
瓦みたいにすべすべの女陰が衣からはぐれて出てきました
(略)
自分のあそこの静脈の中へ血が充ちていくのです
冒頭詩は、セックスの詩だそうです。合点がいくというか、すっきりした気分になりました。(笑)
ここは、アフィリエイトサイトなんかではありませんよ。(笑)
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