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ルーツを求めて

神社・磐座・歴史・音楽など気になっていることを気ままに載せていきます

橘紋について

2012-02-18 09:42:34 | 日記
 橘紋は橘の葉・実を図案化したものです。『古事記』によると垂仁天皇の命を受けた多遅間毛理(田道間守)が、常世の国から橘を持ち帰ったといわれます。兵庫県豊岡市に鎮座する中嶋神社はこの多遅間毛理を祭神とし、橘紋を使用しています。
 穴師神社には摂社橘神社があり、この神社だけ他の摂社とちがって例祭として橘祭が行われるそうです。また多遅間毛理は天日矛の後裔ですが、穴師神社に祭られている兵主神と天日矛との結びつきも指摘されています。

大和神社と穴師神社、どちらも橘紋なのはなぜか

2012-01-29 10:18:24 | 日記
 
  以前、奈良県天理市に鎮座する古社、大和(おおやまと)神社を訪れた際、境内で橘紋を目にしました。おや?と思いました。とういうのは、そこを訪れる前に立ち寄った穴師神社でいただいたご朱印にも橘紋が載っていたからです。穴師神社から大和神社へは車で5分程度だったでしょうか、とても近い距離です。両社の間には何か関係があるのしょうか。大和神社の方にそのことを尋ねたところ、どちらも同じ系統の神社なのです、というようなお答えでした。
 穴師神社の橘紋を見ると、実の部分には「大兵主神」という字が入っています。そのまま解釈すると、橘紋は兵主神(ひょうずしん)の紋ということになります。ということは大和神社も兵主神を祀っていることになります。ところが、大和神社の公式ホームページによると、祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)、八千戈大神(やちほこのおおかみ)、御年大神(みとしのおおかみ)の三柱となっていて、兵主神は見あたりません。
 

百千鳥とは八咫烏のことでは?

2012-01-21 10:14:05 | 日記
 以前『神社』(東京堂出版)の大神神社の項を読んでいて見つけた次のような記述がひっかかっていました。

当社(大神神社のこと)には本殿がないが、ただ三輪山に向って三つの連接の鳥居いわゆる三輪鳥居を立て、その手前に拝殿だけが設けられている。いつのことか神殿を立てたが、百千鳥が群がって散々破壊したという。

 この話はどういうことを表しているのだろう。実際に鳥が神殿を破壊したはずはなく、きっと何かの暗示ではないか。そう思いました。
 最近『失われた極東エルサレム「平安京」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける著、学研)を読んでいて、その答えがわかりました。日本には神道界を裏で支配し、天皇にかわって儀式をとり行う八咫烏と呼ばれる秘密の組織があるそうです。安倍晴明の物語では、鳥や烏の話す声を聞くことができたと記されているそうですが、それは安倍晴明が八咫烏から情報を得ていたことを暗示しているのだということです。大神神社の神殿が百千鳥によって破壊されたという話も、きっと八咫烏によって破壊されたことを伝えているのに違いありません。神殿を立てたことが八咫烏の意向に沿わなかったのでしょう。
 私が住んでいる神奈川県の南足柄市に最乗寺という古刹があります。境内には烏天狗の像が立っています。それはこの寺が修験者の修業の場であったことを示しているだけでなく、もしかしたら八咫烏とつながりがあったことを示しているのかもしれません。『失われた極東エルサレム「平安京」の謎』によれば、八咫烏は歴史の中で単に烏として描かれることがあり、烏天狗も八咫烏の暗号の1つなのだそうです。烏、烏天狗、鳥を手がかりにして神社、寺社を見ていこうと思います。

籠神社とカゴメ紋

2012-01-08 14:07:15 | 日記
  

『元伊勢の秘宝と国宝海部氏系図』(籠神社社務所発行)に載っている写真より
           

         
籠神社で頒布されている札

 籠神社の奥宮である真名井神社に建っている碑にかつてカゴメ紋が刻まれていたことは、日猶同祖論に興味がある人の間ではよく知られています。上の画像ではわかりにくいですが、確かにカゴメ紋が刻まれています。それがしばらくして三つ巴紋に変えられたことも知られています。どこからか圧力がかかったせいではないかと言われています。
 ところが雑誌『ムー』2009年7月号の記事「封印された物部神道秦始皇帝とユダヤの秘儀」を見て、驚きました。カゴメ紋が描かれた籠神社の絵馬の写真が掲載されていたからです。のちに実際に籠神社を訪れ、その絵馬をいただいてきました。これについてはどこからか圧力がかけられることはないのでしょうか。またそういう恐れがあることを承知の上で、籠神社がこの札を頒布しているのはどういう訳なのでしょうか。知りたいところです。

豊受大神は古代イスラエルの神(つづき)

2012-01-08 10:52:49 | 日記
 以前籠神社の関係者が、「豊受大神は古代イスラエルの神である」と言明していることを引用しました。今回はそのもととなった思われる記述を紹介します。長い引用になりますが、『古代ユダヤ人と聖徳太子の秘密』(月海千峰著、日本文芸社)からのものです。
   
 籠神社の関係者に、古神道を継承している、ある人物がいる。この人物から籠神社の謎について、決定的な真実がもたらされた。
 あまりにも衝撃的な話のため、その人物の名を明かすことはできないが、彼は始めに、丹後から出土したという直径7センチほどの、黒い石のような鉄を筆者に見せてくれた。
 この鉄は鑑定の結果、紀元1世紀のもので、丹後には大和朝廷よりずっと以前から高度な製鉄文化があったという。さらには、謎の技術者集団の集落跡のようなものまでも見つかっていて、これらは丹後王朝の確かな証拠となっているのである。
 当時の大和朝廷とは、近畿に進出してきた、いわゆる新興勢力だった。大和朝廷は始め、丹後王朝と同じニギハヤヒ系の豪族である物部との折衷政権のかたちをとっていたが、しだいに拡大して丹後を勢力下に収めてしまった。その丹後の最終的な服従の表明が、豊受之大神の伊勢遷宮だったのである。
 各地の有力豪族の信仰を取り込んで懐柔していくのは、昔から大和朝廷の手法だったが、なぜ豊受之大神だけが別格として伊勢に遷され、皇室の神社とまでなったのだろうか?この答は衝撃的だった。
 なんと、豊受之大神はユダヤの神だったのである。
 特殊な信仰形態をもった丹後一族を大和朝廷が治めるためには、豊受之大神を祀り上げるしかなかったという。
 しかし驚きはまだ続く。丹後は豊受之大神をご神体を伊勢に遷したと見せかけて、じつは明治時代まで神社に隠していたという。それは、紛れもなくユダヤと関係がある品、具体的にいうと「マナの壺」だった。
 この「マナの壺」は、明治時代に謎の出火が原因で、行方不明となってしまったそうである。

 「マナの壺」は行方不明となってしまった、とありますが、おそらく現在は伊勢神宮の外宮で祀られていると考えられます。それはともかく、籠神社にはこの証言のほかにもユダヤとの関わりを示唆するものがあり、興味が尽きません。