今日の記事をお読みいただく方には、可能であれば昨日の記事も読んでください。
私の父と、私の息子の話ですので、興味のない方はするーしてください。
幼い頃、夏休みには父に山や川や色んな所に連れて行ってもらって、おじいちゃんが大好きだった息子。
多分、そのおじいちゃんの素質や影響を受けた息子は、二十歳前後に、日本や世界を放浪していました。
その頃、難病をきっかけに体が不自由になり始めた父は、長い事病院に入院していました。
放浪の旅で、沢山の事を学んだ息子は、「おじいちゃんに恩返しをしたい」と思うようになり、ある計画を立てました。
それは、「小さい頃、登山が好きだったおじいちゃんが何度も連れて行ってくれた山に、今度は僕が連れて行こう」というものでした。
しかし、それには沢山のハードルがありました。
病院の許可、車いすでしか移動できない状態、何よりおじいちゃん自身が、その話を受け入れてくれるか。
最初は、そんなことは無理だと一蹴していた父も、孫の熱い思いを受け入れて、そのうち前向きになったようです。
そのこと自体も、父をよく知る私には、意外でした。
息子は、病院の方への交渉から始め、山へ行くまでのコースを下見して、シミュレーションし、最初は一人でそれを成し遂げるつもりでした。
しかし、父は、妻である母にも同行してほしいと言ってきたそうです。
それはそうでしょう。自分の事をよく知っている母に、同行してほしいと思うのは当然です。
また、体力のない母だけでは不安だという事で、結局当時は元気モリモリだった、私も同行することになりました。
病院の方は、息子のアイディアにまず驚き、そして賛同、応援してくださいました。
当時はコロナじゃなかったからよかったです。
その時、まだ父は座れる状態で、体調も安定していました。
息子が、この一年で一番晴れてほしかったという当日。
空は澄み切った秋晴れ。
私は母と父が食べやすいように柔らかく炊いたご飯でおにぎりを作り、病院に父を迎えに行って、看護師さんの手を借り、父を車に乗せました。
父を簡単に持ち上げられると考えていた息子は、身体の不自由な人を移動させる事が、いかに大変かを学んだようです。
父が最後に買い替えたタウンエース。
実家に行ったとき、息子はいつも父の隣の助手席を占領していました。
その車を息子が運転し、助手席には私が座りました。
しかし、車に揺られた父は、体勢が悪くなって辛くなり、何度も停車して、クッションを当て直し、やっと山の麓の駐車場に着いた時、
「もうここでいいよ、十分だ。昼飯にしよう」
父がそういった時、息子は言葉に詰まりました。
おぶってでも父を山に連れて行きたかった息子は、本当に悔しかったと思います。
じいじのために、と思ってしたことが、結局自己満足のための行動だったのではないかと、苦しんだようです。
多くの人を巻き込んでまで、この時が実現したのに。。
車いすごと乗せられる車を用意するという手もあった、勉強不足、準備不足だった、、と。
この頃はまだ食欲だけはあった父は、大きな口を開けておにぎりをほおばりました。
その後で、大好きなお饅頭も食べました。口の周りをあんこだらけにして。
少し冷たい午後の秋風。
車から離れて、空を見上げる息子の後ろ姿。涙をこらえていたと思います。
私は、息子の背中に悔しさと悲しさを感じ取り、心の中で泣きました。
その時の心境は、息子のブログに長々と書かれていました。
そして、私が知らなかった事が、そのブログには書かれていました。
病院に戻り、父をベッドに寝かせた時、
「今日は、本当にお世話になった。今回は楽しい事と辛いことがあったけど、次回も楽しみにしているよ」
と、父が言葉をかけてくれたそうです。
私自身、父からそういう言葉が出るのを、聞いたことはありません。
大好きだったおじいちゃんからその言葉をもらった時、息子はおじいちゃんの意識が変わった、と感じたそうです。
それまでは、未来への希望などないと思っていたようなじいじが、次回を楽しみにしている、と。
その一言で、息子は救われたのです。
父のためにと思ってしたことは、結局息子自身の成長につながった。
多くの人を巻き込んだプロジェクトだったのに、自分が落ち込んでいては、巻き込んだ人に申し訳ないと、締めくくっていました。
悔し涙をこらえて、父に微笑む息子。
やれやれ、な母(笑)母は車に弱いんです。母もお疲れさまでした。
昨日、この時のことを書いた自分の記事を探していて、息子のブログに行きつき、父が亡くなってから一番泣きました。
父が熱い想いをいだいて写真の修行をしていた20~21歳頃。
じいじを山に連れて行こう、と思った時の息子も、同じ年齢でした。
祖父と孫の青春。
目指すものは違っていても、若き日の熱い思いは同じなのでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫