人間は単独ではなく群れで生きてきた動物だから 群れの中の大勢に従う ことを本能的に第一優先に選んで生きている人が圧倒的に多いと思います。
勿論、私のように、そのことを第一優先に選ばず、自分の意思決定を第一優先として生きている人も少数派ではあって、間違いなく存在しています。
人間がまだ原始生活していた頃に、あったであろう話を例に出して紹介します。
群れ(集団)で暮らす人間たちにとって、群れの一員であることを、他のの仲間に認めてもらうことが、群れの中で快適に過ごせる大切なことだったと思われます。
集団の中での大多数の人が示している感情には、個人の思いとは関係なしに、(例え表面的であったも)同じような感情を示すことが重要です。
その流れは、現代社会にも繋がっています。
冷静に考えれば、ちっとも面白くないことでも、組織の中で、大多数が面白がっていると、それに乗り遅れまい と、自然に愛想笑いをしてしまうことなど。
もっと酷いケースだと 「イジメ」 でしょう。
大多数が、特定の誰かをイジメていると、積極的に参加しないとしても、イジメられている人が大勢に笑いものにされている時、周りの多くの人は、一緒になって、その人に対して笑っていたりしています。
私は、そうは思いませんが、イジメは絶対になくならない! なぜならば、他人をイジメるのは、人間の本性だから‥‥という説を主張している人たちの理屈も、これに似ていることが多いです。
人間にとって、生きるか死ぬかの過酷な選択が求められていた原始時代に話を戻します。
(今も)変わらないでしょうが、人間にとって最も大切なことは、命を失うことなく生き延びることです。
居心地の良い暮らしをしていても、急に危険に晒されて、命を失うようでは、ダメなことは、理屈では、誰もがわかります。
しかし‥‥
原始時代のある場面で、人間の群れが進む方向
分かれ道に出くわして、右に行くべきか、左へ行くべきか‥‥
群れの大多数の意見というか、意見というレベルにもない、ある種の雰囲気というか‥‥
所属する群れ(集団)は、もう、左へ進むということが、何となく決定的になっている雰囲気の中で
もしも、自分は、左に行ったらば、危険な予感がする。左に行けば、獣が待ち構えて、殺されてしまう。だから、私は右へ進んだ方が良い‥‥と感じた時。
果たして、声を出して、群れの仲間を説得しようと出来るでしょうか?
実は、声すらあげられずに、何か嫌な気がするけれど‥‥と言って、従ってしまう人が大多数ではないでしょうか?
もっと言えば、声を出して、説得した、それでも、受け容れられずに、逆に疎外され、それならば‥‥と、例え、自分独りでも、群れから別れて右へ進む勇気のある人は、更に少数派だと思います。
仮に、この不安が的中して、左へ進んだ先には、恐ろしい獣が待ち構えていた時‥‥、唯一、生き残れるのは、群れから離れて単独でも右へ進んだ人間だけです。
勿論、たった一人で生き残れたとしても、その先の人生は過酷なもので、その後も長く生き続けられる保証はありませんが、それでも、獣に襲われて、即、殺されてしまった人たちよりは、(可能性という意味で)間違いなく正しい選択をしたことに違いありません。
この話は、原始時代だけでなく、現代にも通じる話だと私は思います。
企業の衰退や倒産、様々な事件や事故に巻き込まれる危険など、例え、合理的な根拠が示せなかったとしても、人間が本能的に感じる、何か嫌な予感がした場合に、どちらへ進むのかを、自分で決断したいか、群れの大多数の意思に従うことを選択するのか‥‥
人それぞれの、人生観が如実に表れる瞬間かもしれません。
勿論、私は、何があっても、自分で決断した道を進みたい人間です。