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チャーリーブラウンによろしく

2年ほど放置していたブログですが、ヤプログから引っ越してきました。
更に数年を経て、ようやく再開しました。

意識の外に置いていた時計

2023年04月25日 | 暮らし
過去の記事に、愛犬がちょくちょく出てくる。
2016年7月1日に我が家に来てくれた、捨てられていた犬だ。出会った日にちなんでナナと名付けた。

今年の春先だった。
フィラリアの予防薬を処方してもらうための、毎年の血液検査の結果を、ナナが来てからずっとお世話になっている獣医師に教えられた。
肝臓のある数値だけが高く、更に検査したいということであった。

その後の検査により、獣医は胆泥症との診断を下し、早期の胆のう摘出手術を勧めた。

帰宅後、彼女は獣医師のあまりの性急さに疑問を抱き、セカンドオピニオンを、次女の愛猫が世話になっている獣医師に求めることにして、次女に、電話をした。
次女は、自分の愛猫を診てもらっている獣医師の住所などを伝えながら、インターネットで胆泥症について調べ、先ずは経過観察と書いてあるといぶかった。

その数日後、散歩の途中でヒロコさんがナナの血尿を見つけた。
僕はその場で、次女の言っていた病院を探し電話した。
余談だが、そして、もう誰もが既知で今更ながらではあるが、地図のアプリケーションは道順のみならず到着予想時刻をも示す。
つくづく便利な時代になったものだと思った。

血尿はペーパーにできるだけ吸わせて袋に入れた。予約の列の末尾に加えてもらい、病院に連れて行った。セカンドオピニオンを急ぐよう、ナナに求められたかのようだった。

新たな獣医師は、胆泥症は副腎が原因の可能性が高く、胆のう摘出は不要でむしろ、副腎の異常が疑われるとの診断を下した。
その際、獣医師は「クッシング」という言葉を洩らした後、副腎からのホルモン分泌過多である可能性を、噛んで含んで教えてくれた。
肝心の血尿は膀胱炎によるもので、原因は、やはり副腎由来による症状である免疫低下ではないか、とのことだった。

昨日、血尿から一週間を経て膀胱炎の改善を診た後、副腎の詳しい検査をしてもらった。結果を知るため、さらに一週間を待って過ごすこととなった。
帰宅後、弘子さんは覚えていた「クッシング」とは何かをインターネットに問うた。
結果、僕たちは、副腎皮質機能亢進症について知ることとなり、ナナの現状がこの病にかかった際に出る症状に、かなり重なると思った。

そして。
一般的な余命についても知った。

僕らにとって、この瞬間から、大切な時間が始まった。
正確には、愛犬と暮らすことなった瞬間から始まった時計だったのだが、僕らはその時計の存在を意識の外に置いて暮らしてきたに過ぎず、今、時計を手元に置いたのだと感じている。

「つまり彼は生きているとは言えないからである」
黒澤監督の「生きる」の冒頭のナレーションの途上のこの言葉は、かつて僕の頭をぶん殴った。
この映画の主人公は、自分の余命の僅かなことを知った後、自分のできる仕事を、文字通り「一生懸命」にして、初めて「生きる」ことになり生涯を終える。
この名監督と名優による珠玉の映画は、一生懸命に「病や運命と闘う」のではなく、与えられた時を精一杯「生きる」ことの尊さを描き、生命を延ばすことと、生命を輝かせることの違いを、僕に教えてくれたと思っている。

最初の愛犬を、脳腫瘍であっけなく失った僕らは、悲しみを、一時的にせよ忘れ、あるいは薄め、ぼやかしたくて、毎日のように映画を観て夜を過ごした。
その何作目かにこの映画に出会った。出会えてよかった。

この先の時を、時があることに感謝しながら、ナナと共に生きられる。
丁寧に生きようと、屈託なく好物のおやつをかじる背中を見ながら思った。

ガチャ、について

2023年04月01日 | 暮らし
昨年10月以降、50代最後の年を過ごしている。
定年退職し、再就職したり嘱託で現場に留まった知己や先輩の話なども聞こえてくるが、僕の稼業に定年はなく、ありがたいことに現在のところ翳りもない。
やめない限り食える。
最近、この稼業が自分に合っている、と思う。これしかなかったのかもしれない、などと独り言ちる。だから、世間に求められる限り、現役を続ける。

37年前、大学を卒業直後、内定先に平謝りをして辞退した後、僕は6月にかみさんと二人喫茶店を始めた。
が、ほどなく、店はバブルによる再開発のあおりで廃業することになった。
どうすることもできず、翻弄されるに任せながらも、僕はその後の浪人を経て、資格を複数得、現職に就いた。
人間万事塞翁が馬、の例えほどではないが、一帯の再開発が思いがけない転身を結果した。

もう数年前、僕は二十七、八年ぶりに故郷に帰り、高校の同窓会に顔を出した。
そのとき、中学校以来の旧友の、ずいぶん前の死を、彼女の欠席で知った。
その後、その同窓会で再会を果たした、小学校以来の旧友が突然亡くなった。
中学では同じクラブで、高校三年間は同じクラスだった。某有名私立高校の教頭にあったと訊いた。志半ばにして無念だったろうと思う。

子が親をはじめ自らの生育状況を選択できないことを、最近は「親ガチャ」と呼ぶのだと、暇つぶしのスマートフォンの視聴で知った。
何が出てくるかわからないカプセルのおもちゃの自動販売機の呼び名の一部を取ったのだという。
そう教えられ、考えてみれば、僕らは、生きている限りこの手の「ガチャ」を避けられないと思った。

例えば。
両親のことを思うと、僕のごときADHDの子を得たことには、当時の時代背景を考えると、気の毒としか言いようがない。
多く、苦労をかけたと思う。
「親ガチャ」があるのなら、「子ガチャ」もある。僕の親はそう言いたいだろう。
同様に妻にも苦労かけていると思う。ADHDだと教えてくれたのは、結婚後、度重なる僕の注意欠陥行動に辟易とした挙句、インターネットもなかった当時に書籍で学んだ彼女だった。
「親ガチャ」があるのなら、「夫ガチャ」、「妻ガチャ」もあるだろう。
鬼籍に入った友の一人は、生来病弱だった。非情な「身体ガチャ」じゃないか。50代の早すぎる死も「寿命ガチャ」ということになる。

「親ガチャ」と括られる事態の本質は、親になってはいけない人物が親になってしまった過ちと、その後の児童支援、貧困支援の薄弱だ。
とんでもない親の元に生まれたことに加えて、十分な支援がないことだ。

だから、親を選べず境遇に甘んじるしかないという現実を前に、親の無力のみを抽出するのは、当事者の子はともかく、第三者の社会人は決してやってはいけない、目をそらす行為だと思う。
現実は、自治体などその子が暮らす場の「町ガチャ」、「近所ガチャ」もそこにあるが、期せず、巧妙に隠れてしまっている。
十分な支援をしないという不作為は、偶然に「ガチャ」ともたらされたのではなく、故意にもたらされ、今も続いている。

統一地方選挙が始まった。
公園に掲げられた候補者のポスターを眺めながら、選挙に際しては、候補者の掲げる児童支援と貧困支援策の篤さを、選択の基準に置くことにすると決めた。
「親ガチャ」という、嘆きと諦めのいたいけない声が聴こえていますか、と問う代わりに。

だから、候補者がことごとくかかる支援策を掲げていなければ、それこそ「候補者ガチャ」をひとしきり嘆くことになる。

妙な喪失感

2020年01月31日 | 暮らし
1月31日で終了、とあったので、31日は終日存在しているものと思い込み、本日31日、出来る限りスクリーンショットで保存しようと急に思い立ち、仕事の合間に保存し始めた。
数ページを保存した昼過ぎに、NEXTボタンをクリックすると、ループしている、というようなコメントが出て、次のページに行けなくなった。
ログインからやり直してみると、表題の画像が現れた。
妙な喪失感を覚えた。二度目だ。

一番最初のブログは、楽天のブログだったと記憶している。三十代だったので20年ほど前のことだ。熱心ではなかった。
ヤプログにブログを書き始めたのは、おそらく十四、五年前になる。
当初、ヒロコさんと始めた難波での事業のことなどを記していた。その後、最初の愛犬のことや、演っていたバンドの活動、生まれた孫のことを記したりしていた。熱心だった。
そのブログも愛犬が旅立ったことのをきっかけに停止した。
その後、すぐ、こちらに引っ越したブログを同じヤプログで始めた。2012年のことだった。
どういう訳か、最初のブログは既に無くなってしまっていたため、引っ越せなかった
。無くなっていることを知ったとき、今回と同じ妙な喪失感を覚えた。

大事なものが無くなったと思っていないのに、ずっと在って欲しかったと願っている自分がいる。

記録が無くなっただけなのに。思い出は無くなっていないのに。
何かが終わったような心持ちでいる。

三年越し

2020年01月15日 | 暮らし
ブログを引っ越したので、名刺を変えた。ただし、データだけで、印刷はしていない。古いものがまだ少し残っているから。
ブログを引っ越したから、などと口ごもりつつあちこちで配りなおせば、それはそれでブログ更新の動機になるのかもしれないが、配りなおしはしない。
これまで同様、気ままにしたため、ひっそりと載せたい。
日本に一人くらいは、立ち寄り、読んでくださるかもしれない。

相も変わらず、というよりは、年々多忙になっている。
自分の3年前の正月の投稿を見てみると、今ほどではないにしろそれなりの多忙の中で、年の瀬に買ったギターの写真を載せ、そのギターに見合うだけの腕になる、などと書いている。
何かあると常にそうだが、やたら肩に力の入る性分には、苦笑するしかない。

多忙に拍車をかけるごとく昨年夏の終わりから復活したライヴは、クリスマスの営業などを入れ、四回演った。
そのいずれもで、ギターデュオ故の宿命である間奏などの盛り下がりを防ぐべく講じたあの手この手を、お客様は面白がって下さった。
師匠のごとく、どっしりと弾ききるほどではないが、自分の奏でる音しか流れないイントロ、間奏、エンディングの時間を、スリルを味わいつつも楽しんだ。
欠かさずに練習してきたからだと思う。

ただし、弾いているのはフラメンコギターのみ。3年前のギターはまだ本番には登場していない。

だから、今年、使うと決めた。
見合うだけの腕になったかどうかなんてどうでもよく、買ったのだから使わないと、せっかくの縁が無駄になる。
そもそも、練習するために買ったのではなく、使うために買ったのだった。
三年越しで思い出した。

ママ・ファタル

2017年09月21日 | 暮らし
眠れず、外に出た。夜気が心地よかった。
少し歩くと、女性と男性のいさかう大きな声と女の子の悲鳴が聞こえてきた。

見れば、外国人、おそらくは中米の女性ではないか、とその娘が警官三名に対峙している。
警官たちは母親の説得に当たっていたが、その内、警官の一人が母親を地面に組み伏せた。二つの体が倒れる鈍い音がして、母親と引き離される娘がヒステリックに泣き出した。

まだ一団とは距離が離れていた僕は、いさかう母親と警官たちの道路の反対側、斜め後方で縁石に腰を下ろし不安そうに行く末を見守る二人の男の子を見た。暗い目つきだった。
彼らの視野に入ってから、ゆっくりと側に行き、尋ねた。
「ママなの?」
黙ってうなずく二人に、
「大丈夫、怪我したりしないから」
と僕は言った。

婦警が近づいてきて、
「通報された方ですか」
と訊くので、
「お疲れさまです。違います。野次馬です」
と答え、この子たちが気の毒でと、付け足した。
警官は、母親は泥酔していると状況の内、一部を話してくれた。
母親に、パトカーに乗れと説得しているようだ。

母親は、暴力を振るったのだと思う。末の娘に。
騒がしさに近所の誰かが電話したようだ。
娘は、虐待児の方程式の通りに母親をかばう。必死に離れまいとしたようで、無理やり引き離したのは、現場のその時の判断としてはやむを得まい。

会話から、父親が呼ばれていることが分かった。車で駆け付けるという。

通報者だろうか。二階のベランダに出た中年女性は、
「はよ、連れてってぇな。うるそうて寝られへんねん。なぁ!」
鼻息荒く、大声で警官をなじった。

およそ5分後、父親が現れた。同じく中米の方のようだ。
男の子たちは、駆け寄ったが、娘は母親の元を離れるのを嫌がり号泣している。その号泣のまま、父親は娘を抱き上げ、腕の中で暴れるに任せて、乗って来たワゴン車に乗せ、扉を閉じた。

その後、彼は妻を連れて帰ると言い張り、警官とひと悶着あった。
男の兄弟がガラスに顔をくっつけんばかりに父と警官を凝視している。
やがて、妻はパトカーに押し込められ、父親は警官と話し終え、車に乗り子供たちと帰って行った。
誰もいなくなった。

ファム・ファタルは、運命の女という意味で、その説明で、ヨハネの首を欲したサロメを引き合いに出すことが多い。
サロメを引き合いに出す場合、ファム・ファタルは、男を破滅へといざなう魔性の女を指す。

ママ・ファタルというのもあるだろう。そう思った。
子は、親を選べない。
そして幼な子は、どんな親であっても愛する。

眠れず、深夜外に出たら、異国で肩寄せ暮らす三人の子らの、一途な悲しい愛に遭遇した。
朝まで起きることになった。