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ぽんしゅう座

優柔不断が理想の無主義主義。遊び相手は映画だけ

■ ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地 (1975)

2023年05月27日 | ■銀幕酔談・感想篇「今宵もほろ酔い」

ひとりで家事をこなす屋内空間。言葉は消滅し生活音だけが響く。息子との会話も(決して不仲ではないが)最小限。頻繁に点灯消灯される室内の人工光が彼女の孤独を饒舌に示唆し、朝と夜に差し込む外光が時の動きの気配を伝える。これが監督のシャンタル・アケルマンが主人公に与えたプライベート空間だ。

その空間はワンルーム・ワンシーン・ワンショットで厳格かつ執拗に反復され積み重ねられていく。反復としては衣類やテーブルクロス、シーツといった布を丁寧にたたむ行為も印象的だ。主人公のジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)は、そのルーティンが強いる拘束感に気づいていない。むしろルーティンに没入することで進んで拘束感を無意識に増殖させて、ある種の困難から逃避しているかのようだ。困難とは、変化することへの自己努力や、変化を阻む外圧のようなものだと思う。彼女が外出し町の人たちとの接点をみせるとき、ほんのわずかだが(私たち観る者に)安堵と希望が生じるのがその証だ。

書こうとしても書けない手紙。手慣れているはずの料理の失敗。泣き止まない赤ん坊。コーヒーの味の異変。靴磨きも食器洗いもいつもと違う。そんな屋内ルーティンの違和の連鎖が起きる。さらに郵便局は休みで公衆電話は故障。カフェのいつもの席には先客。お気に入りのボタンも手に入らない。かすかな救いのように見えていた外出先でも不運が続く。ある種の困難から逃避していたはずの「日常」をじわじわと引き裂いていくような不穏な兆候の連鎖がスリリングだ。

シャンタル・アケルマンは25歳でこの作品を撮ったという。そのとき彼女が置かれていた窮屈さを衆人に納得させるための必然として、この3時間20分に凝縮された執拗な「行為」の反復が必要だったのだろう。2015年に実母のドキュメンタリーの編集中に母親が亡くなり、アケルマンも作品の完成後に65歳で亡くなったとのこと。本作から40年後。ルモンド紙は自殺と報じたそうだ。

余談です。ダイニングのテーブルには二脚の白い椅子が置いてある。ときどき右側の椅子がなくなり一脚だけになる。朝、このテーブルで息子が朝食をとるたきには二脚になっている。これが何の説明もなく繰り返される。息子と二人で食事をするリビングのテーブルには椅子が一人分しかなく、夕食のたびにリビングに移動しているのだろうか。注視していたら、最終盤に近いリビングのソファにジャンヌが座っているショットで、夕食時に使うテーブルには椅子が一脚しかないように見えた。この解釈で合っているのでしょうか。分かる人がいたら教えてください。

(5月23日/アップリンク吉祥寺)

★★★★★


【あらすじ】
数年前に夫を亡くしたジャンヌ(デルフィーヌ・セイリグ)は10代後半の息子(ジャン・ドゥコルト)とブリュッセルのアパートで暮らしている。建物は古く間取りも広くはないが部屋はこぎれいに整頓されている。几帳面な彼女は起床から就寝まで、毎日の家事や雑事を同じ順序と同じ手順で淡々とこなしていく。そんなルーティンに偶然に生じた小さな綻びが意図せぬ「些末な破綻」の連鎖となって彼女の心を乱し始めるのだった。過去に『自転車泥棒』『市民ケーン』『東京物語』などを選出してきた英国映画協会が10年ごとに選ぶ「Sight and Sound」誌のベスト100で2022年度の1位に選ばれたベルギーのシャンタル・アケルマン監督の代表作。(200分)


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