服部克久氏の弟の服部吉次さんの独白を読んだ。
うめき声が出そうな憤りを感じた。
この国の、テレビ放映されてきて、今もされている大衆音楽の水準を、自身の事務所所属の若者を登場させることにより、著しくおとしめ続けただけでなく、長きにわたり、否、ほとんど生涯にわたり、その所属する若者たちを、次々と邪な欲望のはけ口とし続けた犯罪者は、極めて稀な異常者でもあったと知った。
なんとこの犯罪者は、自分が世話になっている作曲家の子であるにもかかわらず、服部さん相手に強制〇交(〇は、心辺に生きると書く漢字)の罪を行った。
服部さんはその当時八歳。いたいけない、少年未満(一般に意思能力がないとされる十歳未満の意)の子どもである。
その異常性、残忍性にあきれている。
「その後三十回くらい」
とのご本人の独白を読み、服部さんへの罪だけでも十分だが、更に、多数の被害者数、その被害者年齢、犯行回数と犯行期間にかんがみ、欧米なら、当然に終身刑に値する重罪人だ、との思いを改めて持った。
君看双眼色
不語似無憂
という漢詩を教わったのは、五木寛之氏の著書からであった。
「君看よや双眼の色。語らざれば憂い無きに似て」と読むとのこと。
氏は「語らざれば」という言葉に迫力を感じる、というようなことを記していたと記憶する。
服部さんの独白を読み、写真を、その双眼を看て、僕はこの詩と五木氏の上記の付記を思い出した。
七十八歳の今日まで、この漢詩のごとき心情で人生を歩んでこられた服部さんの、その重ねた沈黙の七十年の重みに、僕はこうべを垂れるしかない。
物心つくかどうかの年齢で、繰り返し蹂躙された服部さんは、その後も重罪人が、何食わぬ顔で服部家を訪れ、そこに連れてきた少年たちの〇(〇は心辺に生きると書く漢字)をむさぼる気配を、感じさせられたこともあったという。
リチャード三世の冒頭ではないが、その罪の重ね方、もはや人にあらず、と言いたい。
その後も、重罪人が所有する事務所に属する若者たちが、今日もまた歯牙にかけられたに違いない、などの苦痛を伴う予測を、自身のフラッシュバックとない交ぜに、いくたびも強いられ続けたことは想像に難くない。
いったい、どれほどの無念と怒りと悲しみであったであろうか。
できるだけ感情的にならないよう行ったことが想像に難くない、あの独白が内包する、したたかな勇気と理性に、僕は伏して敬意を表する。
江戸時代、幟あずけという罰があった。
奉公人などが死罪に相当する重罪を犯した場合、罪状を記した幟(のぼり)を市中引き回しの際に、その罪人の傍らにあげたそうだ。
その後、その罪人の罪の原因が、罪人が属した店(たな)や家にあると判断した場合、幕府はその幟を罪人の命日にその店などの門前に掲げることを命じた。
更に、命じただけでは不十分なので、実際に掲げているかどうか「幟しらべ」を与力が行った。
この罪を、くだんの重罪人が起ち上げた事務所―知性もなく、歌も踊りも下手くそな集団だらけを擁する、無反省の事務所―に科してはどうか。