知覚反応雑記帳

クオリアが誘うままに

思考の独創性・哲学態度について

2021年06月04日 | 哲学

この世界に生まれ出て、この世界の掟に従い、人間として振る舞い、自己(自我)と他者の葛藤のなかで、欲望に目覚め、死の恐怖と生命への不条理に苦悩する。何が正常で何が異常なのかに戸惑い、殺人のニュースに、性犯罪のニュースに、己の欲望を比較してはため息とこの人間社会の不条理を感じるのです。善と悪の狭間で、既に先験的知識に洗脳された意識のなかで思考する自分にある種の絶望を感じるのだ。自由という概念、民主主義という手法に、正義という概念に、正常という規範に、どれだけ独創的思考ができるのであろうか。知の歴史的アフォリズムに左右されながらこの存在の不確かさを覚えるのです。膨大な知のデジタルデータから切り抜いた哲理を引っ張り出しては希薄なこの存在と照り合わせ、自己言及を繰り返す始末である。なにが私なのか!知識の断層から、無数の故事から隠喩するだけではないか。既に出来上がった背広を着込むように、既製服的概念を着込む私がここにいます。フッサールの判断中止(エポケー)なるを試みてもこの頭脳では無理なことであり、真実は遠くなるばかりである。ただ頭デッカチになるだけである。哲学的態度について、いかに真理に近ずけるのか。セックスドライブに父なる数億のスパームと母なる卵子が結合した瞬間、この存在が、いやそれ以前にこの存在は生命進化というプロセスに存在していたのである。誕生という可能性に沿ってDNAのプログラムに存在していることになる。究極的にはライプニッツのモナド(単一)であり、この存在は極めて恣意的な男と女の出会いのなかで生物学的系譜と人間社会の系譜、規範に私は存在しています。私とは何者であるのか?!未だスタートラインに立たされたままである。

鏡の前で「お前は誰だ!」と繰り返しても、

もう一人の私が同様な仕草をするだけである。

「モナドは鏡である」鏡の向こう側の世界とは?

現実の中の非現実が不果実な宇宙を見るようである。

無限反射の鏡像のなかで、私の顔を凝視するこの気味悪さは

なんとも言い難いものがある。

知の遺伝子ともいうべき思想体系が科学技術に絡め取られ、

神なき後のサイボーグ化した己の身体が0と1に反応する。

新たなる生命に変貌して行くのを感じるのだ。

膨大な神々の経典がクラウドに吸い込まれている。