宴的戯言

ビールを飲んで宇宙と繋がるなんでも屋の戯言。

名付け親

2009年02月23日 | 戯言
先日、この戯言blogを読んでくれているという方が来店した。

『ギターに名前をつけてほしい』

と、大変責任重大な事を申されたので

脳内では

生かすも殺すも自己責任だー!
ギターちゃんも、
鳴るか泣くか、ある意味自己責任だー!
など駆け巡り
勝手に『自己責任くん』と思ってたのだが

いざその姿を写真で見せて頂くと
なんともゴージャスな色艶。


一目で『ハイソさん』と命名。


いつかハイソさんと生で対面するのが楽しみだ。

用法、容量

2009年02月23日 | 戯言
ある絵画を見て、人は感想を述べました。

『この繊細の筆使いと大胆な色使いはこの作者特有だよね』

また、別の人は

『この景色見た事ある!
うちのお父さんの地元なのよー!
ここの名産の魚がすごくおいしくて~…』


『この絵からはパワーを感じる、、んむむ』


人が、何か対象物や、対象となる人物に見出す何かというものは
決して全て見える訳ではない。

己の中のセンサーや
己の中の知識や経験

その世界でしか判断することができない。

自分の世界を押し広げられるような作品や人物との出会いは
己の人生に置いて大変価値のあるものとなる。


『自己成長の先に見える違う世界』
やら
『日々精進』
などの感覚を
今の自分が理解しやすい形で残したかったので書いてみた。

それと同時に

どんな観点、どんな感動の仕方にしろ
本人にとって大切だったり
愛でたいという気持が芽生えるという事は

なによりも素敵な事だな、と改めて思う訳で。


先日、霊能者の方が来た時に
彼は彼の観点で、私をえらく祭りたてた訳だが
そんな事も関係なく、
『俺にはよくわかんないけど、こういう生き物だよね、夢子は』
とざっくり愛でてくれる友人からも愛は確かに感じた。

見たい、知りたい、それなら
見れる、知れる自分に成長すりゃ良い。

専門的にはわからなくても
感度を信じて生きていけるなら
それを信じていれば良い。

そんな事を最近、思う訳です。

2009年02月17日 | 戯言
昨日、軽く事故って
やむなく1日休ませて頂いた。

yorke.の新作を楽しみに遠くは箱根からいらしてくれた方が居たというのに
こういう不測の事態にも店を開ける体制が整ってなかった事を悔やんだ。


頭部の打撲による頭の重みと
連日続いていた睡眠不足も重なって
沢山睡眠をとった。


夢に、私にとって一生の師匠である人が出てきた。

私が最近感じている

『彼から教わった事を私なりに伝えていきたい』って話しをしたら

にこっと微笑んで消えてしまった。

目が覚めると、驚く程背筋が伸びてることに気付いた。


師匠は夢ん中でも師匠だった。

ありがと

2009年02月15日 | 戯言
昨夜~さっきまで

私の愛するお店に
私の大事な友達が
彼の愛する世界をぶちまけに遊びにきてくれてて
彼を愛する沢山の方々が
私の愛するお店に来てくれたのでした。


それはそれは甘い夢。

濃厚なチョコレイトを頬張って

ミルクで酔ってしまうくらい

くらくらするよな、甘い夢。


暖かい熱を放出し続ける、yorke.の作品と

これから2週間、楽しく仲良くやっていきたいと思います。


ご来場の皆様、ありがとうございまし!







多大なる愛情を与えてくれた貴方に

本気で感謝!

ありがとう。

足場確認

2009年02月10日 | 戯言
そこが例えば、ヌカルミだったとしても

その上で立てるか否か。

ただ立つんじゃなくて

どんな姿勢で立ちたいか、

理想が頭に浮かんだなら

やるしかない。


きっと、そこに向かう努力は

苦行なんかじゃないはず。

なんなら小粋なポーズかましちゃってる自分を想像して





どんな場所でも

立つ気さえあれば、立てる。

強迫観念からの解脱

2009年02月08日 | 戯言
先日は昼過ぎから吉祥寺にてこじゃれたイタリアンを頂きながら
108の撮影時にお世話になったヤマモトシゲキ氏と対話。

私は昔から工事中の大きな建物をぐるりと囲む足場や
ブロック塀、タイルなど、均一に見える四角の列を見ると
脳内の仕組みを考えてしまうクセがある。

私の席からは厨房が見えたのだが、その手前のカウンターの上部にずらりとならんだ飾り棚を眺めていたら
またそのクセが発動してしまった。


記憶にない。覚えていない。というのは
もしかして存在しないのではないか?

逆も然りで、

強烈な記憶、拭いきれない記憶というものも存在しないのではないか?


脳内の記憶保管庫に関してのみ言えば、という過程で。

全て、同じ大きさの箱に
同じだけ保管される。
少ない箱も、多い箱もない。

どの箱を特別視するか、という感情や心の問題で
忘れてると思い込んでいる箱があったり
その箱の事ばかり考えてしまって時間を費やすが故に
強烈な記憶と思い込んでいるだけなのでは。


そんな事を考えてしまう、とお話した。


箱という、決まった形に対しての
形を持たぬ心の流動的な働き。

対してヤマモトシゲキ氏は
脳内は無限に広がっていて、ぽこぽこと浮かんでは消えるなにかがある。
自分の中でも、繋がりすら意識しない。

しかし、人によってはそこから関連が見え隠れしたり
糸で繋がっているように見えたりするのが楽しい。とおっしゃる。


『まるで星座みたいだね!』
思わずワクワクして大声を出してしまった。


なにか意図している、していないに関わらず、飛び散った星から何かを見出す人がいる。他の人が見たら違うものに見える事もある。

その後4時間に渡り対話した中でも
我々二人の違いの核はこの話であると感じられた。

私はなんかしらの法則や流れを意識しつつ
心は自由である方法をとる。

ヤマモトシゲキ氏は、自分が起こすアクション(自覚していない部分も含めて)に対して
相手の感じ方に任せる余裕を持っている。


無いものねだり、という言葉が頭を巡る。



相手に余白を用意できる余裕が欲しいと、本気で思った時間。


二人で
『何かやりたいねー』
という漠然とした感覚から対話が発生したのだが

わかりやすさの大事さも理解りつつ
わかりやすさを狙うあざとさや、そうしなければいけないという強迫観念から
私たちなら肩を透かして歩いていけるかもね。
なんて、根拠もなく楽しい気分になった。

何かを提示した時の反応を
可も否も楽しんで受け入れる覚悟があれば
私たちは無敵の無責任になれる。

違う感覚と違う脳内、違う経験を互いに理解しあって
…否、心地良い誤解をしあうのも
きっと価値がある。

少なくとも私にとっては。


なにかが形になった訳ではないが
形にするために一番大事な核を、自分の中に確かに感じた。

好きなもんは好きでいい

2009年02月05日 | 戯言
自分とはなんぞや?



んな事考えてる暇なんかない!


なんて思ってたんだけども

ふと、振り返る時間も必要では?
てな信号が光り出した。


沢山の好きな物、それに対する気持ちもひっくるめて自分である。っていう
ごくごく当たり前な事に目が向いて

そこから目を背けて歩いてくなんて到底無理な話だ、と思った。


好きな物に対して、なにか現実を動かそうとすると
自分一人だけの問題ではなくなるけども

その気持ちを抱えて歩いてく、ってだけなら

ただ、それだけの話。


好きなもんがあると心は喜ぶ。

そんでウキウキ歩いていける、

それだけで良い。

観る

2009年02月02日 | 戯言
見たり診たり視たり


で、ブレブレになってた自分



あぁぁ、最近ちゃんと観てなかった!!


奥底に目をやると


いつも変わらず愛でる気持ちがあってさ。



ただ、くるくる廻る時計や
くるくる変わる上っ面の感情に惑わされて

根底、見失ってた。



もしかしたら、もう間に合わないかもしんないけど


まだ、伝えられるなら

余計な装飾なんてとっぱらって

愛してるって

ただ、それだけ伝えたい。