goo blog サービス終了のお知らせ 

詩の本+

日本近代象徴詩、モダニズム関連の書籍を紹介

文学革命の前哨  小宮山明敏著  世界社

2018年03月29日 17時55分21秒 | 詩集


【書誌】
本体 縦一九八×横一三七ミリ〔判型は本体と同じ 中本〕 薄茶色。
本文 四四八頁 一段組。
紙装並製本、角背。表紙全面に、デザイン化された「文学革命の前哨」の題名、下部に著者名「小宮山明敏著」が配される。背表紙上部には、墨書のようなデザインの「文学革命の前哨」が縦書き、「小宮山明敏著」が縦書き二行で配される。裏表紙は下部に、「¥1.20 世界社版」の文字がインさせるされる。
【奥付】
印 刷 昭和五年八月三十日
発 行 昭和五年九月 五日
定 価 一円二十銭
著 者 小宮山明敏
発行者 饒平名智太郎
    東京市牛込区市ヶ谷田町三丁目二十一番地
印刷者 渋谷新平
    東京市牛込区山吹町一九八番地
発行所 世界社
    東京市牛込区市ヶ谷田町三丁目二十一番地
    電話 牛込五八六八
    振替 東京七五一五八
装幀 岡本唐貴
【目次】

序論
第一部 最近代ブルジヨア文学、その没落過程
一、現代作家の傾向について
二、新感覚派論、無意志前派時代を越えて
三、深淵、没落、その意義
四、反動的センチメンタリズム
五、反動思想としてのダダイズム運動批判
六、ブルジヨア文学の最終型
七、形式主義文学の史的位置
八、形式論出発の決定的分析
九、新芸術派の特質、位置
第二部 プロレタリア文学、その発展過程
一、プロレタリア芸術発達史論
(一)序論
 一、個人の芸術と集団の芸術
 二、内容の革命と形式の革命、研究方法
 三、プロレタリア芸術発達史に於ける二つの時代
(二)革命前期小ブルジヨア芸術に於ける特質―主として未来主義、及び表現主義の特質、史的位置及びその影響に就いて
 四、未来主義の反動性
 五、表現主義の反動性
 六、新感覚派、形式主義の反動性
(三)プロレタリア芸術に於けるロマンテイズム時代
 七、革命前期プロレタリア芸術に於けるロマンテイズム
 八、革命直後プロレタリア芸術に於けるロマンテイズム
(四)プロレタリア・レヤリズム――及びその今後に於ける発展型に関する考察
 九、プロレタリア・レアリズム(その一)
 一〇、プロレタリア・レアリズム(その二)
二、無産派芸術家諸団体分裂の意義
三、日本文学の位置
 一、文学の大衆性について
 二、文学における言葉の問題
 三、現代プロレタリア文学作品の内容的再評価
四、プロレタリア詩論
五、プロレタリア文学形式の実際的進路
六、観点の正しさの重要性
七、ソヴェート前衛文学と日本プロレタリア文学の現段階
八、プロレタリア文学の発生、発展過程
 一、ブルジヨア文学は如何にして崩壊してゆきつゝあるか
 二、自然発生的プロレタリア文学より「目的意識論」提唱まで
 三、社会民主主義文学と××主義文学との闘争
九、プロレタリア・レアリズムの現段階
第三部 プロレタリア文芸批評論
一、プロレタリア文芸批評論
 一、ブルジヨア自由主義的文芸批評、社会民主主義的文芸批評、××主義的文芸批評
 二、社会的分析に於ける条件――及び作家との党との関係
 三、内容批判における条件
 四、その他現段階におけるプロレタリア文芸批評の特殊的諸問題
二、芸術価値の問題
 一、平林主義の本質
 二、文学作品評価基準の問題に関して
 三、我々はマルクス主義文学を如何に解すべきであるか
 四、文化継承論の本質について
 附、最近の同人雑誌
三、マイスキー氏の所論について一二
四、無階級芸術について
五、大正十四年度文壇の概観
 一、新感覚派について
 二、生田長江氏の存在
 三、コント
 四、新人生派といふもの
 五、雑文雑誌のこと
六、文芸批評壇の現状、及び今後
七、現文壇の三分野の反映
八、新春文壇の諸現象
 一、文学の内容を喪失しようとする者
 二、未だ内容の貧しき者
 三、文学に自信を失へる者
九、片上氏の『文学評論』
一〇、文学史家としてのコーガン
一一、『壊滅の鉄道』、『絶望の歌』、及びその他
一二、『施療室にて』
一三、『蟹工船』について
一四、陳情と革命前哨
一五、レーニンと芸術
附録 ロシア文学研究
一、ロシヤ文学批評史に於ける純文学的批評時代
二、ロシヤ文学の知k等、特質に就いて
三、アンドリエーエフの生涯と芸術
四、最近ソヴエート文壇の動勢

【所蔵】
国立国会図書館         〇
日本近代文学館         〇
京都ノートルダム女子大学図書館 〇

大学図書館所蔵〔京都大学人文科学研究所、群馬大学、茨城大学、同志社大学、大阪樟蔭女子大学 跡見学園女子大学 他〕

【解題】
 小宮山明敏は、昭和初期に活躍したプロレタリア文学批評家である。マルクス主義に基づく歴史認識により、同時代の文学を積極的に批判した。同時期のブルジョア文学の限界を指摘すると共に、プロレタリア文学の歴史的意義を明らかにするためである。『文学革命の前哨』は、一九二五年から一九三〇年に発表された批評をまとめた、小宮山明敏唯一の著書である。小宮山明敏は、一九三一年に亡くなったため、自著は一冊のみ残された。出版物では他に、リベヂンスキイ『一週間』(平凡社、一九三〇・三)などロシア文学の翻訳がある。
 小宮山明敏の著作は多いとは言えないが、後に『現代日本文学全集94 現代文芸評論集(一)』(筑摩書房、一九五八・三)に「新感覚派論、無意志前派時代を越えて」(『主潮』第七号、一九二五・九)「現代作家の傾向に就いて」(『新潮』一九二七・一)、『日本現代文学全集107 現代文芸評論』(講談社、一九六九・七)に「無産派芸術家諸団体分裂の意義」(『創作月刊』一九二八・四)、が再録されている。また、三好行雄・祖父江昭二編『近代文学評論大系第6巻 大正期Ⅲ・昭和期Ⅰ』(角川書店、一九七三・一)に、「陳情と革命前哨、及び形式の問題」(『文芸レビュー』一九三〇・一)、平野謙・山本健吉・小田切秀雄『現代日本文学論争史 中巻』(未来社、二〇〇六・九)には「新藝術派の特質、位置」(『新潮』一九三〇・七)が収められた。
 特に、中河与一、片岡鉄平、横光利一ら新感覚派を批評した「新感覚派論、無意志前派時代を越えて」で、同じく新感覚派の中河与一、横光利一が「形式によって内容が決定される」と提唱した形式主義文学論を批判した「形式主義文学の史的位置」(『新潮』一九二九・二)など、モダニズム文学をブルジョアの限界という視点から批判した著作で知られる。
 『文学革命の前哨』は、プロレタリア文学の歴史的発展を、ブルジョア文学の没落と対比するモチーフから論じられた著作を集めたものであり、その後の、プロレタリア文学史観から、日本近代文学を見直すテーマへとつながるものである。

夜の葉 森川葵村著  東雲堂書店

2015年05月23日 18時34分27秒 | 詩集

【書誌】
本体 縦一九〇×横一三〇ミリ〔判型 一八八×一二五ミリ 四六判〕 灰色。
本文 二二三頁 一段組。
背布装上製本、角背。表紙裏表紙共に題字、著者名はなく無地。背には題字「夜の葉」が縦書、その下に葉の意匠、その下に横書「葵村」が配された題簽が貼付されている。装幀は、川路柳虹。
【奥付】
印 刷 明治四十五年五月五日
発 行 明治四十五年五月十日
定 価 六拾銭
著作者 森川勝次
発行者 西村寅次郎
    東京市京橋區南傳馬松三丁目十番地
発行所 東雲堂書店
    東京市京橋區南傳馬松三丁目
    電話 京橋一六三九
    振替 東京五六一四
印刷者 横田五十吉
    東京市神田町區松下町八番地
印刷所 横田活版印刷所
【目次】
影のしらべ
 六月のといき 悲しきくちづけ あまぐもり 晝のわかれ 白き根 うらみ 晝の涙 異しき涙 聲 雨の女 秋 いたみ わが祈り さすらひの果てに をはりの聲 消えゆくあと 駒形 おなつ清十郎 お七吉三 鶯の歌
偶像の薄暮
病める薔薇
 一、故知らず嘆きてやまぬわが聲の 二、いく時か月光肩に流れし 三、さらぼひしわが哀しき戀よ 四、晴れやかにあひ見、見られし 五、さびしきわが心よ 六、潮の音にねむられぬ宵路なり 七、沖はたゞ暗く曇りて 八、わが心の上を行きすぐる風の群 九、かずかずに思ひ思はず 十、わが胸に海のさびしみあり 十一、さまよへる身は夕の風に 十二、夜もすがら惡しき潮騒よ
後の心
 一、寐られぬ眸に 二、屋根の上に青き月夜あり 三、片戀のそゞろあるきの傘の内 四、はらはらと何時しかに𣏓葉に時雨れ 五、われらが上に絲柳厚くかゝれり 六、いつしかに月夜となりぬ 七、鐡葉色の夜の葉とその影は 八、四月夜の林間に 九、別れきて 十、乳白色の霧に浮べる 十一、いづこかに歔欷く少女あるらん
途上出現
偶像の薄暮
 一、彼は色無き風に歌へり 二、彼は破れゆく面影をかなしみぬ 三、彼は漂へる心嘆きぬ 四、月無き夜のフイルム 五、彼は接吻のうちに戀人の死を見浮べぬ 六、彼は偶像の戀を歌へり 七、彼は極楽の黄昏を思へり
情緒の稚児
 たそがれ あらしの前 啼かぬ鳥 暗き世界 悪しき夜半 沙漠の戀 伴奏 月光と音楽
午後の吐息
 一、しどろにも雨ふる街に 二、音も無う雪ふりぬ 三、熱病める胸に來て鳴く 四、大都會塵埃に黄ばみ 五、満潮にゆらめき浮ぶ 六、みな病めり五月雨るゝ長き廊下の 七、うたゝ寐の夢より覺めて 八、咲く花のあかるき野邊に 九、青葉する湖畔のまひる 十、水無月の谿間のまひる 十一、蠟のごと月色死して 十二、なよかぜのゆらゆる誘ひ 十三、薄ら日はまなく歔欷れり 十四、晩秋の青き空
夜の葉と影
 醉泣 夢なる瞳 ひらめき たえ間 喧噪 歔欷 香の花陰 忘却の列 葉ずれ わが搖らぎ 影繪 匂 かなたの小丘 樂しき滅
幼き愁
 おもひで 海鷗 春の鳥 ふと逢ふ君 事なき眞晝 遇ひえぬ密語 おもひでの曲 おもわ 喜びの日、悲しみの日 太陽の赤き幻 陰る日 とりえぬ影 巢ごもる魂 雨後の朝 かの一日

【所蔵】
国立国会図書館         ×
日本近代文学館         ×
北海道文学館 高橋留治文庫   ○
京都ノートルダム女子大学図書館 ○

大学図書館所蔵〔昭和女子大学近代文庫〕

【解題】
 『夜の葉』は、森川葵村の第一集である。森川葵村(もりかわきそん 本名勝次)〔明治二二生〕は、『文庫』(少年園のち内外出版協会、明治二八・八~四三・八)詩欄に投稿を始め、『詩人』(詩草社、明治四〇・六~四一・五)、『新聲』(新聲社、明治二九・七~三六・八、明治三六・九~三七・六 文館、明治三八・二~四三・三)などに詩作、口語詩や象徴詩に関わる評論を発表した。大正元年、三井物産に入社。大正一〇年、朝鮮火薬銃砲株式会社を創立し、専務取締役になる。戦後、北洋火薬株式会社取締役社長に就任。この頃より再開した詩作を集め、第二詩集『雪の言葉』(葵村舎、昭和四八)〔私家版三百部〕にまとめる。(杉本邦子編「年譜」『明治文学全集61 明治詩人集(二)』筑摩書房、昭和五〇)(新間進一「森川葵村氏の詩集「雪の言葉」刊行に寄せて」『學苑』昭和女子大学光葉会、昭和四一・六)
 『夜の葉』扉は、黒インクで印刷された獅子と南国植物の意匠による飾り枠の中に、上部に「抒情詩集」「夜の葉」「森川葵村著」、下部に「東京 東雲堂発兌」「MCMXⅡ」の文字が朱色横書で印刷されている。扉の次々頁に「二十九の春にみまかり給ひし 姉上の墓前に捧げまつる 三週忌に、勝次」の献辞。献辞の次々頁に、「Die Rosen Leuchten immer noch, Die duukeln Blätter zittern sacht; ―Aus banger Brust : Dehmel」、デーメルの詩句が引用される。その裏頁には、イェーツの和訳された言葉が引用される。「譬へば吾等の肉體が不可見の靈により創りいだされたるものなるが如く、文藝は情調より創りい出さるゝものなり。」「凡ての音、凡ての色、凡ての形は、其の先天的精力により、又は永き聯關の結果により、定かにそれと判かち難き、而かも尚鮮明なる情緒を催起せしむ。」「韻律の目的は沈思の刹那を引き延ばすにあるものゝ如し。」これらが、この詩集の序詞となっている。
 各章扉には、上部に章題と植物の意匠、下部に制作年代が記される。裏には詩句の引用。「影のしらべ 1911―1912」「Car nous voulons la Nuancd encor,Pas la Couleur, rien pue la nuance! ―Verlaine」、「偶像の薄暮 1910」「O Rose,Thou art sick! ―Blake」、「情緒の稚児 1909」「Was man ein Kind ist! ―Werther」、「午後のといき 1909」「Le cielest,par-dessus le toit Si bleu, si calme! ―Verlaine」、「夜の葉と影 1908」(裏に引用無し)、「幼き愁」「うつせみのあるかと見れば おもかげのかげもあやな 香をとめしさよごろも もぬけし人ぞこひしき ―箏曲」ヴェルレーヌやブレイクら西欧の詩人と共に、日本の伝統的な音曲に対するオマージュが含まれていることに注目したい。
 森川葵村は「作詩の態度 自己即詩歌」(『詩人』第六号、明治四〇・一一)で、象徴詩は「現實界の現象と心靈界との照應(●●)により生まれる」ものだとする。そもそも両者は一体のもので、これを表現した詩を「自己即詩歌」と呼びたいという。また、この態度は、「自然主義が靈肉共に一元たるを説くと同じ理法」だともいう。そして、詩歌の根本は「刹那的感興を捉へる」ことだとする。詩を情緒主観の文学として(島村抱月「情緒主観の文学」『早稲田文学』、明治四〇・七)、我執を棄てて、自己の生命を事象の一体化を目指す態度を純自然主義と呼び(島村抱月「今の文壇と新自然主義」『早稲田文学』、明治四〇・六)、あるいは「自然即心靈説」を謳い(岩野泡鳴『神秘的半獣主義』佐久良書房、明治三九・六)、神経の鋭敏化により自然の幻像を捉える態度を自然主義的表象主義と呼ぶ(岩野泡鳴「自然主義的表象詩論」『早稲田文学』明治四三・一二)同時期の議論に対し、元より象徴主義は万物照応を旨とする主客一致の思想であることを示すのである。
 さらに「情調藝術の由來」(『創作』第一巻第二号、東雲堂書店、明治四三・四)では、ホフマンスタールの唱える情調芸術が、自然主義、象徴主義に続いて来るべき表現だとする。情調芸術の前段階として印象主義が現れたが、感覚的に鋭敏ではあるものの、繊細さを欠く面があるという。印象詩派が「細かい色紙の断片を貼りつけたようなもの」であるに対し、情調詩派は「其を細い糸にした、初まりも、終りも無い只一脈の糸の顫動」だとして、「萬物照應」を旨とする象徴詩の帰結点は情調芸術だとする。当時は、口語自由詩運動、自然主義運動の延長から、日本詩壇にも『自然と印象』(自由詩社、明治四二・五~四三・六)を中心に印象詩の実作がなされていたが、既に克服されるべきものだというのだ。『夜の葉』に引用された、情調、感覚の構成、韻律によるによる刹那の表現を述べたイェーツの言葉は、この情調芸術を説明する言葉でもある。題名に冠された「抒情詩集」は、情調芸術の意味で理解した方が良いだろう。
 次に「六月のといき」本文を示す。
   六月のといき
湯ヶ野ひくにたへざる蔓(つる)の花、
たよたよとおぼろの白の浮くほどに、
かはたれの雨ほのぼのと晴るゝほど
晴れざるほどに、涙濡れし月は出づ。

夕顔のひくにたへざるわがうれひ、
たよたよと心ひとつの棄てどころ、
かはたれの雨のうれひにひた濡れて
六月のうすら明(あか)りに洩るゝわが息…………


霧  河井醉茗  東雲堂書店

2015年04月13日 16時28分57秒 | 詩集


【書誌】
本体 縦一八九×横一三〇ミリ〔判型は本体と同じ 四六判〕 白色。
本文 二三八頁 一段組。

紙装並製本、角背、折込表紙。表紙「霧」の題字、著者名「河井醉茗作」は縦書きで黒インク。長原止水による、三輪の菫の意匠が、赤インクで印刷されている。扉にも黒インクで同じ意匠と「霧」の題字。背表紙には「霧 河井醉茗作」の文字が黒インクで印刷され、裏表紙は無地。川路柳虹『路傍の花』(東雲堂書店、明治四三)巻末の広告では、「四六判ラフ印刷美本」とされている。厚紙を用いた上製本ではないため並製本の意味で「ラフ印刷」、赤インクによる意匠の印刷、折込表紙の装幀を「美本」とするのだろう。
【奥付】
印 刷 明治四十三年五月六日
発 行 明治四十三年五月十日
定 価 五拾五銭
著 者 河井醉茗
発行者 西村寅次郎
    東京市京橋區南傅馬町三丁目十番地
発行所 東雲堂書店
    東京市京橋區南傅馬町三丁目
    電話 本局一六三九番
    振替 東京五六一四番
印刷者 横田五十吉
    東京市神田区松下町八番地
印刷所 横田活版所印刷
【目次】
薔薇色の雨 聲せぬ家 雪炎 痙攣 圓い顔と細い顔 暗い濱邊 禮拝 ためらひ 泣き聲 無言の號令 月の痛み 鳥 行け 魚の血 飯の湯気 屋根傅ひ 眺望 石 消ゆる雲 細君 旗 草 轉宅 トンネル 泣く女 ある朝 鳥柱 暁 橋 雨 睡眠 旅情 お窓の姉さん 晩鐘 光の下にて 野 松風 翼の響 揺れる花 すれちがひ 涙 脈搏 窓のあかり 舞臺 都會の足音 闇夜 力のない日 無意味 きもの 花瓣 信濃町の月夜 山頭火 間 塀の外 夢の杜 表まで來た人 つぶて 戀の詩 空虚 暮れたばかり 肉聲 毛髪 鼓の音 若氣 臆病 うたヽね 場末 道ゆき 塵烟 寒い日 消えゆく日記 秋の湖畔 水が無い 海邊の娘 旅寐

【所蔵】
国立国会図書館         ○
日本近代文学館         ○
北海道文学館 高橋留治文庫   ○
京都ノートルダム女子大学図書館 ○

大学図書館所蔵〔昭和女子大学近代文庫、早稲田大学、同志社大学、鶴見大学〕
 *早稲田大学古典籍総合データベースで画像閲覧が可能
公共図書館所蔵〔神戸市立中央図書館、奈良県立図書館〕

【解題】
 『霧』は、河井醉茗の第三詩集である。河井醉茗(かわいすいめい 本名又平)〔明治七~昭和四〇〕は、明治三〇年代に、『文庫』派と呼ばれた青年詩人たちの活動を扶け、明治詩の母と評される詩人である(矢野峰人「明治詩の母」『塔影』一五五号〔河井醉茗追悼〕、昭和四一・一)。明治二八年より雑誌『文庫』(少年園のち内外出版協会、明治二八・八~四三・八)投稿詩欄の担当を務め、投稿詩人の作品を集めて詞華集『青海波』(内外出版協会、明治三八・六)を発行するなど、若い世代の詩人の活躍を促した。
 『文庫』派という呼称は、『文庫』投稿詩が七五調、浪漫主義詩風といった特徴を持つことから名付けられた。同時期に愛唱された島崎藤村や薄田泣菫らの影響を受けたのである。ただし、明確な主張を共有していたわけではない。むしろ河井醉茗は、一定の主義に縛られない青年詩人の自由な活動に『文庫』派の特徴があるという。蒲原有明の第三詩集『春鳥集』(本郷書院、明治三八)の影響を受け、澤村胡夷、有本芳水、森川葵村の『文庫』掲載詩の中に、象徴詩風の作品が生まれた例などをあげ、次世代の詩を生み出す場となったとする(河井醉茗『醉茗詩話』人文書院、昭和一二 以下同書を参照)。
 明治四〇年、河井醉茗は『文庫』記者を辞し、同人制による詩草社を結社し雑誌『詩人』(明治四〇・六~四一・五)を発刊する。青年詩人の熱気に促されて決断したのだという。『詩人』は、蒲原有明「日のおちぼ」や上田敏訳「花冠」「薄暮の曲」など象徴詩を解釈する記事や、同時期に議論された口語自由詩論、また口語詩の実作である川路柳虹「塵溜」を掲載するなど、新しい潮流の拠り所となった。だが資金難のため、翌年一〇号で廃刊となる。
 河井醉茗は『文庫』詩欄担当の時期に七五調の詩を創り、『無弦弓』(内外出版協会、明治三四)、『塔影』(金尾文淵堂、明治三八)と二冊の詩集を編んでいる。(*河井醉茗の名を冠した詩集『剣影』(金色社、明治三八)があるが、発行者が無断で改刪を加えたため、著述目録から抹殺したいと著者自身が述べている。これをふまえ、『霧』を第三詩集とした。)『霧』に収録された作品は、これらの詩と異なり、七五調の韻律を廃した口語体の詩である。『文庫』『詩人』で直に触れた青年詩人の活動に影響を受けて、口語詩、自然主義詩を試みたという。「漸く四十一年の末頃から、これは散文詩を作るような気持ちで口語をやつてみようと思ひ立ち、作り出してみるといくらでも出来る。四十二年の『文章世界』新年号に掲載された「雪炎」がその方向転換の第一歩で、同年には可なりの数に上つたので、翌年五月『霧』と題して一冊にまとめた。私の詩集の中で自然主義の影響を最も多く感受してゐるのは『霧』であらう。」
 川路柳虹『路傍の花』(東雲堂書店、明治四三)巻末広告では「散文詩集 霧」と題され、『読売新聞』明治四三年六月一九日掲載の服部嘉香「新形式の試み」の一部が推薦文として載せられている。「△河井醉茗氏の「霧」は散文詩集として詩壇の第一聲をなしたるものである。是は一種新形式の試みとして色んな方向から考えて見る必要があると思ふ。△氏の散文詩は他の模倣を許さない特色を持つてゐる。深い、強い色はないが、浅いみどりのやうな感じを持つたものだ。△私の殊に傑出してゐると思つたのは、「旗」に「翁台」(ママ)に「雪炎」に「信濃町の月夜」「表まで來た人」など叙景や哀感がそれ〲巧みに出てゐる。△事実事件、事物のある一點の興味と矛盾とを発見することに於て、醉茗氏の散文詩には特色がある。△醉茗氏の散文詩には確かに未來がある。「霧」はたゞ一歩にすぎない。私は其の未来に多くの期待を持つてゐる。」
 同時期に刊行された松山白洋『新體詩入門』(新潮社、明治四〇)によれば散文詩は、七五調など律格を欠く詩で、詩的な散文を含むものという定義になる。ただし、ここで言う散文詩は、明治四二年頃より、河井醉茗を含め、蒲原有明、福永挽歌らが発表した、新詩風としての自由詩(「文芸界」『早稲田文学』明治四一・一〇)を指す語である(佐藤伸宏『日本近代象徴詩の研究』翰林書房、平成一七)。自由詩としての散文詩は、詩の律格の意義を問い、より内面を直接に伝える表現を提唱する、片上天弦「詩歌の根本疑」(『早稲田文学』明治四〇・六)、島村抱月「現代の詩」(『詩人』明治四〇・一一)、相馬御風「詩界の根本的革新」(『早稲田文学』明治四一・三)など、口語詩運動の延長に登場した。明治四一年より、『読売新聞』『文章世界』などの誌上で、散文詩の是非が議論されている。収録作に散文詩の名を掲げた同時期の詩集に、細越夏村『褐色の花』(悠々書楼、明治四三)、福永挽歌『散文詩集習作二十七篇 幸福を求むるものの詩』(岡村盛花堂、明治四五)がある。
 『霧』巻末には、仲田勝之助訳『ツルゲネフ散文詩』広告が掲載されている。島村抱月序、馬場胡蝶序、名取春川装幀、四六判二百頁、定価三十五銭、送費四銭。広告文に「ツルゲネフ散文詩は彼が思想の精華にして、彼が心的縮圖也。その文體の精練、観察の深奥鋭利なる他にその比を見ず、まことに世界文壇の花なり。本書には彼が長逝數ヶ月前に書ける有名なる「門口」一篇を加ふ。また小引として譯者の解説を附し、以て彼が文體を學ばんとするものヽ便に供す。譯は忠実精緻、坊間に行はるヽこの書のごときものと少しくその撰を異にせり。」すでに散文詩として「自然」「クリスト」を収録した、吉江孤雁(喬松)『ツルゲーネフ短篇集』(内外出版協会、明治四一)があるが、収録作を五一篇と大幅に増やし、散文詩を題に冠した。
 また河井醉茗の言う「自然主義」は、耽美的傾向において象徴主義と対立するものであり、かつ、実感の表象という点では近接するものでもあった。口語化という点では、象徴主義より始めた北原白秋は、後に童謡や民謡への転向で自然主義に近づいたとする。また、田山花袋が、象徴主義をふまえ光線や音響などの感覚を表現すると共に、自然主義を説いて生活上の実感を描くべきだと話した挿話を紹介している。『霧』に収録された詩の中には「雪炎」など、単なる生活実感に止まらない、幻想や美的表象を表したものがある(木股知史編『近代日本の象徴主義』おうふう、平成一六)。
 『霧』表紙の意匠を制作した長原止水(ながはらしすい 本名孝太郎)〔元治元~昭和五〕は、洋画を制作すると共に、ペン画、漫画を『二六新法』などに発表し、幅広く活躍した画家画家である。坪内逍遙『当世書生気質』(東京堂、明治一八~一九)挿絵を一部担当、『明星』(第一次、明治三三・四~四一・一一)掲載の図版を担当するなど、文壇と交流が深かった。また、河井醉茗『塔影』表紙図版を描いている。
 扉の次にセロファン紙を挟み、クロークで体を包み込んだ女性が森の中に腰掛ける、黒単色石版刷の口絵が挿入されている。作者の岡田三郎助(おかだ さぶろうすけ)〔明治二~昭和一四〕は、「婦人像(某婦人の肖像)」(明治四〇)など婦人画を主要モチーフとした洋画家である。
 次に「雪炎」の本文を示す。
   雪炎
土手(どて)の片蔭(かたかげ)に雪(ゆき)が残(のこ)つてゐる、雪(ゆき)の上(うへ)を月(つき)が照(て)らしてゐる。
月(つき)にも色(いろ)はない、雪(ゆき)にも色(いろ)はない。
月(つき)の光(ひかり)と、雪(ゆき)の息(いき)とが縺(もつ)れ合(あ)つて、冷(つめ)たい陽炎(かげらふ)が立(た)つ。
ちら〱と眩(まぶ)しい、白(しろ)いやうな、青(あを)いやうな、紅(あか)いやうな、
繊(ほそ)い炎(ほのほ)が燃(も)ゆる。
北國(ほくこく)に行(ゆ)くと、雪(ゆき)の炎(ほのほ)の間(あひだ)から白(しろ)い女(おんな)の顔(かほ)が見(み)えるさうだ。

かなたの空  川路柳虹著  東雲堂書店

2015年01月16日 16時38分59秒 | 詩集


【書誌】
本体 縦181×横130ミリ(四六判) 黒色。
本文 196頁 一段組。
本体表紙には、角笛の意匠が配されている。背表紙には、「かなたの空」の題名のみ。茶色の紙カバーが掛けられ、表紙側には「詩集 かなたの空 川路柳虹著」と記された題簽が右肩に、左下には「東京 東雲堂発兌」と印刷されている。背表紙側には「詩集 かなたの空 川路柳虹」と印刷。裏表紙には中央に、五羽の鳥と左肩に「T YOKIO」と文字が記された意匠が印刷されている。装幀は著者。本文上部には、広川松五郎による、虫と植物の意匠が配されている。中扉には、題字「かなたの空」とともに、「EXLIBRIS」(蔵書票)と記された、ローマ剣闘士の図版が配されている。
【奥付】
印 刷 大正三年四月二五日
発 行 大正三年五月 一日
定 価 八〇銭
著 者 川路誠
発行者 西村寅次郎
    東京市日本橋区檜物町九番地
発行所 東雲堂書店
    東京市日本橋区檜物町九番地
    電話 本局一八七一番
    振替 東京五六一四番
【目次】
蘆の笛
 秋 十月の雨 たそがれ 期待 暮春の幻想曲 蟾蜍 夜楽 夏 二つの恋
低唱(小曲二十二章)
 海の子笛六章(磯にいづれば 月の渚を ちらゝほらゝと 風がひそり 磯の岩つこに ふるさとの) 異国 梟 秋の雨 都の秋(1都の秋 2かげの心) 影 木犀 白粉草 ぽぷら まどりがる五曲(足もとの ちゆりつぷの わたしの好きな おもひでは すぎたその日を われのおもひは) 林檎 宴
伸びゆく芽
 芽 素画 風景 静物 ぷれりうど 焔 影のMODELE 李の花のちる頃 心 海景 夜曲 海辺消息 鏡 あけがたの雨 パステル にほひ
内心
 秋のおもひ 雪はふりつむ 記憶 田舎 歩める人 あけぼの 長寿花 月と風との対話 山上の星 光りの歌 闇 めふゐすとおの歌 花束 古い物語 贐 凝視 哀訴
かなたの空
 暁をみるために 幸福 手を伸ばせ まどはし 現実 正しきエピキユリアン みな人は愛するものを見失ふ 鴉 相 箴言 言葉 飛躍

【所蔵】
国立国会図書館         ○
本近代文学館         〇
京都ノートルダム女子大学図書館 ○

大学図書館所蔵〔昭和女子大学、駒澤大学、東京大学総合図書館〕

【解題】
 川路柳虹の第二詩集、「未来叢書第一篇」である。遊び紙の次に「わが『未来』の共におくる」と献辞が付されている。雑誌『未来』は、本書と同じ東雲堂より発行された、詩雑誌である。三木露風、川路柳虹、柳澤健、山宮允、新城和一、西条八十、服部嘉香、灰野庄平、増野山良、山田耕筰らが同人となり、詩、評論、楽曲が掲載された。本書では川路柳虹の詩「海の小唄」に曲をつけた楽譜が折り込みに印刷されている。『未来』創刊号「巻頭言」で「在来の自然主義が我等を却て或狭き限定内に置き、我等の精神が自由且自然に向はんとする方向を遮りたるに反し、此桎梏中より吾人の精神を取返し吾人の生活をして更に増大せしめんとする」と述べている。
 本書「詩集のはじめに」で、この詩集に収められた作品は「さまざまな色合がある」とする。「自分は定つてくれては困ると思ふ故にこの不統一は却つて当然のことゝ許してゐる。」「あらゆる不統一も最後に至らば『自ら』と云ふ点に大きい統一は見出し得べきものとおもふ。」と述べる。一方で著者は、後の『川路柳虹詩集』(新潮社、大正一〇年五月)序で、「「かなたの空」時代の象徴主義」と総括している。本書に収められた詩「海景」には「北原白秋に」の献辞、夜曲には「三木露風氏に」の献辞が付され、自然と内面の交感を詠った象徴詩風の内容となっている。ただし、「海の小唄六章」の小唄形式、「月と風の対話」の対話形式や、「生命」を讃美した「生物」「焔」「あけぼの」、「未知」と「未来」への飛躍を詠う「飛躍」は、形式面で多用であり、モチーフもデカダンスに収まらない多様性を示している。次に「海景」(ルビ省略)をあげる。

   海景

燕は低く、燃える渚にゆきかへり、
波はおなじ歌の節奏を繰りかへす、
一きわ海に出た茶褐色の岩礁に、
蛇のやうに下つた松の針の葉の閃き。

海は遠くねぶたげにめぐつてゐる。
もの倦い心の遣り場に、手を挙げてのび欠伸
 する懶惰者のごとく、
やがて瞼に銀の光のほと走り、
つよい白帆が過ぎてゆく。

そして、いつかも同じ節奏の波が岸に、
青い天鵞絨の空をめがけて陽炎と燃える、
心のうちに織り出される「思想」のやうに、
はてもない倦怠の中を往きつかへりつ………

路傍の花  川路柳虹著  東雲堂書店

2015年01月12日 23時19分03秒 | 詩集





【書誌】
本体 縦一八一×横一一一ミリ〔判型は本体と同じ 四六判〕 白色。
本文 二三八頁 一段組。
並製本。表紙上部に題字「詩集 路傍の花」、著者名「川路柳虹著」、下部に発行所名「東京 東雲堂発兌」が横書黒インク。右下に、著者自身による芥子の花の意匠が黒インクで印刷。裏表紙中央に、上下逆の小さな「★」印。背表紙上部には、「詩集」が横書、その下に「路傍の花」が縦書、その下に「柳虹著」が横書、下部に「東京 東雲堂 発兌」が横書黒インクで印刷される。目次に「装幀 著者」と記される。巻末広告では、「四六判仏蘭西式仮装綴」とされる。フランス装は、本体より大きい紙の天地左右を折り込んだ表紙で、化粧断ちした糸綴じの本体をくるむ様式。本体をくるんだのちに表紙裏側の折り返しに見返しを挿入するものを本装、見返しを挿入せずに折り返しに糊付けしたもの仮装と区別する場合もある。本来は仮綴じで、購入者が改めて装幀することを前提とするため糊付けしない。『路傍の花』本体は、表紙の折り返しはなく、やや厚めの紙を表紙としたペーパーバック様式である。なお本書には、正誤表が付されている。

【奥付】
印 刷 明治四十三年九月十五日
発 行 明治四十三年九月二十日
定 価 五十銭
著 者 川路誠
発行者 西村寅次郎
    東京市京橋區南傅馬町三丁目十番地
発行所 東雲堂書店
    東京市京橋區南傅馬町三丁目
    電話 本局一六三九番
    振替 東京五六一四番
【目次】
路傍の花
月光と薔薇
 吐息 彷徨 月光と薔薇 心の花園 顫音 ODELETTE 涙LIED 九月
心の薄暮
 私はその聲をきいてゐる 空は吾らの上に晴れてゐる 賞讃 街の雨 薄暮の瞳 屋根の上に 秋 夕 醉人の夜の歌 病兒の夢 夕顔によせて 小徑 赤い月 暮春の光 月しろ あらしの夜 心のはて 丘の上の花 礒の砂松の上 愛 薄暮 鼠 印象 わかれのとき 青い花の瞳 凋落
暴風のあとの海岸 其の他
 暴風のあとの海岸 月夜 音 寂定 壁のうちに 小景 室内はもう薄闇い 感覺の瞬時 蒼蠅の歌 人はたゞ歩いてゆく 落葉星の光り 曇天
曇日 其の他
 曇日 塵塚 バタの鑵 雨 救 港
白日の悲み
 空の果てには吾もみる 畏怖 白日の悲み 壁の土 女の胸 船室
愛と夢と
 愛の夢 愛の少女 橘の花のかげ ちひさやかなる胸のうち 愛の砦
南國
 さすらひ おもかげの花 梟に あかんさす(ヽヽヽヽヽ) 禮參の歌 死を好む人魚のうたへる歌 燕

【所蔵】
国立国会図書館         ○
日本近代文学館         〇
北海道文学館 高橋留治文庫   ○
京都ノートルダム女子大学図書館 ○

大学図書館所蔵〔昭和女子大学近代文庫、早稲田大学〕
 *早稲田大学古典籍総合データベースで画像閲覧が可能

【解題】
 川路柳虹の第一詩集である。川路柳虹(かわじりゅうこう 本名誠)〔明治二一~昭和三四〕は、明治四〇年発表の「塵溜」により口語自由詩の先駆者として詩壇に登場したと、文学史上に位置づけられる。その試作は自然主義の影響下になされたものとされるが、詩作を始めたのは『文庫』(明治二八・八~明治四三・八)詩欄への投稿作からである。後には、自然主義の桎梏から解放されることを目指した三木露風主宰の雑誌『未来』(東雲堂書店発行、大正三・二~六)に参加し、象徴派風の詩を発表している。さらに大正末年には、一行一七音で構成する「新律格」を提唱して、無律の自由詩とは相容れない主張を展開した。また、本然主義を唱えて理想主義的な作品を発表するなど、作風は多彩である。
 『路傍の花』は著者自身の意匠を用いるが、川路柳虹は、京都の美術工芸学校を経て、東京美術学校を卒業した。後に『アルス美術叢書二三 コロー』(アルス、昭和二)を出版するなど美術評論の分野で活躍している。自身の詩集以外に、岡島敬治訳『レッシングの詩』(東京河野二郎、明治四三)、内海泡沫『淡影』(以文館、明治四三)などの装幀を手がけている。
 題名の「路傍の花」については序詩が、序の後、二つ目の中扉の裏に付されている。「傷みもなくて病んだ花よ、/夏の白昼の径に、/光を怖れ、昼を悶んでゐる。/傷みもなくて病んだ路の花よ。」また中扉には、「EXLIBRIS」と上半分に記された、裸体の女性が芥子畑で顔を両手で覆いうつむいている、著者制作の図版が配されている。「EXLIBRIS」は蔵書票の意味。表紙の芥子の花の意匠と合わせてみると、麻薬、退廃、デカダンスなど、病み悩むイメージを表現することがわかる。また、遊び紙の裏に「三木露風氏に贈る」の献辞がある。
 序では、近年の詩壇の動向として、口語詩、自由詩について触れ、自作がその試みであり、新しい詩歌の運動につながる詩作だと位置づける。フランスの「詩は自由である」(Vers libres)運動を紹介すると共に、リズム論を展開し、内部の心のリズムが詩に移されれば、見かけは散文であっても詩になるとする。さらに、服部嘉香の「印象律」概念を発展させ、内部に動く律動、「生命」を表現することを目指すべきだという。口語自由詩の先駆者とされる著者だが、この頃から、口語詩もまたリズムが必要であり、リズムは内面の直接的表現であると主張していることに注目したい。
 また著者は後の『川路柳虹詩集』(新潮社、大正一〇)序で、『路傍の花』を「印象主義、デカダン気分」と位置づけている。ここで言う「印象主義」は、桜井天檀「独逸の抒情詩に於ける印象的自然主義」(『早稲田文学』明治四一・六)で紹介された、ドイツ印象主義である。「印象的自然主義」と称するのは、印象主義が「情趣を再現するに、情趣を起さしめる当面の現実を露骨に描写する」特徴を取り上げ、対象をありのままに描写するところに、自然主義との共通点を見出そうとしたからだ。印象的自然主義詩人として紹介されるのは、アルノオ・ホルツ、ホフマンスタアル、リヒャルト・デエメルである。
 後に川路柳虹は「口語詩と現代詩―所謂口語詩運動と現代詩の関連」(『現代詩の史的展望』河出書房、昭和二九)で、桜井天檀「独逸の抒情詩に於ける印象的自然主義」中に、アルノオ・ホルツの詩作として紹介された、二、三語の短い言葉の組み合わせからなる行を羅列した詩体「電信体(抒情的電信)」に影響を受け、『路傍の花』に収められた「暴雨のあとの海岸」のような詩を作ったと回顧する。「詩の上では自然主義と印象主義とは兄弟関係をもつて進められた」というのが川路柳虹の認識で、「後に自由詩社が生れ、人見東明、加藤介春、三富朽葉らのパンフレットが「自然と印象」と題されたのも這般の消息を語るもの」だと位置づけている。人見東明と加藤介春は、相馬御風と共に明治四〇年三月に早稲田詩社を結成した詩人である。早稲田詩社における、自然主義と印象主義の接合が、その後に結成された自由詩社に受け継がれ、機関誌の名前にも反映したというのだ。「自然と印象」には、「電信体」に似た詩が掲載された。
  「暴雨のあとの海岸」を次に紹介する(ルビは括弧内に表記)。

   暴風のあとの海岸

白(しろ)――

明(あか)るい海(うみ)のにほひ、
濁(にご)つた雲(くも)の静(しづ)かさ、

白(しろ)―灰(はい)―重苦(おもくる)しい痙攣(けいれん)………
腹立(はらだ)たしいうやうな、
掻(か)き毮(むし)つたやうな空(そら)。

藻(も)――流木(りうぼく)――
磯草(いそくさ)のにほひ。

白(しろ)――
岸(きし)と波(なみ)とのしづかさ。

――忘却(ばうきやく)――夢(ゆめ)――
苦悶(くもん)の影(かげ)――
白(しろ)――

波(なみ)の遠(とほ)くに遠(とほ)くにひゞく
 夢(ゆめ)の如(や)うな音(おと)――狂(くる)ひ――嘆(なげ)き―

白(しろ)――
――濁(にご)り――風(かぜ)――

風(かぜ)――
しづかな音(おと)
風(かぜ)――
白(しろ)――