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EU離脱の国民投票結果によって通称イギリスが正式名イギリスに戻る日

2016年06月26日 | 歴史あれこれ

グレートブリテン・北アイルランド連合王国(通称イギリス)で僅差の国民投票結果でEU離脱派が勝利しましたが、スコットランドだけを見れば、約62%の人が残留を希望しています。

結果が僅差だったため、投票傾向に対する様々な分析が既にされているようで、高齢者層には離脱派が多い、保守党・労働党の支持層に関係なく高学歴者層には残留派が多いなどの情報が伝わってくる中、地域別の傾向として赤い色が離脱派、青い色が残留派で、スコットランドと北アイルランド、ロンドン周辺には残留派が多かったことが解ります。

日本ではイギリスと一般的に呼ばれていますが、正式には グレートブリテン・北アイルランド連合王国 という名前の国です。


通称 イギリス ですが、アングロサクソン系のイングランドは地図のブルーの部分で、ピンクの部分はケルト系住民のウエールズ、オレンジ色がスコットランド、緑色が北アイルランドで、この4つの地区の全ての総称がグレートブリテン・北アイルランド連合王国です。


ご存知の国旗 ユニオンジャック を紐解けば、国の成立が解ります。


イングランドの国旗です。


こちらはスコットランドの国旗です。


両国が合併(同君連合)した時の国旗で、スコットランドの国旗にイングランドの国旗を重ねたものですが、現在のユニオンジャックとは少し異なります。


征服されたアイルランド(当時)の国旗を重ねて、現在のユニオンジャックが完成しました。


ユニオンジャック完成までの変遷です。

アイルランドは第一次世界大戦後に独立戦争を起こし、その結果、1921年に独立してますが、アイルランド島の北東の一部は 通称イギリス に残留しています。


参考までに1921年に独立したアイルランドの国旗です。


尚、こちらがウエールズの国旗ですが、13世紀末に既にイングランドに征服されてしまったため、ユニオンジャックには反映されていません。

2014年の住民投票で独立賛成派が多数を占めたため残留が決まりましたが、もしも、スコットランドの分離独立が決定していたならば、スコットランドの国旗の部分が抜け、ウエールズの国旗の背景(上が白で下が緑)が採択される予定だったそうです。



今回のEUからの離脱に関する国民投票では、約62%の住民がEU残留 を希望したと言われるスコットランドですが、面積は 通称イギリス の 1/3 ですが、人口はわずか 8.4% に過ぎません。

スコットランドの首都のエディンバラは、人口こそ50万人にも満たない都市ですが、通称イギリスの中ではロンドンに次ぐ金融街で、そのような関係からもEU残留を希望する人が多く、EUに残留するために、再び 通称イギリスからの独立 を希望する機運が高まってきたという情報が伝わってきました。

グレートブリテン・北アイルランド連合王国より、スコットランドのみが独立する、それ以外の国も独立して、最大、4つの国に分裂するという可能性もゼロではありません。

現在の通称イギリスが、正式名イギリスと、スコットランド、ウエールズ、北アイルランドという国名になることも、有り得る話です。




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帝国の滅亡と共に永遠の謎として歴史から消えてしまった秘密兵器 ~ ギリシア火 ~

2016年06月16日 | 歴史あれこれ

製造法は極秘で同盟国との共同作戦の時には決して使用もせずに他国には威力すら見せないという徹底ぶりで500年以上も隠し通した秘密兵器が ギリシア火 と呼ばれるものでした。

西暦395年に東西に分裂した後、繰り返し蛮族だったゲルマン人の侵入を受けて様々な高度な文化も貨幣経済体制も崩壊して100年も経たずに476年に滅んだ西ローマ帝国(首都ローマ)に対し、それから1000年近くも国が続いた東ローマ帝国(首都コンスタンチノープル)の秘密兵器です。


地図上の赤く塗られた部分が西ローマ帝国滅亡時の東ローマ帝国の領土です。

ゲルマン民族の侵入を防ぎきり、更に6世紀中頃の皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリア半島からゲルマン民族を駆逐して帝国の領土が最大になりました。


ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国の領土です。

しかし、東ローマ帝国は、その後、7世紀に成立したイスラム教徒の侵攻を受け続けることになり、早くもイスラム教の国家のウマイヤ朝からの攻撃を受け、首都のコンスタンチノープルはイスラム海軍の1000隻の船に包囲され、その戦いは5年にも及び(674年~678年)ますが、この時にイスラム海軍の軍艦を撃退した兵器が ギリシア火 だったと言われます。


私の学生時代より世の中に広まっていた、とても リアル感に欠ける 絵ですが、海上で敵の軍艦を燃やし尽くしたと言われる対艦攻撃用のギリシア火の絵を見つけることが出来ませんでした。

前述の通り、同盟国との共同作戦の際には機密漏洩を恐れて使用を厳禁したほどの東ローマ帝国にとっての最重要軍事機密だったため、ギリシア火の主成分についても、硝酸カリウム説、石油説など、諸説が存在しますが、真相は闇の中ですが、水上に浮かぶ敵の船に向けてギリシア火を放射すると、水と反応して、燃焼力が更に増した と言われています。


海上の戦い以外でも、小型で兵士が携帯して使用する 火炎放射器 タイプのものもあったようです。

718年の第二次コンスタンチノープル包囲戦でもギリシア火が使用された以降も、反乱を起こした艦隊との戦い、ブルガリアとの戦争などにも散発的に使用されたようですが、次第にギリシア火が使用された形跡は減り、11世紀以降は、使用された形跡が残っていないそうです。

使用はされていても記録が残っていないのか、あまりに厳格な機密保持を行っていたため作れることの出来る人間が途絶えてしまった、東ローマ帝国の領土が縮小してしまったために主成分を確保できなくなり作れなくなってしまった等の諸説があります。


長くイスラム勢力との攻防、西ヨーロッパ勢力の背信行為と戦い続けて存続を続けていたい東ローマ帝国も、その終焉を迎える約50年前の西暦1400年には、コンスタンチノープル周辺とそれ以外の一部の地区に領土が減ってしまっています。

日本に鉄砲が伝来する90年前、英仏の100年戦争が終わった1453年、20世紀まで存続するイスラム最強とも言われる オスマントルコ帝国 の軍勢20万人あまりにコンスタンチノープルが攻撃されますが、東ローマ帝国軍側の兵士はイタリアの都市のジェノヴァの援軍を加えても7,000人程度しかいなかったと言われます。


コンスタンチノープルは周囲を頑強な城壁で囲まれ、金角湾の両岸を巨大な鉄の鎖で繋ぎ、オスマントルコ海軍の軍艦が湾内に入れないように封鎖します。


イスタンブールの博物館に保存されている巨大な鎖です。

強固な海上の防衛網を打ち破るためにオスマン皇帝のメフメト2世は70隻もの船を陸に揚げて金角湾内に運びこみ攻撃を行ったと言われます。

58日に及んだコンスタンチノープルへの攻撃により、遂に1000年以上も続いた都市が陥落して東ローマ帝国は滅びました。

コンスタンチノープルが陥落した時に金角湾からイタリアのジェノヴァへ向けて何隻かの軍艦が捨て身の脱出に成功しています。

オスマントルコ海軍が本気で阻止すれば、包囲殲滅することも可能だったにも関わらず、東ローマ帝国の軍艦に接近しなかったには、恐怖の伝説的な兵器 ギリシア火 を恐れたためだという説があります。

既に使われなくなって400年ほどが経過した ギリシア火 が15世紀中頃のオスマントルコ海軍の軍艦に通用するような兵器であったか疑問ですが、東ローマ帝国の滅亡と共に、詳細は永遠に歴史の謎として、その存在だけが伝説として残った ギリシア火 をオスマントルコ帝国の大艦隊が最後まで恐れていたという話は、何か歴史のロマンを感じます。



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学校のテストで不必要に年を問うから本来は全く無用な年号の語呂合わせなどが重宝されてしまう

2016年06月09日 | 歴史あれこれ
何のために歴史を学ぶのかと言えば、過去の教訓から少しでも現在と未来を良くするためです。

この意見に反論のある方もいらっしゃるかもしれませんが、私の中では、揺ぎない思いなので、どうか違和感を感じられた方は、ご容赦下さい。

関ヶ原の合戦が行われたのは1600年ですが、学校のテストで1599年や1601年と回答すると不正解になりますが、歴史を本質を学ぶにあたり、この一年の認識のずれが、さして大きな問題になるとは思われません。

関ヶ原の合戦は (   )年に起こりました。

というような、テストを出題することがナンセンスです。

豊臣秀吉が死んだ年は1598年ですが、秀吉を中心にまとまっていた大名たちが、彼が死んだことにより争いとなり1600年に関ヶ原の合戦が起こった訳で、秀吉の死と関ヶ原の合戦が起きた順番を正しく認識していることの方が、よほど大切なことだと言えます。

歴史上の出来事が発生した年を 年単位で覚えさせよう とすることが、愚かです。

刻々と動いた歴史の瞬間では、逆に、同じ年に起きた出来事を順番など度外視して 一括りに年だけを暗記 させても全くのナンセンスです。

一つの例として、時代が大きく動いた幕末の最後を下に紹介しますが、新暦で複数年にまたがりますが、目まぐるしく時代が動くので、年単位では追いつかず、月単位、いや日単位で推移を追っていく必要のあるケースも存在します。


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 大政奉還(徳川幕府の終わり)   1867年11月9日

 王政復古の大号令(天皇制の開始) 1868年1月3日

 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の開始) 1868年1月27日~

 勝海舟と西郷隆盛の江戸開城交渉  1868年3月13日~

 官軍の江戸城の無血入城による勝利 1868年4月4日~

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調べればすぐに判る細かい年月日まで覚えることが必要なのではなく、細かい出来事は別として大筋では、全国の大名たちを従える力を失った徳川将軍家が次に天皇の名の下で行われるであろう諸侯会議の議長となることを狙って政権を朝廷(天皇家)へ返還したことが 大政奉還 で、徳川慶喜の官位と徳川家の領土を朝廷に返上するよう求めたのが 王政復古の大号令 とそれに続く小御所会議での決定、その決定に不服だった(主に)旧幕府軍と薩摩・長州連合軍が戦ったのが 鳥羽伏見の戦い で、江戸へ進軍してきた薩摩・長州中心の官軍と江戸城に籠城して戦うことも辞さないとする旧幕府軍が戦って江戸の街が崩壊してしまうことを防ごうと話し合いをしたのが 勝海舟と西郷隆盛の交渉 で、その結果、江戸城が無血入城 されたという一連の流れを理解し、その歴史から何か学べることが学ぶことが重要なのです。

歴史から何かを学ぼうともせず、出来事が起こった年の丸暗記能力を問うようなテスト問題など、無意味極まりないものです。

年号語呂合わせ などというものなど、本来は、全く必要のないものです。(私は、学生時代から、年号語呂合わせで覚えるような方法をしたこともありません)

「いい国つくろう鎌倉幕府」 1192年

私が学生だった昔に使われていた、1192年に鎌倉幕府が成立したということを丸暗記するための 語呂合わせ なのでしょうが、これなどは、いかに、こうした語呂合わせが無意味なのかを示す典型的な例です。

古くから源頼朝が征夷大将軍となった1192年が鎌倉幕府成立の年と言われてきましたが、最近では幕府機構の成立は、それよりも早かったとする説が最近、唱えられるようになってきました

頼朝が挙兵をして一度は敗れた後、その年の年末には盛り返して周辺の御家人を従えて鎌倉に自分の御所を建てた1180年が鎌倉幕府成立する年だとする説、頼朝の支配地への守護・地頭の設置・任免を許可した1185年だとする説、その他1182年説、1190年説など、数多くの説があるようです。

壇ノ浦の戦いで敗れて平氏一門が滅んだ1185年以降ならば解りますが、たった一代で平氏の栄華を極め、自身も太政大臣にまで登り詰めた平清盛が死亡しのが1181年よりも前に鎌倉幕府が成立していたという説は個人的には、いかがなものかとも思いますが、歴史研究が進めば出来事が起きた年の見解が変わることもあるのですから、いい国つくろう鎌倉幕府 などという語呂合わせが全く無意味だということが解ります。


私が学生の時に教科書に載っていた源頼朝の肖像画ですが、こちらも多くの方がご存知のように最近では、この肖像画は源頼朝ではなく、鎌倉幕府の次の時代に当たる室町幕府を建てた足利尊氏の弟の足利直義の肖像画だという説が有力になってきました。

歌舞伎の勧進帳でも有名な弟の源義経に酷い仕打ちをした源頼朝です。

頼朝に追われ、平泉の奥州藤原氏へ逃げた義経に対して、頼朝は「義経を引き渡さなければ攻め込む」と執拗に脅し、遂に屈服して義経を討って、その首を届けた奥州藤原氏4代目の泰衡に対して、「引き渡すように要求しただけで、何で弟を殺害したのだ!」と因縁をつけて、結局は大軍勢で攻めて平泉を滅ぼしてしまう性格の悪さを、源頼朝は歴史的な事実として存分に示します。

三白眼のいかにも陰険で性格の悪そうな雰囲気を醸し出している肖像画だったために、長い年月、源頼朝だと信じられていたのではないだろうかと私は思っています。

せっかくでも歴史的な出来事の起きた年を覚えた(または調べた)のならば、世界の他の場所で、同じ時期に、どのようなことが起こっていたのかを見渡してみることも良いかと思います。

ちなみに、さきほど鎌倉幕府の成立が何年かという諸説(1180年~1192年まで多岐にわたる)と同じ頃の出来事を調べてみると、エジプトのアイユーブ朝の始祖サラディンが1187年に征服してキリスト教徒からエルサレムを奪います。

それによりローマ教皇グレゴリオ8世の呼びかけで1189年より第3回十字軍が行われますが、同年に即位したイングランドのプランタジネット朝の王のリチャード1世も参加しています。


この第3回十字軍はサラディンとリチャード1世が休戦協定を結び1192年に集結するのですが、日本の鎌倉幕府の成立の時期と同じ頃に、中東ではキリスト教徒とイスラム教徒が戦争をしていました。

現代も続いているキリスト教とイスラム教の対立、更にそれにユダヤ教が絡み合う複雑な対立の原点とも言うべき十字軍(1096年に始まった第1回から1272年に終わった第9回まで)が行われていました。



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実は冬将軍が到来する前に破綻していたナポレオンのロシア遠征軍

2016年06月08日 | 歴史あれこれ

トルストイの小説「戦争と平和」やチャイコフスキーの序曲「1812年」などの題材にもなっているナポレオンのロシア遠征は、一般的に冬将軍に敗れた言われ(動員兵力などには諸説ありますが)70万人だったナポレオン軍の中でフランスに生還できたのは 5,000人 しかいなかったと言われ、生還率は0.7% という酷さです。

同じく冬将軍(ロシアの冬)に負けたして、という点では、1941年に開始されたヒトラーのソ連侵攻が1812年のナポレオンのロシア遠征と共に語られることが多く、私もヒトラーのソ連侵攻と比較で、ナポレオンのロシア遠征を紐解いていきたと思います。

多くで語られている通り、ナポレオンの攻撃開始日が(1812年の)6月23日、ヒトラーの攻撃開始日が(1941年の)6月22日で1日違いですが、それぞれの出発地点(攻撃開始場所)が、何処だったかにまで言及されているケースはあまりありません。

攻撃目標はモスクワと同じですが、ナポレオンの本拠地のパリからモスクワまでの距離は 2,500km 、ヒトラーの本拠地のベルリンからモスクワまでは 1,600km で、2つの攻撃の本拠地からのモスクワまでの距離が相当に違います。

攻撃を開始したとされる日に、2つの時代の侵攻軍が何処の場所にいたのかを把握することはがとても重要です。


ナポレオンが攻撃を開始した日の攻撃開始場所はパリではありません。(それよりも早くパリを出発していました)

ナポレオン軍は、フランス軍だけでなく、当時のフランスが支配下に置いていた、ワルシャワ公国、イタリア王国、ナポリ王国、ライン同盟、スペイン王国、スイス連邦からの軍隊に加え、同盟国としてのオーストリア帝国とプロイセン王国の軍隊から構成されており、70万人と言われた全軍のうち、フランス軍は45万人で、それ以外は支配下の国または同盟国の 混成大部隊 の軍隊で、これらの多国籍軍が集結して、現在のリトアニアのネマン川を渡り、ロシアへの攻撃を開始した日が6月23日でした。

同様に1941年6月22日のヒトラーのソ連侵攻の出発場所は、独ソ不可侵条約の秘密議定書 に則り、ドイツとソ連で挟撃してポーランドを分割して出来た独ソ間の国境線でした。

(私は)ナポレオンが渡ったとされる場所がネマン川の流域の何処だったかを調べきれませんでしたが、1941年当時の独ソ国境の位置は調べられ、攻撃を開始した場所からのモスクワまでの距離を(概算で)計算することが出来ました。

モスクワまでの距離を算出は、1941年の独ソ国境近くの街だった(ソ連領)ブレスト(旧名:ブレスト=リトフスク)を概算距離を算出する地点として選定して、モスクワまでの直線距離にプラスアルファして、モスクワまでの距離を1,350knと(仮定)しました。

尚、このブレストという街は、第一次世界大戦中にロシア革命が起こり誕生したソビエト政府は、帝国主義戦争から離脱するために不利な条件ながらもドイツとの講和を結び、戦争から抜けますが、ドイツと交渉して講和条約を結んだ場所がブレスト=リトフスクであり、その街の名前により、ブレスト=リトフスク条約 と言われています。

その後、ドイツが第一次世界に負け、ソ連により条約破棄が通告され、その後のパリ講話会議でもこの講和条約の内容は否定されrため、ブレスト=リトフスク条約は実質8ヶ月という短い期間しか有効ではありませんでしたが、第一次世界大戦後のドイツやソ連、東ヨーロッパ諸国に様々な禍根が残り、第二次世界大戦の原因のひとつとなりました。

話を戻します。

場所が特定出来なかったナポレオンの攻撃開始地点のネマン川も、川の流れる位置を大雑把に地図で見ると、ブレストからモスクワまでの距離と似たようなものだったので、同じくモスクワまでの距離を1,350knと(仮定)しました。

どうして、執拗に攻撃を開始した日やモスクワまでの距離にこだわるかと言うと、ナポレオン軍の進軍速度の速さ が一つの重要な鍵だからです。

兵士ならびに補給物資の移動はナポレオンの時代は馬と人力ですが、ヒトラーの時代は戦車やトラック、航空機もありました。

戦争なので、ただ移動するだけでなく、敵と戦いながら進んでいくので、一概には比べられませんが、何と、馬と人力しかなかったナポレオン軍の方が2倍以上の圧倒的に速いスピードでモスクワへ攻め込んでいます。

ナポレオン軍は攻撃を開始して 83日目 の9月14日には、既にモスクワに入城しています。

一方、ヒトラーのソ連軍はモスクワの約20km手前までは攻め込んでいますが、ソ連軍に撃退されたためモスクワに辿り着くことは出来ませんでしたが、モスクワに最も近づいたと言われる日が、侵攻を開始して 166日目 の(1941年の)12月5日です。

ナポレオン軍は 1,350km を83日で進んだので、1日平均で 16km以上 進んだ計算になり、ヒトラーのドイツ軍は 1,350km から 20km を減じた 1、330km をナポレオンのちょうど2倍の166日を費やして進みましたが、1日平均で 約8kmしか 進めていない計算になります。

ナポレオン軍は、機械化されたヒトラーのドイツ軍の倍以上の速度で進撃 していたのです。

モスクワのみを目指して進軍したナポレオン軍とは異なり、ヒトラーのドイツ軍はモスクワ以外にも北方のレニングラード(現サンクトペテルブルク)と南方のコーカサス地方を攻める3つの大きな軍団があり、他の軍団との関係でモスクワを目指していた軍団も進軍を途中で停止させていたこともあり、一概にナポレオン軍との比較は出来ない部分もありますが、モスクワへの進軍途中でナポレオン軍の方がロシア軍との戦闘が少なかったことは間違いありません。

ナポレオン軍のモスクワへ攻めのぼる中での大きな戦いは2つしかなく、約500km手前の死傷者が約 9,000人のスモンレスクでの戦い、モスクワ手前の死傷者が約 50,000人のボロジノの戦い(モスクワ川の戦い)です。


ロシア軍は戦力を温存しながら占領してくるナポレオン軍には、物資を調達させない 焦土作戦 を徹底的な行い、全てのライフラインを停止させて、モスクワからも撤退したため、攻撃開始から83日後の1812年9月14日にナポレオン軍は無血入城しました。


出発時に60万人~70万人だったと言われたナポレオン軍は、計算上、途上の2回の戦いの死傷者をマイナスしても、40万人から50万の兵力でモスクワに入城している筈でが、実際にモスクワへ入城した兵力は 10万~11万人ほどしかいなかったと言われています。

これは、モスクワに入城するまでに 何と 8割以上の兵がいなくなっている 計算になります。

戦闘による死傷者より、飢えや疲労などでの逃亡 により脱落する兵の方が圧倒的に多かったと言われます。

これほどまでに多くの兵が脱落した原因は、あまりにも早い進軍のスピード でした。

圧倒的なスピードで、防衛陣地を築いて迎え撃とうとしたロシア軍に、その隙を与えさせずに撤退させる効果は確かにありましたが、そのスピードについていけないで脱落する兵の数があまりにも多すぎます。

開戦時のロシア正規軍も20万人近くの人数がいたと言われ、その後に加わった正規軍とそれ以外の民兵や武器を持って戦った農民など兵力は、最終的にはトータルで90万人にまで達したとも言われ、少なくとも正規軍の人数でナポレオン軍がロシア軍を下回ってしまうことは決定的な不利を意味します。

しかし、モスクワの手前でのボロジノの戦い(モスクワ川の戦い)でのナポレオン軍とロシア軍の兵力は、双方 15万~20万人 で、圧倒的な兵力を誇っていたナポレオン軍の兵力が既に激減していたため、ロシア軍とほぼ同数になってしまっていました。

双方の弾薬が尽きてロシア軍が撤退したため、ボロジノの戦い(モスクワ川の戦い)の勝敗は決することなく終わりましたが、ロシア軍よりナポレオン軍の死傷者の方が多かったとも言われています。

物資や食糧が手に入るとの期待が裏切られたばかりでなく、ナポレオン軍のモスクワ入城直後に、ロシア軍の仕業だと思われる大火が発生し、街を3日に渡って焼き尽くしました。


モスクワを占領したナポレオン軍は、3回に渡り和議交渉を行いましたが、勿論、ロシア側が応じる訳がありません。

冬の到来とロシア軍の反撃を恐れたナポレオンは、入城35日後の10月19日に、物資や食料がなにもないモスクワからの撤退を開始しました。


随所でロシア軍の追撃を受けながらも進軍時よりも早い行軍の 55日 の12月14日にロシア領内から逃げ出しました。


その後、ナポレオンと共にパリまで辿り着けた兵は 5,000人 にしか満たず、撤退時にモスクワにいた 11万人の 4.5% にしか満たず、いかにナポレオンが自分の保身のみを考えて逃げ帰ってきたかがわかります。

冬将軍の到来のために敗れたと言われていますが、数(兵力)の点からしても、相手の土俵であるロシアの大地で、冬の到来前に既に兵力で逆転されてしまった時点で、ナポレオン軍は破綻してしまっていたようです。

逃亡などで自軍の兵力が激減した途中の時点でナポレオンは不安を感じなかったのだろうか? 不安を感じたのであれば、どうして被害が大きくなる前に撤退しようと決断できなったのだろうか?

多くの疑問の残るロシア遠征です。






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火山灰で埋もれたポンペイの街が伝えてくれたアレキサンダー大王

2016年06月06日 | 歴史あれこれ

歴史上、初めて世界帝国(多数の民族を支配下の置いた大帝国)を打ち立てたアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)の顔として、私の学生時代の歴史の教科書にも載っていました。

アレキサンダー(紀元前356年~紀元前323年)は、マケドニアの王子の時に父と共に南の古代ギリシア諸都市を屈服させ、王に即位した後に世界帝国に向けて動き出します。

ブルガリア語に近い現在のマケドニア語とは異なり、アレキサンダーの時代のマケドニア語はギリシア語の方言のような言語だったそうで、言葉(言語)が異なっていなかったからこそ、王子時代に、彼の家庭教師をつとめたのは、あの古代ギリシアの偉大な哲学者のアリストテレスでした。

アリストテレスはプラトンの弟子であり、プラトンはソクラテスの弟子なので、古代ギリシアの偉大な哲学者3人 に連なる師弟関係の延長線上にアレキサンダー大王が位置していたことになります。

アレキサンダーより更に1世紀前の ペルシア戦争 で、侵略してきた アケメネス朝ペルシア帝国 と古代ギリシアのポリス連合軍が3回に渡って戦い、撃退しました。


ペルシア戦争でギリシアポロス同盟が撃退した アケメネス朝ペルシア帝国 の領土は広大で最大時は上のような領土を有していました。

インドへも攻め込み、冒頭で私もアレキサンダー大王が史上初の世界帝国を作ったと記しましたが、その領土は、滅亡させたアケメネス朝ペルシア帝国の領土にマケドニアとギリシアを加え、東部のインダス川方面に少し拡大しただけで、あまりペルシア帝国の領土と広さは変わらないものです。


上の地図はアレキサンダー大王が作り上げた帝国の領土です。

アレキサンダー大王の凄かったところは、ペルシア帝国と交えた何度かの会戦では、常に数倍の兵力のペルシア軍に勝利していったところです。


そのような戦いの一つで、ダリウス3世(ダレイオス3世)が率いる10万とも30万人とも言われたアケメネス朝ペルシア軍を4万人の兵で打ち破ったとされる イッソスの戦い の壁画です。


壁画の一部分をクローズアップしました。冒頭に紹介した教科書にも載っているアレキサンダー大王の顔があります。


同じくダリウス3世の顔も描かれています。

2,300年以上も前のアレキサンダー大王の顔と言われる壁画を今日まで伝えてくれたものは ‥‥

ある 悲しい出来事 が関係しています。

アレキサンダー大王が生きた約350年後、今から1950年近く昔の西暦79年にイタリアのヴェスヴィオ火山が大噴火して古代ローマの都市のポンペイ(推定人口2万人)などの周辺に火山灰を降り注ぎました。


大噴火が起こり、街を捨てて逃げた市民の多くは生命が助かりましたが、火山灰が降り注ぐ中で何らか理由で街の残っていた市民には、噴火発生から約12時間後に発生して襲ってきた 火砕流 により、ポンペイの街が壊滅してしまいました。


ポンペイ市民を救助するために船で向かった 軍人 兼 学者のプリニウス は、火山から発生したと推測される有毒ガスにより死亡してしまったことが記録に残っています。

火砕流で街が壊滅した後も大量の火山灰が降り注ぎ、ポンペイの街は火山灰で覆い尽くされて埋もれてしまい二度と、この地に街が作られることはなく、西暦476年にはローマ帝国(西ローマ帝国)も滅亡し、言い伝えと散発的に発掘される遺品から、過去の街が存在していたことは知られていたものの、発掘が開始されたのは18世紀に入ってからです。


現在では、全ての火山灰が取り除かれ、ローマ時代の街並みが姿をあらわしています。





街並みだけでなく、広場の水溜後も


建物内の調理場なども発掘されています。





遺体は腐って積もった火山灰が空洞化した所にコンクリートを流し込むことで、亡くなった当時の姿が復元されています。






建物に飾ってあった数々の壁画などの絵も数多く発掘されています。

発掘された数多くの絵の中の一つが、既に紹介したポンペイから発掘された イッソスの戦い を描いているとされる モザイク画 です。


アレキサンダー大王の死後、300年以上経って作られたモザイク画なので、この絵が本人と似ていたかどうかは解りませんが、貴重な彼の絵をポンペイの火山灰が後世に、その姿を伝えてくれたのです。

日本の学校教育の場では、アレキサンダー大王のことも、古代ローマの都市のことも扱いますが、この2つの結びつきについて触れる機会は少ないと思われ、その点は少し残念に感じます。



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戦争の最中でも良心を失わなかった人間の素晴らしさ 自然発生的に発生したクリスマス休戦

2016年06月04日 | 歴史あれこれ
今から100年以上前の1914年8月に人類が今まで経験したことのない未曾有の悲惨な第一次世界大戦が勃発しました。

第一次世界大戦は主戦場が欧州で、日本の出兵は、地中海への護衛艦派遣以外は、青島(中国)や南太平洋に限られていたため(戦死者は300人~1,000人ほどと言われている)、日本人は世界大戦と言えば第二次世界大戦を思い浮かべますが、ヨーロッパでは、世界大戦というと 第一次世界大戦 を指すようで、それほど被害が大きな戦争だったことが、うかがえます。

どうして第一次世界大戦が起きてしまったか ‥‥ については、この過ちを繰り返さないことを自らに言い聞かせてケネディー大統領は キューバ危機を回避 させることに成功しているように、現代の私たちも学ぶべきことが多くある教訓です。

この辺については、いずれ別の機会にBLOGに載せようと思っております。

第一次世界大戦の概要は下記の通りとなります。

期間
1914年7月28日 ~ 1918年11月11日

勝敗
協商国(連合国)側が勝利して中央同盟国側が敗北

各陣営の構成(協商国側は多数のため、主な国を記載)

中央同盟国側はドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国の4ヶ国

協商国側はフランス共和国、北アイルランド・グレートブリテン連合王国(通称イギリス)、並びにその自治領(オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、ニューファンドランド、南アフリカ連邦、英領インド帝国)、ロシア帝国、セルビア、モンテネグロ王国、ベルギー 、イタリア王国、大日本帝国、ルーマニア王国、ポルトガルの旗 ポルトガル共和国、アメリカ合衆国、ギリシャ王国 その他多数

協商国側の国の一つのベルギーが第一次世界大戦の一つの鍵となる国です。

ベルギーは上の地図のドイツの西隣の水色で示した国です。

1839年にベルギーはオランダ(地図上でベルギーの北にある黄色)から独立しますが、その独立時の条件として 永世中立国 (未来永劫、どこの国とも同盟を結ばず中立の立場を貫く国)を保つことが国際的に取り決めされました。

独立したベルギーがフランス、ドイツ、イギリスなど、いずれかの国と同盟を結ぶと、西欧主要国のパワーバランスが崩れてしまうことを恐れた各国が、ベルギーを永世中立国化させることで合意し、この国際バランス感覚は20世紀に入っても継続されていました。

第一次世界大戦開始時に、ロシアとフランスは同盟関係を結んでいたため、戦争となればドイツは東西から挟撃されることになり、とても勝ち目がないことは明らかでした。

そのためドイツには、圧倒的な不利な二正面作戦を打破して勝利に導くための シュリーフェン・プラン という軍事計画が19世紀末より作られていました。

領土の広さ、人口の多さを誇るロシアの弱点はスピードの遅さで、ロシア軍が体制を整えてドイツ東部に進行してくるには、二ヶ月ほどの時間がかかると想定し、ロシア軍が攻めてくる前の6週間で、全力でフランスを攻めて勝利するというのが、シュリーフェン・プランの主旨でした。

6週間という短期間でフランスに勝利するためには、防御を固めている仏独国境ではなく、永世中立国のベルギーを通過して最短ルートでフランスの首都のパリを目指すものです。

勿論、永世中立国のベルギーを通過してフランスを攻撃することは、明らかな 国際法違反 に当たりますが、そうしなければ敗北は必至だとドイツ帝国は考えていたようです。

ドイツ軍が、脅せば無抵抗で軍隊を通過させると考えていたベルギー軍は、ドイツ軍の通過を拒否してベルギー軍とドイツ軍の間で戦闘が開始されました。

中立国のベルギーを攻撃したことを理由に北アイルランド・グレートブリテン連合王国(以降は通称のイギリスと表記します)がドイツに宣戦布告しました。

ちなみに日本はイギリスの参戦により日英同盟を理由にドイツへ宣戦布告することになるのですが、後にイギリスやフランスから欧州の西部戦線への日本陸軍の参戦を要請されますが、これを日本は断っています。

ドイツ軍の予想に反してベルギー軍が戦いを挑んできたことで、結果的にはドイツ軍はベルギー軍に勝利したものの、ベルギー国境を越えてフランス領に侵攻するめでに二週間を要すことになりました。

予定を遅れながらも勝利を重ねたドイツ軍はパリまで30kmの地点のマルヌ側まで侵攻したものの、フランス・イギリス連合軍と決戦を行った マルヌの会戦 で勝利することが出来なかったドイツ軍(両軍とも決定的な勝敗をつけることは出来ず、ドイツ軍が数十キロ後方のエーヌ川沿いまで撤退したことで終結しました。

ドイツ軍はマルヌの会戦で勝利することが出来ず、シュリーフェン・プランは挫折して、以降、西部戦線は、塹壕を掘って進軍してくる敵兵を機関銃で迎えうつ睨み合いとなり、戦線は膠着しました。

塹壕を堀り、機関銃その他の銃で防御を固めた場所へ攻め込む場合、防御側が圧倒的に有利で、攻撃側は多大な被害を被ります。

塹壕のない場所から迂回して攻め込むことが得策なので、塹壕の背後へ攻め込もうと考えます。

両軍とも同じことを考えるため、敵に回り込まれては大変 だと思い、塹壕の未設置箇所への塹壕の構築を行います。


同じことを両軍が考えたため、瞬く間に北は北海沿岸から南は中立国のスイス国境に至るまでの 約600km に渡り、両軍が塹壕を構築して睨み合いを行いました。


近い所では両軍の塹壕間の距離は30mしかなかった言われ、塹壕から身体を出せば、瞬く間に敵の銃で狙撃され命を失います。
敵に攻め込むことは出来ないが、24時間、警戒を怠ることは決して出来ない緊張した戦場で、不衛生で寒暖の環境も劣悪な場所で、健康を概して命を失っていく兵士も少なくなかったようです。

戦争が勃発した時には、悪魔の熱気 に誘われて、両陣営の若者たちが祖国愛の名のもとに 志願兵 として、自ら戦場へと趣いていきました。

彼らの多くが、(8月に始まった)戦争はクリスマス前には決着することだと思っていました。

しかし、現実は全く違って、予想もしなかった大量殺戮平気の登場により次々と大量に多くの若者の生命が失われていき、1914年のクリスマスまでに 100万人 もの生命が失われてしまっていました。


自国の勝利を祝いながら迎えるクリスマスなどとはほど遠い、寒く劣悪な環境の塹壕の中で、両軍の兵士たちはクリスマスを迎えようとしていました。

そんな悲しいクリスマスイブの塹壕から、「きよしこの夜」 を歌う歌声が聞こえてきました。

その歌詞はドイツ語であったり、英語であったり ‥‥‥ 。

耳を澄ませて聞くと、敵も味方も、同じことを思って 「きよしこの夜」 を歌っていたのです。

敵側の異国語の歌に自国語を重ね合わせることで 塹壕を隔てた両軍による合唱 が響き渡りました。

そっと塹壕から頭を出して相手方を除くとクリスマスキャンドルの灯も見え、敵も味方も同じ思いでいることが解りました。

勇気を出して塹壕から身を乗り出すと、相手も同じように塹壕から身を乗り出していました。

発砲されれば、瞬く間に生命を失ってしまう丸腰の状態のまま、お互いの兵士が一歩ずつ歩みより、遂には握手を交わし、お互いの食べ物や飲み物、お酒やタバコを交換しながら、通じるか通じないかは別として、言葉を交わしながら、両軍兵士が一緒にクリスマスを祝った そうです。

誰に命令された訳でもない、このような 自然発生的な局地的な休戦 が、間違いなく存在したと確認されているだけでも、30事例ほど存在するようです。



この奇跡的な休戦は、クリスマスイブの夜から12月25日の日没まで続いたそうで、証拠の写真も現存しています。


この休戦は長い所では、1915年の新年まで続き、塹壕と塹壕の間の土地でサッカーの試合も行われた記録まで残っています。

しかし、こうした休戦を望まない人もいました。

家族や友人、戦友を殺された人だけでなく、両軍の軍の上層部は、こうした自然発生的な休戦を快く思わず、最終的には軍の命令として、この休戦は終わりを告げることになり、続く1915年、1916年、1917年のクリスマスには、このような自然発生的な休戦は発生しなかったようです。

軍の上層部の人間以外にも、ドイツ軍の伍長として西部戦線に参戦していたオーストリア人のアドルフ=ヒトラーは、こうした休戦に対して不快だと、自分の気持ちを漏らしていたそうです。



他の「歴史あれこれ」の記事一覧は下記のURLとなります。

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/2e5b20b732b5089016301b0f7c860a53
学校の授業で教わる歴史とは違った切り口で、歴史の話を伝えていければ ‥‥ と思っています。

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シリーズ 歴史あれこれ

2016年06月03日 | 歴史あれこれ

教科書に載っていないような古今東西の歴史の話を思いつくままに載せていくシリーズにしていきたいと思っています。

現在、掲載中の、このシリーズのタイトルとリンクは下記の通りとなります。


第01話
戦争の最中でも良心を失わなかった人間の素晴らしさ 自然発生的に発生したクリスマス休戦

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/9a503d81864af84cdd7ddcc8a54ea306


第02話
火山灰で埋もれたポンペイの街が伝えてくれたアレキサンダー大王

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/a41ad37a384bcf6f0440458e80d8bfda


第03話
実は冬将軍が到来する前に破綻していたナポレオンのロシア遠征軍

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/e75efa98ffec931b44ee76cde85267c4


第04話
学校のテストで不必要に年を問うから本来は全く無用な年号の語呂合わせなどが重宝されてしまう

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/add71b881b35625f59811a659cf02625


第05話
帝国の滅亡と共に永遠の謎として歴史から消えてしまった秘密兵器 ~ ギリシア火 ~

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/9433a54714fb7e992e77e795f6ca20bc


第06話
EU離脱の国民投票結果によって通称イギリスが正式名イギリスに戻る日

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/9a94a912d08ef6f9c72799df1c67a7a0


第07話
ヨーロッパで皇帝を名乗れるのは2人だけでした

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/52f87a20b6e8c822614bbcd56d9fbe20


第08話
言いがかり甚だしい方広寺鐘銘事件の鐘は今でもそのままの形で残されています

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/f1e7ddfe8387ea2f5c7ba19d806022d4


第09話
絶対に国民が選挙権を手放しては駄目です! 全権委任法を成立させてしまった苦い歴史の教訓から学ぶべき

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/ab5de51ffa5beb9e16cc8cb4f0cfd9e9



第10話
沖縄を駆け抜けた聖火ランナーたちに沿道で禁止されていた日の丸が振られて声援が送られた日

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/eeb57d9df64253ed01cdd7926137fa29



第11話
たった4ヶ月で国産の火縄銃を完成させ、黒船の二年後には蒸気船を作った日本人の凄さ

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/5d1238b228e74b84e32dbd3a4753fa74



第12話
カトリック=アタナシウス派

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/934251b7cc38cc481113c9ce5df8cfe1



第13話
イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/bdcffb21ed209636a2714646ec908e77



第14話
安息日など宗教的な規範による人間の心の健全化と社会の硬直化について

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/35321d734592506a831ed63fe1637ed0


第15話
西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/d6afbe1dbf675d4482b9e5bdd0cc0506



第16話
オスマン=トルコ帝国の盛衰(前編)

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/b0ba75f72ad7e1e29facae70d41082aa



第17話
オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/41f064ffec85c200546aab3c3f95976a



第18話
その後の運命を決定的にしてしまう行動の巧拙

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/9b8a0dfed3f96524c2e03dbad87a4eda



第19話
正義を貫いた男たちの銅像に彼の姿だけがありません

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/375cf622ffa20da9d10fd327f2159813



第20話
綿密に計画された作戦を実行して勝利した桶狭間の戦い

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/555fb48bf1156efeb701ce3a3d7db8af





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