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驚くことに生きるか死ぬかの戦国時代の武士たちは鉄砲に否定的だった

2017年05月02日 | 歴史あれこれ

隣国から攻められて滅亡する危機と隣り合わせだった戦国時代にヨーロッパから伝わってきた最新兵器の鉄砲(火縄銃)に多くの武士たちが拒否反応を示していました。
 
どうして?

現代人の視点からは、それまでの戦(いくさ)を一変する威力を持つ兵器を受けいれようとしなかったことが不思議ですが、そこには 人間の本質のある一面 が典型的に表れていると言えます。

当時の鉄砲以外の主な武器には、刀、槍、弓などがありました。

それらの武器を使いこなすためには、日々の鍛錬(訓練)を重ねる必要がありました。

全くの素人に武器だけ渡しても、上手に使いこなすことは出来ないからです。

そうした状況では、戦国大名のそれぞれの家には、刀の達人、槍の達人、弓の達人など、それぞれの分野での達人達が存在していた筈です。

そかも、それらの達人達は、その優れた武術(武器の使用法)を親から子供へと伝えていくことで、※※家は、槍の達人の家 というように、戦国大名家の中で、その地位を確立していたと思われます。

戦(戦争)となれば、槍隊は名門の※※家、弓隊は名門の※※家に任せる ‥‥ といった陣容となります。

いざ、戦(いくさ)となれば、上記のような枠組みが作られ、その中で、有力家臣たちの位置づけ(ポジション)が決まっていた中で、全く新しい 鉄砲(火縄銃) という兵器が登場してきたのです。

同じ飛び道具の弓よりも殺傷力が大きく、弓のように立ち上がって放つ必要がなく、腰を落として撃つことが出来ます。

離れた距離から鉄砲で攻撃されれば、刀や槍を持った兵士たちは、相手(敵)に攻撃を加えようとする前に殺されてしまいます。


部隊の主力を 鉄砲隊 に変更することで、兵士の数が同じでも、軍事力を各段に増大させることが可能になります。

殿様(戦国大名)からみれば、このような画期的に素晴らしいことでも、殆どの家(戦国大名家)では、軍事改革は行われませんでした。

軍隊の主力が鉄砲隊となれば、自分たちの代々、引き継がれていた、槍や弓の名門というポジション(立ち位置)を失うことを恐れたのです。

出来るだけ遠くへ矢を飛ばす必要性がある弓は、威力を発揮させるための構えや狙う方向など、長い期間、相当な鍛錬を積んで、技術を身につけたと思われますが、新兵器の鉄砲を実践で使えるようになるのに、弓ほどに長い期間の鍛錬が必要ではなかったことは、想像に難くありません。

つまり、弓や刀、槍などの(伝統的な)武器を、大して使いこなせない下級兵士(足軽)たちに、鉄砲の使い方を教えて、鉄砲隊に編入させて戦(戦争)で戦わせれば、これまで、戦で、大きな成果を出していた、弓や槍、刀の達人たちの活躍の場が失われることを意味します。

鉄砲は ‥‥
・雨が降れば(火縄の火が消えてしまうので)使えない
・暴発(火薬が破裂)する危険がある
・威力はあっても一丁が高価で財政を圧迫する

など ‥‥ 、鉄砲のマイナスばかりを挙げて、反対するのです。

隣国が大規模な鉄砲隊を組織して攻めてくれば、自分の国は滅んでしまう危険性よりも、自分の所属する家(戦国大名家)の中での、自分のポジション(保身)を大切 にして、鉄砲に反対したのです。

トップである戦国大名は、現代で言うビジネスでのトップと同じで、マネージメントを重要視せざるを得なかったのでしょう。

主だった部下たちが反対しているのだから、我が軍の主力を一気に鉄砲隊に切り替えることは出来ない ‥‥ と考え、結果として、全軍比率からすれば、10%程度規模の少数の鉄砲隊を組織させた戦国大名が殆どだったようです。

近視眼的な自分の現在のポジションを優先して、自分が所属する組織の存亡に関わる将来の見通しが出来ない場合がある ‥‥ という 人間の弱点が表れた典型的な事例 だと言えます。

弓隊を率いていたトップの家臣ですが、その豊富な経験を活かして、鉄砲隊の隊長になれば、まだ誰も効果的な戦術を模索中だった鉄砲を効果的に用いて、大きな戦果を挙げることが出来た筈ですが、多くの武士たちは、そのような発想の転換を行って新境地へ踏み込みませんでした。

生きるか死ぬかの戦国時代の話をしましたが、この話、現代のビジネスの話と多くの部分で重なります。

ライバル企業と食うか食われるかの戦いが日々、繰り広げられています。

現代の転職やヘッドハンティングのように所属する企業を変える人がいるように、戦国時代の武士たちの中にも、仕える主君を必要に応じて変えていった者もいました。

しかし、全員ではありません。大多数は、運命共同体的に、自分の家(戦国大名家)や自分の企業(会社)の中で、必死に働いています。

しかし、自分の所属する企業が倒産に追い込まれてしまえば、昨日まで、その企業の中で、それなりのポジションにいたとしても、何の意味もありません。

だからこそ、近視眼的な保身の呪縛から解放された柔軟な発想力を磨いておく必要性があります。

多くの戦国大名たちが、部下(家臣)たちの反対もあり、大々的な鉄砲隊の編成を行わなかった中、唯一、軍隊の主流を鉄砲隊に変えた戦国大名がいませい。


あの有名な織田信長です。信長は、現在の愛知県の約 1/6 しか領土を持っていなかった弱小な戦国大名でした。


現在の愛知県は、昔の尾張国と三河国の2国からなりますが、尾張と三河の面積比は、約 1対2 で、領有していたのは、尾張(地図上の赤色)の半分しかなかった織田信長は、現在の愛知県の約 1/6 しか支配していなかった弱小戦国大名でした。

歴史が物語る事実として、名だたる有力な戦国大名たちは、次々と織田信長に滅ぼされていき、信長は天下統一目前にまで辿りつきました。

現在の日本の企業の中でも、多かれ少なかれ、汗を流して一生懸命に働いている社員が頑張っている人間だという高い評価を得る傾向があります。

日々、相当な鍛錬(訓練)を行い、敵の矢が降り注ぐ危険の中で、矢を放つ弓の使い手の方が、腰を屈めて鉄砲を撃つ足軽(下級部下)よりも、立派に映る(見える)のと似ています。

経験上、私の得意なExcel(エクセル)の複合関数や簡易マクロ(VBA)を使ったプログラミングによる効率化に対して、斜に構える人がいない訳ではありません。

全員ではありませんが、それぞれの年齢層や地位で、自他ともに、それなりの高い評価を得てる人ほど、Excelプログラミングによる効率化計画に距離を置きたがる傾向があるのは、戦国時代の鉄砲の話と共通する部分を感じます。





綿密に計画された作戦を実行して勝利した桶狭間の戦い

2017年02月26日 | 歴史あれこれ
私の子供時代には迂回して少数の兵で背後から急襲して今川義元の首をとって織田信長が勝利したとされた桶狭間の戦いも、最近では正面攻撃を行い勝利したとの説が有力になってきましたが、織田信長は(本人も驚くような偶然の)幸運で勝利できた戦いであったように依然として評されていることが多いです。

しかし、私は、そのようには思いません。

歴史学者でもなく、何かの(歴史的な)証拠をもっての主張ではありませんが、後に天下統一の目前まで行きついた織田信長ほどの男が、本人さえもが驚くような幸運が転がり込んで勝利できたに過ぎないとは私には思えません。

(大名ではなく)守護代に仕える3人の有力家臣の一人であった父親の死後、守護代であった織田本家や実の弟との争い(内戦)を経て、織田信長が尾張の国の約半分の支配を達成できたのは、彼が26歳の時、桶狭間の戦いの前年の1559年でした。

織田信長が尾張の国の西半分を支配下に置いた翌年の1560年、既に駿河・遠江・三河の三国に加え、尾張の東部も支配下に収めていた戦国大名の今川義元が2万人とも4万5千人とも言われる大兵力で尾張に攻め込んできました。

以前は今川義元が目指していたのは京で、その通り道に当たる織田信長のいる尾張をまずは蹂躙しようと攻めてきたと言われていましたが、最近の研究では、今川義元が京を目指していた痕跡は見つからず、大軍を擁して尾張を征服することが狙いだったという説が一般的になりました。

織田軍が動員可能だった兵力は最大でも5000人ほどだったと言われ、兵士の数の上では圧倒的に不利な状況にあったことは間違いありません。

相模の大大名の北条氏、甲斐の大大名の武田氏と同盟を結び、背後に心配がなくなった今川義元が狙ってくるのが織田信長が支配していた尾張だったことを織田信長は当然、解かっていた筈です。

大軍を擁して攻めてくるであろう今川義元に対して、織田信長は、いかに劣勢の兵力で戦い勝利するかを綿密に何通りものパターンを想定して、作戦をたてていたと思われます。

以前の有力だった、半ば破れかぶれで、少数の兵力で山道を進んでいった所、眼下に今川義元の軍を発見して急襲したことろ(偶然にも)今川義元の首をあげることに成功したのでもなければ、現在は有力となっている今川軍に正面攻撃を仕掛けたところ、偶然にも今川義元の本隊が近くにいて勝利できたのでもなく、言われているような 偶然に ‥‥ というような幸運的な要素 は、なかったと私は思います。

松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊と本隊が離れていたために、今川義元の本隊の兵力は6000名程度で、織田信長が率いて攻撃した3000名ほどの兵力と、兵力的な開きは、それほどなかったと言われていますが、ここが綿密に検討を重ねた上での、最大のポイント だったのだと思います。

予め、想定しておいた今川軍の本隊が前衛部隊との距離が離れて織田軍との兵力差が最も縮じまり、劣勢の度合が少なくなる 時間と場所が合致するポイント を狙って攻撃を仕掛けたと思われます。

それでも、数字上の強さは劣勢な織田信長が、絶対的な勝利の自信などはなかったとは思いますが、勝利できる可能性の最も高いであろうポイントに全てを賭けたのでしょう。


結果は、見事に今川義元の首を取り、総大将を失った今川軍は撤退を始め、更に奥地に攻め込んでいた大兵力を擁していた松平元康(後の徳川家康)が率いる前衛部隊が撤退してくる際にも、(ある意味で)素通りさせることで、自軍の損害を最小限に留める大勝利を収めることに成功しました。

引き揚げてくる松平元康(後の徳川家康)とは交戦しない(交戦すれば劣勢な織田軍は壊滅してしまう危険があった)ことも計算の範囲内だったのでしょう。

丁寧に綿密に様々なパターンを想定して、その対策を準備していたとしても、全てが計画通りに運んで成功することなどは、寧ろ稀で、その意味では、桶狭間の戦いでの勝利は、幸運だった と言えますが、広く言われているような、織田信長が、全くの無策に近い形で戦いを挑んで幸運にも処理したのではないだろうと私は思っています。

余談ですが、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主役の柴咲コウさんが演じる直虎の父親の杉本哲太さんが演じる井伊直盛も桶狭間の戦いで今川方として参戦して戦死しています。





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正義を貫いた男たちの銅像に彼の姿だけがありません

2017年02月01日 | 歴史あれこれ
自分が勝ち取った栄光を犠牲にすることで、人種差別を世の中に訴えなければならなった時代の話です。

しかも、まだ、50年も経っていない1968年に起きた実話ですから、哀しい驚き が隠せません。

当時のアメリカ合衆国では、飲食店やバスなど、公共の場で白人と黒人の居場所が隔てられるというような差別が公然と行われる社会でした。

こうした差別に反対する運動が 公民権運動 と呼ばれ、全米で盛んに行われ、人種差別に抗議していました。

こうした中で、1968年4月に黒人の指導者のキング牧師が暗殺され、アメリカ合衆国内の人種差別に対する抗議運動は、より一層と激しさを増していきました。

同じ年(1968年)の10月に行われるメキシコオリンピックに対し、陸上競技で世界屈指の実力を備えたアメリカ合衆国の黒人選手たちは、苦慮していました。

国内の人種差別に抗議して、オリンピックへの参加をボイコットするかどうかを悩んでいたのです。

そのような状況下で、トミー・スミスとジョン・カーロスという2人の黒人選手は、ある思いを抱いてオリンピックへの陸上男子200m走に出場する決断をしたのです。

2人は、オリンピックで表彰台に乗ることが出来たならば、その表彰式の際に、世界に黒人差別を訴えるつもりでいたのでした。

結果は、見事。トミー・スミスは優勝し、ジョン・カーロスも3位に入り、2人揃って表彰台に上がれることになりました。

星条旗が掲げられ、アメリカ合衆国の国歌が流れる表彰台の上で、2人は、首を垂れ、黒い手袋をはめた拳を空へと突き上げました。

これはブラックパワー・サリュート(アメリカ公民権運動で黒人が拳を高く掲げ黒人差別に抗議する示威行為)と呼ばれるものです。

しかし、近代オリンピックにおいて、選手の政治行為は厳重に禁止されており、このようなことをすれば、オリンピックから永久追放され、陸上選手としての選手生命を絶たれてしまうことを意味していましました。

そのことを十分に理解していた2人は、覚悟の上で、敢えてオリンピックに出場し、見事に表彰台に上がる権利を獲得したのでした。

この2人の表彰式での行為は、当時のオリンピック委員会の逆鱗に触れ、直ちに2人は選手村を追放され、閉会式に出ることすら許されず、強制帰国させられました。

選手生命を絶たれてしまった2人は、職場を解雇される、家族は様々な脅迫を受け、ジョン・カーロスの妻は自殺に追い込まれるといった、様々な苦難に見舞われることになります。

しかし、同時に、2人が世界に示した勇気に裏付けされた訴えに賛同する人たちに支えられ、差別に屈せずに闘った人間だということも世の中に知れ渡りました。

その後、時は流れ、既に。2人の名誉も完全に回復されていた2005年には、二人の 勇気と信念 を讃えて、カリフォルニア州にある2人の母校のサンノゼ州立大学には、2人の銅像が作られました。


この表彰台の銅像には、拳を掲げた2人の銅像はありますが、2位選手の銅像はありません。

1968年のメキシコオリンピックの陸上男子200m走で2位に入った選手は、オーストラリア人の ピーター・ノーマン でした。

黒人選手たちの上位独占だろうと予想されていた中で、オーストラリア代表のピーター・ノーマンは、予選でオリンピック新記録を出すなどの素晴らしい走りを見せ、決勝でも、トミー・スミスとジョン・カーロスの間を割った2位となり銀メダルを獲得しました。

決勝前日の練習の時に初めて会って会話した時から、(白人の)ピーター・ノーマンは、2人の黒人選手と打ち解けていたとはいえ、決意を持って表彰式へ臨もうとしていた2人に対して

「僕は何をしたら良い?」

と、話を持ち掛けたと言われています。

「これは、僕たち黒人の問題だから、(白人)の君は、何も関わらなくて良い。その気持ちだけで、十分だから、ありがとう。」

と、丁重に、ピーター・ノーマンの申し出を2人は断ったと言われています。

「ここで、見て、見ぬフリをして、やり過ごしたのならば、僕も何らアメリカ合衆国の白人たちと変わらない。これは、人間として、私が、どう向き合うのかという私の問題だ ‥‥ 」

と言って、彼は2人が胸につける 人権を求めるオリンピック・プロジェクト(略称:OPHR) を自分も胸につけて表彰式に臨みました。


これが、その時の写真です。


ピーター・ノーマンが、このバッチを胸につけて表彰台に上がったことが、その後、彼をの悲劇のどん底へ突き落すこととなるのでした。

オーストリア人のオリンピックの陸上競技での、数少ない偉業にも関わらず、当時の 白人至上主義 が大勢を占めていたオーストラリアでは、ピーター・ノーマンの行為は、社会への裏切りに等しい行為だと捉えられ、数々のバッシングに遭ながらも、4年後のミュンヘンオリンピックまでに、オリンピック派遣標準記録を13回も突破して、世界の中の一流の陸上選手であり続けることで、彼は逆境に立ち向かっていっていました。

しかし、ミュンヘンオリンピックの直前、オーストラリアのオリンピック委員会は陸上200mに選手を派遣しないことを決め、ピーター・ノーマンは、完全に陸上選手としての抹殺されたのです。

オーストラリア国内にも、ピーター・ノーマンの名を知る人も殆どいなくなってしまい、その意味では、黒人差別と闘った英雄として、世界に名前が知れ渡っていたトミー・スミスとジョン・カーロスとは異なり、母国のオーストラリア国内でも、その功績が抹殺され、記憶の外に放り出されてしまったピーター・ノーマンに降り注がれてしまった悲劇の方が、より大きかったとも言われています。

西暦2000年には、オーストラリアのシドニーでオリンピックが開催されましたが、その時にも、まだ、ピーター・ノーマンの名誉は全く回復されず、開会式など、オリンピックの会場に招かねることもなければ、名前が紹介されることすらありませんでした。

メキシコオリンピックの表彰台以降、ピーター・ノーマン自身も、離婚や生活苦、体調不良に苦しみながらも、自分は信念を貫き通すことが出来て、そのことを母さんも、アメリカ合衆国にいるトミーとジョンも解ってくれている と語り、オリンピックの表彰台に一緒に上がった2人との友情は生涯に渡って続いていました。


メキシコオリンピックの時の3人の写真です。


3人の友情は永遠に続きました。

先ほど、紹介した2005年のカリフォルニア州のサンノゼ州立大学の銅像の除幕式には、ピーター・ノーマンも招かれて、出席しています。

この銅像に、ピーター・ノーマンの像が無いのは、彼自身の願い からだったそうです。

ここを訪れた人が、彼が立った(銀メダリストの表彰台)の場所に立ち、それぞれの自分の思いを感じて欲しい と、ピーター・ノーマン願ったため、銅像にはピーター・ノーマンの姿はないのです。

ピーター・ノーマンの銀メダル獲得とその後の苦難を、ずっと見てきていた甥のマットは、大人になり映像作家となっていました。

彼は、ピーター・ノーマンの偉業を映画化するために、動き出していましたが、彼に出資するスポンサーは見つからず、自費で少しずつ映画の製作を進めていました。

そのような中での2006年、映画の完成を見ないまま、ピーター・ノーマンは、突然の心臓発作で、この世を去ってしまいました。

とても少ない参列者しかいない彼の葬儀に、アメリカ合衆国から、トミー・スミスとジョン・カーロスの2人が駆けつけて、彼の棺を運びました。


そして、その2年後、ようやく映画が完成し、最初は僅か15の映画館での公開でしたが、その後の評判が広がり、上映映画館は増え続け、最終的には、国外の6ヵ国でも上演され、その結果、オーストラリア国内でも、ピーター・ノーマンの名前を知る人が増えていったそうです。

更に、その4年後には、オーストラリア議会が、ピーター・ノーマンの名誉を回復するための動議を採択し、彼がオーストラリア国内で受けた不当な扱いと表彰台で行った行を評価しなかったことに対して謝罪し、現在、シドニーの小学校では、授業でピーター・ノーマンの偉業の記録の映画を児童たちに見せているそうです。

私自身、このような崇高な志を貫いた ピーター・ノーマン という人の偉業を知らず、2017年1月26日にフジテレビ系列のテレビ番組「アンビリバボー」で、彼の偉業が紹介されていたのを観て、初めて知り、急ぎ、資料などを集め、このBLOGを作成しました。

どのような苦境が待ち受けようとも、正義を貫くことの素晴らしさ、そして、死後となってしまいましたが、正義に基づいた信念は、必ず、世の中に認められる時が来るのだということを教えてもらいました。 





( 続く )





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その後の運命を決定的にしてしまう行動の巧拙

2017年01月08日 | 歴史あれこれ
一瞬の判断の是非により運命が大きく変わってしまう場合があります。

関ヶ原の戦い(1600年)の徳川家康と石田三成の対応の違いが勝敗を分けたとも言われています。

東軍に寝返った 小早川秀秋の戦場での動き が、勝敗を決定的にしたと言われます。

寝返られた西軍側も、戦闘開始前から小早川秀秋の裏切りの兆候を掴んでいたため、石田三成が小早川秀秋に関白の座を約束するなど、寝返られないよう積極的な働きかけをしていました。

一方の東軍の徳川家康の側でも、本当に小早川秀秋が寝返って味方につくのか怪しく感じていました。

戦闘開始前から小早川秀秋の行動は怪しく、石田三成たち西軍の首脳陣の合議で決められた布陣を無視して、勝手に関ヶ原の戦場が見渡せる要衝の松尾山に布陣してしまうました。

そして、戦端が開かれると小早川秀秋は全く兵を動かさず(西軍側としても東軍側としても参戦せず)、戦闘の成り行きを見渡しながら、いずれかの勝利が見えてきた段階で、優勢な方について参戦する 様子見 の構えをしました。
 
戦闘開始後、東軍と西軍の一進一退の拮抗した状態が続き、いずれの陣営も、大兵力を有する小早川軍が味方として参戦してくれれば ‥‥ との思いが高まっていきました。

この状況に対して、石田三成は、一刻も早く西軍として出陣するよう、何回も使者を送って、参戦を促すという ごく当たり前の方法 で小早川秀秋の参戦を促しました。

しかし、勿論、様子見をして、勝つ方に加担することを決め込んでいる小早川秀秋は、石田三成からの使者が何度来ようが、決して参戦することはありませんでした。

そして、早く寝返って参戦するよう促す東軍の使者に対しても、同様の無視を続けていた小早川秀秋に対し、徳川家康は、諸刃の剣でもある賭け に出ました。

小早川秀秋のいる松尾山に向けて鉄砲を撃ち放したのです。

勿論、小早川秀秋軍にダメージを与えるための発砲ではなく、威嚇のための発砲ですが、この威嚇には、小早川秀秋が激怒して徳川家康の敵側である西軍として参戦してしまうリスク がありましたが、徳川家康は敢えて、そのリスクを承知で、威嚇射撃を行ったのです。
 
結果は、日和見している自分に対して、徳川家康が怒っており、このままでは東軍が勝利した時に、日和見していたことで、徳川家康に、どんな責めを言われるか と小早川秀秋は恐怖に襲われ、直ちに東軍に寝返り参戦をしました。(その結果、関ヶ原の戦いは徳川家康が率いる東軍の大勝利で終わりました。)
 
個人的には、石田三成は嫌いではないですが、豊臣秀吉の死から、この関ヶ原の戦いを経て、大阪の陣に至る経緯のズルさ故に私は徳川家康は嫌いです。

しかし、そのことは別として、関ヶ原の戦いでの小早川秀秋への働きかけの巧拙が、両者の勝敗を分けたと思っています。
 
ただし、石田三成の名誉のために、加えておきますが、小早川秀秋へ行った石田三成の働きかけは決して、酷いものではなく、ごく当たり前の常識的なものであり、常識にとらわれない、大きなリスクを伴う一枚も二枚も上手な決断を徳川家康が行い、実行して成功させた、その差が出ただけで、決して石田三成が何か大きなミスをしたのではありません。

その場に、特に敵もなく、自分の判断で、勝敗を大きく左右できたポイントで、何も出来なかっただけでなく、大失態をして、しかも、その大失態に、気づいてもなさそうな事例が、ごく最近の現代でもありました。

昨年(2016年)夏の都知事選挙(7月31日が投票日)の終盤の7月26日の出来事です。

自民党推薦の増田候補を応援するために、元東京都知事の石原慎太郎氏が応援演説を行い、鳥越候補のことを売国奴だと罵り、続いて小池候補のことを 大年増の厚化粧の女 だという暴言で罵倒した、その瞬間、同じ檀上にいて応援を受けていた増田候補は、写真に写っている通り、大笑いをしてウケていた様子 が記録として残りました。


老害の暴言・失言の常習犯の石原慎太郎氏よりも、その暴言を何の抵抗もなく受け容れた増田氏の人間性が明らかになったことで、彼は5日後、都知事選挙に敗れました。

都民が求めていたは、間違ったことには No をハッキリと言い、正しいものには、どのような妨害があったとしても Yes を貫き通すリーダーです。

自分の応援に駆けつけてきてくれた大物の石原慎太郎氏の発言であっても、間違いなく失言を発した石原慎太郎氏に対して、机を叩いて怒って彼の失言を指摘して撤回させるよう行動すべきだった増田氏は、石原慎太郎氏に対して行動を起こすべきかどうかを躊躇している様子さえなく、写真が示しているようにヘラヘラと笑っていました。

相手が石原慎太郎氏という大物でも、臆せずに毅然とした立派な態度をとっていたならば、恐らく民意の信頼を得て、彼は当選しただろうと思われますが、ヘラヘラと笑っていただけの、あの瞬間に彼の持つ 人間性の乏しさ が露見し、都知事選の敗北が決定的になった瞬間でした。




( 続く )




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オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)

2016年09月25日 | 歴史あれこれ
1699年のカルロヴィッツ条約で領土を初めて失った失ったオスマン=トルコ帝国は、その後200年以上に渡って、領土が縮小して衰退をしていきます。


上の赤色の部分が、現在のトルコ共和国の領土で、バルカン半島、黒海周辺、アラビア半島、アルジェリアからエジプトに至る北アフリカ、地中海の島々を領有していたオスマン=トルコ帝国は、現在の領土はイスタンブール周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)のみとなってしまっています。

バルカン半島では、オーストリア=ハンガリー帝国(旧神聖ローマ帝国)やローマ帝国の支援を受け、様々な国がトルコからの独立を果たし、第一次世界大戦が開始された1914年までに、セルビア、モンテネグロ、ブルガリア、ギリシアがトルコから独立して国家を成立させています。


バルカン半島の国境線の変遷です。

ロシア帝国からは、断続的に戦争を仕掛けられ、1700年以前を除いても、露土戦争 と呼ばれる戦争が第一次世界大戦までに、8回も行われ、トルコ側の2勝5敗1分 とその殆どで負け、オスマン=トルコ帝国の領土がロシア帝国に奪われていきました。

参考までに、それぞれの露土戦争を記しておきます。

1710年~1711年の露土戦争 トルコの勝利

1735年~1739年の露土戦争 勝敗は引き分け

1768年~1774年の露土戦争 ロシアの勝利

1787年~1791年の露土戦争 ロシアの勝利

1806年~1812年の露土戦争 ロシアの勝利

1828年~1829年の露土戦争 ロシアの勝利

1853年~1856年の露土戦争 クリミア戦争と呼ばれ、トルコ側に英仏が参戦したことによりトルコの勝利

1877年~1878年の露土戦争 ロシアの勝利

何回も行われた露土戦争により、オスマン=トルコ帝国の内海で勢力圏だった 黒海 が、黒海沿岸がロシア帝国の領土となっていき、ロシアの勢力圏へと変わっていきました。

そして、この露土戦争の延長上に、ロシアに支援されたバルカン諸国とトルコの戦争の 第一次バルカン戦争(1912年~1913年) 、ロシア帝国とオスマン=トルコ帝国が直接に戦火を交えた 第一次世界大戦(1914年~1918年) へと続いていきます。

北アフリカでも、アルジェリアが1830年にフランス、エジプトが1882年にグレートブリテン・北アイルランド連合王国(通称イギリス)の実質的な支配下となり、オスマン=トルコ帝国の勢力圏が縮小していきます。

こうして、ヨーロッパ列強から 瀕死の病人 とまで呼ばれるようになってしまったオスマン=トルコ帝国は、次々と領土や勢力圏が削られていき、外交上の関係も対等ではなくなっていきます。

トルコの勢力下であったエジプトでムハンマド・アリーが宗主国であるオスマン=トルコ帝国に対して、1831年~1833年と1839年~1840年の2回に渡り、エジプト・トルコ戦争を起こした中で、1838年に通称イギリスが トルコ=イギリス通商条約 を結びました。

通称イギリス側には長期的なトルコを食いモノにしていく狙いが、トルコ側の短期的に反乱を起こすエジプトの力を削ぐ狙いがあり、結ばれた条約ですが、これは 不平等条約 です。

これは、もはや軍事力が上回っていたオスマン=トルコ帝国が、フランスを皮切りにヨーロッパ諸国に16世紀に与えた恩恵的特権であった カピチュレーション とは異なり、関税自主権も喪失した、まぎれもない 不平等条約 に他なりません。

勢力を拡大し、オスマン=トルコ帝国をも滅ぼすかもしれない勢いとなったムハンマド・アリーのエジプトは、トルコ領だったため、トルコ=イギリス通商条約の適用を受け、関税自主権を失い、通称イギリスにより 経済的な大打撃 を受け、力を削がれました。

この事が、短期的にはオスマン=トルコ帝国にとってもプラスになりましたが、結局は1882年には、エジプトは通称イギリスの実質的な支配下となってしまうばかりか、トルコ全土に適用される 不平等条約 により、経済的な大打撃を受け、保護関税を設けれなくなったトルコの綿工業などが壊滅してしまいました。

この1838年の不平等条約は、アヘン戦争敗戦後に清(中国)が1842年に結んだ不平等条約の南京条約に先立つ、最初の不平等条約と言われるもので、開国させられた日本が1858年以降に欧米列強と結ばされた不平等条約へと続いていくものです。

加えてクリミア戦争(1853年~1856年)で通称イギリスとフランスが実際に兵を動員して、ロシアと戦いトルコを助けたことにより、膨大な援助に費やされた戦費などを理由に、戦後、トルコは、英仏の経済的な影響力下に置かれてしまうことになります。

20世紀に入り、トルコを長年苦しめ続けていたロシア帝国が極東のアジア人の日本に日露戦争(1904年~1905年)に敗れる事件に接し、多くのトルコ人を精神的に勇気づけましたが、各国のトルコへの侵食は続けられ、北アフリカに残っていたオスマン=トルコ帝国の唯一の勢力圏にあったリビアの支配を狙ったイタリアが武力攻撃を加えてきました。(1912年~1913年の伊土戦争)

このイタリアの侵略に対して、武装面では劣勢だった ムスタファ・ケマル・アタテュルク(ケマル・パシャ) の奮戦もあり、イタリアの侵攻を防いで一進一退の状況に持ち込むことに成功しましたが、この国家存亡の危機に乗じて、セルビア、モンテネグロ、ギリシャ、ブルガリアによるバルカン同盟諸国が、ロシアの援助に支えられてオスマン=トルコ帝国に宣戦布告した 第一次バルカン戦争(1912年~1913年)も勃発し、首都のイスタンブールを脅かされる事態に直面し、リビアをイタリアへ割譲する講和を結ばざるを得なくなりました。

バルカン諸国に攻められ、遂には首都のイスタンブールも陥落の危険が迫り、講和を結びましたが、次に戦争が行われてバルコン諸国に攻められたならば、もう後のない国家滅亡 の状況にまで追い込まれ、残ったオスマン=トルコ帝国の領土は周辺のバルカン半島(ヨーロッパ)とアナトリア半島(小アジア半島)、アラブ地域のみとなりました。

風前の灯だったオスマン=トルコ帝国に第一次世界大戦の直前に 奇跡 と呼ぶには、あまりにも小さな幸運が起こりました。

第一次バルカン戦争の戦勝国間の獲得領土を巡り意見の対立が発生し、ブルガリアに対して、その他の全ての戦勝国のセルビア、モンテネグロ、ギリシャが戦争状態になりました。(第二次バルカン戦争:1913年)

この戦争にオスマン=トルコ帝国もブルガリアに第一次バルカン戦争で奪われた領土の回復を目指して参戦して、エデルネと東トラキアの一部を回復しましたが、帝国滅亡の危機に直面していることにことには変わりありませんでした。




( 続く )



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BLOGタイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

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BLOGタイトル オスマン=トルコ帝国の盛衰(前編)

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オスマン=トルコ帝国の盛衰(前編)

2016年09月22日 | 歴史あれこれ
1543年に千年以上も続いたキリスト教の東ローマ帝国を滅ぼし、1517年にはエジプトにあった同じイスラム教のマムルーク朝を滅ぼしてカリフを廃位させ、更に勢力を拡大させていきました。


1538年のプレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊を破り、地中海の制海権を奪いました。

その後の1571年のレパントの海戦では、逆にプレヴェザの海戦と同じスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇の連合艦隊と戦い、参戦した285隻中の82%以上の235隻を失う大敗を喫しますが、敗戦から僅か半年で同規模の艦隊を再建し、1573年にはキプロス島、翌1574年にチュニスを占領し、翌17世紀にはクレタ島への征服を断続的に行い、その領有も確定させ、地中海の大半を掌握しました。


また、ヨーロッパ(バルカン半島)方面に対しても、1521年はにベオグラードを征服、1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国を破り、1529年には2ヶ月近くも神聖ローマ帝国(ドイツの帝国)の首都のウィーンを包囲しました。(第一次ウィーン包囲)


第一次ウィーン包囲(1529年)、プレヴェザの海戦(1538年)の時のオスマン=トルコ帝国の皇帝が、帝国の最強時代を築いたと言われるスレイマン1世(在位:1520年~1566年)です。

特に第一次ウィーン包囲は、単に軍勢を率いて神聖ローマ(ドイツ)帝国の首都を包囲したというものではありません。


当時のブルク家出身の神聖ローマ皇帝の皇帝のカール5世(在位:1519年~1556年)は、スペイン国王のカルロス1世(在位:1516年~1556年)を兼ねていました。


カール5世のヨーロッパの領土です。

1492年のコロンブスの大西洋航路発見を支援したスペインは、その後もアメリカ大陸への植民地化を進め、カルロス1世(カール5世)の時代には、中南米を中心に広大な植民地を持ち、彼の息子のフェリペ2世の時代には、フィリピンからアメリカ大陸までに至る 日の沈まない帝国 を打ちたてました。


フェリペ2世の世界帝国(植民地)です。(スペインの植民地となったフィリピンの名前は、フェリペ2世の名前に由来しています)

オスマン=トルコ帝国のスレイマン1世は、当時、世界最強の神聖ローマ帝国の皇帝とスペイン王を兼ねていたハプスブルク帝国の首都のウィーンを攻撃して、2ヶ月近くも街を包囲していました。


オスマン=トルコ帝国は、その後も領土を拡大し続けて、1683年には、帝国の領土が最大になります。


しかし、1683年に強引に大軍を率いて、2ヶ月近くもウィーン包囲(第二次ウィーン包囲)を強行した結果、その後、神聖ローマ帝国との16年に及ぶ戦争が続き、トルコは1699年にロシアを除くヨーロッパ諸国とカルロヴィッツ条約を、1700年にロシアとコンスタンティノープル条約を結び、ハンガリー、トランシルヴァニア公国、スラボニアを神聖ローマ帝国内のオーストリアに、ダルマチアをヴェネツィアに、ポドリアをポーランドに、アゾフをロシアに割譲することが決まり、拡大していった領土が小さくなりました。

これを境に、オスマン=トルコ帝国は、衰退へと向かっていきます。

今回の前編ではオスマン=トルコ帝国の勢力が拡大していく過程を記しましたが、その中で特筆すべき事が起きています。

それは、当時の世界最強のハプスブルク家のカール5世のウィーンを包囲して追い詰めた皇帝スレイマン1世の治世に、ハプスブルク家の領土のスペインとドイツに挟まれたフランソワ1世が治めるフランス王国と共通の敵に対抗するために秘密同盟を結んでいますが、その同盟関係の中において、スレイマン1世が1536年(別説では、スレイマンの死後の1539年)に、フランス人に対して、トルコ領内での恩恵的待遇という意味の カピチュレーション を付与しています。

このカピチュレーションとは、トルコ領内に在住するフランス人に対し、通商・居住の自由、租税免除、身体・財産・企業の安全などを保障し、治外法権 までも認めたものです。

これらの権利は、逆にフランス領内に在住するトルコ人に認められたものではなく、トルコがフランスに与えた一方的な特権で、不平等性 を有するものですが、アヘン戦争に負けた清(中国)や黒船に脅された日本が結ばされた 不平等条約の中の 治外法権 と、中身の内容的には、ほぼ同じですが、特権を認めた経緯 は大きく異なります。

16世紀当時のオスマン=トルコ帝国とフランス王国には、歴然とした力の差があり、オスマン=トルコ帝国の方が圧倒的に強国 でした。

まさしく 恩恵的待遇という意味 で、強者が弱者に対して、特権を与えたのです。

圧倒的な力の差がある場合に、強者は、その弱みにつけこむことを恥とする日本人の伝統的な文化と、何かの共通した部分を感じます。

1699年を境に、オスマン=トルコ帝国の力が衰退していき、元来は 恩恵的な意味で与えた特権が、不平等条約としての意味合いに変わっていく過程は、後編で記していきたいと思います。



( 後編に続く )




オスマン=トルコ帝国の盛衰(後編)

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BLOGタイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

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西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

2016年09月19日 | 歴史あれこれ

歴史学の本質と全く異なる語呂合わせまで使って出来事が起きた年を丸暗記することほどナンセンスなことはないという自論を持っているので、1517年という年を暗記などする必要は全くありませんが、西欧キリスト教世界と西アジアのイスラム教世界の双方にとっても転換点となる出来事が起きた年です。

未だに日本を含めて世界的に欧米中心の歴史観に世の中が支配されていて勘違いしてしまいそうですが、西洋が歴史において常に世界を文化的、実力的に進んでいた訳ではありません。

中世などは(文化的な)暗黒時代と言われ、教会関係者の多くがラテン語で記された聖書も満足に読めず、(当時、まだ西洋では紙は使われていませんでしたが)紙芝居のような絵でラテン語で記されている聖書とも少し異なる教えを行う宗教活動をしていたと言われるほど、文化的に酷いレベルだったそうです。

西欧が他の世界に追いついたのは、もう少し後のことですが、1517年 という年は、偶然にも、西洋のキリスト教世界にも、東洋(中東)のイスラム教世界にも、ひとつの転換点となった年でした。


キリスト教の世界では、ドイツ人の神学者 マルティン=ルター がヴィッテンベルク大学の聖堂の扉に 95ヶ条の論題(正式名称『贖宥状の意義と効果に関する見解』)を掲げ、聖書には記されていない 免罪符販売 をローマ教会が行っていることを訴え、アタナシウス派(カトリック教会)を公然と批判した 宗教改革 を行開始した年が 1517年 でした。


一方のイスラム教の世界では、セリム1世が率いるオスマン=トルコ軍がカイロを占領してマムルーク朝を滅ぼし、イスラム世界での君主の最高位である スルタン キリスト教世界における皇帝のようなもの)の位を奪い、既に1258年に滅亡したアッバース朝のマムルーク朝に保護されていた預言者ムハンマドの後継者を意味するイスラム教スンニ派の宗教的な最高指導者である カリフ (アタナシウス派キリスト教世界におけるローマ教皇のようなもの)を廃位させた年が、同じく 1517年 でした。

西ヨーロッパでの宗教改革の動きは14世紀のイングランドでのウィクリフ、15世紀のボヘミアのフスなどを経た後にルターの宗教改革が起こり、実際には1536年に キリスト教綱要 を著したスイスで宗教改革運動を成功させたフランス人 カルヴァン の提唱した、現世での善業や悪業に関係なく死後に天国へ行ける者と地獄へ行く者とは、最初から神のご意志で決まっているとする 予定説 が広まり、キリスト教の安息日である日曜日に 商業活動(労働)をしても宗教的な規範に反することはないという説が西ヨーロッパ世界で支持されたことにより、その後の世界侵略、産業革命、世界の殆どを植民地化してしまうための出発点を踏み出すことになります。

逆に1517年にマムルーク朝を滅ぼしてカリフを退位させたオスマン=トルコ帝国は、16世紀初頭にはオスマン=トルコ帝国の皇帝が、スルタンとカリフを兼任する スルタン=カリフ制 を行い、中東のイスラム世界では、世俗面だけでなく宗教面においても、オスマン=トルコ皇帝の意向に逆らうことが難しくなり、オスマン=トルコ帝国では、その後に新しく発明された科学技術や制度が、それがイスラム教の教義に適しているか反するものなのかをイスラム教の高僧たちが審議し、適したものだと反対されたもの以外は違法なものとされる社会となっていきます。

例を挙げるならば、蒸気機関(鉄道)や電気、電信、株式会社や銀行などは、イスラム教のコーランに記されていないものであり、オスマントルコ帝国では、当初は違法なものだと判定され、違法なものだとされ、その後様々な新発明や新しい制度を次々と導入していったキリスト教世界と、新しいものの殆どを否定して受け容れなかったイスラム教世界の差が生じていくのです。




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安息日など宗教的な規範による人間の心の健全化と社会の硬直化について

2016年09月19日 | 歴史あれこれ


私は朝晩、必ず仏壇を拝んでいますし、宗教が人に対して良い規範をもたらすことも多くあると思っています。

国語辞典や百科事典で 規範 の意味を改めて確認すると、行動や判断の基準となる模範、手本のことで、信仰を実現するための宗教的な規範の他に、善を実践するための倫理的・道徳的な規範、美を追求するための芸術的な規範、社会に秩序を実現するための社会的な規範などがあると記されています。

(このシリーズで)前回の掲載で言及した一神教の宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教にも、それぞれに様々な 宗教的な規範 が存在します。

BLOGタイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

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様々な違いはありますが、同じ神様を信仰している3つの宗教には共通した規範もあり、その一つが 安息日 です。

天地創造の7日目に神様が休息したことによると言われ、ユダヤ教では土曜日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)、キリスト教では日曜日、イスラム教では金曜日と、曜日が異なりますが、いずれも7日に1日の 安息日 があります。

安息日には、一切の労働が禁止されていて、少し前までの週休1日、現在の週休2日制も、遡れば安息日に辿り着くとも言われますが、逆に言えば現在では、キリスト教徒にも多くの日曜日に労働する人がいるなど、安息日が徹底されている訳ではありません。

性悪説を肯定するつもりはありませんが、他人や社会への被害などお構いなしに人間が無制限に欲望追求をすれば歯止めが利かなくなる危険があり、倫理的・道徳的な規範と並んで宗教的な規範も重要な役割を果たしている部分は否定できません。

しかし、倫理や道徳は時代や社会の変化により 基準を 柔軟に少しずつ変化 させることが比較的容易なのに対し、宗教は 神の言葉 なので、柔軟にその解釈を変更することは難しい部分があり、宗教的な規範が徹底されている社会は、その社会が 硬直化してしまう 傾向に陥ってしまう場合があります。

バランス感覚だと言ってしまえば簡単ですが、人間を良い方向へ導くための 規範 の有効性と社会の 硬直化 のリスクの回避を上手に実現できる社会は、理想的だと言うことは、間違いないと私は思います。




※BLOG本文で記した内容は、各宗教を批判・冒涜するような意図で記したものでは全くありませんので、お読みになられた(それぞれの宗教を)信仰されている方が、不快に感じたならば、(そのような意図は私には全くありませんが)心よりお詫び申し上げます。



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BLOG記事タイトル カトリック=アタナシウス派

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BLOG記事タイトル イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

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BLOG記事タイトル 西暦1517年がイスラム教世界とキリスト教世界の歴史の一つの転換点でした

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イスラム教の神もキリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神様です

2016年09月15日 | 歴史あれこれ

ご存知の方も多いかと思いますが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神様は、同じ神様です。

これら3つは共に聖地エルサレムから出た 一神教 なので、ユダヤ教では アドナイ 、キリスト教では デウス 、イスラム教では アラー などと呼ばれますが、いずれも同じ神様である ヤハウェ のことを指しています。

ユダヤ教は紀元前13世紀、キリスト教は紀元1世紀、イスラム教は紀元7世紀と3つの宗教の成立した時代が大きく異なりますので、同じ神様とはいえ、ユダヤ教は以降に成立したキリスト教とイスラム教を、キリスト教はイスラム教を認めていませんから、(最も新しい)イスラム教から見た場合にのみ3つの宗教の神様は同じだということになります。

キリスト教(の聖書)は、旧約聖書と新約聖書の2つから成り、両者を合わせて聖書だとされますが、旧約聖書とはユダヤ教の聖書のことで、ユダヤ教徒にとっては旧約聖書のみが聖書です。

また、ユダヤ教の預言者であるエレミヤやエゼキエルなどはキリスト教の中でも 預言者 として扱いをされており、イスラム教でも同じく 預言者 としての扱いをされています。

(キリスト教の)イエスを例として説明すれば、3つの宗教の関係が解りやすいです。

キリスト教の立場からすれば、神を信じるユダヤ民族だけが最後に救われるという 選民思想 を持つユダヤ教から脱却し、民族に関係なく、神を信仰する者は全て救われるという教えのキリスト教を作ったのが、イエス であり、後にキリスト教の主流となったアタナシウス派の説である 三位一体説 により、イエスは神と同等の位置にある人間ではない神性を持った存在だとされています。

ユダヤ教から見れば、イエスは 救世主(メシア)を語った偽物 である、許しがたい存在でが、後に成立したイスラム教では、イエスは 預言者の一人 としての扱いを受けて評価されています。

ただし、イスラム教では、イエスは、キリスト教(のアタナシウス派)が言うような神ではなく、あくまでも人間です。

遥か昔より、数々の偉大な預言者を世の中に出現した中で、イスラム教では、最大にして最後の預言者が、ムハンマド(マホメット)であり、彼により語られた神の言葉が記されたものが コーラン です。

ちなみにユダヤ教にも、イスラム教にも、預言者は登場しますが、彼らはあくまでも人間であり、創始者であるイエスを 神と同等と位置づけているキリスト教(のアタナシウス派) が特異だとも言え、三位一体説を主張していますが、ユダヤ教やイスラム教より 一神教ではないのでは? との批判を受ける部分でもあります。

個人的には、古代より日本で育まれた 森羅万象 に神の発現を認める 八百万神(やおよろずのかみ)の方が、心が穏やかになり良いと感じるので、本当に正しいかどうかは別として、宗教学を突き詰めるという思想学としての学問的な見地からすると、一神教と偶像崇拝の禁止 に辿り着くそうで、その意味では、キリスト教よりも、後発で成立したイスラム教の方が、一神教と偶像崇拝の禁止を徹底している宗教だと思います。



※BLOG本文で記した内容は、各宗教を批判・冒涜するような意図で記したものでは全くありませんので、お読みになられた(それぞれの宗教を)信仰されている方が、不快に感じたならば、(そのような意図は私には全くありませんが)心よりお詫び申し上げます。




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カトリック=アタナシウス派

2016年09月14日 | 歴史あれこれ
ローマ教皇(法王)がキリスト教世界の頂点に立っているような言い方をする日本のマスコミも存在しますが、ローマ教皇は俗に言うカトリック教会の頂点の存在であって、全てのキリスト教の代表者ではありません。

主に西欧からアメリカ大陸へ広がる西方教会には、カトリック以外にも俗に言う(各派の)プロテスタント があり、主に東欧には 東方教会(ギリシア正教会) があり、ローマ教皇の力の及ばないキリスト教の宗派が多くあります。

カトリックという言葉が、ギリシャ語の katholikos という 普遍的 という意味の言葉から由来するそうですが、大学時代に 哲学・倫理学 を専攻していた私には、思想学としての宗教学として、キリスト教徒でない私からすれば、普遍的という感じはしないので、自分の心の中では アタナシウス派 だと捉えています。

尚、私はキリスト教徒ではなく、キリスト教は賛美もしなければ、冒とくするつもりも全くなく、思ったことを記しているだけなので、信者の方などが、気分を害されることがあれば、どうか、お許しいただきたく存じます。

アタナシウス派は、日本の高校の歴史の教科書にも、4世紀(西暦325年)に開かれた(第一)ニカイア宗教会議 において、イエスの存在が人間かどうかの解釈において、人間面に重きを置いていたアリウス派の主張に対して、アタナシオスらが主張した、神、イエス=キリスト、精霊の3つが全て神性を持っているという 三位一体説 が勝利したことが記されています。


(ニカイア宗教会議)

少し余談になりますが、歴史の教科書には、その辺りの出来事を、三位一体説を主張した代表者だったアタナシオスの名前から、アタナシウス派 と記されていますが、キリスト教の世界で、アタナシウス派なる用語で呼ばれることは殆どないそうで、主張が勝利したニカイア宗教会議の地名に由来する ニカイア派 などの用語が一般的だそうです。

(しかし、日本の教科書にも載っているアタナシウス派という用語を用いて、これから先も書き進めます)

ローマ教皇の力の及ばない東方教会やプロテスタント各派も、アタナシウス派から派生したため、広い意味では、全てがアタナシウス派と呼んでも差し支えないのですが、大筋では、キリストの神性を認めながらも、三位一体に対する解釈 が微妙に異なるため、狭義の意味で、ローマ教皇の力の及ぶ、俗にカトリックと言われる宗派を私はアタナシウス派だと呼んでいます。


(ローマ教皇庁のあるバチカンのサンピエトロ大聖堂)


最後に大学時代に宗教学を学んだ経験より ‥‥

この事が、本当に正しいのかどうかは、未だに自分自身でも解りませんが、 という存在を突き詰めていくと、2つの事に辿り着く ‥‥ と。

一つは、神は唯一の絶対的な存在なので、一神教 に向かっていく。

神は、全知全能な絶対的に高い存在なので、人間ごときが想像できないような凄い存在だから、偶像崇拝からの脱却 が起こる。

一神教と偶像崇拝の禁止 の2つが、思想学的な見地から、優れた突き詰められた宗教ということになるそうです。

アタナシウス派は、イエスに神性を与えることで、一神教から遠ざかり、三位一体説という苦しい解釈をし、更にイスラム教からの批判に応えて偶像崇拝を禁止した東方教会(ギリシア正教会)や、プロテスタント各派の多くが禁止している偶像崇拝を一度も否定したことのないローマカトリック教会は ‥‥‥ と、個人的に感じる部分もあります。




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たった4ヶ月で国産の火縄銃を完成させ、黒船の二年後には蒸気船を作った日本人の凄さ

2016年09月05日 | 歴史あれこれ

日本人が科学技術面で大きな衝撃を受けた出来事として1543年の種子島での鉄砲伝来と1853年の浦賀への黒船来航を挙げることが出来ます。

火縄銃に関しては最近では種子島よりも前に倭寇により日本に伝わっていたとする説が有力ですが、特筆すべきことは、火縄銃の実演を見た2梃(一節には3梃)を購入した種子島の島主・種子島時堯に複製を作るように命じられた刀鍛冶の八板金兵衛らが、たった4ヶ月という短い時間 で日本初の火縄銃を完成させたことです。

当時の人口(比率)は解りませんが、現在の種子島の人口や約3万3千人で、日本全国の人口(約1億2千8百万人)の たった 0.0026% にしかすぎません。

物凄い確率の中で、大天才の刀鍛冶の八板金兵衛が種子島に偶然にも住んでいたいたと考えるようりも、種子島にいた(全国で)平均的な能力を持った刀鍛冶が、短期間で火縄銃を複製できるほど、当時の日本人の技術がいかに凄かったかを物語るものだと私は思います。



その証拠に、戦後時代だったこともありますが、その後、日本の各地で、(国産の)火縄銃が次々と作られていったように、八板金兵衛だけにしか火縄銃を作れなかったのではありませんでした。

国産の火縄銃を作るにあたって、西洋人からの指導は全く受けずに完成させたのですが、複製するために分解するサンプルがありました。


しかし、黒船が来航して、日本人が初めて目にした蒸気船については、指導する西洋人の技術者もいなければ、複製するために分解などを行うサンプルも全くなく、オランダ経由で取り寄せた書物だけで、蒸気船の製作を行い、黒船来航と同じ1853年中に佐賀藩が模型の蒸気船を、2年後の1855年には、薩摩藩が国内初の蒸気船の 雲行丸 を、更にその2年後の1857年には宇和島藩が蒸気船を 独力で完成 させていおり、日本人の凄さを物語っています。





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沖縄を駆け抜けた聖火ランナーたちに沿道で禁止されていた日の丸が振られて声援が送られた日

2016年07月30日 | 歴史あれこれ

リオオリンピックの開幕が直前に迫り、4年後の2020年には東京オリンピックの開催が予定されています。

前回の1964年の東京オリンピックが行われた時、沖縄はアメリカ合衆国の占領下に置かれていました。

その当時の沖縄では、許可されていた祝日以外に日の丸を掲げたり、旗を振ることは、禁止されていて、その規則を破れば、米軍に罰せれるという酷い状況にありました。



オリンピックの開会式のクライマックスは、聖火リレーの最終ランナーが聖火台に点火する場面です。(写真は1964年の東京オリンピックの写真)



古代ギリシアのオリンポスの祭典をヒントに1896年より開始された近代オリンピックですが、最初から聖火リレーによる聖火が行われていたのではありません。

紀元前のギリシアで行われていたというオリンピアのヘーラーの神殿跡地で採火された日を聖火台に点火したことをオリンピックの慣例行事に取り入れたのは、何とヒトラーによるナチス支配下のドイツで行われた1936年のベルリン大会からです。


(ベルリンオリンピックのヒトラー)


(1936年のベルリンでの聖火リレー)

その後、聖火リレーは、聖火が通過する場所では、オリンピックが開幕する前から、大きな盛り上がり を見せる、一大行事に発展していますが、既に1964年の東京オリンピックの時にも、ギリシアから運ばれてきた聖火は、日本の全ての都道府県を通って、最終目的地の東京に到着するよう、計画されていました。

聖火リレーの最終地点が東京都だったのに対して、出発地点は ‥‥ というと、沖縄県 でした。

当時の沖縄は、アメリカ合衆国の軍事占領下に置かれていて、本土復帰を果たせていませんでしたが、聖火が全ての都道府県を通るということが決まった時、沖縄も日本の一つの県として、聖火リレーが行われる場所として、決まったのです。

下記のURLの日本オリンピック委員会のホームページに詳しく記されていますが ‥‥‥


http://www.joc.or.jp/past_games/tokyo1964/story/vol01_02.html


開会式の約2ヶ月前の8月21日にギリシャのオリンピアにあるヘラ神殿跡で採火され、トルコ、レバノン、イラン、パキスタン、インド、ビルマ、タイ、マレーシア、フィリピン、香港、台湾を経て、9月7日に沖縄に到着しています。(その後、聖火は4つのリートに分かれ、九州と北海道から、それぞれ東京を目指してリレーされていきました)

9月8日から沖縄本島での聖火リレーが開始されましたが、ギリシアを出発してから沖縄までの到着の遅れや、今後の遅れを懸念して、オリンピック委員会からは、分火して先へ進めるよう指示がり、9月9日には聖火は鹿児島に空輸されましたが、沖縄に残った聖火は、その後も9月11日の那覇空港に至るまでの5日間、沖縄本島一周の総距離 247.1km、正走者・副走者・随走者合わせて3,473名の聖火リレーが行われました。



前述した通り、占領下の沖縄では、日の丸を掲げたり、日の丸を振ることが禁止されていましたが、そのような米軍の命令など、お構いなく、多くの沖縄在住の日本人が、沿道で日の丸を振って、聖火ランナーに声援を送りました。

下記のURLの沖縄県公文書館のホームページにて、当時の日の丸を振って応援する県民の写真を見ることが出来ます。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/exhibition/2015/03/post-456.html


聖火ランナーの後に、何旗もの日の丸が写っています。


とても皮肉な写真も残っていて、ランナーが走っている後方の丘陵は、米軍の施設なのでしょうか? 星条旗が写っています。






沿道で多くの日の丸が写真に写っています。

処罰など恐れず、祖国である日本への思いを抱いて、全身全霊で応援している沖縄県の方々の写真を見るだけで、涙が溢れでてきました。

これほど大勢の沖縄県民が、規則を破って、日の丸を振って、聖火ランナーに声援を送りましたが、さすがにアメリカ合衆国の占領軍も、これらを全て黙認し、誰も処罰される人間はいなかった そうです。





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絶対に国民が選挙権を手放しては駄目です! 全権委任法を成立させてしまった苦い歴史の教訓から学ぶべき

2016年07月09日 | 歴史あれこれ

国民が選挙で選んだ為政者が実は酷い人間だったと解った場合でも、次回の選挙で、酷い人間たちを落選させることにより、過ちを正して酷い状況から抜け出ることが可能です。

よって選挙が正しく行われることが求められ、不正が行われないように目を光らせる必要があります。

酷い人間を選挙で選ばなければ何の問題もないのですが、日本に限らず、世界中を見渡しても、正直に自分の長所も短所も包み隠さずに曝け出して国民の真を問うような選挙姿勢の立候補者よりも、自分がいかに素晴らしいかという部分を上手にアピールできた人間がウケるため、当選後の実際を見て、(私が投票して)当選した人が、こんな酷い人だとは思わなかった という、失望感、裏切られた感が生じることは、辞任した舛添東京都知事のケースだけにとどまらず、歴史を紐解けば、数多くの事例があることを私たちは知っています。



しかし、選挙で選んだ為政者が失敗だったと気づいても、二度と選挙が行われず、選んだ為政者の やりたい放題 で、誰も止めることが出来ずに、国民が苦しむようなことが起こったならば、それこそ、大変な事態です。

世界で初めて社会権が盛り込まれた、出来た当時は最も進んだ憲法だと言われたドイツの ワイマール憲法 の下で、このうえない酷い事態が起こりました。

第一次世界大戦で負けたドイツで敗戦した年(1918年)に出来たのが、ワイマール憲法は、人間が人間らしく生きていく権利(生存権)や誰もが教育を受けられる権利(教育権)、労働者の労働環境などの基本的な様々なことが守られる権利(労働基本権)、各種社会保障など、基本的人権が守られることなど、社会権 が世界で初めて明記された憲法で、その後の各国の憲法の模範となった、当時、世界で最も進んだ憲法と言われていました。

このワイマール憲法下のドイツで1933年の総選挙が行われた結果、第一党となったのは、ヒトラー率いるナチス党(正式名は国家社会主義ドイツ労働者党ですが、以降、ナチス党と表記します)です。

議席数2位のドイツ社会民主党の120議席の倍以上の288議席を獲得したナチス党ではありましたが、しかし、(ナチスの得票率は43.9%で)議席獲得率は 45% にすぎず、過半数すら獲得してはいませんでした。

288議席で議席数1位のナチス党は、73議席で議席数4位の中央党と52議席で議席数5位のドイツ国家人民党と連立して組閣して、120議席で2位のドイツ社会民主党や81議席で3位のドイツ共産党を抑えて、ヒトラーが首相に就任しますが、この内閣でのナチス党の入閣者は、首相のヒトラーを含めても3人しかいません。

当時のドイツの内閣は合議制で、ドイツ国家人民党の党首で副首相となったフランツ・フォン・パーペンは、自分たちが内閣の実権を握るつもりで 「二ヶ月もしないうちに、ヒトラーは隅っこのほうに追いやられて、泣いているだろう」 と内閣成立時に親しい関係者に語っていたそうです。

しかし、当時のドイツは連邦制をとっており、全国の警察を管轄する権限を獲得できなかったナチスは、強く要求した首都ベルリンを含むプロイセン州の管轄権を獲得していました。

ヒトラー政権が成立した29日後の1933年2月27日。首都ベルリンで 国会議事堂放火事件 が発生しました。

現場にいたとされるオランダ共産党員の男が現行犯逮捕されましたが、ベルリンの警察権を掌握していたナチスは、ドイツ共産党による組織的な犯行だと公言して、国会議員を含むドイツ共産党員を国家転覆の容疑で、一斉に逮捕・勾留しました。

ナチスにより自作自演による放火だったのではないかという説も未だに強く残っている国会議事堂放火事件については、下記のURLのBLOG記事の後半部分で、詳しく説明を載せております。

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/f1e7ddfe8387ea2f5c7ba19d806022d4


事件の翌月にナチス党が提出した、全ての国民が選挙権を持ち行われる普通選挙により選ばれた国会議員たちによる国会で成立した 史上最悪の法律と言われる全件委任法 が可決・成立しました。(1933年3月23日)

この法律を説明すると、本来は立法権を有する国会に代わって、国会の審議を経ないで法律を作る権利を行政権、つまり為政者に与えるという法律で、為政者の作る法律は、憲法に定められた事柄に優先されるというもので、事実上のワイマール憲法の終焉、無力化を意味するものでした。

憲法とは、本来、立法府である国会で審議・成立する法律よりも上位に位置づけられるもので、例え話としての極論として、女性よりも男性の方が人数が多い日本の国会で、男性議員が結託して、女性奴隷化法なる悪法を多数決で仮に可決してしまったとしても、その法律は、日本国憲法で定められている男女平等に反する内容のものであるから、違憲に該当するので、法律として成立しないというような仕組みとなっていて、憲法は法律より上位に位置されています。

第一の問題点は、当時の最高水準と言われていたワイマール憲法には、憲法が法律より上位に位置しており、成立した悪法で憲法が簡単に形骸化してしうことを防止するシステムが盛り込まれていなかったという欠点があったことです。

第二の問題点は、議席獲得率が50%未満だったナチス党が反対政党の国会議員に対する不法逮捕と、それ以外の党へのナチス武装集団の突撃隊を使った脅迫や嘘を並べた懐柔工作により、法律成立に必要な国会議員の 2/3 の票 を確保したことです。


詳細は上の表の通りで、全件委任法に反対することが確実だった81人のドイツ共産党議員は、不法逮捕や亡命による国外避難により全員が国会に出席できず、同じく法案に反対だったドイツ社会民主党の国会議員のうちの26人はナチスの妨害などにより国会に出席できず、94人が反対票を投じたものの、ナチス党以外の党も、全て賛成票を投じたため、天下の悪法と言われた 全件委任法 が成立してしまったのです。

このBLOGの冒頭で、酷い為政者は、次回の選挙で落選させれば ‥‥ と書いていますが、この法律が成立した1933年3月以降、ナチス政権下のドイツでは、(為政者を落選させることを可能とする)選挙が行われることはなかったのです。

どういうことかといえば、同年(1933年)7月にはナチス党以外の政党の存続と新党結成が法律により禁止され、11月に国会議員選挙が行われましたが、立候補できる候補者は全てナチス党員なので、選挙により為政者であるヒトラーを落選させることなど出来ません。

その後、1936年と1938年にも、ドイツでは総選挙が行われていますが、立候補者は全てナチス党員なので、ナチスへの反対意見は、決して選挙では反映されることはありませんでした。

翌1934年にヒンデンブルク大統領が死亡して、その職もヒトラーが引き継ぎ、首相と大統領を兼任した総統(Führer)となり、その後は、政治犯の強制収容所への収監、ユダヤ人の公職追放やドイツ人との結婚の禁止(ニュールンベルグ法)や財産の没収、身体障害者への強制去勢・不妊手術の実施などの迫害、国際連盟からの脱退、再軍備化やラインラントへの進駐、第二次世界大戦への参戦やユダヤ人やスラブ人への虐殺など、挙げればキリがない数々の悪業を、国民の意向に関係なく行っていきました。

ナチスによる独裁政治は、第二次世界大戦で1945年にドイツが敗戦するまで、終わることなく続いたのですが、この悪名高い全件委任法は、あくまでも 国家の危機を乗り越えるための緊急対策法として、提出され、可決された法律であり、この法律の正式名称は 民族および国家の危難を除去するための法律 です。

法律の有効期限も、4年間の時限法案 で、ナチスは、期限延長などで、1945年まで、12年間、この法律に基づく独裁体制を続けていました。

国民主権の体制を守りぬくための過去の失敗から学ぶ歴史的教訓として、緊急時の超法規的な時限立法 という名目で、延長手続きを繰り返し実施可能で、結果として、選挙により為政者を引きずり下ろすことの出来ないような仕組みが成立してしまうようなことには、絶対に Yes を出さないことが、最も重要だと思います。

敢えてデリケートな話を述べます。

日本における憲法9条の 戦争放棄 に関する部分について、私個人は、強いて言うならば、現在の周辺諸国の状況を鑑みるならば、この部分については、無くした方が良いと思っていますが、こればかりは相手(国)のあることなので、平和を維持するために、憲法の戦争放棄の条項をを無くした方が良いのか、現状維持を続けていた方が良いのか、どちらが得策なのか、正直、絶対的な自信がある訳ではありません。

また、良いことなのか、悪いことなのかも、難しい部分ですが、某国の尖閣諸島への進出が、これ以上、激しくなるようならば、憲法9条の改正を外交カードとして、チラつかせて、某国の無法者行為を牽制することに使えるかもしれないとも思います。

いずれにせよ、現在の日本において、憲法第9条を改めるべきだとの思いを抱いている人の多くも、逆に現状維持すべきだとの思いを抱いている人の多くも、最終的な願いは、平和の維持 という共通の思いであり、その実現のための方法論が、180度違っているにすぎないと私は思います。

無責任な言い方かもしれませんが、いずれが、平和維持のために、ベターな選択なのかは、やってみないと解らない部分があり、相手(国)がいるので、完全な予測など、誰も出来ない面があると思っています。

だからこそ、国際情勢の変化や予想と違った結果が出てきてしまう事態も十分に考えられ、そうした状況変化に応じて、その都度、民意がいつでも反映できる仕組みだけは、絶対に崩さない、緊急事態という名の下に、為政者が何でも出来るような仕組みだけは、決して許してはいけないと、思うのです。

このBLOGを掲載する翌日の2016年7月10日には、参議院選挙が行われます。

幸いにして、現在の日本では、誰もが選挙権を持ち、場合によっては、酷いことをする国や地方自治体の立法府である議員や国会議員から選出される国の行政を担う内閣、地方自治体の行政のトップである知事や市町村長を落選させることが出来ます。

国民主権を堅持して、民意が反映させる制度を未来永劫、続けていくために、国民が実践していかなくてはならないことは、次の2つだと私は思います。

1つは、国民全員が持つ選挙権を大切にして、各自が、真剣に自分の現在のこと、将来のことを見据えて、自らの思いを投票すること。

もう1つは、投票の集計システムに不正がないかをしっかりと監視すること。

膨大な投票用紙を1分間に何百枚というスピードで、専用の機械で集計が行われていると言われますが、人間の目では追いきれない、このシステムに誰かが不正を働く装置が組み込まれないよう、しっかりと監視できるシステムの構築などが、今後、益々、重要になってくることも事実です。




--- 関連情報 ---



私のFacebookの友人でもある夢月物語さんの亡くなられたヨガの先生が、もう助からない生命であることを知りながらも病床より不在者投票を行った選挙権がいかに大切かを教えてくれるBLOG記事です。
タイトル 命の期限知る・・・でも投票の意思

http://blog.goo.ne.jp/corgi_yume/e/36dbfb50c79859d211461a5ae6e64369




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言いがかり甚だしい方広寺鐘銘事件の鐘は今でもそのままの形で残されています

2016年07月03日 | 歴史あれこれ

関ヶ原の戦いに勝利し、豊臣家の領地を220万石から65万石に減らして一大名に落とし込み、江戸幕府を開いて将軍職を息子の徳川秀忠に譲り、徳川家の支配体制を磐石なものとした徳川家康でしたが、その晩年に豊臣秀吉の遺児の豊臣秀頼を何としてでも葬りたいと なりふり構わず に言いがかりをつけたのが、有名な 方広寺鐘銘事件 です。

65万石に領国を減らしたとはいえ、豊臣秀吉が残した膨大な金銀が大坂城には残っていたので、その財力を減らさせるために徳川家が豊臣家に再建を勧めて完成した方広寺の巨大な鐘に刻まれた銘文の中に 国家安康 君臣豊楽 の文字を見つけ、これは 家康の名を引き裂き、豊臣家を讃えるもの だという、小学生でも唖然としてしまうような酷い言いがかりをつけました。


多くの文字の中から、よく、探したものだと、呆れてしまいます。


結局は大人気の大河ドラマ「真田丸」でも、いずれ扱われる 大阪の陣(冬の陣と夏の陣) で、最大で両軍合わせて30万人ほどの兵力が激突して、多くの生命が失われ、豊臣氏も滅亡しました。



戦争が起きる前に、豊臣方は、悪意が全くない ことを必死に説明しましたが、何が何でも戦争をしたかった徳川家康は、決して許さず戦(いくさ)となりました。

本当に、どんなに謝まられても許さないほど怒った 国家安康 君臣豊楽 の文字ならば、大阪冬の陣での和議成立後、遅くとも夏の陣が終了して豊臣家が滅亡した後に、直ちに方広寺の鐘は処分するなり、銘文の修正や削除がなされるべきなのに、まった何もなく、江戸時代を経て、21世紀の今日まで、鐘が現存しています。

せめて、鐘を何とかしなければ、後世に恥を残す ことになるとは思わなかったのでしょうか?

同じような話が20世紀のドイツでも起こりました。

1933年にヒトラー率いるナチス党が選挙で第1党を獲得しました。

しかし、獲得議席は全体の45%ほどしかなかったため、大臣のポストのうち、首相のヒトラーを含む3つの大臣しかナチス党は獲得できない連立内閣でしかありませんでした。

大臣ポストこそ、少なかったものの、ナチスは首都ベルリンの警察を管轄するトップであるプロイセン州内相のポストを得ていました。

そうした時に、ドイツの国会議事堂が火に包まれました。

現場にいたとされるオランダ共産党員のオランダ人ルッペが逮捕されましたが、ナチスはドイツ共産党員による組織的なテロ行為だと断定して、共産党議員たちを一斉に逮捕しました。

全体の約13%の81議席を有していた共産党議員は全員、逮捕・拘束された後、ワイマール憲法を無力化するための 全権委任法 が国会に提出されました。

81人の共産党議員は逮捕されていたため国会に出席できず、逮捕を免れたドイツ社会民主党の91人の議員が反対票を投じたものの、他の政党はナチスに脅迫されて賛成票を投じたために法律が成立してナチスの独裁体制が確立されてしまいました。



この国会議事堂放火事件は実はナチスによる自作自演の放火だったのではないかという説もあり、現在でも議論が分かれています。



いずれにせよ、国会など無視して、政府が自由に法律を作ることが出来るようになった全権委任法が成立した後、ナチス党以外の政党は全て解散させられ、新しい党を作ることも法律で禁止されました。

よって 有形無力 となった国会ではありますが、その後、1933年11月、1936年、1938年と、立候補者はナチス党員だけという選挙が行われましたが、(国会は代替会場にて実施され)1945年の第二次世界大戦敗戦によるナチス政権の終焉まで放火により燃えてしまった国会議事堂が修復されることはありませんでした。

数日前より、改正後の日本国憲法には、国民主権 基本的人権の尊重 平和主義 の3つなど不要だと主張している自民党議員たちの発言とされる動画がネット上に出回っています。

憲法第9条の平和主義に関しては、平和を追求する思いが強い人の間でも賛否が分かれるため、平和主義に関しては置いておいたとしても、国民主権と基本的人権の尊重など必要ないという主張は 日本を北朝鮮のような国にしたいのか! という反対意見は、多くの人が共感するところではないでしょうか。


https://www.youtube.com/watch?v=ltgMy3c937E
これがネット上で出回っている動画です。

画像がとても汚いことと、これを観た殆どの人が10日の参議院選挙で自民党に投票しようとは思わないような酷い内容であり、本当の映像なのか? 偽造された動画ではないのだろうか? とさえ思う部分があります。

いずれにせよ、もしも、この動画の発言内容が本当だとしたならば、選挙で選ばれただけの国会議員が、どうして、国民に権利を与えたり、奪ったりする上位に位置する人間だと言わんばかりの 上から発言 が出来るのか、疑問を感じずにはいられません。

あまりにも酷いことをすれば、落選させられてしまうというのが民主主義国家の制度ですが、その盲点を突いて、全てを無力化して独裁体制を確立させてしまったのが、ナチスの全権委任法 でした。

このような酷いことが絶対に起こらない仕組みがあれば、何も恐ることはありませんが、逆に、このような酷いことが起こり得るような危険が少しでもあれば、まずは、その危険を排除する必要があります。



続編として、ナチスによる全権委任法が成立した件に関するBLOG記事を掲載しました。
タイトル 絶対に国民が選挙権を手放しては駄目です! 全権委任法を成立させてしまった苦い歴史の教訓から学ぶべき

http://blog.goo.ne.jp/pizzica0912/e/ab5de51ffa5beb9e16cc8cb4f0cfd9e9




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ヨーロッパで皇帝を名乗れるのは2人だけでした

2016年06月29日 | 歴史あれこれ

王様より皇帝の方が格が上です。(権力者が勝手に皇帝職を名乗ることが出来るので例外は存在しますが)一般的に洋の東西を問わず、王より皇帝が格上とされてきました。

20世紀に清朝が滅ぶまで歴代の中国のトップは王ではなく皇帝でした。


紀元前3世紀に500年以上に及ぶ春秋戦国時代の分裂状態を終わらせ中華統一を果たした人気漫画のキングダムにも登場する秦王の政は、王様の更に上の 皇帝 という位を作り、自ら 始皇帝 を名乗りました。

それ以降の中国の歴代王朝のトップは、皇帝 を名乗り、その後、2000年以上も周辺諸国の王様よりも中国の皇帝は格上だという態度を貫きました。

王様の格について、現在のアラビア半島の国々をみると明らかになることがあります。


アラビア半島にあるイエメンは共和国なので別として、オマーンには国王が存在しますが、カタールとアラブ首長国連邦を構成する7つの国の長は、アラビア半島内のサウジアラビア王に経緯を払い(遠慮して)王ではなく、(王より格下の)首長を名乗r、周辺地域で誰が格上なのかを示すことで不要な争いを避けようとしています。

21世紀の現在、既に皇帝は存在しませんが、今でもヨーロッパには7人の王様が、オランダ、グレートブリテン・北アイルランド連合王国(通称イギリス)、スウェーデン、スペイン、デンマーク、ノルウェー、ベルギーにいます。

ヨーロッパには多くの国に国王がいましたが、過去の歴史を紐解いても(一部の例外を除いて)皇帝だけは2名しかいませんでした。


西暦395年にローマ帝国が分裂した時の地図で、領土が現在のヨーロッパ各国の領土を完全には一致していませんが、赤色の地域が西ローマ帝国、青色の地域が東ローマ帝国として分裂して、それぞれの皇帝が統治を行うことになりました。


上の画像は分裂する前のローマ帝国の国旗には、鷲が描かれていました。

分裂後に100年も経たずに476年に西ローマ帝国は滅亡しましたが、東ローマ帝国は1453年まで続きます。


上の画像は東ローマ帝国の国章ですが、ローマ帝国時代の(頭が一つの普通の)鷲ではなく、双頭の鷲 が描かれています。

西ローマ帝国が滅んだ後、西暦800年にフランク王国のカール大帝がローマ教皇より戴冠され、西ヨーロッパでも皇帝位が復活(843年まで)しました。


現在のドイツとフランスとイタリアの一部まで及ぶ広大な地域がカール大帝が戴冠された時代のフランク王国の領土です。

その後、フランク王国はドイツ、フランス、イタリアの3地域に分裂し、紆余曲折を経て、962年にはドイツ王のオットー1世が戴冠され、初代 神聖ローマ帝国の皇帝 となり、以降、ドイツ王が皇帝位を世襲することになります。


初代オットー1世はイタリア北部も支配していましたが、名前こそ ローマ という都市名が付いていますが、実質はイタリアの国ではなくドイツの国です。

15世紀以降はハプスブルク家が帝位を世襲化したため、その本拠地だったウイーン(現在のオーストリア)が神聖ローマ帝国の首都だったと思われがちですが、首都はウイーン以外にも、ニュールンベルク、アウグスブルク、フランクフルトなど、各地を転々と移動していて、チェコのプラハ(1346年~1437年、1583年~1611年)だったこともありました。


1611年以降は現在のドイツのバイエルン州の東部にあるレーゲンスブルクが首都に固定されました。


現在のレーゲンスブルクは、このような綺麗な景色な街です。

明治維新に移行する際に、当時の日本は江戸時代の鎖国政策と幕藩体制により通称イギリスやフランスなどのように中央集権化がされていなかった遅れを取り戻すためにも明治維新が必要だったという話を中学校の歴史の授業でも教わりますが、ヨーロッパでも分裂状況が長く続いて中央集権化が遅れていた国の代表として、イタリアと並んでドイツが挙げられます。

首都が転々と移動してきた歴史からも解る通り、神聖ローマ帝国の皇帝職を名乗っていても、皇帝のお膝元であるドイツ国内も満足に掌握できていなかったのが実情で、神聖ローマ皇帝を名乗るドイツ王が、フランスなどの周辺諸国の王に比べて、その力が上位な訳では全くありませんでした。


国旗だけは、西ヨーロッパ世界での唯一の西ローマ帝国の後継者であることを自負していたので、東ローマ帝国と同様に、双頭の鷲 が国旗に描かれています。

1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、最後の東ローマ皇帝の姪と結婚したモスクワ大公国の王子が ロシア皇帝 となります。


上の画像のロシア帝国の国章も、双頭の鷲 が描かれていて、東ローマ帝国の後継者であることを誇示しています。

東ヨーロッパのロシア以外の各国の支配者は、王を名乗り、皇帝を名乗らなかったので、東欧世界においても、皇帝は1人という伝統は守られました。

ヨーロッパの皇帝は東西に各1名の2人だけという長く続いた伝統を破った人物はナポレオンです。


神聖ローマー帝国を破り、帝国を解体させた上で、ハプスブルグ家の皇帝には、新たにオーストリア皇帝に就くように認めさせ、自らはローマ教皇に圧力を掛けて、フランス皇帝に即位しました。

ロシアにはロシア皇帝が、西ヨーロッパにはオーストリア皇帝とフランス皇帝のナポレオンの2名が存在する 合計で皇帝が3人 いる状況が発生しました。


双頭の鷲が描かれ、東ローマ皇帝の後継者を自称しているロシア帝国の国章ととても似ているこの国章は、ナポレオンの圧力により、神聖ローマ帝国を解体されたオーストリア帝国にされたもののですが、最期まで西ローマ帝国の後継者である自負を持ち続けていたようです。

1816年にナポレオン1世が完全に失脚した後、その後、彼の甥が再びナポレオン3世(在位1852年~1870年)として即位(フランス第二帝政)し再び、ヨーロッパで皇帝2名の均衡が再び崩れます。


このナポレオン3世を普仏戦争で破り退位させたプロイセン王が1871年にオーストリアを除くドイツ諸国と統一したドイツ帝国を成立させています。


フランスのベルサイユ宮殿の鏡の間で ドイツ皇帝 ウィルヘルム1世 の戴冠式が行われ、再びヨーロッパに3人目の皇帝が誕生します。

このドイツ皇帝は、3人目という部分では、ヨーロッパの伝統を逸していますが、分裂していた約30の王国や候国から構成される国のトップとしてプロイセン王が皇帝として君臨するため、王たちの上にたつ者 という皇帝の定義に即したものです。

紀元前27年にアウグストゥスが初代のローマ帝国の皇帝に即位して以来、ヨーロッパに君臨し続けていた皇帝たちは、20世紀に勃発した 第一次世界大戦 により、ロシア帝国はロシア革命により、オーストリア=ハンガリー帝国とドイツ帝国は敗戦により、帝国は消滅し、歴史の中からヨーロッパの皇帝は全てなくなりました。

ヨーロッパではありませんが、同じく第一次世界大戦ではトルコ帝国も敗戦国となり、その後に発生したトルコ革命により1922年に皇帝が退位して帝国は滅亡し、1945年に第二次世界大戦に敗れた日本も国名を大日本帝国から日本国に国名を変えています。


こうして世界中から皇帝が消えていく中で、1976年に中央アフリカ共和国のジャン=ベデル・ボカサ大統領が国名を中央アフリカ帝国と改めて自ら皇帝を名乗りましたが、酷い圧政を行い国民を虐げたため、3年後の1979年にクーデターが発生して、帝国は滅びました。


歴史上の最後の皇帝が、このような圧政と宗主国のフランスへの莫大な賄賂を行った人間だというのは、とても残念な歴史の足跡だと感じます。





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