過去の記事に、愛犬がちょくちょく出てくる。
2016年7月1日に我が家に来てくれた、捨てられていた犬だ。出会った日にちなんでナナと名付けた。
今年の春先だった。
フィラリアの予防薬を処方してもらうための、毎年の血液検査の結果を、ナナが来てからずっとお世話になっている獣医師に教えられた。
肝臓のある数値だけが高く、更に検査したいということであった。
その後の検査により、獣医は胆泥症との診断を下し、早期の胆のう摘出手術を勧めた。
帰宅後、彼女は獣医師のあまりの性急さに疑問を抱き、セカンドオピニオンを、次女の愛猫が世話になっている獣医師に求めることにして、次女に、電話をした。
次女は、自分の愛猫を診てもらっている獣医師の住所などを伝えながら、インターネットで胆泥症について調べ、先ずは経過観察と書いてあるといぶかった。
その数日後、散歩の途中でヒロコさんがナナの血尿を見つけた。
僕はその場で、次女の言っていた病院を探し電話した。
余談だが、そして、もう誰もが既知で今更ながらではあるが、地図のアプリケーションは道順のみならず到着予想時刻をも示す。
つくづく便利な時代になったものだと思った。
血尿はペーパーにできるだけ吸わせて袋に入れた。予約の列の末尾に加えてもらい、病院に連れて行った。セカンドオピニオンを急ぐよう、ナナに求められたかのようだった。
新たな獣医師は、胆泥症は副腎が原因の可能性が高く、胆のう摘出は不要でむしろ、副腎の異常が疑われるとの診断を下した。
その際、獣医師は「クッシング」という言葉を洩らした後、副腎からのホルモン分泌過多である可能性を、噛んで含んで教えてくれた。
肝心の血尿は膀胱炎によるもので、原因は、やはり副腎由来による症状である免疫低下ではないか、とのことだった。
昨日、血尿から一週間を経て膀胱炎の改善を診た後、副腎の詳しい検査をしてもらった。結果を知るため、さらに一週間を待って過ごすこととなった。
帰宅後、弘子さんは覚えていた「クッシング」とは何かをインターネットに問うた。
結果、僕たちは、副腎皮質機能亢進症について知ることとなり、ナナの現状がこの病にかかった際に出る症状に、かなり重なると思った。
そして。
一般的な余命についても知った。
僕らにとって、この瞬間から、大切な時間が始まった。
正確には、愛犬と暮らすことなった瞬間から始まった時計だったのだが、僕らはその時計の存在を意識の外に置いて暮らしてきたに過ぎず、今、時計を手元に置いたのだと感じている。
「つまり彼は生きているとは言えないからである」
黒澤監督の「生きる」の冒頭のナレーションの途上のこの言葉は、かつて僕の頭をぶん殴った。
この映画の主人公は、自分の余命の僅かなことを知った後、自分のできる仕事を、文字通り「一生懸命」にして、初めて「生きる」ことになり生涯を終える。
この名監督と名優による珠玉の映画は、一生懸命に「病や運命と闘う」のではなく、与えられた時を精一杯「生きる」ことの尊さを描き、生命を延ばすことと、生命を輝かせることの違いを、僕に教えてくれたと思っている。
最初の愛犬を、脳腫瘍であっけなく失った僕らは、悲しみを、一時的にせよ忘れ、あるいは薄め、ぼやかしたくて、毎日のように映画を観て夜を過ごした。
その何作目かにこの映画に出会った。出会えてよかった。
この先の時を、時があることに感謝しながら、ナナと共に生きられる。
丁寧に生きようと、屈託なく好物のおやつをかじる背中を見ながら思った。