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製造法は極秘で同盟国との共同作戦の時には決して使用もせずに他国には威力すら見せないという徹底ぶりで500年以上も隠し通した秘密兵器が ギリシア火 と呼ばれるものでした。
西暦395年に東西に分裂した後、繰り返し蛮族だったゲルマン人の侵入を受けて様々な高度な文化も貨幣経済体制も崩壊して100年も経たずに476年に滅んだ西ローマ帝国(首都ローマ)に対し、それから1000年近くも国が続いた東ローマ帝国(首都コンスタンチノープル)の秘密兵器です。
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地図上の赤く塗られた部分が西ローマ帝国滅亡時の東ローマ帝国の領土です。
ゲルマン民族の侵入を防ぎきり、更に6世紀中頃の皇帝ユスティニアヌス1世の時代には、イタリア半島からゲルマン民族を駆逐して帝国の領土が最大になりました。
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ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国の領土です。
しかし、東ローマ帝国は、その後、7世紀に成立したイスラム教徒の侵攻を受け続けることになり、早くもイスラム教の国家のウマイヤ朝からの攻撃を受け、首都のコンスタンチノープルはイスラム海軍の1000隻の船に包囲され、その戦いは5年にも及び(674年~678年)ますが、この時にイスラム海軍の軍艦を撃退した兵器が ギリシア火 だったと言われます。
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私の学生時代より世の中に広まっていた、とても リアル感に欠ける 絵ですが、海上で敵の軍艦を燃やし尽くしたと言われる対艦攻撃用のギリシア火の絵を見つけることが出来ませんでした。
前述の通り、同盟国との共同作戦の際には機密漏洩を恐れて使用を厳禁したほどの東ローマ帝国にとっての最重要軍事機密だったため、ギリシア火の主成分についても、硝酸カリウム説、石油説など、諸説が存在しますが、真相は闇の中ですが、水上に浮かぶ敵の船に向けてギリシア火を放射すると、水と反応して、燃焼力が更に増した と言われています。
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海上の戦い以外でも、小型で兵士が携帯して使用する 火炎放射器 タイプのものもあったようです。
718年の第二次コンスタンチノープル包囲戦でもギリシア火が使用された以降も、反乱を起こした艦隊との戦い、ブルガリアとの戦争などにも散発的に使用されたようですが、次第にギリシア火が使用された形跡は減り、11世紀以降は、使用された形跡が残っていないそうです。
使用はされていても記録が残っていないのか、あまりに厳格な機密保持を行っていたため作れることの出来る人間が途絶えてしまった、東ローマ帝国の領土が縮小してしまったために主成分を確保できなくなり作れなくなってしまった等の諸説があります。
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長くイスラム勢力との攻防、西ヨーロッパ勢力の背信行為と戦い続けて存続を続けていたい東ローマ帝国も、その終焉を迎える約50年前の西暦1400年には、コンスタンチノープル周辺とそれ以外の一部の地区に領土が減ってしまっています。
日本に鉄砲が伝来する90年前、英仏の100年戦争が終わった1453年、20世紀まで存続するイスラム最強とも言われる オスマントルコ帝国 の軍勢20万人あまりにコンスタンチノープルが攻撃されますが、東ローマ帝国軍側の兵士はイタリアの都市のジェノヴァの援軍を加えても7,000人程度しかいなかったと言われます。
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コンスタンチノープルは周囲を頑強な城壁で囲まれ、金角湾の両岸を巨大な鉄の鎖で繋ぎ、オスマントルコ海軍の軍艦が湾内に入れないように封鎖します。
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イスタンブールの博物館に保存されている巨大な鎖です。
強固な海上の防衛網を打ち破るためにオスマン皇帝のメフメト2世は70隻もの船を陸に揚げて金角湾内に運びこみ攻撃を行ったと言われます。
58日に及んだコンスタンチノープルへの攻撃により、遂に1000年以上も続いた都市が陥落して東ローマ帝国は滅びました。
コンスタンチノープルが陥落した時に金角湾からイタリアのジェノヴァへ向けて何隻かの軍艦が捨て身の脱出に成功しています。
オスマントルコ海軍が本気で阻止すれば、包囲殲滅することも可能だったにも関わらず、東ローマ帝国の軍艦に接近しなかったには、恐怖の伝説的な兵器 ギリシア火 を恐れたためだという説があります。
既に使われなくなって400年ほどが経過した ギリシア火 が15世紀中頃のオスマントルコ海軍の軍艦に通用するような兵器であったか疑問ですが、東ローマ帝国の滅亡と共に、詳細は永遠に歴史の謎として、その存在だけが伝説として残った ギリシア火 をオスマントルコ帝国の大艦隊が最後まで恐れていたという話は、何か歴史のロマンを感じます。
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