2月14日(月) カナダのトルドー首相が、1998年に制定された緊急事態法を初めて発動したと表明。カナダでは、米国との国境を越えて移動するトラックの運転手に新型コロナワクチン接種を義務づけたことをきっかけに政府に対する抗議活動が各地で続き、国境の橋や道路がトラックで封鎖され物流が滞るなどの影響が出ている事態を収束させるために警察の権限などを一時的に強化するなどの措置がとれる同法の発動に至ったという。
政治とは、いろんな意見の対立がある中で決定をすることを意味する。個人にたとえれば、何かをすべきか、やめておくか。どんなにアンビバレンツな気持ちでもどちらかに決めなければならない。そんな時がある。Aに決めた場合とBに決めた場合のメリットとデメリットを比べ、最終的には、Aに決めた場合の利益をとり、それによって発生する損失を甘んじて受ける、という感じになろう。もしその決定に期日が設けられていない場合や、決定をする必要がない場合、その時々のケースバイケースで対応を変える、というやり方もあろう。
これが国などの集団になった場合、いろいろある意見は心の中のコンプレックスで、最終的に国を代表して決定する政府が自我とたとえられる。
政府と社会の関係をこのように人の心のアナロジーとしてとらえる時、政府の役割として、政治的決定を下すということの他に、人の心を代表して何かを決定する、ということと同時に、あえて「何かを決めない」という選択肢もあることになる。つまり、その社会にさまざまな意見がある時、それらを聞き、もしそれが一つの決定に収束できないと判断した場合、あえて意見をまとめない、ということも実は自我としての政府の選択肢としてある。一般に政府が決定を先送りした場合、その政府はあまり褒められない。力が弱いとか決断力がない、みたいに責められることが多い。しかし今回のカナダの場合、国境を渡るトラック運転手へのワクチン義務化に、単にトラック運転手だけでなく、一般市民も反発する場合、ワクチン義務化をするという決定は、政府に決断力があると言えるかどうか。コロナは2020年に国際的な問題になって以来、国によって、また一国の中でも色んな意見、立場、政策があり、どれが正しいのかは今の時点では分からない。歴史的評価を待つしかないという感じだし、あるいは時間を経てもはっきりしないままで終わる可能性も高いと思う。そんな中で何かを義務化するという政治的決定が果たして正しいものか、それとも不適切なものかは、色んな意見があってしかるべきだろう。そしてカナダ政府はある立場を義務化という形で国民に押し付けた。それが後に正しいことが分かったとしても、今の時点でそういう決定に強い反対が出ることは必至であった。そういう強いコンプレックスが存在しているのだから、それは強い反対意見を言うのは当然だからだ。そしてそのコンプレックスの強い表明をこれまた強硬な手段で抑えようとしている。この措置がどんな結果を生むかは注視したいところだが、コンプレックスを力で抑えつけることをした場合、それは地下に潜るなどして問題は後まで残る。なんなら社会の分断という形で、収集が不可能な亀裂を社会に生むことにもなりかねない。
日本の政治は伝統的に、優柔不断で決断力がないというような指摘がされる。その一方で、日本は決定には時間がかかるが一旦決まったら行動と結果を出すのは早いとも言われる。社会にいくつも意見がある中で「決断力」を発揮して何かを決めていくのは、社会にちょっとずつ亀裂を作るという代償を常に伴うものではないかと思うのだ。無理なブレーキを踏んで車体に少しずつ無理がかかっているようなイメージ。それは表面からは分からないが、時間とともに車体への負担が表面化していくみたいに。