
昨日に引き続いて行きます。一項目だけなのに、また長くなってしまいました。
3. Five novelists (or writer) I read a lot, or that mean a lot to me.(よく読む、または思い入れのある5人の作家または小説家)
これは幾らでも挙げられるけれど、とにかくいろいろな意味で自分の「原点」となった作家や、新刊や関連書が出れば読んで(買って)しまう作家と言えば------
・夏目漱石
実家に岩波の全集があったので、小説はそれで読破した。職業作家となったのは39歳と遅く、50歳で死去。その間に書いた小説の文体は一作ごとに異なる。こういうタイプの天才もいるのだ。
少女時代に(笑)「愛の不可能性」などという命題を突きつけられてしまうと、後々苦労する。
「セックスで女を理解したつもりになってる男なんてお気楽なもんだね」(通俗的現代語訳)と呟き、男は群れていられるが、女は独りで闘わなくてはならないことまで汲み取っていた。
現代に到るまで、漱石を乗り越えることの出来た作家はそういないだろうと思う。
息詰まるような後期作品も好きだが、やっぱり『猫』に還ってしまう。インテリ男性たちが、あまり生活実感の伴わないおしゃべりをダラダラ繰り広げる図は今でも好きだ。迷亭さんは自分の「好きキャラ」のルーツだと思う。
・岡本綺堂
『江戸の夕映え』とは大仏次郎の戯曲の外題だが、綺堂の手になるものほどこの言葉に相応しいものはない。
『半七捕物帳』もいいが、怪談や不思議な話を集めた『青蛙堂鬼談』などはもっと好き。因果話ではなく「わけもなく怖い」綺堂怪談こそ、当時の「モダンホラー」であったとの都筑道夫の言葉が、その評価を決定付けたとも言える。
一方で、明治の演劇界(小芝居も含めた「歌舞伎」)や、江戸から明治時代への変遷を活写した随筆も素晴らしい。『ランプの下(もと)にて』など、何度読み返したことだろう。
漱石もそうだが、漢文と英語の素養が両方ある人の文章は古くならないような気がする。(綺堂はシャーロック・ホームズ譚をストランド・マガジンでリアルタイムに読んでいたし、欧米や中国の怪談集を自ら翻訳してもいる)
・ウィリアム・シェイクスピア
実家に(またか)坪内逍遥個人全訳全集があった。いま思うと誤訳もあったろうし、言い回しは古くさいが、小学生の頃から愛読していた。方言を日本語方言に移し替えるなどの苦労の跡も伺えたし、基本的なテキスト研究はこの頃からそう変わってはいないだろうと思う。
とにかく自分が「演劇」に興味を持ったのは、紗翁(この表記!)と逍遥のおかげである…って、あまり自覚してなかったけど、スゴイもんがルーツだったんだな。
・アガサ・クリスティ
実家に…(もういいよ)いや、母が海外本格ミステリ愛好家だったので、クリスティもクイーンも(チェスタートンも)、まずはその蔵書を借りて読んだのだ。自分で本が買えるようになってから、この二作家はほぼ全作を揃えた。でも、思い入れがあるのはクリスティの方。ポアロやミス・マープル、クィン氏など探偵役が魅力的だったのと、「古き良き英国」を描いているようで、実は辛辣な人間観察が底にあるのがいい。
笠井潔のいわゆる「大量死論」に与する気はないが、戦争中に書かれた何作かを改めて読むと(含『カーテン』)、「人殺しでない人間など一人もいない」という作者の絶望が窺えるのは確かである。
更に余談であるが、同時代の同国人であるトールキンにも「戦争」が色濃く影を落としていることを思うと、一応の「戦勝国」でありながら、首都が連日空爆の恐怖に晒されていた英国人にとって、あの戦争は物心両面で深刻な被害をもたらしたのだろうと感じる。
・京極夏彦
現存する作家の中ではこの人に尽きる。
ところで、エノさんと言うと、今やヒューの顔しか浮かばない私…
(さらに続きます)