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チャーリーブラウンによろしく

2年ほど放置していたブログですが、ヤプログから引っ越してきました。
更に数年を経て、ようやく再開しました。

僕らも家族になりたかった

2025年01月30日 | 暮らし
顔の白い毛の形から「やまちゃん」とヒロコさんは名付けた。
やまちゃんが初めて車庫の車の下で寛いだのはいつだったのだろう。2021年の6月には、僕が隣の家との間に佇みこちらをうかがう写真を撮っている。警戒心の強いやまちゃんが逃げずにこちらを見ているということは、もう、僕らが安全な存在であると認めていることの証だろう。

「あ、やまちゃん」などという僕らの声掛けに慣れるのにおそらくは1年くらいはかかったであろうから、2020年のどこかで出会ったのだと思う。

ヒロコさんを見つける度にご飯をねだる甘い声をガレージに響かせて、車庫をベースキャンプに据えたのも多分このころからだったと思う。
ほどなく、車庫の奥の棚の一部にヒロコさんが寝床をしつらえると、彼はそこで眠るようになった。ヒロコさんは電源を引いて給水ポンプを置いた。冬には寝床の毛布の下に使い捨てカイロを敷いてやった。
チュールを手から食べるようになった。好き嫌いをするようになったと、食餌を買いながらヒロコさんは笑った。


昨年末にやまちゃんは衰弱し、汚れた顔で車の背後に出てきた。壁にへばりつくようにもたれ後進する車をかわしながら、弱い声を上げる姿がドアミラーに映り、僕は車を停めた。
近づいたヒロコさんがそのまましばらく寄り添った。
やがて、ヒロコさんは、水を飲もうとしても飲めなくて鳴くのだと言い、動物病院に電話を入れた。12月30日の年内最終診察日の最後に診てもらい、そのまま入院することになった。

重篤な風邪ですい臓が弱り、黄疸もある。口腔の炎症が化膿し痛みで水も食餌も満足に採れていない、とのことだった。
数日前から、引き籠っていることにヒロコさんは気付いていたが、薄暗い車庫の奥の段ボールの中、詳細までは観察できなかったし、眠りを邪魔したくもなかった。わずか数日のことだったので、病気を疑いもしなかった。
野生する動物は弱みを見せない。徐々に弱り、どうしようもなく引き籠り、どうしようもなく出てきて、どうしようもなくさらけ出した。

口腔手術をすることに同意した。僕らはできる限りの手を尽くしてほしいと願った。病院は応えてくれた。
年が明けて、病状の安定を待って手術をした。
全身麻酔から還らぬリスクもあったが、やまちゃんは帰還し、ヒロコさんにあの甘えた声をかけた。
医師の提案を受けて、血液の状況改善を期待して飼い猫のジジの血を輸血した。

輸血後に面会に行くと、向こう向きのやまちゃんは立ち上がり、ヒロコさんの方を向いた。退院して一緒に暮らそうと、ヒロコさんは繰り返した。

1月29日、やまちゃんは退院した。できる手当、考えられる可能な処置はすべてしたが、依然厳しい状態だと告げられた。
帰ろう、一緒に暮らそうと、僕らは明るく言った。医師に気遣いは無用、とうに覚悟はしていると示したかった。僕らの楽観を否定もせず、シリンジの使い方などを説明してくれた院長の気遣いが、今も嬉しい。

僕らはリビングに大きなケージの病室をしつらえて、やまちゃんはそこで眠った。
帰ってきた。いや、この日彼は初めて飼い猫になった。

1月30日の朝4時過ぎ、目を覚ますと、やまちゃんを小さな寝床ごと膝に載せたヒロコさんがソファに座っていた。
しばらくして、懸命に頭をもたげたやまちゃんは、小さくいつものあの甘えた声で鳴いた。か細くもう一度鳴いたのが最期だった。
ヒロコさんのたなごころに頭をあずけ、去勢された地域猫のしるしの桜耳を上にして、やまちゃんは静かに安からかに空へと旅立った。

一昨年、やまちゃんを束の間追い出し、我が家のガレージをベースにした猫がいた。
近所の陽だまりで気持ちよさそうに眠っている薄汚れた猫を見かけ、僕らは会うたびに話しかけた。眠るときを含め、しょっちゅう舌先が口元からこぼれていたのでペロと名付けた。弱っていた。
ある日、ペロは僕らの車の前で寝そべるようになり、やがてヒロコさんから食餌をもらうようになり、水を飲むようになり、かなり回復した。

生まれて間もなく親とはぐれマンションの植込みで鳴いていたところを保護され我が家に来た黒猫のジジは、外に出るのが好きなので、僕らはガレージの小窓の柵の一つを外して彼の出入り口にいるのだが、ペロは一度、その出入り口から我が家に入った。
ほとんど水だけの吐しゃ物を家の階段で見つけて探すと、ペロは一階の僕の事務所の机の下に居た。
声をかけたが、彼はゆっくりとガレージの小窓に戻り、外に出た。

その数か月後、彼はガレージに吐しゃ物を残し、消えた。
間もなく、近くの駐車場として使われている空き地の真ん中のそこだけが丸く敷石で飾られた。車はその上には止まらない。
かつてペロが日向ぼっこをしていたところのすぐ裏だ。ペロはそこにむくろを置いて空に旅立ち、誰かがそこに埋葬した。僕らはそう考えている。
ペロは僕らに飼われ、看取られることを望まなかった。
彼なりのかかわり方とその終え方を見て、僕はそう思っている。

やまちゃんは、違った。
長い月日をかけ、ヒロコさんと関係を築いたのに、弱ったペロに追い出される気弱なやまちゃんは、決してジジのいる家には入らなかった。
病に倒れ、初めて、食餌以外をヒロコさんに求め、ヒロコさんは応えた。
―ずっと家族になりたかった―
そう言っているに違いないと僕らは思った。

人であれ人以外の動物であれ、現代医療は常に、ややもすると終末を苦しいものにする。
生きたい、生きていてほしい、という気持ちに医療は応えざるを得ないからだ。
畢竟、回復しなければ苦しい終末を結果する。

やまちゃんを苦しめるのではないかという思いを抱え、僕らは医療を選択し、入院させ手術を受けさせ、カテーテルを入れさせ、彼は耐えに耐え還ってきて一日だけ、共に生きてくれた。
深夜、やまちゃんの小さなおでこを撫でながら、僕は謝り続け、幼児のように現実から逃げ、泣き寝入りした。目覚めて間もなく、ヒロコさんに抱かれて彼は旅立った。
ヒロコさんは、ナナの最期と同じように、ありったけのドライフラワーでやまちゃんを包んだ。

僕らは、うろたえた。またしてもうろたえた。苦しめた。水を飲めなくなったやまちゃんの生命を、現代医療に賭けた。やまちゃんは、僕らを責めることなくすべてを受け入れ、一か月闘病して旅立った。
彼の魂の安らかなることをひたすら願っている。運命に抗わせたことを謝りながら、願っている。

願う以外を僕らは知らない。

Invisible War その2

2024年06月14日 | 暮らし
互いの利益追求以外に何もしなくとも、やがて、需要と供給における最適値に落ち着く市場の仕組みを「神の見えざる手」(Invisible hand)と呼ぶと学んだのは大学に入学してしばらくの頃だったと記憶する。
その先に「合理的期待仮説」(経済学者もタバコ屋のおばあちゃんも同じくらいの経済学的知識を有し、合理的判断をしているものと仮定する説)の新古典派がある、というのが、バンドの合間にお茶屋のバーデンダーをやって、更にその隙間で、単位を取るためだけに学んだ学生の理解である。
そういえば、ヒロコさんの父は、そんな僕の暮らしぶりを見透かし、
「もったいなかったなぁ」
と何度も言った。大学まで学べることの有難さにつきまるで自覚のない、すねかじりの愚者の所業であった。

前置きが長くなった。
テレビ、ラジオ、新聞の報道を無視し、自分たちで真実を収集し始めて、SNSまでもが、検閲により基本的人権を奪っている現実に直面している。
youtubeでは、「ワクチン」と語る、或いは文字を表示するだけで、その録画は消去されることは、先日書いた。今や「イベルメクチン」でも同様のことが起こる。

これも先日書いたが、大手新聞は大規模なデモについて全く報道しない。それどころか、デモ参加者をして虚偽を信ずる者だと、私見と断りつつも、断定報道をする記者まで現れた。

今の日本政府は以下のありさまである。

NTT法廃止を、国が保有するNTT株売却を可能にするためという目的を隠して、進めようとしている。

パンデミックアグリーメントについて、再三の情報開示に一切応えず(どころか虚偽の理由で開示を拒否し)、加盟国中、最後の最後にやっと情報開示を行う。

新型インフルエンザ等行動計画を、平時からのワクチン備蓄(検体もないのに製造できるワクチンは、遺伝子を触った、あの薬害ワクチン以外ないではないか)、感染初期でのワクチン接種義務化、拒否事業者の医療機関への報告義務とその公表など、基本的人権の遵守を謳う憲法に触りかねないものとした。
しかも通常の半分以下の2週間(そのうちの後半はゴールデンウィーク)の期間しかパブリックコメントを募集しなかった。
彼らの意に反し、記録的な18万9千通を超えるコメントが寄せられたのは、有志の啓蒙によるものだ。

緊急連絡先を示せば、国外の居住者でも国内の土地登記、即ち取得などを容易にするという土地基本法改正について、ほとんど知らせなかった。
しかも、このパブリックコメントも上記同様の期間でゴールデンウイーク明けに期日を設定した。

箇条書きで思いつくまま上げるだけでも、目に余る情報統制が行われ、知る権利が蔑ろにされ、表現の自由が制限されて、国が、国力が、自然が切り売りされている。そうして、裏金議員を大量に擁する自由脱税党が利権を貪る。

多くの国民の耳目は塞がれている。
エプスタイン事件を知らない。タッカーカールソンを知らない。万引き法を、だから不法移民を知らない。Civil War 寸前のアメリカであることを知らない。トランプが反逆者ではなく、バイデンが選挙を貶め事実を変えたことを知らない。すでにGDPでG7を上回っているBRICSがBRICS+となったことを知らない。アゾフ連隊を知らない。ウクライナの実相を知らない。イスラエルの残虐なジェノサイドを知らない。指揮権密約についての米国公電が機密解除され、有事の際の自衛隊の指揮権が米国にあることを、当時の吉田首相が喜んで認め、今も密約が有効であることを知らない。
補助金7500億円を得、分割建設して環境アセスメントを狡猾にすり抜けて熊本に工場を置いたTSMCのCEOが台湾出身者ではなく中華人民共和国民であることを知らない。ユダヤマネーに次いでアメリカ連邦議員に寄付をしているのがチャイナマネーだということを知らない。だから、台湾有事が杞憂であることを知らない。
そもそも、マスコミを報道源とすると、ほとんどの情報を遮断されていることに、気づくことが出来ない。知れないことを、知らない。

知らない国民の不作為を指摘したいのではない。
誰かに教えてもらわない限り、すべて知れない仕組みにされていること、知ることが困難であることを指摘したい。

知らない国民は、被害者だ。国の狡猾で悪辣な加害による被害を受け続けている。
加えて、報道機関が国民の知る権利を侵害するのは、戦前、戦中と全く同じだ。彼らは反省に基づく最低限の進歩すらできず、堕落した。またもや。
武力はおろか、権力に屈するペンしか、その手には無い。恥を知れ、せめて。

経済、情報、知的水準その他の格差が、社会分断の原因となりかねない水準まで広がっていると思う。
日本でも、見えない戦争、Invisible War が始まっている。
アメリカの奴隷となって、イスラエルとウクライナを支援し続ければ、BRICS+は、日本を見限る。
油が入らなくなり、食料が入らなくなる。
戦争がもう始まっている。専ら為政者によってそれは見えなくさせられている。

いつの世も陰謀論などない。陰謀があるのみだ。
天国の茨木のり子先生、そうですよね。

Invisible War が始まっていると家人は言い、僕はうなずく。

2024年05月23日 | 暮らし
長く、ブログを記さずにいた。

開いていると思っていただけで、その実閉じていた目を開け、見聞し、多くを学び、去る4月13日に僕はヒロコさんと池袋東公園に赴いた。
WHOがもくろむパンでミックアグリーメントに反対するデモに参加するためだった。
3時間待ち、1万9千人を超えた参加者のデモの、文字通りのその末席に参加できたのは幸いだった。

だが、午後すぐから公園に人が集い溢れ、日没まで延々と続いた2万人に及ぼうかというデモの模様は、残念ながら、一切報道されなかった。
ただ、アメリカ大統領候補のロバートケネディ氏が、その日のうちに、Xに映像とコメントを投稿されたことにより、1300万回を超える動画再生がなされ、世界中の多くの方の知れるところとなった。

次いで、5月31日、僕らは再び東京の、今度は日比谷公園の野音を目指した。さらに大規模になるよう企画されたデモに参加するためだ。デモに参加し、道行く人にWHOの横暴を知ってもらおうと精一杯声をあげた。

前回同様、このデモについても報道は無いだろうと思っていたが、毎日新聞の国枝すみれ記者が取り上げた。

曰く。
彼女には、デモ参加者はパラレルワールドに住まう者に見えたそうである。

昨年来、超党派の国会議員、医、薬の専門家、報道人などからなる有志と、厚労省及び外務省のWHO担当官僚による会合は7回を数えた。
WHOの原案はもちろん、ランセットやネイチャー掲載の最新の論文を読み込み、自らの見識と照らし、様々な角度からなされる質問はどれも鋭かった。
その質問に対する官僚の答弁は、秘匿に過ぎ、情報の非開示のその有り様は、戦前の政府に酷似した。
毎度、視聴していて奥歯が軋んだ。

そして、4月に最初のデモが行われ、5月末WHOの会議に合わせて二度目のデモが行われた。

最前線で動く官僚と差し向かいの対話により得た知見と感触に基づき、有志たちは、官僚がWHOに与し、国益を損ねていると判じ、二回のデモを企画したのだ。
二回目、金曜の午後、日比谷野音の様子は、道の向かいにある厚労省のビルの窓からもよく見え、声も届いたであろう。

ケネディー候補が最初のデモの動画を投稿し、半月ほど経ったころ(と記憶している)米国共和党の上院議員の全員がパンデミックアグリーメントに反対を表明し、大統領に連名の書簡を渡した。

国枝氏には、かかる事実を取材され、共和党上院議員の全員もパラレルワールドに住まう者に見える旨と、WHOは国益を損ねたりしないとの記事を寄稿いただきたい。或いは、書簡を共和党にお渡しいただきたい。
よもや、批評対象が変わったら記事が変わるなどという、報道者にあってはならない中立の毀損は、断じてなされないでしょうから。

閑話休題。
茨木のりこ氏の詩が好きで、詩集を何冊か持っている。
氏の代表作(と言っていいだろうと思う)に「自分の感受性くらい」という詩がある。先の大戦のさ中「軍国少女」であった詩人が、その当時の自分を省みて書いた魂の叫びだ。後年の、椅子の背もたれの他には何にも倚りかからない、との決意に連なる主題でもある。

この詩の最後の一節を国枝すみれ氏に捧ぐ。

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

言葉の暴力の深奥にあるもの

2024年02月19日 | 暮らし
漫画の実写版ドラマの原作者を追い込んだ、SNSにおける脚本家への暴力の集中があったそうだ。
原作に忠実にドラマ化する約束を取り付けたのに反故にされた原作者は、諸々独白をしたが、最後その独白を消して、脚本家への何らの敵意もなかったというような意味の言葉を遺した後、ダムに入水したそうだ。

詳細は知らないが、Arc Times と長谷川良品さんのyoutube番組で、テレビ局批判や出版社批判が展開されているのをぼんやり眺めた。

WEBにおける匿名性が書込み暴力を助長しているのは、今に始まったことではない。
かつて掲示板という仕組みがあちこちの評論家や社会学者、ミュージシャンなどのホームページのどこかに設置されていた時代、そこには暴言を吐く者どもが跋扈していた。
掲示板と言えば、2chがその代表だった。無法地帯と言ってもよかった。
蔑むための、陥れるための卑怯な匿名の言葉に辟易として、板と呼ばれるこれらの仮想コミュニティーからは自然と遠のいた。

人間の悪意や暴力性を全く封じることが誰にも出来ないことについては、言を待たない。
掲示板とは仕組みは異なっても、プラットフォームという環境には、悪意を封じる機能は、だから、まったく無い。
表現の自由という基本的人権は、表現者の意図にかかわらず暴力という宿痾を孕んでいる。例えば為政者を痛烈に批判する文言は、時にきわめて暴力的だ。
だから、僕らは、いかに優れて統制されたSNSであっても、暴力は偶発し時に集積する、と覚悟するほかない。

言葉、外交における言葉が、誤解、軋轢、衝突を産み、戦禍を結果してきた。正に、ペン(言論)は武よりも強し、である。であった。
なんであれ、インターネットに言葉を残す者は、この事実を肝に銘じなければならない。

翻って見てみる。
現代のSNSに限らず、優れた統制が、表現の自由という基本的人権を制する暴力になるという事実も、歴史を見れば、其処此処に確認することが出来る。
どちらからの暴力も悲惨だが、被害者が圧倒的に多いのは後者である。
マスク氏には、日本のyoutubeにおける「ワクチン」という語の排除に見られるような、Xにおける優れた統制をしないことを強く望む。

ある種の人、暴力的言動をする人の心には、負の感情が巣食っていると訊く。孤独、不満、不安、怨嗟、悲嘆、憤懣・・・。
今、僕らの心のこれらの負の感情の総量が、実質賃金や為替と反比例的に、長くインフレーションし続けてはいないだろうか。
加えて、貧困、病禍、倒産、格差、失政、増税、汚職、地震、戦争・・・。思いつくままに最近の社会状況を挙げた。暗く辛いものばかりである。

心に巣食う負の感情と、暗く辛い社会状況が、ある人、例えば残業で疲れ果てた心身を郊外まで運び、やっとの思いでワンルームマンションの自室の座椅子に腰をずらして座った人、の火薬となり、その人が何気なく見たSNSで、失言した誰かに対する怒りの暴発を引き起こし、それが連鎖したとしたら。

その疲労困憊の労働者もまた、罠にはまるように加害者になってしまい、傷つけてしまったという罪の意識に苛まれ、匿名を暴かれ法廷に引きずれ出される危機を背負ってしまったという意味で、被害者に相違ない。
さだまさしさんが歌うように、切りつけられた方より切りつけた方が傷つくことだってある、とまでは思わないが、切りつけた方が傷つくことはあるだろう。

だから、僕は明るい社会を希求する。
そのために、できることは何でもする覚悟はできている。

Tucker Carlson への解答と名作戯曲

2024年02月14日 | 暮らし
そのまっすぐさゆえに、アメリカのフォックステレビを追われたジャーナリストのタッカー・カールソン氏が、プーチン大統領にインタビューを申し込み、かなりの時を経て、2月8日にそれは行われた。
週末を待って、2時間余りのインタビューを、最初は氏のウェブにある映像を、事務所のパソコンで英語の字幕を付けて、聞き取れず画面を止めては読みつつ視聴していた。
倍ほどの時間をかけて最初の30分を視聴してため息をつきながら、リビングに行くと、ヒロコさんが衆議院議員の原口一博氏のYouTubeチャンネルでのこのインタビューの詳説を見ていたので、傍らに座った。

インタビューがあると知ったころ、ウクライナの戦況については少々疎くなり、ガザの報道に、日々うつむいていた。何より、そこにもまた、アメリカが、だから日本も、深く関わっていた。

インタビューは知的なやり取りに満ちていた。
終盤、タッカー氏の質問に丁寧に答えるプーチン大統領の口から、正確ではないが、地球を人間の脳に例え、左脳と右脳の二つに分断することなどできない、というような説明がなされた。表現はともかく、左右の脳の分断による異常を、比喩として使った。

「あ、ガラスの動物園や」
思わず、声が出た。
ポールニューマン監督による、テネシー・ウイリアムズ原作の同名の映画をヒロコさんに教えてもらい、若いころ、僕は岩波文庫版の原作の戯曲を読んだ。主人公とその母と姉、主人公の友人だけの舞台の真ん中には父親の肖像画が掛けられている。(僕の頭の中では、その肖像画はとても大きい。)

巻末の解説で、戯曲は自伝的要素に満ちているが、実際の彼の姉は、父親の判断によりロボトミー手術を受けさせられ、それがため、彼は父親に怨嗟を抱いたことを知った。解説を読むやいなやまた本を開き、再読したことを思い出す。

ウクライナもパレスチナも、正義と自由を騙るアメリカの支援によってロボトミー手術を施されているのだと思った。
見え隠れするアメリカのパターナリズム(父権主義)が、テネシー・ウイリアムズの家族と重なる。

現在進行中の両地の他、朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタン、イラン、イラク、クエート、イエメン…。アメリカは、大戦後長く恒常的に、どこかの国のロボトミー手術を、正義の名のもとに行っている。
その背景には、戦争で武器を売り、ショックドクトリンで復興を売る悪魔がかすんで見える。

敬愛する開高大兄が、ベトナムで従軍した経験をもとに著した「輝ける闇」に、次のような、甚だ正確ではないが、ベトナム人だったかタイ人だったかの賢者のセリフがあった。
簡単なことだ。アメリカが引く。戦争はすぐに終わる。

日本がなすべきは、ウクライナとイスラエルへの巨額支援というパターナリズムへの盲従、でいいのか。