「第二の人生」などと、大それたタイトルのブログになっている
けど、来馬する前から、この言葉は、ずっと引っかかっていた。
ホントは「第三の人生」の方が合ってるかもしれない。
一度は死んでいるからだ。というか死にそうな経験をしたからだ。
だから、「2」が終わり、「3」が今なのかもしれない。
「死」という言葉は、いわゆる”禁句”なのかわからないが、
自分の、小学4年の時の、九死に一生を得た体験談の事。
タイトルに、「一度は死んだ経験がある」などと書くと、何かと
幽霊問題が起きそうで・・・・いや、起きないと思うけど。
そのいきさつは、小学4年の夏休みだった。田舎の実家の近くの
養蚕試験場にある”いわくつきの貯水池”で溺れたのでありマス。
おふくろが、その当時、この養蚕試験場で、カイコの網を作る
内職をやっていたため、何かと遊びに行けた。
今、パリに住んでいる弟と一緒にこの貯水池にザッコ釣りに遊び
に行ったんだが、この池は危険防止の金アミを張っておらず、
落ちたら最後、自力では絶対に登れない。何故なら、水深がある。
ここでは、過去に、小学生が2人、水死している。
水面から足場までが高く、周りのコンクリートの池の壁は、
緑の藻で、ヌルヌルしているからだ。網を張ればいいのに。
・・・・・田舎育ちのくせに、その当時、自分は泳げない。
私は、へばりついているザッコを網で獲ろうとして、横になった
途端、バッチャ~んと(バアちゃんではない)池に落ちてしまった。
この時のことは。今でもよ~く鮮明に覚えている。
直感で「自分は、もう死ぬんだ」と思った。「母ちゃんゴメン」
と言った・・これホント、覚えている・・・・・・・・・・・
自分の葬式みたいな光景が浮かんできた・・皆が見える・・・
汚い池の水を飲んでいて、息が出来ない・鼻からも・耳からも
水の中で「ゲホッ、ゲホッ」とやっている自分は「ボケナス」だ。
息を吐いたら、その分、水を大量に呑み込む。意識が遠のく・
上を見ると、水面が見え、空の青々とした白い雲まで・・・・
はっきりと見えてくる・・これも鮮明に覚えている・・・・・
汚れた水の中なのに、このことは、はっきりカラーで覚えて
いるんだなぁ~。よく言われるところの”走馬灯のように” だ。
自分のこんな小学4年までの短い人生が、命の終りを告げよう
としていた。「あ~ぁ、自分は死ぬんだ」と思ったその時に・・
空の白い雲が、輪を作って破れ、1本の棒が降りてきた・・・
弟が、ザッコとりの網の竿の方を、池に入れてくれたんだ・・・
「溺れる者、わら(藁)をもつかむ」とは、このことだ・・・・
「これで助かった、生きられる」と思ったのだろうけど・・・
その気持ちを覚えてない・・・・必死だった・・・・・・・・
「必死」って何だろう? 「必ず死ぬってこと」だ?
「逆もまた真なり」だよな。
死なないように「必死」になる➡➡「必至」になるんだ。
後は必死になって竿をつかみ、ヌルヌルしたコンクリートの壁を
何とか這い上がった・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今、生きられているという事を、本当に弟に感謝している・・
落ちて溺れて、竿が入ってくるまで多分ほんの30秒位?だと思う
長々とその時の様子を書いたけど、そんな短い時間で、走馬灯の
ように自分の命が巡りめく長い動画のように見えていたんだ・・
今、マレーシアに住んでいられる。生きられている事へ、生きて
いる事への感謝を込めて・・・・と言いたいところだが・・・
人間、弱いもの・・・
感謝の気持ちはあっても、文句の多い毎日かもしれない。あ~ん、
水が入ってこないように、口を閉めて、反省せねば・・・・・
・・・・・「今」を「一所懸命」生きる事が大事なんだな。
いつも、お読みくださり、ありがとうございます。励みになってます。