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ロケバス協会は、ロケバス事業の適正な運営、健全な発展と近代化、事業者の地位の向上を目的として設立いたしました。

ドキドキドライブ

2013年04月16日 | K
東京の桜は、すっかり散ってしまった。このごろちょっとお疲れモード。
今年はめずらしく、花粉と黄砂に悩まされた。明らかに弱ってる...気がするだけか?

仕事が夜からになり、ぽっかりあいたので、3か月点検×2台に挑戦。
弊社の最寄のディーラーは忙しいらしく、当日のお願いは、まず聞いてくれない。
かと言って、前もって予約するのも、弊社ではむずかしい。3か月点検も、ハイエースクラスまでなら社内で何とかできますが、マイクロバスとなると、タイヤホイールを外すところで諦めざるを得ない。
なので、相談に乗ってくれるロケバス密着型の業者さんにお願いする事が殆ど。しかし、さすがに今日は忙しいみたい。

ディーラー系のサービスフロントにかたっぱしから電話。中でも、割と相談に乗ってくれたのが、深〇サービスセンター。
この日、朝電話したら「今日は予約でいっぱいです!明日なら...」と断られましたが、「15:00から作業できそうです!」とわざわざ連絡をくれた。弊社からはそこそこ離れてますが、その心意気に惹かれ、お世話になる事に。
3か月点検と冬タイヤ→夏タイヤで、「作業時間は?」の問に、「2時間位で終わると思います。」

3時間ちょっとかかって点検終了。弊社までの帰路の途中、携帯が鳴り、「急なんですが...」と聞きなれたフレーズ。やっぱり明日か....。明日? 手帳見ないとわからないので、「折り返し連絡します。」とスケジュールを確認。
....数日前のキャンセルでぽっかり空いていた。「大丈夫ですよ!どの様な内容ですか?」と折り返す。
「広報車のドライバーをお願いしたいんですが...」 8:45から2,3時間で終わる楽な仕事。しかし、車は”フェラーリ”だった。
ひき受けはしたものの、内心『大丈夫かな?』 ひと昔前にフェラーリは運転が難しいと聞いた事がある。


さて、日は明けて当日。 8:45の待ち合わせより少し早く着いた六本木。ミッドタウンのエントランスのベンチに座り、時間を見計らって担当様に電話した。
「今、待ち合わせのスターバックスの前にいます。」と私、「私も今、下りたところですが、、、どちらのスターバックスですか?」と担当様。
『やってしまった!』 指定された待ち合わせ場所は、六本木ヒルズのスターバックス。僕が居るのは、ミッドタウンのスターバックス。
わざわざメールまでいただいてたのに、すっかり勘違い。なんでこんな事に...   「すみません!すぐに伺います。」 朝から、おっさんが街ナカをダッシュ。
運動能力は低下してるが、焦ってるからか? 結構走れてしまった。「ゼェゼェ」しながら最後の階段をのぼり、真の待ち合わせ場所へ。
「ほんとにすみません。私の勘違いでした。」とお詫び。 「大丈夫ですよ。」と、担当様は笑顔で対応。有難し。

朝からテンパったところで、いよいよ駐車場に案内された。フェラーリばかりが、数台並んでいる。まあ、あたりまえ。
「フェラーリを運転された事は?」と聞かれ、「初めてです。」と胸を張って答える。
拝借する車の運転席に座らせてもらい、「では、操作方法からご説明しますね。」と担当様。有難し。
エンジンスタートのスタートからレバー操作など一通り教わる。ハンドルに連結されているシフトレバーを動かそうと思ったところで、うっかりワイパーのレバーを引いてしまい、「ピュー」とウインドーウォッシャー液を発射。初心者まる出し...仕事を増やしてしまった。

慣れてない車。担当様に聞きながら復習を繰り返し、オートマチックモード以外は使わないと心に決め、いよいよ出発。
左右のサイドミラーを何度も確認し、担当様に誘導していただき、恐る恐るアクセルを踏む。車両間隔がまったく分からない。
「行ってらっしゃいませ!何かありましたら、何時でも連絡ください。」担当様とも、いよいよここでお別れ。不安はつのる...

体中に響くエンジン音が心地良い。ゆっくりゆっくり感覚を確認しながら、駐車場の出口に進む。後ろに車がいないのは幸いだった。
3,000万超えの重圧。保険に入っているとは言え、緊張せずにはいられない。
目指すは外苑。丁度今が集合時間。『まっ、いいか...』  いよいよ公道に出ると覚悟は決まった。

公道に出てビックリ!とても運転しやすい。なめらかなシフトアップ(オートマチックモードなので...)。先入観とはえらい違いだ。
アクセルの踏み応えもいい。『いいなこれ』 流石いつかは乗りたい車。

感動している間に、現場到着。撮影チームはスタンバイ済み。
「遅くなりましたー。」と思ったら、主役の到着は、私より後だった。結果良し。
今日は「ちょい悪!」のファッション撮影。車をフルオープンにしてモデル撮影の2カット。
撮影中は、カット変りの時に車の向きを反対にしただけ。後は傍観者的に見学。
現場到着から1時間程ほどでお役目御免。「お疲れ様でした!」と、現場を後に。

せっかくなので、オープンのまま返却に。風が心地良い。
このまま何処か走ってみたい気もするが、この緊張感からは早く抜け出したい。
『もうちょっとだけ現場が遠ければ良かったのに!』
流石フェラーリ。信号待ちなど視線を感じる。
ただ運転してるのは、車とは不釣り合いな,マスクおやじ。その視線は、ちょっと痛い...
さて、ガソリンをいれないと... 車高の低い車なので、縁石等の、ちょっとした段差を乗り越える時には、細心の注意が必要だ。
都心部のガソリンスタンドは、あまり広くはない。スタンドのお兄さんに誘導してもらいながら、無事給油完了。

駐車場に着き、最後の難関。車庫入れ。隣の車もフェラーリ。この日一番の山場かもしれない。
車幅の割には、駐車場の幅が狭い。切り替えしを繰り返し、センサーの音にビクビクしながら、何とか綺麗に駐車出来ました。
とりあえず、『ほっ...』 担当様に連絡して最終確認。
「お車どうでした?」と担当様。「思ったより運転しやすかったので、ビックリでした。」と私。
「ただ、お値段のせいか、運転している時の緊張感は、ハンパじゃなかったです。」と本音もちらり。

お世話になった担当様と別れ、広場のベンチで一休み。
いつかは乗りたい車フェラーリ。買うにも覚悟。乗るにも覚悟。
お金持ちは別として、手に入れるにはそれなりの器が必要だと実感しました。
貴重な経験。ありがとうございました。

フェラーリ・カリフォルニア 是非!!

パパ改造計画

2013年02月18日 | K
冬至を過ぎて、まだ1月半。一時期に比べると、大分日が長くなった感がある今日この頃。数日前に、中央道笹子トンネルも全面開通し、そちら方面へのアクセスも回復しました。

昨年の暮れに、いつもお世話になってる編集部から企画誌面のオファーが・・・ロケバスでもなく、ロケコーディネートでもない。実はモデルとして。弊社のスタッフが、私のことを推薦してくれたようです。

実はこの企画ページ、普段ダサイ格好のおとっつぁんを、素敵なパパにモデルチェンジしてしまおう!という素晴らしい企画。と、いうことは・・・
自分でも薄々気付いてはいましたが、「俺ってやっぱりダサかったんだ・・・」
「ダサイおやじ」のお墨付きをいただいたところではありますが、ココは開き直って「私も綺麗にして下さい。」と二つ返事でオファーをうけました。

普段、オシャレに気をつかうことはなく、現場に行く格好とお出掛けする格好は、端から見れば見分けがつかないらしい。自分的には、お出掛けの際に綺麗目な仕事着を着て行くようにしているつもりなのだが・・・
入学式や大事なイベント事には、一張羅のスーツ。散髪も、会社近くの1,000円カットですませています。

後日メールで、身長・体重・ウエストサイズ・シャツのサイズ・靴のサイズ、普段着ている服のスタイル、挑戦したいスタイル等をリサーチされました。なんでも、その日の為にわざわざスタイリストさんが、僕の着る洋服を集めて下さるそうな・・・

このことを妻に話すと、「私も見に行こうかな・・・」と興味深々。編集者に了解を取りつけ、年明け早々の撮影に2人でおじゃますることに。指定の時間にスタジオへ入ると、既に準備が整えられていました。

まずは、変身前の写真を撮影。ビフォー・アフターで比較されるわけです。「表情硬いですよ!」とカメラマン氏。笑おうとするが、どうも引きつってしまう。見慣れた光景ですが、いざ自分となると普通に笑うのが難しい。かなり気を使わせてしまった感。

数カット撮った後、メイクルームにご案内。そこには、テレビでもお馴染みのヘアメイクさん。ナカナカの美人さん。世間話をしながら、まずはカットから。「どんな風にしましょうか?」と聞かれ、「おっ、お任せします。」とどもってしまった。「刈り上げ大丈夫ですか?」と聞かれ、「ええ、問題ありません!」と言ってはみたものの、刈り上げなんて20年ぶり。

いざ! 上着を脱いだヘアメイクさん。ナイスバディに目を泳がせてる間に、カット終了。マジックだ。

かなりサッパリした後は、ほんのりメイク。マッサージしてもらいながら、顔色も良くなってきた。「○○に似てますね?」と煽てられ、ちょっと嬉しい。無精髭、眉を整えてもらい、今風の刈り上げ君が完成した。

お次は衣装。「これで行きましょう」とスタイリスト氏。挑戦したかったジャケットスタイルでまとめてくれた。靴下や時計まで、見えるところはすべて揃えてくれていました。普段は眼鏡をしていない私ですが、「あってもいいかな?」と眼鏡を着用することに。最近老眼が進んでいる私。老眼鏡をしたらこんな感じか・・・満更でもないと心の中で。

いよいよアフターの撮影。皆さんにお披露目すると、「ウォー」とまずまずの反響。お喋り好きな妻は、1時間余りの待ち時間、編集者や手の空いてるスタッフを見つけては、話し相手になってもらっていたらしい。まるで別人になった私を見るや大笑い。「変わったねー!」

撮影開始後、硬くなっている私を皆で笑わせてくれたりしてリラックス。歩いてみたり、ポーズを変えて撮影。普段何気なく見ているモデルの動きも、いざ自分となるとこれがまた難しい。モデルさんも技術が要ることを実感した。カメラマン氏にもポーズを付けていただいて無事終了。折角だからと、私達夫婦の写真まで撮って下さいました。

最後は、エディター氏から簡単なインタビュー。今日の立役者。にやけながらも、鋭い質問。2日後には、入稿が・・・ここのところ、余り睡眠がとれてないようですが、彼の仕事はまだまだ終わりません。

その日着用させてもらった衣装の撮影が続く最中、私達は一足先に「お疲れ様でした!」とスタジオを後にしました。あれから一月がたち、「お洒落頑張ります!」と誓ったあの日のことが・・・

この撮影の模様は、某誌3月号で絶賛発売中。

どんとはれっ

2013.2.13 広報委員Kより。

まさに

2012年12月18日 | K
12月も半ばとなり、私の感覚的には、例年より早いと思われる「雪」のニュースを耳にします。弊社の車両も、1台を残しスタッドレスタイヤに履き替えました。この1台、車検のタイミングに合わせてタイヤ交換しようと思っていましたが、なかなか都合がつかず(困)。

去る12月2日(日)、中央道の笹子トンネルで崩落事故が起きました。お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りします。

この現場で九死に一生された方々、どのような体験をしたのでしょうか?迫り来るコンクリート。アクセルを緩めたら下敷きになってしまう。その時もしも自分の前にのんびり走っている車がいたら・・・冷静に行動できた人などいないのでは?日曜日、早朝の上り車線。普段より車の量は少なかったと思われます。仮に下り車線で同じ様な事故が起こっていたら・・・「不幸中の幸い」と片付けてはいけない。一歩間違えば、身近な誰かが犠牲になっていたかもしれないのです。

そんな最中、先週は弊社でも見事に迷惑を被ってしまいました。
◯東京→所沢→名古屋
入間から圏央道を経由~中央道河口湖線~東富士五湖道路で須走~国道136号で御殿場へ抜け東名を利用。
◯東京→諏訪
中央道大月IC~国道20号を経由~勝沼ICから中央道に再び合流。帰りは一宮御坂で高速を下ります。こちらは、大月出口の渋滞と、国道自体も渋滞しているので最悪です。

運行管理の面でも、渋滞により運転時間・拘束時間が長くなり、迂回するために運行距離が延びてしまいます。これをカバーするためには、人員を配置したりしなければなりません。撮影時間を保持するために、出発を早めたり、前泊したり。金銭面でも大きな負担となります。制作サイドでもいい迷惑でしょう。事故以前に決まっていた撮影なのでしょうがないです。ただ今後は復旧するまで、中央道方面への仕事は極端に減るでしょう。

中央道の下り線を片側両方向の通行にして、年内に仮復旧させるようです。年末年始の帰省と重なったら、恐ろしいほどの大渋滞になりますよね?何か対策はあるのでしょうか?こんなに迷惑でも、きっちり通行料金は徴収されるのでしょうけど。
末端企業の弊社でも考えさせられる事故。物流や旅客のみならず、被害を受けている企業は沢山あるでしょう。
この事故さえなければ・・・的な人々も。
何か補償はされるのでしょうか?補助金が出るとか、高速料金が還元されるとか。

公団本部に家宅捜索が入ったとか、点検作業員の事情聴取が開始されているようですが、管理者側は「過去に同様の事故は起きていない」と安全管理に問題は無かったと主張しているらしい。公団といえば、「天下りの温床」というイメージ。責任逃れで右に出る者は居まい。福島原発も、その後の補償問題はどこまで話が進んでいるのでしょうか?元々「親方日の丸」な企業。うやむやなまま、結局「つけ」は我々にまわされてしまうのでしょうけど。

2012.12.11  広報委員のKより

まいったな その2

2012年10月16日 | K
10月8日 月曜日。車中待機なう。世間は3連休3日目。私は3連ちゃんで仕事中。もう秋だ。日が沈むと肌寒い。

話題に事欠き、前回の続きとさせていただきます。

「9:00から回診だから、先生から病状説明があるよ。」と従姉妹。7/27の早朝に面会を済ませ、仮眠と腹ごしらえのため実家へ。「お母さん、思っていたより容態よさそうだったね。」と家内。確かに、今日明日の話ではなさそうだ。

子ども達を実家に置いて、再び病院へ。回診の後、担当医師からの説明のため小部屋に呼ばれた。
これまでの経緯、2日ほど前に母が2度死にかけたこと。「今は安定してますが、あと数日と思います。残された時間を・・・」
5分か10分の説明だったと思いますが、思わず「グスッ」。なかなか泣かせ上手な、とてもよい先生でした。

程なくして、姉の一家も到着。この日は姉が付添い。

明くる28日、平穏。母は昨夜から眠ったまま。起こさぬよう、そっとしておく。月末。医師の言葉は気になりましたが、残してきた仕事をやっつけるため、昼過ぎに帰京することに・・・「母ちゃん、あさって戻ってくっからね。」

翌29日。朝から事務仕事。次の帰りがまったく読めない。最小限の事だけでも・・・宵の口までかかり帰宅。母は、小康状態のままらしい。子どもたちにも夏休みの宿題を持たせ、再び一家で実家へ向かった。

明けて30日、計ったように4:00病院到着。私だけ一人病室を覗き、容態確認。大丈夫、息をしている。付添いの従姉妹は、椅子に座ったまま目を閉じている。起こさないように退散した。
仮眠の後、病院へ。今日は朝から見舞いの人が多い。今夜は私が付き添うことにした。帰って爆睡と思いきや、容赦なく仕事の電話・・・昼から寝ぼけながら応対する。

夕方、付き添いのため病院へ。母の呼吸も、かなりゆっくりになっていた。「こんなんで大丈夫なの?」今夜は長くなりそうだ。酒でも飲みながらと思ったが、院内での飲酒は厳禁らしい。でもでも、バッグの中にはビールと焼酎、つまみ少々。いざという時の頼もしい味方。

みんなが帰り、病室の中が静まり返る。母の呼吸がみるみる弱まっているように感じた。「ヤバイ。」慌ててみんなを呼び戻す。「これまずいんじゃない?」とナースコール。「いや、昼からこんなもんだった。」と親父。聴診器をあてる看護婦さんも「脈も大丈夫みたいなので・・・」と。「パパ心細くなったんでしょ?」と娘たちも半笑い。気のせいかと思いつつ、「じゃ!そういう事で任せておいて。」と、皆を帰した。

再び静まり返る病室。たまに小声で話しかけながら、母の呼吸に耳を澄ませる。こうしてゆっくり母と向き合うことは今までなかった
、なんて思ってる間にも「スー・・・ハー・・・」「スー・・・ハー・・・・・・」「スー・・・ハー・・・・・・・・・・・スー」呼吸のストロークも長くなり、もう息を吸わないんじゃないかというくらい無呼吸状態が長い。「おいおい!!やっぱりヤバイでしょう。」と一人つぶやき、親父に電話。「引き返した方がいい!」

「お袋しっかり・・・」と話し掛けながらしばし見守る。「スー・・・ハー・・・・・・・・・・・・・・・・・スー」何となく分かった。今がその時と。「もう休んでいいよ。俺がみてるから・・・」答えるように「スー・・・・・ハ・・・・・・・・・・・・・・」
再びナースコール。

頼もしい味方は出る間もなく、一人静かに見送った。

バタバタするのはこれから。機会がありましたら、またそのときに。

2012・10・10 広報委員Kより。

参ったな・・・

2012年08月16日 | K
毎年お世話になっているイベントのお仕事もいよいよ明日から本番という7月26日の夕方。
その日の仕事が終わった直後、車中で諸連絡をしていると、私の実家から着信があった。普段はあまり会社や私の携帯に連絡してこない親父からである。少々気になり、自宅に折り返しの電話をしたが繋がらない。
ますます気になり、親父の携帯に電話すると「マイッタ。おっかあ、明日までもたないかも・・・」「・・・あんっ?」

ほぼ寝たきりになっていた母は、ちょうど1週間前に再入院していました。

業務連絡をしつつ今度は妻や身内への連絡と、仕事が増えてしまった。その場に留まること1時間あまり。一段落ついたところで、事務所に向かいました。

母の容態については、昨年末か今年のはじめくらいに親父から聞いていたせいか、今考えると焦る気持ちはあまりなかったような気がします。ただ、事務所へ戻っても溜まっていた仕事に手を付ける気になれず、そのまま自宅に帰りました。一年で最も忙しい時期、月末近し!・・・参ったなぁ。

いただいていた仕事も調整していただき、家内の仕事、子ども達のバイトやクラブのスケジュールにも都合をつけてもらい、家族全員で実家へ帰ることにしました。

家内に全員分の身支度をお願いしているところで、「ねぇ、喪服ってどうする?」と家内。「・・・だよね。一応持っていこうか・・」これまで、幸いにも?このような状況に直面したことはありませんでしたが、「いよいよかぁ・・・」

実家へは車で7時間ほどの道のり。ちょっと様子を、というわけにもいきません。数日分の着替え等を車に積み込むと、「あんた疲れてるでしょ!」と家内が運転を買って出てくれた。いざという時は頼れる妻。

21:00すぎに自宅を出発。夕食はコンビニ派とマック派に別れて買い物。移動飯で一路実家へ。私は助手席でボーッと考え事をしつつ、1時間ほど走ったあたりですっかり寝ていたようだ。気づくとそこは福島県にある鏡石PA。もし1人だったらどうなっていたことか・・・「お母さんより先に、あんたが仏様になるとこだったんじゃない?」と家内。おっしゃるとおり。

さらに走ること2時間、運転する家内にも限界が近い。子ども達は爆睡中。高速を下りる手前で選手交代。「間に合うかな・・・とりあえず病院へ向かうから。」

去年、一昨年は諸事情も重なり、何度も走った故郷への道のり。今年は正月以来となる。途中で、家内も眠りの神様に連れていかれてしまい、私は黙々と運転。病院へ到着したのは朝の4時。母の様子はどうだろう?

「夜中にすみません!母が危篤ということで来たのですが、面会できますか?」と夜間出入口の受付で訪ねると、「ご苦労様です!西棟の466号室です。」と宿直の警備員さんが教えてくれました。

静まり帰った病院の中、「ピタッ!ピタッ!ピタッ!」と、子ども達のサンダルの音が響く。「シィー!」「コントじゃないんだから!」と注意。

病棟のナースセンターで「息子ですが、466号室の・・・」と改めて話をし、病室へ向かう。「・・・ここだ!」「コンコン」と軽くノックをして静かにドアを開けてみましたが、大きな個室はもぬけの殻。もう一度部屋番号を確かめるが間違いはない。

「間に合わなかったか・・・」

慌ててナースセンターにもどり、「母は・・・?」と訪ねると、「あれ?ちょっと待って下さい。」と看護婦さん。ドキドキしながら待っていると、「昨日、665号室に移ってますね。」とのこと。実は、急な入院で病室が空いておらず、やむなく特別個室に入っていたが、昨日隣の病室が空いたので、移っていたらしい。前で待たせていた家族に、「隣に移ったらしい・・・665だって。」ドラマの見過ぎか、すっかりコント。

気を取り直して、隣の病室へ。「お?!早かったね。」そこには付き添ってくれていた叔母と従姉妹。「どうですか?」の問いに、「眠ってる。」と叔母。2日前から容体が急変した母は、強い薬を投入し始めたため、目を開けているのもままならない。今は安定しているが、薬をもっと強くしていくと、もう目を開けることもできなくなると聞かされていました。

病室の奥には、酸素マスクをつけてベッドに横たわる母の姿。のぞきこむと少し苦しそうではありましたが、ちゃんと息をしていました、ほっ。と、「息子が帰ってきたよ!」と叔母が母を起こしてくれ、母がうっすら目を開けた。「お待たせ!今帰ったよ。」「わかる?」と私が話しかけると、わずかに頷いた。もう喋る力も母にはありませんでしたが、家内や子ども達も話しかけ、無事対面を果たすことができました。

続きを書いていいものでしょうか?機会がありましたら、またその時に。

それから3日後。平成24年7月30日午後8時03分、母が永眠しました。享年83。

広報委員Kより