手順の慣れたgooから、noteへの引越しを全て終えました。
投稿数が多くなかったので、一回でデータは移動出来たのですが、行間の間延びの調整とリンクのやり直しをしなければなりませんでした。
その為、半月ほどの作業時間が掛かりました。
今後は全てnoteでの更新となりますので、よろしくお願いいたします。
※ 今しばらくは、このgooブログも残しておきますが、告知なしで閉鎖するかもしれません。
手順の慣れたgooから、noteへの引越しを全て終えました。
投稿数が多くなかったので、一回でデータは移動出来たのですが、行間の間延びの調整とリンクのやり直しをしなければなりませんでした。
その為、半月ほどの作業時間が掛かりました。
今後は全てnoteでの更新となりますので、よろしくお願いいたします。
※ 今しばらくは、このgooブログも残しておきますが、告知なしで閉鎖するかもしれません。
gooブログが2025年10月1日以降、新規投稿と編集が出来なくなり、同年11月18日でブログサービスが終了となります。
そのため、当ブログも引越し先を検討してきましたが、noteへの移行を決めました。現在、投稿順に(まだ不完全な状態ですが)noteで公開を始めています。
このgooブログの内容については、まだ暫くの間は公開しておきますが、一応引越し先の先頭ページのリンクは以下の通りです。
2025年8月11日の時点で、概ね「小田急線路際歩き」の引越しを終えています。
とりあえずご報告まで。
今後もよろしくお願いいたします。
頻繁に更新が出来ない事はご容赦下さい。
前回は、世田谷美術館での展示についてお知らせした。本日は少しその作品について触れてみようと思う。
田窪さんの公開制作は、おそらく世田谷美術館の公開制作としては2回目に当たると記憶している(初回は横尾忠則さんだった筈)。世田谷美術館の開館が1986年なので、その翌年1987年という新築状態の創作室に田窪さんが古材を持ち込み、コンクリートを捏ね、ラス網を張り、膠で金箔を貼ってオイルステインを塗った。当時は物質性・量塊性といった物量がものを言う表現が多かったので、それは当然の手法だった。だが、美術館を訪れる多くのお客様にとっては、これが美術作品とは思えないしろものだったと思われる。現代美術が、ある暴力性を保持していた時代の晩年だった。
そのような物量がものを言う時代の中で、私も美術を始めた。田窪さんの仕事を記録し、それを写真集にまとめる案は関わる途中に想起した(既にバライタ印画紙へのプリントそのものを手製本して作品にすることは卒業制作で行っていたので、その手法は慣れていた)。
この公開制作をまとめるには、使用する印画紙をイルフォード・ブロムギャラリーという厚手バライタ印画紙とし、その物質性を生かそうとした。当時のこの印画紙は、現在の其れに比較するまでもなく感光層に含有する銀の量が多く、極めて物質性に富んでいたことは魅力だった。その物質感と保存性を考慮して、ローキーなトーンにプリントを仕上げた(ハイキーなトーンのプリントは長い時間を経て画像が薄くなり、消えてしまう場合があるので。なお、プリントは富士フイルム製のAgガードという保存性を高める薬剤を塗布した)。
そして厚手バライタ紙を自然乾燥する。フラットニングを施してもプリントは波打ってくるが、それもまた紙の物質感である。その波打ちを押さえる為に厚くて重い表紙を付けた。厚手のプリントだけに、それそのものを綴じると開くことが困難となるため、和紙でヘタを付ける。その和紙は数種をテストして石州紙を選んだ。この和紙とプリントの糊付けは富士フイルムから出されていた写真長期保存用の接着剤を用いた。
表紙の仕上げは、やややり過ぎ感はあるが田窪さんの金箔というイメージを受けて金色とした。これは帆布を貼った上にリキテックスの金色を塗り込んだ。折り曲げに強いアクリル絵具はリキテックスだからである。
このようにして、異様に大袈裟な表紙が付けられた限定5部の写真集が出来た。
製本作品のため、展示ではプリントの一部しかご覧頂けないが、その物量的な状態に1980年代の空気を感じて頂ければと思う。
世田谷美術館の2階展示室(収蔵品展)で開催(2025年4月19日~7月13日)の「世田谷でインド」という展覧会にて、私の極めて初期の仕事が少し展示されています。そのことについて触れておこうと思います。
この展覧会の会場の順路終わりに、コーナー展示というのがされます。今回の内容は「田窪恭治のイヤープレート2009ー2018」です。
田窪恭治さんはフランスのノルマンディ地方の古い教会再生プロジェクト、金刀比羅宮の仕事などで知られていますが、それ以前には金箔を貼ったオブジェなどの作品を制作していました。世田谷美術館が出来た頃は、そうした仕事から建築物に関わる表現へと変化していく始まりのようでした。
そうした折、千葉県行徳のアトリエ(元 古い木造の漁師の仕事場)からの引っ越し(江戸川区内へ)もあり、その建物のファサードを記念する作品がつくられました。この作品は「日常=時間の層へ」と名付けられたのですが、その制作は世田谷美術館の公開制作で行われたのです。この作品制作は、後の教会プロジェクトへの試行でもあったでしょう。
私は行徳のアトリエの正面を撮影し、それは引きがなくて広角レンズでも一枚では収まらなかったので分割して2枚撮影し、それを繋いて田窪さんに渡しました。それがこの作品のスケッチの元となっています。
その後、世田谷美術館の公開制作では、その制作日には撮影に出かけ、その制作工程を撮影しては現像・プリントし(当時はフィルム撮影です)、翌日には美術館創作室の壁面にプリントを掲示して、そのプロセスを分かりやすくしました。
それは、私としてもこれから行いたいと考えていた記録撮影の仕事のテストケースでもあったのです。そうして作品は完成し、10枚セットのバライタ印画紙を手製本した写真集?を5冊作り、その一部が世田谷美術館にあります。今回の展示では、その写真集?と併せて当時の田窪さんの公開制作での様子が分かるように画像を用意しました(これはフィルムからスキャニングしたものです)。
私の初期の仕事が垣間見られる機会でもあります。ご覧いただければ幸いです。
続きは以下リンクからご覧ください。
更新が大幅に遅れて恐縮です。不定期更新なのでご了承ください。
前回は以下のリンクの通り、2016年に行われた「藤沢今昔まちなかアートめぐり」での展示作品についての画像内容だった。
この作品を紙出力し、壁面展示を行うには藤沢の会場で適した場がなかった。また、藤沢宿からの発想で作品を制作していくものの、発表の場については藤沢宿に限定する必要もないと考えていた。むしろ都内の空間で展示することで、藤沢から切り離して見るのも場の関係性として興味深いとも考えた。
展覧会は都内渋谷区神宮前にあるトキ・アートスペースで、2017年12月25日(月)~12月31日(日)に行った。展覧会タイトルは「勝手な巡礼散歩・野にあるように A Spontaneous Walk Along a Pilgrimage Route: Out in the Field」と名付けた。特にDM等には明記しなかったが、トキ・アートスペースの企画展である。
現在、トキ・アートスペースの展覧会アーカイブのサイトでは、この展覧会の情報に不正確な点がある為、ここにリンクは貼らない。
展覧会の内容コメントについては以下の通り。
昔々、依知の里の草堂で念仏を唱えていた一遍上人は、相模川の東の空に妙見大菩薩が現れたという。当麻山無量光寺のはじまりの話。その草堂は現在の瑠璃光寺と言われ、そこからしばらく歩いて対岸に当麻山を望む相模川の土手の上に立った私は、ここが古から交通の要衝であったことに思いを馳せる。2011年の春、この地から藤沢遊行寺までの歩行が、これ程何度も繰り返すことになるとは思いもせず、「一遍上人 旅の思索者 栗田勇著(新潮文庫)」を読みすすめながら、とにかく歩き始めた・・・
展示記録は以下の通り。
出力に使用した紙は、エプソン純正ロール紙(A3ノビ幅)で、巻物を壁に添付していくような感じのインスタレーションとした。実際には分割して両面テープ使用で壁面に貼っている。一本のロールで壁面に貼ろうとしたが、困難過ぎたので予定を変更した。
画廊空間の角には薄いベニヤ板を曲面でつなげて、会場を一巡するようにロール紙を貼った。この方法はベニヤ板が邪魔といえばそうなのだが、一巡する流れを表現することを優先した。また、この造作に凝り過ぎても意味が出てしまうので、極めて簡便な方法とした。本来はRホリゾントのような壁面への展示が望ましい。
実際に歩行したルートを地図上に示したものを、以下のように掲示した。これは当作品の意図を示すスケッチに代わるものである。
この作品は、自宅の廊下で出力した。通常の制作部屋では長さが足りなかったのだ。一番奥にエプソンSC-PX5V2が見える。「・・・公開制作的ブログ」というタイトル通り、制作環境の一部を公開してみた。狭い環境でもなんとかなるものである。
注:この頁は今後、若干、画像の追加や追記が行われる可能性があります。