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ドラマ「手紙」(東野圭吾)を観て感じた世の中の差別について

2019年01月02日 | 人について思うこと


昨年12月に放送されたドラマ「手紙」に、自分の境遇と多少、重なる部分があり衝撃を受けました。

ストーリーは東野圭吾さんの原作と細かい部分は異なっているようですが‥‥

亀梨和也さんが演じる武島直貴は両親が既に他界していて勉強は出来たが大学へ行くお金がなく
佐藤隆太さん演じる兄の剛志は、弟の入学資金を得ようと窃盗に入った家で見つかって老婆を殺してしまい
懲役20年の刑で服役している。

実の兄が殺人犯だということで、様々な差別を受けていることなど全く知らずに毎月、獄中の兄から手紙が送られてきて
弟は、自分がいかに世間から酷い目に遭っているかを伝えずに何年も兄に手紙を返していた。

「君が悪い訳ではないが‥‥」と言われるものの、様々な差別を受ける弟。

結婚目前まで辿り着いた女性の親から
「どんなことでもするから、どうか娘と別れてくれ‥‥」と言われ、幸せを掴むことも出来ない。

兄は海外へ行っている‥‥と嘘をついて入社することが出来たい家電大手の企業で販売員として活躍しだした矢先
実は兄が殺人犯だということが会社に知れ、倉庫番という閑職に異動させられた弟。

以前より、そんな彼を見守っていた本田翼さんが演じる女性が送った弟の会社の社長へ送った一通の手紙。

その手紙を読んだ小日向文世さん演じる社長が、わざわざ倉庫まで来て、弟に話かける内容が、また衝撃的。

君は、この異動(左遷)人事に対して、何て酷いことを‥‥と感じていることだろう。
この異動だけでなく、これまで世の中から受けてきた、様々な差別に対して
自分は何も悪くないのに、何で酷いことを‥‥と思って、ずっと生きてきたと思う。

君が思う通り、君は全く悪くない。悪いのは君の兄さんであって、君とは全く違う人間なのだから‥‥

しかし、殺人犯の弟だから‥‥という理由で、君を差別してきた周りの人たちは、悪なのだろうか?

善とか悪とか、そういうものではなく、悲しいことに、それが人間の本質なのだ。

‥‥と言って、社長は手に持っていた、煎餅が入っていた紙袋を指して、説明を続けた。

この袋に入っている煎餅の中に、1枚だけ毒が入った煎餅があるとしよう。

‥‥と言って、1枚の煎餅を取り出し、これが、その毒の入った煎餅だとして、これを取り除いた。

紙袋に残った煎餅は、毒のない安全なものなので、食べても何も心配がないのだけれど
これをわざわざ、食べようとする人間はいない。

毒が入っていないのは理屈でわかっていても、毒と一緒にいた煎餅を食べようとする人間は、まずいないんだよ。

悲しいし、理不尽なことかもしれないけれど、それが現実なんだよ。

ただし、世の中、全てが闇な訳ではない‥‥
こうして、真剣に君の境遇を心から心配して、僕に手紙まで書いて送ってくれる人だっているんだから
とても、細い糸かもしれないけれど、そのような君を思い細い糸を少しずつ、太くしていくことが、とても大変なことだけれど可能だということ
それも、事実なんだ。

そう社長に言われ、数年が過ぎ、主人公の武島直貴は本田翼さん演じる女性と結婚して、娘も授かって生活をしていた‥‥。

しかし、社員社宅で再会した入社直後で一緒だった人物に逆恨みされたことから悪い噂を広められ、
自分の娘までもが、友達から関わらないよう差別を受けるようになり八方塞がりとなる。

何も解決しないまま、獄中の兄に対して
いかに、自分が殺人犯の弟だというだけで、差別をされてきたかという真実を手紙に書き、もう二度と、関わらないという決別をして
このドラマは終わります。

私には、とても衝撃的なドラマでした。

肉親に殺人犯を持つ‥‥と言った経験のない私には、本当に意味での、このような過酷な状況を理解できないかもしれません。

しかし、自分は何もしていないのに肉親が‥‥という経験は、多少なりともしています。

2011年に他界した父は、16年前に1995年に脳梗塞を患い、その後、次第に病状が悪化して
最後の9年あまりは、身体障害1級、要介護5という、いずれも最大級で
食事も胃に医療流動食を流し込む胃瘻、言葉も喋れない、身動きが出来ないからジェスチャでの意思表明も出来ない、
排尿・排便も全く出来ず、最長でも4時間毎に痰の吸引をしなければ窒息死してしまい、そのことがネックで全ての施設から受け入れを断られ‥‥
そんな病状でした。

こんな中で、少し仲良くなった女性に、父のことを正直に話すと‥‥

残念ながら、距離を置き始めて、離れていってしまう女性もいました。

しかし、実は、父の件で、離れていく人は、どちらかと言えば、少数派でした。

決定的に女性が離れていくのは、もう一つの別のこと。

父が脳梗塞を発症した翌年に結婚したことを期に、屁理屈を並べて、
父の介護はおろか、見舞いも、電話1本すらせず、父が集中治療室に入ったことを知らしても無視し、
葬儀はおろか、納骨、一周忌、三回忌、七回忌など、全てを拒否して、未だに父の墓の場所すら知らない兄の存在。

このことを、仲良くなった異性に、嘘はつけないので、正直に話しをすると
悲しいことに、確実に、距離を開けられてしまいます。

親密さが増していけば、親戚付き合い‥‥という流れに向かいますが
女性本人よりも、女性の親御様が、難色を示します。

加えて、職業をたずねられますから、某有名私立小学校の教師をしている‥‥と言って、生徒さんたちに先生と尊敬されている職業だと説明しても
(きっと生徒さんたちに嘘を言って)親不孝をしているような人間は信用できない‥‥。

相続とかで、そんな訳のわからない兄が出てくるかも知れないような‥‥(我が家には財産なんてないのに‥‥本当は‥‥)

更に、そんな風に実の兄がなってしまったのには、私たちにも何か問題があるのでは???
‥‥とさえ、疑われてしまう雰囲気となり、結局は‥‥となってしまいます。

ドラマ「手紙」のように、自分の存在が何らかの形で弟に影響を与えていることなど、私の兄は、未だに何も知りません。

勿論、それだけではなく、それを補うだけの魅力が私にあれば、違った展開になったかもしれませんので、一概には言えませんが‥‥

父が他界してしまった後も、兄の件があるので、同じようなパターンが続いていましたが‥‥

年齢が離れすぎているので、結婚とか、そういうことには、きっとならないとは思いますが

この数年で、仲良くなった女性ですが、兄のことを正直に、全て、話をしましたが、
理解してくれて、そのことで、私との距離を置くようなことは全くしませんし、
実のお母様にも、私の兄のことも相談して(それなりに)大丈夫だった‥‥と言ってくれた人がいました。

今後のことは‥‥
正直、私自身が、至らないことが多い人間なので、自己責任で‥‥という残念な方向に進むかもしれないし
何とも言えませんが、この年齢になり、兄の件を正直に話しても、距離を開けることをしない女性に出会えたことは
私の人生の中で、大きな励みになったことだけは間違いありません!


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本質的に群れで生きる人間のメリットとデメリットの特徴について

2018年11月24日 | 人について思うこと

人間は単独ではなく群れで生きてきた動物だから 群れの中の大勢に従う ことを本能的に第一優先に選んで生きている人が圧倒的に多いと思います。

勿論、私のように、そのことを第一優先に選ばず、自分の意思決定を第一優先として生きている人も少数派ではあって、間違いなく存在しています。

人間がまだ原始生活していた頃に、あったであろう話を例に出して紹介します。

群れ(集団)で暮らす人間たちにとって、群れの一員であることを、他のの仲間に認めてもらうことが、群れの中で快適に過ごせる大切なことだったと思われます。

集団の中での大多数の人が示している感情には、個人の思いとは関係なしに、(例え表面的であったも)同じような感情を示すことが重要です。

その流れは、現代社会にも繋がっています。

冷静に考えれば、ちっとも面白くないことでも、組織の中で、大多数が面白がっていると、それに乗り遅れまい と、自然に愛想笑いをしてしまうことなど。

もっと酷いケースだと 「イジメ」 でしょう。
大多数が、特定の誰かをイジメていると、積極的に参加しないとしても、イジメられている人が大勢に笑いものにされている時、周りの多くの人は、一緒になって、その人に対して笑っていたりしています。

私は、そうは思いませんが、イジメは絶対になくならない! なぜならば、他人をイジメるのは、人間の本性だから‥‥という説を主張している人たちの理屈も、これに似ていることが多いです。

人間にとって、生きるか死ぬかの過酷な選択が求められていた原始時代に話を戻します。

(今も)変わらないでしょうが、人間にとって最も大切なことは、命を失うことなく生き延びることです。

居心地の良い暮らしをしていても、急に危険に晒されて、命を失うようでは、ダメなことは、理屈では、誰もがわかります。

しかし‥‥

原始時代のある場面で、人間の群れが進む方向



分かれ道に出くわして、右に行くべきか、左へ行くべきか‥‥

群れの大多数の意見というか、意見というレベルにもない、ある種の雰囲気というか‥‥

所属する群れ(集団)は、もう、左へ進むということが、何となく決定的になっている雰囲気の中で

もしも、自分は、左に行ったらば、危険な予感がする。左に行けば、獣が待ち構えて、殺されてしまう。だから、私は右へ進んだ方が良い‥‥と感じた時。



果たして、声を出して、群れの仲間を説得しようと出来るでしょうか?

実は、声すらあげられずに、何か嫌な気がするけれど‥‥と言って、従ってしまう人が大多数ではないでしょうか?

もっと言えば、声を出して、説得した、それでも、受け容れられずに、逆に疎外され、それならば‥‥と、例え、自分独りでも、群れから別れて右へ進む勇気のある人は、更に少数派だと思います。

仮に、この不安が的中して、左へ進んだ先には、恐ろしい獣が待ち構えていた時‥‥、唯一、生き残れるのは、群れから離れて単独でも右へ進んだ人間だけです。

勿論、たった一人で生き残れたとしても、その先の人生は過酷なもので、その後も長く生き続けられる保証はありませんが、それでも、獣に襲われて、即、殺されてしまった人たちよりは、(可能性という意味で)間違いなく正しい選択をしたことに違いありません。

この話は、原始時代だけでなく、現代にも通じる話だと私は思います。

企業の衰退や倒産、様々な事件や事故に巻き込まれる危険など、例え、合理的な根拠が示せなかったとしても、人間が本能的に感じる、何か嫌な予感がした場合に、どちらへ進むのかを、自分で決断したいか、群れの大多数の意思に従うことを選択するのか‥‥

人それぞれの、人生観が如実に表れる瞬間かもしれません。

勿論、私は、何があっても、自分で決断した道を進みたい人間です。