ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ 寝ても覚めても (2018)

2018年09月14日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」
現実を夢うつつで彷徨う朝子(唐田えりか)に“朝”はもう訪れたのだろうか。許されなくても側にいるだけでいい。それは究極の愛情表現なのだろうか。ただの自己中心的な感情の逃避ではないのか。だって本来、人を好きになるということは身勝手でエゴイスティックな行為なのだから。

麦(ばく)(東出昌大)という男は、まるで亡霊か幻のように描かれる。麦をひと目見た朝子の友人春代(伊藤沙莉)は、この男を悪霊のように危険だと宣言する。麦と一緒に暮らす母子家庭らしき友人の岡崎(渡辺大知)とその母(田中美佐子)は、この男を家に居ついた良性の妖怪のように容認する。

そして、麦に魅せられた朝子は一瞬にして現実から引き離され、夢の途中に置き去りにされる。朝子は終始、感情の抑揚に乏しく(唐田えりかの好演?あるいは無演?)それだけに行動の唐突さが、現実世界に居る者(映画内、そして私たち観客)の意表を突く。朝子をふたたび現実から引き離す麦に至ってはまるで(黒沢清の)ホラーの様相だ。

『ハッピー・アワー』(05)のときにも感じたが濱口竜介という映画作家は、映画内の登場人物だけでなく観客の「現実(日常)」と「夢想(無意識)」の境界線を消してしまう術を心得た“越境の演出家”として、私は認識した。

(9月9日/テアトル新宿)

★★★★
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