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小さな花の輝く世界

小さな植物や花の知られざる輝きをご紹介いたします。くわゐ(匙太sagittaria)です。お間違えなきよう

赤間川散歩⓭二丁町用水くだり

2020-08-25 00:05:55 | 探求散歩

「探求散歩」シリーズ、今は「旧赤間川」を調べながら歩いています。

「田谷堰」のゴール目前になって、ペースがまた落ちました。

 

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13回目は、「旧赤間川」本流遡上をひと休みして、「樋」のところから「二丁町用水」を歩きます(❶)。

 

「二丁町」は昔の地名(耕地字)で、今の「御成町」の一部に相当します。

明治大正期だと「貮町畦」「貮丁町」と書いて「にちょうまち」と読んでいたようです。

 

「二丁目が正式名称」という説が、他のブログで出ていますけれど、これは間違いですね。

図書館などで資料を探しましたが、川越の古地図や文献では、「二丁町(貮丁町、貮町畦)」の表記しかありません。

なお「二丁目用水堰」というのが、北海道にあります。川越ではありません。お間違え無きよう。

 

耕地畦は「川越町他五ヶ村測量略圖」「川越地誌」などに載っていました。

下図は、現代地図へ耕作字と境界を雑に書き入れたもの。「二丁町(貮町畦)」は東耕地の赤間川北側にある土地です。

後記:「川越地誌」の川越耕地字「味噌田畦」は、土地台帳上では「北田島」の地名でした。「荒田(東明寺)」と「味噌田(北田島)」は別物のようです。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

「二丁町」という名前はどこから来ているのでしょうか?

長さの単位「町(約109m)」だと、「二丁町」の南北は2町強ですが、東西はもっと長いです。

面積の単位「町歩(約9900㎡)」だと、34町歩くらいあるので、合っていません。

大きな道が2本あったとか、賑わった2つの町を合わせて?、田圃なのであり得ないと思います。

何分にも「二丁町」の名前について言及している資料が無く、分からずじまいでした。

 

耕地整理前の「旧赤間川」と「二丁町」を示しました。

「二丁町用水」は分岐しながら、「二丁町」を横断して「北田島用水」と合流します。

「二丁町」の東側は、「北田島用水」が通っているので、こちらから灌漑されるのですかね?

「北田島用水」については、赤間川散歩❾北田島堰をしのぶ - 小さな花の輝く世界

「荒川右岸土地改良区誌」によると灌漑面積は28haなので、黄色い範囲くらいですね。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

現在の「二丁町用水」の痕跡は、こんな感じです。

水路は残っているようですが、「田谷堰」から水が送られることはもうないです。

でも、井戸ポンプ小屋があるので、これが現代の「二丁町用水」の水源になっているかもしれないです。

川越バイパス(国道254号)を越えて繋がっているかは、調査していませんが、可能性は高いです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今回の撮影地点になります。❶~❾までの距離は100mほどです。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

「樋」から下流はこんな感じです(❷)。梅雨明けしたばかりで雨水がたまっています。

 

最初は画像がほとんど無くて、「二丁町用水」の下りは割愛しようと思っていました。

でも、8月中旬に再取材に来る機会があったので、ついでに写真を撮ってきました。

新たな発見が色々ありましたので、1回分費やしてご紹介します。

 

現在「二丁町用水」は、使われていません。その証拠に「樋」には穴があけられていました(❸)。

流れ込んできた水は、穴から「旧赤間川」へ落ちて、「二丁町用水」に流れないようになっています。

これも今までの取材では、気付かなかったところです。これだけでも来た甲斐がありました。

「樋」の全景を撮ろうと、手を伸ばしてカメラをフェンスの中に入れ、偶然写った画像です。

 

8月この界隈は、ほとんど雨が降らず、流入の無い排水路は干上がっておりました(❹)。

「樋」の中をのぞきますと、水抜穴(上画像❸)から光が差し込んでいるのが分かります。

 

途中から護岸が新しくなっております(❺)。

しかし水路のある場所自体は、70年以上前から変わっていないようです。

 

今から70年近く昔の写真でも、「二丁町用水」のルートは変わらないようです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今回の撮影地点です。当初、下流側の画像は無かったのですが、8月中旬の再取材で撮ってきました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

道路をひとつ越えたところで、振り返ってみました(❻)。

遠景に「樋」と食品流通センターが見えます。

 

「樋」から50mほど進むと、水路が直角に曲がります(❼)。

直角に曲がった後、敷地境界沿いに流れて行きます(❽)。

 

用水路が道路に突き当たる場所に、ポンプ小屋がありました(❾)。

水路もこの辺りで濡れています。上流から水が来ないのに何故でしょう?

このポンプが、用水路の水を吸い上げるのは、可能性が低そう。

井戸からポンプで地下水を汲み上げ、水路に供給しているのでは?

でも、この辺りに田畑はほとんどありません。

川越バイパス向こうの、広大な田圃へ灌漑していると考えるのが自然です。

昔の「二丁町用水」は、川から水を引いていましたが、現代は井戸水で田畑を潤しているみたいですね。

 

興味のある方は、ストリートビューで用水路の行く先を追ってみてね。

 

既に第17回まで、記事が出来ていたのですが、再取材したので大幅に作り直しです。

次回は「二丁町用水のぼり」編です。本来「二丁町用水」は、1回で終わらせる予定でしたが・・・。

どうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩⓬地名は樋(とい)

2020-08-21 00:05:55 | 探求散歩

「旧赤間川」を遡っていく「探求散歩」も12回まで来てしまいました。

ゴールにしている「田谷堰」は、もう目の前ですが、なかなかたどり着けません。

 

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第12回目の撮影地点です。やっと川越バイパス(国道254号線)を越えました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

今回は、川越バイパス(国道254号)を渡ったところからスタートです(❶)。

草刈りが時々入るようで、行くたびに雰囲気が異なります。。

 

川越食品流通センターの敷地沿いに、川が流れているようです(❷)。

咲いているのは、クサギ(臭木)の花でしょうか?

 

大きくカーブしたところで、三面コンクリートになりました(❸)。

水が汚いようで、ドブのような臭いがします。

カーブが多いですね。コンクリート護岸の川をさらに進んでいきます(❹)。

 

カーブ先の直線に、何か橋のようなモノがあります(❺)。

 

今回の撮影地点です。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

さらに近づいてみました(❻)。

橋みたいですが、無意味に長いです。

 

車も通れないような場所に何故?

さらに橋の先は、道路でなく水路(❼)。

 

もしかして・・・、反対側から見てみると、橋の下に樋がある(❽)。

 

これは水路・・・ですね。それもかなり古そう。

U字溝らしきものが「旧赤間川」の上を横断しています(❾)。

 

これは何でしょうか?「赤間川物語」の中に答えがありました。

「西友配送センター北裏、旧赤間川河川敷北岸、数個の民家がのある所を樋(とい)と呼ぶ」

「ここは昔、田谷堰で分水された二(貮)丁町用水が、本流と交叉するため木製の大形箱樋が設けられていた」

そのため、この辺りの地名は、「樋」と呼ばれるらしいです。

「荒川右岸土地改良区誌」によると、「樋」の長さは11m、幅60cm、高さ45cmだそうです。

写真を見てみると、蓋の部分は1m以上あるので、このサイズは先代の木製樋のものでしょうか?

 

昭和期の「橋」「樋」はほとんどコンクリート製ではないでしょうか?

下は昭和11年(1936年)製の「樋口橋(現:第408号橋)」と「樋」です。

明治大正期の木製の「樋」は、早ければ昭和初期に作り替えられたと考えられます。

 

航空写真で時代の移り変わりを見てみましょう。

見た感じコンクリート製です。樋が木製だったのは、明治大正期ではないでしょうか?

周りの建物や川幅、河道は変わっていますが、橋のサイズ位置はずっと同じに見えます。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

国土地理院の航空単写真に、スゴク鮮明な画像がありました。

撮影日時は不明ですが、他の写真と比べてみて、昭和30年前半(1956~1960年)頃の画像らしいです。

見ての通り、当時の「旧赤間川」今の3倍くらい川幅があったようです。

この川幅を交差するため、長い樋が必要だったみたいですね。

樋が現存するものと同一かは不明ですが、ほとんど今と変わらないサイズです。

もしかしたら、昭和初期から変わってないのかもしれません。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

護岸をコンクリートにしたのは、昭和55~58年(1980~1983年)頃のようです。

この際に川幅も狭くなっていますが、「樋」はそのまま残したようですね。

だから、小さな水路に似つかわしくない長さのようです。

「樋」の天井コンクリートが厚くて幅広いのは、長いので強度を持たせるためでしょうね。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今回の撮影地点になります。樋で足止めされてしまいました。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

樋の上流(田谷堰)側です。草ボーボーですが、この先は水路のようです(❿)。

草ボウボウになる前、5月末撮影です(⓫)。敷地境界沿いの水路が分かります。

草深いので水路に落ちないよう、樋の先端から1mくらいは別石でフタがしてありました。

 

今回も150m進んだところで、画像10枚を超えてしまいました。いったんお開きです。

水は汚いですが、植物は良く育ちます。5月末、黄色いハナショウブがイネ科雑草と背比べ(⓭)。

 

樋(とい)の存在を知ってしまったので、次回は「二丁町用水」を歩きます。

「二丁町」は耕地字名です。「田谷堰」には「二丁町用水樋管」と刻まれています。

また昭和以降の文献にも「二丁町」の名前が多いですね。でも、今は無い地名です。

明治期の文献には、古い字「貮」を使って表記されています。

「貮丁町」(「赤間川物語」中の川越町他五ヶ村測量縮図 明治10年)

「貮町畦」で「にちょうまち」と読みます(川越地誌 明治9年)

 

「二丁町」ではなく、「二丁目」が正式名称というブログがあります。

2か月かけて、地図や文献を探した限りでは、「二丁目」という表記は全く見当たりませんでした。

興味がありますので、文献や古地図等の出典をお教えいただければ有難いです。

探した限りでは、「二丁目用水堰」というのはありますが、北海道石狩川水系境川でした。

 

ゴール(田谷堰)は目前のはずなんですが、最終回はまだまだ先になりそうです。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩⓫名無しの橋

2020-08-17 00:05:55 | 探求散歩

テーマを決め、調べながら歩く「探求散歩」です。

今は「旧赤間川」に沿って散歩しています。

11回目に突入しましたが、ゴールの「田谷堰」はもう少し。

あと2回くらいで、辿り着けると良いのですが・・・。

 

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第11回目の撮影地点は以下の通りです。

今回は川越バイパス(国道254号線)に架かる橋を特集しています。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

今回のスタート地点は、川越バイパス(国道254号線)に近いところから。

「止まれ」の標識から手前側が、耕地整理で人工的に作られた水路です(❶)。

右に大きなマンホールらしきモノが見えます(❷)。

これは多分・・・井戸ですかね?

 

ポンプ小屋がたくさんあると思ったら、井戸水で灌漑しているよう(❸)。

「旧赤間川」は上流が切れているのに、どこから水が来るのかと思っていました。

昭和28、9年(1953,4年)の耕地整理で、「旧赤間川」はここから1kmほど、直線の用水路になっています。

 

ここから上流が、昔からある川すじです(❹)。

でも、灌漑する田畑もなく、排水路として汚れた水が溜まっています。

目の前に川越バイパス(国道254号)が見えてきました(❺)。

 

先へ進むと、川越バイパス(国道254号)に架かる橋がありました(❻)。

 

「広報川越」によると、開通時は川越熊谷線バイパスと呼ばれていたようです。

起工が昭和39年(1964年)1月11日、琵琶橋~山田地区間の完成は昭和41年(1966年)10月23日。

この橋も昭和41年頃の完成と思われます。航空写真はバイパス建設中のものです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今回の撮影場所のおさらいです。❼❽❾❿は、橋の欄干を撮影しています。

画像はOpenStreetMapを加工しています。 OpenStreetMap

 

古めかしいカタチですが、何という名前の橋でしょうか?

銘板を探しました。氷川町側には、「旧赤間川」とあります(❼)。

少し離れた横断歩道まで歩いて、反対側に渡って来ました。

宮元町側の銘板にも「きうあかまがわ」とありました(❽)。

昭和40年頃は、戦後20年を経たのに旧仮名使いです。

車の進行してくる側の銘板は、いずれも無くなっていました。

交通量の多いバイパスなので、欄干には50年の間に受けた、衝突の跡が残っています。

宮元町側はセメントが残っていて、銘板が有った形跡があります(❾)。

しかし氷川町側は、根こそぎ無くなっていて、最初から何も無かったように見えます(❿)。

 

ネット検索では、この橋の名前の手掛かりが無く、川越中央図書館へ調べに行きました。

橋名まで網羅している川越市都市計画図(1989年)があったので、該当箇所を探してみました。

A0判の氷川町の辺りが載っているNo.8の地図を探すも、この橋の名前がありません。

「四ツ谷橋」そばの名無しの橋すら「伊佐沼橋」と分かりましたのに・・・。

赤間川散歩❸昔は県道も川沿いに - 小さな花の輝く世界

 

橋名が廃止されたのでしょうか?最初から名前が無かったのでしょうか?

図書館の職員さんに伺ったら、ここで一番古い昭和54年(1979年)の地図まで探してくれました。

でもやっぱり、川越バイパス(国道254号)の赤間川に架かる橋は、名前の記載がありませんでした。

では、欄干部分の銘板が脱落したような形跡は何なのか?「旧赤間川」という銘板はあるのに、橋の名前が無いのは謎ですね。

幅の広さだったら「旧赤間川」中、ダントツで一番の橋です(⓫)。

 

宮元町側の橋から先の数メートルは、川にフタがされて、外車の販売店さんが展示に使っていました(⓬)。

 

向こう側とは、樋管で繋がっているようで、裏通りに川が復活します。

草ばっかりですが、土手もあって昔からの川という感じですね(⓭)。

 

5月初旬に見つけた、東耕地に咲くアカバナユウゲショウの花。

この時は、何の情報もなく歩いていたので、花画像しか撮りませんでした。

その後、資料が見つかったので、何度か再取材に来ましたが、あいにく天候が悪い日ばかりでした。

 

今回、たった150m程しか進めませんでしたが、画像が10枚を超えてしまいました。

またペースが遅くなった気がします。今日はこれでお開きです。

次回もどうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❿曲目(マゴメ)

2020-08-13 00:05:55 | 探求散歩

このブログ、本来は花の写真を掲載するページだったのですが・・・。

風の強い冬の日、偶然に伊佐沼の水路を歩いたのが高じて「探求散歩」となりました。

現在、歩いているのは昔の伊佐沼の源流「旧赤間川」。

今回も埋め立てられ、失われてしまった川のエピソードです。

 

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川越バイパス(国道254号線)から「合併橋」に至る、長い田園地帯の間にいます。

今日のスタート地点は、広い耕地のちょうど中ほどです(❶)。

 

嶋田勝郎さんの「赤間川物語」では、「曲目(マゴメ)」という場所が出てきます。

「樋から北田島南端に至る広い耕地の中央にやや屈曲している部分があった」

「川のまがりめと言うことから、この名が出来たのものと思う」

昭和29年(1954年)には埋め立てられてしまいましたが、「曲目(マゴメ)」はどこにあったのでしょう?

 

まずは、終戦間もない頃の航空写真を見てみましょう。

緩く蛇行しているところも多いですが、屈曲が大きい場所は、

1.「北田島堰」の下流に1箇所

2.「北田島堰」の上流部に2箇所

3.旧東洋ゴム宮元工場のすぐ下流に2箇所

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

「赤間川物語」では、ここに一本の杉の巨木が、横たわっていたということです。

これを「曲目の一本橋」と呼んで、耕地の往来や町への間道として便利だったとのこと。

1の屈曲部は、橋がないけれど、すぐ上流に「田島堰」があってここで渡れそう。

2の屈曲部にも、橋は架かっていない。でも、工場と堰の中間にあって橋があれば便利そう。

3の屈曲部は、橋が架かっている。でも、町に一番近くて中間部ではない。

 

もうひとつ、「曲目(マゴメ)」の場所についての記述がありました。

「一本橋の下流付近に、堤防の幅がやや広いところ」があり、これを「捨て場」と呼んだそうです。

航空写真を拡大して見ると、橋は架かっていませんが、土手が広くなっている場所があります。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

「捨て場」とは、いったい何を捨てるのでしょうか?「赤間川物語」には、

「田植期に農馬が過労のため斃死すると、この場所へ運んで来て焼却した」そうです。

「焼き場」と呼ばず「捨て場」と言っていたとのこと。何とも衝撃的なお話です。

八十年以上過ぎて、農馬は機械にとって代わり、家畜の野焼きは法で禁止されています。

 

馬が死んでしまい、「捨て場」へ運んで焼くなら、当然、運びやすい場所にあった方が便利です。

上の写真の土手の広くなった場所には、いくつもの農道からアクセスできそうです。

同様に川を渡る橋も、交通アクセスのよい場所に作ると重宝します。

よって私個人としては、下の場所が「曲目(マゴメ)」だと思いました。如何でしょうか?

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

今回の撮影地点です。❷と❸が「曲目(マゴメ)」付近の画像となります。

タイルと航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

画像で見ると「曲目(マゴメ)」とおぼしき場所は、現在はこんな感じです(❷)。

 

「曲目(マゴメ)」の位置ですが、なぜ橋が無い場所にしたか?自分はこう考えました。

・「赤間川物語」筆者の嶋田勝郎さんは、明治39年(1906年)頃のお生まれ。

・子供の頃の描写も多く、「曲目(マゴメ)」も大正前期の風景と取れる。

・航空写真は昭和21年(1946年)なので、30年の時を経て、この頃には杉の一本橋は朽ちたか、撤去されたのではないか?

・上流に橋が架かったので、古くなって危険な丸木橋は使用されなくなった。

・川の中に判別不明のモノ(木や草むらか?)が見られるが、この中に朽ちた丸木橋があるかも知れない。

 

おしまいに、「曲目の一本橋」と「捨て場」の想像図を載せます。

苦労してこじつけてみましたが、絵心が無いので、なんか不自然な絵面です。

東耕地の曲目(マゴメ)付近は、沼から上がって来た魚の良い釣り場だったらしいです。

「浴衣に兵児帯をしめ、草履ばき、麦わら帽子をかぶって、終日頑張る気の長い釣人」

のどかな時代のようですが、隣の田では農夫が額に汗して働いている対照的な描写。

これが元の画像なのですが、ほとんど原型を留めていません(❸)。

ストリートビューで田園地帯の「旧赤間川」を一部たどれます。

田圃以外は何も無いようですが・・・。

 

東耕地の散歩もやっと終わりです。

何もないところのエピソードを発掘するのは、楽しくもあり、それ以上に大変でした。

川越バイパス(国道254号)の少し手前で、来た道を振り返ります(❹)。

昔はこんな感じで川があったそうです。

資料もあまり無く、不十分ですが「旧赤間川」の消えた川すじを辿ってみました。

この辺りをブログで紹介するのも、たぶん初めてのことと思います。

これを読まれた方が、新たに調査をし、事実を解明していってくれると嬉しいです。

 

次回からは、東耕地の出口から川越バイパス(国道254号線)を越えてまいります。

赤間川散歩❽失われた川の記憶 - 小さな花の輝く世界 で記載した貮丁町(貮町畦、二丁町)用水は、また後の回といたします。

どうぞよろしくお願いいたします。


赤間川散歩❾北田島堰をしのぶ

2020-08-09 00:05:55 | 探求散歩

いろいろ調べながら歩く「探求散歩」です。

「旧赤間川」編も回数を重ねて9回目、難物の田園地帯に入ってきました。

 

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今回は、失われた川の再現を目指しますが、8月はじめは天候がいまひとつ。

曇りと晴れの画像合成で、ちぐはぐな画像になるところはご容赦ください。

 

今回の写真撮影は以下の通りです。❹は「もし、ここに立っていたら」という想定の場所です。

タイルと航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

県道51号川越上尾線のそばの「合併橋」先で、川が90度曲ります。

昭和28年以前は、真っすぐの川筋だったみたいですが・・・。

上流側から「合併橋」方向を見るとこんな感じでしょうか(❶)。

これが元の画像です。用水路がありますが、少し北側を流れていきます。

 

この地点から反対側の上流部分を見るとこんな感じ(❷)。

この先に「北田島堰」があったらしいです。

本当はもう少し左側の建物あたりを、川が通っていたようです。

しかし、背景が無いと合成画像を作るのが大変なので、少し北にずらして作りました。

遠景の食品流通センターの脇を「旧赤間川」は流れてきます。

 

「北田島堰」ですが、「荒川右岸土地改良区誌」にその名前を確認することが出来ます。

寺井地内の「田島堰」によって北田島用水となり、灌漑面積は約35ヘクタールだそうです。

範囲としてはこんなものでしょうか?御成道と上尾県道の真ん中くらい。

後記:南田島の九十川にも「田島堰」があって、紛らわしいので、ここでは「北田島堰」と表記します。

「北田島用水」沿いの川越市馬喰町や柳橋町(寺井、川越)などを入れると広大な範囲になります。

大字北田島全部を網羅するのは、チョット無理そう。半分くらいを灌漑していたのでしょうか?

「荒川右岸土地改良区誌」によると、時に干ばつの影響を受けることがあったようです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

でも当時の地図には、全く表記がありませんでした。

「今昔マップ on the web」より加工 今昔マップ on the web

 

終戦直後の航空写真でしか、「北田島堰」の存在を確認できません。

下に示しましたが、米軍撮影のかなり鮮明な写真で、拡大しても細かい部分が分かります。

河道と思われる黒い部分を、70色の範囲で抽出して半透明のブルーで着色しました。

この画像を見て、以下の点が気になりました。

(1)堰付近で黒色の部分が細くなり「北田島堰」が狭く見える。

(2)どんな形状の堰なのでしょうか?角落とし(堰板)をどこにいれるの?

(3)堰の作業用橋を含め、3ヵ所水路をまたぐ橋のようなモノがありそう。

(4)これらの橋が「赤間川物語」に載っていた「青橋」なのか?

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

(1)堰付近で黒色の部分が細くなり「北田島堰」が狭く見える。

・すごく不自然で、直線的な突堤が堰の辺りに見える。

 人工物のようなカタチなので、変な形の堰を想像してしまう(右上)。

 こんな可笑しな堰の築き方はないでしょう。費用もかかってしまいます。

 農閑期で川が干上がっていて、川底が白く見えるだけなのでしょうか?

 でも、こんな些細なことを考えるのも、写真を見る楽しみです。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

(2)どんな形状の堰なのでしょうか?角落とし(堰板)をどこにいれるの?

・昭和21年(1946年)3月9日撮影の航空写真以外は、「赤間川」が不鮮明です。

 しかし、(1)のような不自然な堤防は無いように見えました。

航空写真は国土地理院のものを加工しています。https://maps.gsi.go.jp/development/ichiran.html

 

・絵心は無いですが、ペイントの直線でお絵描きしたものを下に示します。

 川を横切るような普通の堰だと思い、想像図を描きました。

 

(3)堰の作業用橋を含め、3ヵ所水路をまたぐ橋のようなモノがありそう。

①「旧赤間川」にかかっている橋は、「北田島堰」の作業用の通路だと思います。

 この辺は他に橋が無いので、きっと通行用にも使われたのではないでしょうか?

 橋の幅は「赤間川橋(先代)」と比べても狭いです。幅は1m前後でしょうか?

②「旧赤間川」と「北田島用水」の間の橋のようなモノ、これは水門かもしれません。

 下の画像は「田谷堰」にある「宮下用水樋管」の水門です。

 橋は無く、土手沿いの道路にゲートだけがあったのかもしれません。

③もうひとつ、堰のそばの「北田島用水」を横切る道に橋みたいなのがあります。

 これは橋と一緒になった、小さな堰ではないでしょうか?(下画像参考)

 ちょうど、ここで水路が真横に出ているように見えます。

 堰板を入れて、こちらにも分水していたのでは?

 

(4)これらの橋が「赤間川物語」に載っていた「青橋」なのか?

・「北田島堰」「北田島用水」のところにあるから、そんな気もします。

 でも、「北田島堰」は寺井地内にあると書かれています(荒川右岸土地改良区誌より)。

 地図上でも堰のあった場所は、「寺井溝町(現在の氷川町)」あたりです。

 さらに、堰に付属した橋(田谷堰は例外)、農作業用に作った橋には、名前がなさそう。

 「北田島」の「青橋」の可能性は低そうですね。やはり「赤間川橋」を指すような気がします。

 

かつて「北田島堰」があった辺りに立ってみましたが、こんな眺めだったのでしょうか(❸)。

ずっと田圃のママなので、変化の少ない地域ですが、この場所に川や堰があったとは、誰も気づかないでしょう。

元の画像はこんな感じ。何もない田園ですね。

 

北田島堰は、70年近く前に無くなってしまいましたが、どんなカタチだったのでしょう?

想像する事しか出来ませんが、おしまいにお遊びでニセ画像を作ってみました(❹)。

伊佐沼堰をベースにして堰を作り、北田島用水入口は水門が付いている設定です。

8枚くらいの画像を合成加工して作ったのですが、けっこう苦労しました。

背景の建物だけは、北田島から御成町の風景です。

失われて、忘れ去られた田圃の遺物についてお話ししました。

何分にも、縁の薄いよそ者なので、記事のどこまで正しいかは分かりません。

どんな些細なことでも、「北田島堰」や昔の「旧赤間川」について知っている方がいらっしゃれば、この稿を引き継いでいただきたいですね。

 

かなり苦労しましたが、何とか終わりまで出来ました。

次回も、現存しない川の軌跡をたどります。もっと苦労しそうです。

時間がかかるかも知れませんが、どうぞよろしくお願いいたします。