穴師神社は「穴師坐兵主神社」「穴師大兵主神社」「巻向坐若御魂神社」の三社を合祀したものです。兵主神は但馬地方に多く分布しています。但馬は天日矛の本拠地だったことからもわかるように、兵主神と天日矛との結びつきは強いようです。穴師神社も実は天日矛を祀っていると宮司自身が打ち明けた、という話をこのブログでも紹介しました。ただ、兵主神=天日矛というわけではないようです。とりあえず、兵主神の由来について見てみましょう。
『日本の神々7山陰』(白水社)の「大生部兵主神社」の項には次のような説明が載っています。
兵主は中国の山東地方に祀られていた天主・地主など八神のひとつで、武を司る神であり、貝塚茂樹氏によれば蚩尤(しゆう)とも称し、鉄を常食とする神であった。風を支配した彼はまた「ふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物でもあった」(『中国神話の起源』)という。このように、兵主は元来は金属の鋳造や精錬にかかわりの深い神だったとみられる。
また『史記』には秦の始皇帝が斉の国のある山東地方を旅行し、山東地方で祀られていた天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主の八神を祀ったことが記されているそうです。
ところで、『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける著、学研)は、天皇の背後で神道を取り仕切る秘密組織「八咫烏」による証言として、物部氏が秦の始皇帝に仕えた方士、徐福とともに渡来したことを紹介しています。さらに、その証言の中には、渡来は2度あったこと、1度目の渡来地は若狭湾、2度目の渡来地は九州北部であったことも含まれていたそうです。
そこで私は、兵主神は徐福集団の1度目の渡来によって日本に持ち込まれたのではないかと考えています。兵主神は山東地方で祀られていた神だということですが、徐福も『史記』によれば斉の国、山東半島周辺の生まれです。
『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』でも述べられているように、若狭湾の近くには丹後の一宮、籠神社があります。この神社の宮司を代々務める海部氏は物部氏だと考えれていますが、現宮司は「物部氏と海部氏では格が違います。ひとつの大きなグループを形成していましたが、中核を担っていたのは海部氏です」(月刊『ムー』2009年7月号)と述べています。つまり、海部氏も物部氏と同じく徐福とともに渡来したものの、渡来時期と場所は異なり、海部氏のほうは1度目にやってきた集団に含まれていたと考えられるのです。この1度目に渡来してきた集団の中に、兵主神を祀る人々もいたのではないでしょうか。そう考えると、海部氏の子孫が倭大国魂神を祀る大和(大倭)神社と、兵主神を祀る穴師神社がともに橘紋を使用するのもうなずけます。
さきほど取り上げた『ムー』の記事によれば、飛鳥氏が籠神社の宮司に「ずばり聞きます。物部氏の正体は徐福集団ではないのですか」と尋ねると、宮司は「…さあ、それはどうでしょうな。ただ『古事記』には、不老不死の非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求めた田道間守の話があります」と答えたそうです。この田道間守が常世の国から持ち帰ったとされるものこそ橘なのです。
『日本の神々7山陰』(白水社)の「大生部兵主神社」の項には次のような説明が載っています。
兵主は中国の山東地方に祀られていた天主・地主など八神のひとつで、武を司る神であり、貝塚茂樹氏によれば蚩尤(しゆう)とも称し、鉄を常食とする神であった。風を支配した彼はまた「ふいご技術によって青銅兵器の製造を行った部族の代表者であり、この技術の発明者であり、古代においては神秘的なふいごの用法、青銅器鋳造の秘密を知っている巫師の祖先と仰がれる人物でもあった」(『中国神話の起源』)という。このように、兵主は元来は金属の鋳造や精錬にかかわりの深い神だったとみられる。
また『史記』には秦の始皇帝が斉の国のある山東地方を旅行し、山東地方で祀られていた天主・地主・兵主・陰主・陽主・月主・日主・四時主の八神を祀ったことが記されているそうです。
ところで、『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける著、学研)は、天皇の背後で神道を取り仕切る秘密組織「八咫烏」による証言として、物部氏が秦の始皇帝に仕えた方士、徐福とともに渡来したことを紹介しています。さらに、その証言の中には、渡来は2度あったこと、1度目の渡来地は若狭湾、2度目の渡来地は九州北部であったことも含まれていたそうです。
そこで私は、兵主神は徐福集団の1度目の渡来によって日本に持ち込まれたのではないかと考えています。兵主神は山東地方で祀られていた神だということですが、徐福も『史記』によれば斉の国、山東半島周辺の生まれです。
『失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎』でも述べられているように、若狭湾の近くには丹後の一宮、籠神社があります。この神社の宮司を代々務める海部氏は物部氏だと考えれていますが、現宮司は「物部氏と海部氏では格が違います。ひとつの大きなグループを形成していましたが、中核を担っていたのは海部氏です」(月刊『ムー』2009年7月号)と述べています。つまり、海部氏も物部氏と同じく徐福とともに渡来したものの、渡来時期と場所は異なり、海部氏のほうは1度目にやってきた集団に含まれていたと考えられるのです。この1度目に渡来してきた集団の中に、兵主神を祀る人々もいたのではないでしょうか。そう考えると、海部氏の子孫が倭大国魂神を祀る大和(大倭)神社と、兵主神を祀る穴師神社がともに橘紋を使用するのもうなずけます。
さきほど取り上げた『ムー』の記事によれば、飛鳥氏が籠神社の宮司に「ずばり聞きます。物部氏の正体は徐福集団ではないのですか」と尋ねると、宮司は「…さあ、それはどうでしょうな。ただ『古事記』には、不老不死の非時香果(ときじくのかぐのこのみ)を求めた田道間守の話があります」と答えたそうです。この田道間守が常世の国から持ち帰ったとされるものこそ橘なのです。