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「デマ、噂の真相」その4  突如として、幕末に登場した新田一族

2007-08-25 22:12:50 | 歴史もの
シリーズ第4回目、徳川埋蔵金の話ついでに、新田一族の話をします。

前回の話で、小栗上野介が斬首される切っ掛けを作ったのが暴徒事件で、その暴徒の首謀者が金井恭介だということは書きました。
そして、このとき官軍側に報告したのが、実は、岩松満次郎こと新田俊純だったというのが前回の話でした。

この岩松満次郎が幕末に突如と現れ、埋蔵金伝説に関わっていく経緯は次のようになります。
幕末に起った尊王攘夷運動は、上野国にも波及してきた。そんな時期に水戸の天狗党が現れます。これに触発されて東毛出身の金井之恭・高木七平・大館謙三郎らが岩松満次郎を説得して討幕運動の盟主に据えようとしました。しかし満次郎はこれを拒否しました。
なぜ岩松を担ぎ出そうとしたのかといえば、彼が新田義貞の血を引く者であったといわれていたから。この時期、新田義貞は再評価されていた。何故って、鎌倉幕府を倒したからです。つまり討幕派から見れば、英雄的活躍。それに朝敵である足利方と戦った武将として、尊皇派からも支持されていたんです。だから、新田一族を旗頭にする意味は大きかった。

この岩松家は、新田義貞の子孫を名乗る新田一族です。室町時代は下剋上などいろいろあった(ここでは省略)が、幕末までずっと新田荘に残っていた。徳川家康が1590年に関東に入部した際、新田一族として謁見したのが岩松家である。そして家康が「徳川」を名乗ることになる「徳川(得河)郷」の有力者が呼ばれた。
これが、正田家です。この二家が家康と謁見したことになる。この正田家は、現皇室の美智子皇后さまの祖先である正田氏だ。(詳しくは、過去の記事を見てください)
両家とも新田一族に関係があり、新田源氏を名乗る家康に、系図などを提出するかわりに、微石の領地を安堵された。(岩松家はのちに加増されて120石)
さて、幕末時代に話を戻して、
その後討幕運動は更に盛り上がり、1867年・慶応3年に満次郎は新田一族や同志らを集め新田勤王党を結成する。
そしてその翌年、東下してきた東山道総督府に従軍することになる。満次郎は、勤王党の中から精鋭40名程を選び出し新田官軍を組織する。この新田官軍については『群馬県史』によると『その頃、満次郎の軍の中に群馬郡権田村の農民が2人いた。そこで金井五郎(之恭)や大館謙三郎らは、彼らに、東善寺に引きこもっている小栗忠順の行動を探索させ、それを総督府に通報することにした』と書いてあります。
そして4月2日に行田に入った総督府に、新田官軍は従軍すると、小栗に反逆の意思があると、報告した。この報を受けた総督府は、小栗を捕らえて、3日後に処刑する。そして4月8日、この功によって満次郎は、総督府から銃35丁と弾薬、食料などをもらうとともに、菊の章旗を授けられ正式に官軍として認められた。
そう、小栗が捕まり斬首された切っ掛けを作ったのは、新田一族の末裔ということになる。
さて、この岩松満次郎は、明治維新後に、江戸時代には名乗ることの出来なかった「新田」姓を得て、名前も「俊純」とした。
そして、男爵になりました。

小栗に反逆の恐れありと報告した功績しかなく、維新後は、明治政府の役人になることもなかった。しかし、爵位を得たんですよ。
なぜでしょうか。

書きますよ。いいですか。
だれも言ってません。もちろん歴史の本なんかにはちゃんと書いてありますよ。さらりと。でも新田一族であるという重要性に誰も気付いていなということです。
やっぱり、書かない方がいいかな、引っ張っちゃうかな。


いや、もったいぶらないで書きます。

新田一族の血を引く新田俊純の娘は、武子といいます。
その夫の名は

井上馨なんですよ。

そう、長州藩で、伊藤博文と活躍したあの人物です。
明治維新後は政界の中心にあった超大物です。
新田一族がこんなところに出てくるとは思いもよらなかったでしょう。
なんだ大したことないじゃん、と思う方も多いでしょう。でも、それがそれ以後、重要な意味をもってくるんです。

で、その辺りは詳しく歴史ミステリー小説「東毛奇談」の第6章で。

それに、井上馨と武子の馴れ初めが詳しく書かれているのは、山田風太郎の「エドの舞踏会」です。明治維新の偉人たちの様子を夫人側から見た時代ミステリーの傑作です。

というわけで今回は「噂とデマ」から少し離れましたが、徳川埋蔵金伝説に新田一族が関わっていたという話でした。
次回は「噂とデマの真相」の続きを書きます。
テーマは「キムタク一家が太田市に引っ越してくる」というデマがなぜ流れたか、です。



「デマ、噂の真相」その3  徳川埋蔵金伝説が広まったわけ

2007-08-24 23:07:54 | 歴史もの
このシリーズの3回目。徳川埋蔵金のデマ、噂が広まった真相。
前回は、「徳川埋蔵金が赤城山にある」というデマが故意に流された理由と、その「埋蔵金伝説」が幕府側にとって必要であったこと、それを指導したのが勝海舟であったことを簡単に書いた。
小栗上野介が江戸城にあった御用金を持ちだして隠したことが、「徳川埋蔵金」の伝説の核となっている。それが今現在でも信じられている。
ではこの噂はどうやって広まったのか?を今回書きます。
実は、小栗が江戸城を出たときから、すでに、このデマは広まっていたのだ。本当にこれっておかしいなことなのです。
もし仮に、小栗が幕府御用金を埋蔵する使命を帯びていたのならば、それは幕府、国の超極秘任務であるはずです。そう簡単に情報が漏れるはずはないし、漏洩してはいけないことなのです。
金=権力。それを維持するため、または徳川政権の回復を期するためにも金は必要なはずです。その情報が易々と世間に知れ渡ること自体が不可解なのです。小栗は優秀な官吏であり、頭の切れ方は尋常ではない。そんな男が、これほど重要な任務で、情報漏洩するような仕事を行うはずがない。
小栗が御用金隠匿に関わったという話で書いていますが、これは仮定の話である。私は小栗がこの件に全く関わっていないと考えていて、小栗はただ利用されただけである。小栗が全くの無関係であるならば、埋蔵金伝説は、根拠のない嘘であり、これが故意に流されたデマであるということになるだろう。
それなのに、「小栗が江戸城の御用金をたんまり持っている」「それをどこかに隠そうとしている」なんてことを、上野国の田舎の農民までもが知っていた(信じられていた)んです。
かなり変です。

まずあらましから、1868年2月、勝海舟との政争で敗れた小栗は、江戸城を辞して、領地のある上野国権田村に帰郷することになった。(埋蔵金伝説では、このとき江戸城の御用金を持ちだしたことになっています)
そして、小栗は一族、家臣とともに、権田村の東善寺に移り住むと、領地を整備したり、塾を開くなどして、静かに暮らしていた。
しかしここでデマが起こる。
「小栗は江戸城の御用金を持ちだして、大金を持っている」というデマです。これにより権田村は一揆のように、暴徒化したのです。小栗征伐を口々に叫びながらも、狙いは小栗の持っていたとされる幕府御用金でした。しかもその土地の者だけでなく、博徒ややくざ者、流れ者までもが集まり、数千人が徒党を組んで、小栗らを襲っているんですよ。
そう、確実に炊き付けた人物がいた。この暴徒の首謀者は金井荘介といい、長州藩士だったとも言われる人物でした。烏合の衆数千人を束ね、それに暴動を起こさせるために、小栗のところには何万両もの金があるといって煽ったんです。
しかし、小栗らは少ない人数でありながらも、武器を持ち、鍛えられていたから、デマに踊らされ数千にも膨れ上がった暴徒を数日で蹴散らした。暴動はすぐに治まった。
そして小栗らにとって束の間の平和が訪れたんです。
だが、金井の思惑は違っていた。それは、小栗には数千の暴徒を撃退できる程の兵備があることを裏付ける証拠だと、官軍に報告することができたんです。そう最初から、小栗を始末するために仕組まれたことだった。
これがもとで、小栗上野介は捕縛され、斬首された。
噂、デマは、どこかに流した大元がいたはずなんです。しかもこの場合は意図的、計画的に流されてたことなんです。それに騒ぎが大きくなればなるほど、小栗が御用金を持っているという噂は、世間に一層広まる。噂、流言、ウソ臭い話も世間に広まればもっともらしく聞こえて、そのうち本当にあったかのように巷間に根付いていく。つまりこの計画を立てた人物は利口だということでしょう。
そして、生まれたのが「徳川埋蔵金伝説」
御用金を持ち出し隠した人物がいなくなれば、死人に口なし。その金の在り処は永久に分からない。
そんなデマを流し、小栗の所為にすれば、なくなったと言われている金はそっくり手元に残ることになるんです。
だから、デマは必要だった。
それを指導したのが勝海舟である、と私は言った。
その勝海舟の奇妙な行動を示す証言がある。
以下は、小板橋良平著『小栗上野介一族の悲劇』から抜粋。『小栗上野介が金井荘介、鬼金、鬼定等の率いる暴徒に襲撃を受ける前後、東山道官軍の本隊は、下諏訪に滞在中であった。不可解なことに、この前後、徳川家陸軍総裁の勝海舟が熊谷付近まで、お忍びで出張って来ているのである。このことは東山道幹部だった薩摩藩士有馬藤太の回顧談にもあり、期日は三月三日前後とはっきりしている。『……その時のことだが、勝安房守が大岡郁太郎を従え、東山道総督に拝謁を願い出て、何事か言上したいという書面を差し出した。そこでその趣を尋問するようにとの命令があった。私は足軽一人を連れて熊谷駅の一つ手前の駅(本庄)の海舟の宿舎まで行き『何か言上の次第があるとのことで私がまかり越した』(中略) ところが彼の手になる『慶応四戊辰日記』には、勝が熊谷や本庄駅に出かけた形跡は見当たらない。日記は三月三日四日が空白になっている。~幕末研究家栗原隆一著「政敵小栗上野介を殺した男」より……』
勝海舟の行動はとっても怪しいんです。これに、江戸城御用金の行方や徳川埋蔵金のデマを考え合わせると何となくつながっていくでしょう。

さて、ここまできて、どこに新田一族が登場するんだ。と思うでしょうが、大丈夫しっかりと出てきます。
それは岩松万次郎です。後の新田俊純。
そう新田一族の末裔がここで登場しますが、
長くなったので次回に続きます。

追記  「デマと噂の真相」シリーズはどうやら4回でも終わらないようです。よってしばらく続けます。最後には、1回目の「キムタクの太田市に引っ越してくるというデマ」と結び付けますので、しばらくお付き合い下さい。

「デマ、噂の真相」 その2  徳川埋蔵金の話

2007-08-24 11:00:42 | 歴史もの
前回が「キムタク」の話で、今回は徳川埋蔵金の話です。

この記事は「デマ、噂の真相」の2回目となります。
なぜ今頃「徳川埋蔵金」?と言われれば、歴史ミステリー小説「東毛奇談」が「第6章徳川埋蔵金のこと」の掲載に差し掛かったからです。
さて、早速、話を進めましょう。
では徳川埋蔵金とは、どんなものなんでしょうか?簡単に説明すれば、「時代は幕末、徳川幕府の再建を目的に、小栗上野介が江戸城にあった御用金を運び出し、赤城山山中に埋めた。これが現在も発見されずに山中に残っているといわれる」となるでしょうか。
これをネタにTBSテレビがやたらと放送してましたね。
で、私はここで、「徳川埋蔵金は作られた伝説であり、その噂やデマは故意に流されたのである」と、まず宣言しておきましょう。
それは「徳川埋蔵金伝説」の根拠は勝海舟がいったこと発端にしていますが、これが嘘くさい話なんですよ。
あらましはこうです。「1867年4月11日江戸城は無血開城をした。官軍は江戸城に乗り込むと、城内の御金蔵に行って、鍵をこじ開けた。しかし、そこには千両箱はおろか小判が一枚も無かった。そこで官軍側は、応対に出た勝海舟を問い詰めた。『まさか、御金蔵は空で通そうというお考えではあるまいな。さような馬鹿げたことが通用するはずがない。さあ、中にあったものをどこへやったか、返答をいただきたい』と詰め寄った。このとき官軍は金がなくて、幕府の御用金を当てにしていたんです。
そして、勝海舟は『さて、それがしもないとは思わぬが、金の事は一切、勘定奉行の小栗上野介殿が取り仕切っておられたので、小栗殿に聞かれよ』と答えた」
でもこれって、とてもおかしなことなんですよ。だって、このときすでに小栗は殺されていたんですから。
誰も、この点を指摘してません。本当です。埋蔵金があると信じている人も幕末研究家も、ここを不審とも思っていない。不思議なことですが……。
そう、小栗上野介が捕縛されたのが4月5日で、その翌日の4月6日には斬首されているんですよ。江戸城開城の5日前です。いくら通信手段がないとはいえ、こんなことってあるのでしょうか。小栗は官軍と戦おうと主張した危険人物で、幕府の高官ですよ。幕府からも官軍からも見張りがついていた。だれも知らないはずはない。
それなのに、勝海舟は、金の行方は死んだ人に聞けと言ったことになる。
いやこのとき、小栗が殺されたことは知らなかったんでそんな返答をしたんだ、という人もいるでしょう。だとしても、勝の言動はとても不可解なんです。
小栗上野介が江戸城を去ったのが2月28日。(伝説ではこのとき江戸城の御用金を持ちだしたことになっている)   勝海舟と官軍との金の行方のやりとりが行われるまでの1か月半の間、幕府に金が無くて、誰も気づかなかったということはあり得ないのではないか。
しかも、勝は金銭感覚に優れた人物であり、明治維新後は旧幕府の金庫番のような役目をしていた。「勝のところに行けば、金はどうにかなる」と旧幕臣に言われていたほどだった。そんな勝が、「御金蔵に金がない」なんてこと知らないわけがない。
幕末の情勢はこの時点では、どうなるか予測もつかない逼迫した状態。官軍と箱根で戦争となるか、それとも将軍とともに日光移って戦うか、また、一時的にでも官軍と和睦して反撃の機会を待つか、と策はいろいろあった。でも何をするにも金はいるのである。心情としては手元に金を持っていたいはず。山の奥深くに埋めて、どこに埋めたか分らなくなるなんていう愚策など決して行わないはずだ。
もし仮に、小栗が密命を受けて御用金を隠したとなれば、その在り処は幕府が知らなければ、もっとおかしいなことになる。それに小栗の方も幕命を行うのに、隠す場所を伝えないはずはない。彼は優秀な官吏であった。出来る男である。その小栗がそんな簡単なミスを犯すはずがない。だから、小栗は埋蔵金なぞに関わっていないはずだ。
多くの埋蔵金の伝説は、金や黄金を隠した人物や一族が滅んだために生まれるのである。徳川幕府は滅んだが、徳川慶喜は生きているし、徳川家が滅んだわけでもない。勝をはじめ多くの幕臣も残っているのである。そして、6万人もいた旧幕臣が、明治維新後も大きな反乱も起こさなかったことを見れば、無くなったと言われた御用金の行方も自ずと分かるものでしょう。
では、なぜこんな埋蔵金伝説が広まったのか。
それは、手元に金を残したい。でも金があるとなれば官軍に取られる。ではどうするか?そう、だれかが、持ち出して、その行方が分からないとすれば、金は幕府側に残る。そう、御用金は一時的に隠されたのだ。
それを指揮したのが勝海舟である。
で、場所は……。
その、行方は?  誰が協力した?  どうしてそこに、新田一族が?
と、これが「東毛奇談」第6章のストーリーとなるんです。まあ詳しくはそれを読んでもらうとして。

では、どのように、埋蔵金伝説が広まっていったのかは、

次回に続きます。

追記  「デマと噂の真相」は3回と書きましたが、この分だと4回になりそうです。


テレビ番組「田舎に泊まろう」と相撲巡業はマレビトか?

2007-08-20 11:22:12 | 歴史もの
「相撲巡業は、マレビトでは?」と思い立ち、「神事としての相撲」をいろいろ調べていた。そんなときである。「田舎に泊まろう」という番組に元横綱の大乃国が出ていたのをたまたま見て、これこそまさに「マレビト」ではないかと思い至ったのである。

では、まず「マレビト」の説明から、簡単に。
まろうど。語源は稀(まれ)人で、遠方から稀に訪れる神聖な旅人の意。古い時代には客人を仮装した神とみなして歓待し、女性が一夜妻として奉仕する習慣もあった。神は海や空のかなたから季節的に来臨するという古代信仰、(えびす、年神、寄神)大和朝の皇子の遠征物語、弘法大師をはじめとする遊行僧の伝説などは神聖な客人の思想を伝えている。客人歓待は世界各地でみられた習慣で、食物や宿舎を与えてもてなすほか、性の歓待もみられた。(百科事典マイペディアより引用)
折口信夫が民俗学に取りいれた思想である。
つまりは、遠くからの客人をもてなし、それによって禍福を得るといったこと。
このマレビト信仰が相撲巡業に当てはまるのではないか、と私は勝手に思ったのである。で、いろいろ調べてみたが、そのようなことはどこにも書いていなかった。
相撲が昔は神事であることはよく知られている。奈良時代から、宮中では五穀豊穣を祈り、神々の加護に感謝するために行われていた相撲節会があった。また各地の神社では、天下泰平、子孫繁栄など祈願して相撲が行わる。それに土中の邪気を払う意味で四股が行われる(だから体重ある人ほど喜ばれるから相撲取りがこれを行う)これら相撲の所作は神道、陰陽道から影響を受けているという。
相撲取りが赤ちゃんを抱っこすると、元気で健康に育つといった伝承、泣き相撲なども神社の祭りとして行われることなどを見ても、相撲がかつて神事であったことを示すものの名残りではないかと思う。
それに「相撲」は俳句では秋の季語である。これは農耕儀式で、豊作凶作を占うために相撲が行われたことに由来する。それほどまでに庶民に広がっていったわけだ。
まあここで神事としての相撲を書き連ねても切りがないのでこれくらいにします。
そこで、私の見解としては、古代の相撲取りは、神の神託を受けるシャーマンや巫女のような存在ではなかったか。その名残をもつ相撲取りが地方を巡り、その土地々々で歓待を受けること、これすなわち「マレビト」なのではないだろうかということだ。(夜の接待は、今でも相撲巡業では地方ではめを外すらしい、まあ週刊誌での情報ですが……。となればこれもマレビト信仰の一種のあらわれとなるだろうか)
まあ、これは私の独善的な説ですが……。
さてここで「田舎に泊まろう」である。
「マレビト」が遠くから来る客人で、その土地で食を得て、宿泊するとなれば、
この番組の趣旨はまさに「マレビト」信仰である。(制作者がそう思おうと思うまいと)
そして、大乃国である。
どこかの田舎に行き(場所は忘れた)、泊まる場所を探す。だが、なかなか見つからない。中には冷たくあしらう人も、彼が元横綱だと知らない人だろう。この回は特に、冷たい人が多く、ただの体の大きな人だなあ、と思っていたのかもしれない。(これは彼が神だと知らないということ)。そして何軒目かで泊めてもらえる家が見つかる。このときその家の人が言う。「あんた大乃国だろう」そう、この家の人は彼が大乃国だと気付く。(つまり彼が神だと分かる)。そして御馳走を作り、酒を与え、風呂に入れ、寝具を提供する。この家で出来る限りの接待をするわけだ。
そして神である大乃国と家人は対話する。家族の話をし、自分の人生を語り、至福の涙を流す。(魂の浄化をする)
つまり福を得たのだった。
翌朝、客人である大乃国はその家を去る。
ふらりと現れた、神様。神だとは分からないので皆が敬遠する。だが一軒の家の者だけが泊めてやり、接待する。その家人はその客人が神だと知る。そして、神は福を与えて去っていく。そして、神に冷たくした者には、不幸がある。こんなパターンの昔話はよくあるだろう。それに相撲取りが、かつて神に近い存在(神ではなく、神託を行う存在)であり、その相撲取りの長である横綱が、客人となって、その土地に現れる。この番組は「マレビト」である。私はそう結論付けた。そうとでもしなければ、どうにも気持が落ち着かない。

「マレビト」がそんな簡単なことで説明できるわけではないし、奥の深い論であることは分かっています。専門家には、戯言のように聞こえるでしょうね。
でも私が理論で展開できるのは、ここまでです。そこで「民俗学」「折口信夫」または「神事としての相撲」に詳しい方がいましたら、専門外の私をどうか助言を下さいませ。どうにモヤモヤした状態なのです。(犯人の分からない推理小説みたいな感じかな)
どうぞお願いいたします。

新田義貞vs足利尊氏 一騎打ちの真相

2007-08-17 00:52:39 | 歴史もの
さて、義貞集中講座4回目

今回は義貞が尊氏に仕掛けた一騎打ちのことを書きます。
大将同士の決闘は実現することはなかったんですが、(あったら映画みたいですね)
あわやというのが、2回もあったんです。
まず一度目は、建武三年の京都で、義貞をはじめとする宮方と足利方とのあいだで繰り広げられた戦の時のこと。
京を占領していた足利方に、義貞は大軍を率いて奪回を試みた。足利方は予想外の大軍を目の前にすると、都を捨て四方八方に逃げ去ったのである。
義貞は、この好機を逃すまいと、何と鎧を脱ぎ捨て、ただ一騎で足利軍に突進した。義貞は、尊氏を見つけ出しその命を奪おうとしたのである。目ぼしい所を駆け回り、必死で探したが、結局尊氏は見つからなかった。すでに尊氏は事態を把握して前線から遠のいていたのである。義貞は尊氏がすでにここにいないことを悟ると、やむなく本陣に帰った。このとき敵中深く侵入しながら、傷一つ負うことはなかった。
おーすごい無茶しますね。
二度目は、その半年あとのこと。京は足利方に占領されていた。そこを宮方の兵二万の軍勢で攻め入った。この合戦は、宮方の悲壮なまでの決意を秘めたもので、この直前の湊川の合戦で、楠木正成が戦死し、宮方が大敗したのである。
京を足利方に奪われた宮方は、討ち死に覚悟の底力で足利軍を押しまくった。これが功を奏して、義貞の軍は中央突破を計り、足利軍を分断させることに成功した。そして、尊氏が本陣としていた東寺まで迫ったのである。
以下、小説からの引用、長ったらしい文章なので読み飛ばしてください。
「あたりを守備していた足利方の兵までが引いてしまったため、尊氏はわずかな士卒とともに寺に取り残されてしまったのである。ここに尊氏の命を狙っていた義貞にとっては、千載一遇の機会が到来した。出陣の際、帝に、東寺へ矢の一本でも射ち込まずには帰参いたさんと誓っていたから、願ってもないことであった。
あの尊氏が目の前にいる、そう考えただけでも自然と高笑いしてしまう。さっと馬から飛び降ると、弓を杖にして、引きこもる尊氏に対して高らかに呼びかけた。
「天下の争乱は打ち続き、人々は平穏な日々を送れずになって久しい。これは天皇御両統のお争いであるとはいえ、ただ今となってはこの義貞と尊氏との争いに他ならない。一身の功名によって、多くの人々を苦しめるより、この身一つで戦いを決しようと思い、義貞自らこの軍門にまかり越した。嘘かまことか、この矢を一本受けるがよい」
こういうと、二人張りの弓に十三束二伏の矢をきっとねらいを定めて引きしぼり、弦音も高くさっと放った。矢は二重に築いた高櫓の上を越えて、尊氏が本陣とした幕の中に入り、本堂の柱に付け根深くまで刺さり、ゆらゆらと揺れていた。
「さー、尊氏出て来い」
義貞は心底から叫んだ。これはひとつの賭けであった。それに尊氏は必ず乗ってくる、そう確信していた。尊氏も我と一騎討ちがしたいはずだ。尊氏の心の内は分かっていた。同じ源氏の名門に生まれ、大将として軍を率いる孤独を知るのはこの二人しかいない。互いにどちらか倒さねば先祖からの宿望を果たされない。そしていつかは直接果たし合わなければならない宿命なのだ。
今、まさにこの時が来た。

固く閉ざされた寺を義貞の兵が固めていたが、これから開かれるであろう門をじっと見つめ誰一人声を発することなく沈黙を守っていた。だが皆の心の中では、これから起るであろう決戦に興奮していたのである。
そのとき城砦と化した寺の中では、尊氏と彼を守る家臣らが楽観的にこの様子を窺っていた。この本陣まではそう易々と攻め入ってはこないだろうと家臣らは思っていたのだった。
だが義貞が放った矢が本陣まで届いたときに、さすがに足利方に動揺が走り、兵士たちが慌て始めたのであった。義貞の言を泰然と聞いていた尊氏だが、ここまでされては黙っていられない。
「帝を倒そうなど思ってもいない。ただ義貞と会ってから怒りを晴らさんがために戦ってきたのだ。義貞と自分が一騎討ちして決するならば願ってないこと。さあ門を開けよ、討って出るぞ」と言うときりっと立ち上がり、素早く名刀の太刀を手にした。義貞の誘いに尊氏も明らかに高揚したのである。ここまで挑発されては大将としての面目も立たない。
この様子を見た家臣上杉伊豆守が尊氏ににじり寄ると「義貞の言うことに惑わされてはなりません。殿の命は殿だけのものではありませぬぞ」と諫めた。
尊氏は思わずカッとなって家臣を睨むと「なにっ、太刀打ちで義貞に負けるとでも言うのか」声を荒げた。そして憤怒の顔つきになって出て行こうとした。
そこを上杉伊豆守は両手で尊氏の腰に抱きつき「殿は大将ですぞ。軽はずみなことはなりません。これしきのことで取り乱すようでは足利家代々の宿望を果たし、天下を治めることなどできませんぞ」と訴えた。
重みのある言葉であった。
尊氏は思わず、足を止め、そのまま腰を落とすと、目を閉じてじっと動かなくなった。上杉伊豆守もその横に座り、静かに大将見据える。周りに侍っていた家臣らも事の成り行きを案じるように固唾を呑んで様子を窺った。
尊氏は熟考した。いつものように心を落ち着けようとした。焦るな、考えろ、そう自分に言い聞かせた。(待て待て、義貞の行動は追い込まれてのことだ。奴にはそれしか策はないのだ。そうそれだけこちらの方が優位なのだ。敵に囲まれて、のこのこ出て行けば、これこそ義貞の思うつぼだ。焦るな。一騎討ちなどという甘い言葉に乗るな)
尊氏も武士である以上、一騎打ちというものに対して深い憧れがある。一族の長が雌雄を決するために家臣の前で剣を交える、思う浮かべただけでも身震いするほど厳然かつ甘美な情景だろう。だがそんなものに命を掛けるほど、己の命が今となっては軽くないことに尊氏は気付いた。義貞は今この状況に陶酔している。ならば、我はそれを無視しよう、捨て置くことで、優位になるはずだ。そう思い至るといつもの尊氏らしい鷹揚さを持った表情で微かに笑みを湛えながら、静かに目を開けた。そして、もう大丈夫だといった表情を上杉伊豆守に向けた。

そうこうしている内に、足利方の土岐・石堂・吉良の軍が引き戻り、義貞軍を取り囲むと、逆に攻撃を開始した。尊氏ただ一人を斬れば足利方は霧散し、この戦も終わる。そう考えていた。
尊氏の籠もっている寺に変化がないのを見て、義貞は悟った。尊氏は出てこないと。ここに留まっている時はもう残されていなかった。今日限りの命と覚悟を決めての戦いであったが、この賭けに尊氏は乗ってこなかったのだ。このような好機は永遠にやって来まい、と思うと一人でも討ち入ろうとしたが、既に数万の敵が、義貞がここにいると知って攻め寄ってきていた。やむなく義貞は退却の命を出した。
ただ宮方の軍は敵陣深く侵入したため、包囲殲滅に会って名和長年ら名だたる武将が討ち取られてしまった。それでもどうにか義貞軍は坂本の本陣までたどり着いたのであった。こうして宮方は完全な大敗をした。
「すべて水泡に帰したか」義貞の落胆は大きかった。京都攻防戦の最後の賭けに出て、無残に敗れた。戦の勝ち負けは時の運なれど、この敗戦の意味は大きかった。
この攻撃に全てを賭けていた。尊氏を同じ舞台に引きずり出し、あわよくばその首をかき切ってやろうと思い描いていた。ことならずとも、大将に一太刀でも浴びせられれば、足利の威信に傷がつく。それは尊氏の命と自らの命と引き換えにしてもいいさえ思っていた。現状足利方は尊氏一人でどうにかまとまっている。尊氏さえいなくなれば、足利方は分裂し、宮方は一気に巻き返しを図れるだろう。大将同士の一騎討ちはそこを狙っていたのである。だが尊氏を目前にしながら結果は無残であった。
ただ尊氏も今一歩で出てこようとして、踏みとどまったという事実を義貞は知らない。尊氏の思慮深さに義貞は遂には勝てなかった。
こうして宮方は壊滅的打撃を受け、大将である義貞も追い詰められることになった。
そこに追い打ちをかけるように、あの事件は起こったのである。
後醍醐天皇と尊氏の和睦の件であった。
後醍醐天皇はこの情勢から脱却すべく、今まで頼ってきた義貞ら一族を裏切った。尊氏と密かに和議を結び、秘密裏に都へ帰ろうとしたのである、あっさりとその態度を変える変節感は、真に公家らしい行為といえるかもしれない。
後醍醐天皇は新田と足利の源氏を互いに争わせて、武家の勢力を殺ごうとしているのではないか。それとも優位な方へ擦り寄り、利用しようとしているのか、義貞のみならず、一族の者も感知していることであった。そう疑えば一々思い当たる。天皇のみではない。周りに巣食う公家どもの東戎と見下すあの言動。宮方として戦いながらも、公家衆に翻弄されていると感じると、なんともやり切れない思いになった。
天皇は、尊氏との密約が新田方に露見すると、新田一族の激高を収めるためか、皇位を恒良親王に授けて、義貞らに北国に落ち延びて再起を図るように命じたのである。新帝を付けられたとはいえ、義貞らは見捨てられたに等しかった。しかも厳冬の中を敵に追われながら進軍するのである、味方の戦力は減るであろう。それに、例え彼の地に着いたとしても、足利方の斯波高経が大軍を持ち威を張っていた。そんな中で味方となる勢力があるだろうか。考えただけでも、絶望という言葉のみが限りなく心の中を覆いつくす。

その夜、義貞は漆黒の闇を馬で駆け、比叡山にある日吉神社に行くと、一族の命運を祈願した。(注釈、この夜に願文を授けるが。これがこの小説の核となる)

寒々とした空は、いつしか白々と明けた。
その日の早暁、天皇は京へ去って行った。取り残された義貞らは、それを見送ると、数日後の内に、兵七千を引き連れ北国に落ちて行った。その行軍中に、寒雪は容赦なく責め、寒さと疲労で軍が徐々に弱体化したのであった。そこに足利軍が攻めてくる。多くの兵を失い、精神的にも肉体的にも衰弱しながらも辛うじて越前にたどり着いたときには、味方の兵は半分に減っていた。」

というわけで、義貞はなぜこれほどまでに、尊氏との一騎打ちにこだわったのか。
武勇を示すため。もちろんそれもあります。しかしそれだけで、尊氏の命を狙ったのではないはずです。ただこの行動が、義貞の評価を下げる一因でもある。それは、無鉄砲で、突飛で、大将がする行為ではないと、いったことです。そう確かに、一見すればそうかもしれません。
しかしその奥には義貞なりの論理、真意があったはずなのです。
足利方・北朝方は、足利尊氏の人格でようやくまとまっていた烏合の衆なのです。利があれば、今日は宮方・南朝方、明日は足利方という武将は実に多かった。それでもバサラと呼ばれる派手好きで荒くれ者たちはなぜか、尊氏のもとに集まった。(まあ、そんな武将たちが公家の下には従わないでしょうが)尊氏には、その清濁併せ呑む寛大な心があり、大将として必要な資質を持っていたことになる。尊氏のカリスマ性が足利方を一つにしていたんです。
「尊氏さえ、いなくなれば足利方は瓦解する」そう義貞は直感していたに違いない。だからこそ尊氏の命を狙っていたのである。そのためには、自分の命と引き換えにしてもいいとさえ思ったはずです。だがらこそ、無謀でありながらも決然とした行動をさせたのである。(これはすべて私の解釈ですが)
尊氏は足利一族の棟梁のみならず、北朝方のリーダーである。一方、義貞はどうかといえば、宮方の大将ではない。宮方のリーダーは後醍醐天皇であり、軍事面の指揮官は義貞であっても、公家の高位の者が口出しをしてくるのである。(だからこの点を考慮しないと、義貞の評価は全く違ったものになってしまうのである)
さて、武家の棟梁の資格は、源氏の名門であることが必要である。しかも、それは、清和源氏の直系であることが望ましい。直系である源頼朝は3代で途絶えた。このとき清和源氏の正統な後継者は、足利尊氏と新田義貞の2人ということになるんです。
だから義貞は「…ただ今となってはこの義貞と尊氏との争いに他ならない…」といったのだ。この真意はどこにあったのか。
尊氏の命を取って、新田一族が優位に立とうと考えたのではないか。
武家の棟梁になることは、新田一族の宿願だった。それを適えるのに、もっとも障害となるものは尊氏の存在でしょう。弟の足利直義は頭はいいが、武将の器となると、どうだろうか。生真面目過ぎて、性格的にバサラ大名と気が合わないだろう。(のちに、バサラの代表である高師直と対立する)
「尊氏のみ」義貞にとって敵は、彼一人だったのかもしれない。

追記   南北朝時代を書くのは難しい。説明をどこまですればいいのか分からない。信長なら「桶狭間の戦い」とか「安土城」とかキーワードだけで通じるが、南北朝時代だとすべてを説明しなと、話が通らないかもしれない。
まあ、「新田義貞は歴史書で言うほど、凡将ではないな」ということだけが伝わればそれだけでいいと思っています。
いまはただ、義貞ファンが一人でも多く増えることを祈って書いているおります。
というわけで、義貞記事はしばらく続きます。

男だねー、新田義貞。

2007-08-15 22:26:01 | 歴史もの
義貞の逸話。

箱根竹の下の戦いで敗れた義貞軍が京都へ退却したときのこと。
追撃のために攻めのぼってきた足利軍は、増水した天竜川に真新しい浮き橋が架かっているのを見た。
足利尊氏は、「まさかあの浮橋を架けさせたのは新田義貞ではないのか?」と近くにいた農民に訊くと、その通りだと答えた。
「信じられん追撃をすこしでも遅らせようと橋を落としておくのが常識なのに、義貞はなぜそのままにして行ったのだ」と訝った。
そこで、家臣が事情を聞き回った。義貞軍は近隣の材木をかき集め3日で橋を作ると、まず軍兵を先に渡らせて、義貞自身は最後に橋を渡った。そればかりでなく、兵が橋を切り落とそうとしたところを義貞は止めた。「たとえ切り落としても勢いを増している追撃軍であれば1日で橋をかけるだろう。追撃をかわすためのわずかな時間を稼ぐために義貞が橋を切り落とし、あわてふためいて逃げてと言われては末代までの恥になる」と言った。それにこれ以上農民に労力をかけさせたくないという配慮もあったという。
この話を聞いた足利尊氏は、義貞を「疑いなき名将」と称した。
この逸話は足利方寄りの「梅松論」に書かれたものである。
戦いの常套手段となれば、当然、橋は切り落とすことになるでしょう。少しでも時間稼ぎをしたいはずです。でも義貞は目先の勝負よりも、名を取った。これをもってして戦下手と称するのは簡単でしょう。しかし、そんなことは義貞には百も承知なはずです。だからこそ、橋を切り落とさなかった意味を尊氏は感じ取ったはずなのです。尊氏は、義貞の真意を器の大きさを知ったのです。そして、お互いが源氏の棟梁でなければ分らない苦悩や孤独を抱えて戦っていることを再認識したのではないか、それが義貞への賛辞につながっていると思います。
義貞と尊氏は本当にいいライバルなんですよ。

義貞愚将説がまかり通っている今、これを打破すべく書いたのが歴史ミステリー小説「東毛奇談」第2章です。

誠に勝手ながら、今週は義貞応援強化週間であり、小説「東毛奇談」PR週間となっております。

よって、義貞の話は次回も続きます。

新田義貞の兜の話。

2007-08-13 23:49:04 | 歴史もの
8月14日は、旧暦では7月2日にあたる。
新田義貞が戦死した日は旧暦の7月2日であった。現代では残暑が厳しく、まだまだ盛夏の印象があるが、昔は夏も短く、暦上では立秋も過ぎて、秋の気配が感じられるころであっただろう。
さて、新田義貞討ち死にの場面は、歴史ミステリー小説「東毛奇談」の第2章あたりで書いたし、「7月2日は新田義貞の命日」という記事にも少し書きました。命日にちなんで何か義貞について書きたいので、今日は、新田義貞が死ぬときにしていた兜の話をしたいと思います。
新田義貞戦没伝説地は、現在の福井市新田塚で、当時は灯明寺畷といわれています。
なぜ、伝説地かというと、新田義貞の戦死場所は確定されていないんです。
たぶんこの辺りだろうということで、決まったんです。(うー名将の最期としては悲し過ぎる)
その経緯が因縁めいているんです。
それは、江戸時代の1653年のこと。この地の百姓であった嘉兵衛なる人物が、水田から古兜を見つけた。農民にとっては兜も農具に代わる。おーこれは、何か入れるものに丁度いいと芋桶として使っていた。
これを当時の福井藩軍学者の井原番右衛門がたまたま通りがかりこの兜を見つけた。その芋桶に使っている兜をちょっと見せてみろ、なんて言ったんでしょうね。で、この井原という人はなかなかの目利きだったらしく、この兜が年代物で名のある品であることを一目で見抜いた。そこでこれを貰い受けて、早速、兜を調べてみた。
四十二間の筋兜で、兜の周りには「天照大神」「熱田大明神」などが刻み込まれ、兜の裏側には元応元年・相州作の銘がある。
そして、これは新田義貞が身につけていた兜に間違いないと鑑定したのだ。
これにより、兜が発見された場所が義貞戦死の地となった。
これは当時大ニュースとなった。
1660年、その時の福井藩主・松平光通は、新田源氏を名乗る将軍家の遠祖として、また自分の祖先として『暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所』と刻んだ石碑を建立し、遺跡を顕彰した。そこで、その辺りは新田塚と呼ばれるようになった。明治時代には藤島神社が建立され、兜は奉納された。そのときの福井知事が松平茂昭。いま兜は重要文化財に指定されている。

ということで、まず、新田義貞の兜が農民によって発見され、それを芋桶に使っていたということが、逸話として面白くもありますが、どこか哀しくもありますね。
それにこの話の興味深いところは、松平家・徳川家は、自分たちが新田一族の末裔であることを、全く疑っていなかったことが分かるということです。
これは、家康が、「われらは新田源氏であり、源氏であるからこそ、将軍職を受けることができ、幕府を開き、政務を掌ることができる」という自らの出自政策が見事に成功している証拠でしょう。
徳川光圀でさえ、我らは源氏の末裔である、という詩を残しているほどですから、江戸時代では、徳川家・松平家=新田源氏であると信じられていたし、一般庶民にも浸透していたんです。
家康が1586年に里見氏に出した書状には「徳川家と里見家は同家の新田の出であるから誼を結ぼう」といった内容のものを送っている。これは家康が将軍職を受ける16年前のことである。
里見氏は新田家の分家であり、「里見八犬伝」で有名なあの里見氏である。後に里見氏は改易となり、新田源氏を名乗る大名、有力者は徳川家だけになった。(このあたりは「東毛奇談」第3章に詳しく書いてあります)
そしてもうひとつ、この兜をめぐる物語は「仮名手本忠臣蔵」につながっていくですが……。
これは次回に続く。




新田次郎氏と斎藤佑樹くん  その3

2007-08-05 22:23:29 | 歴史もの
新田次郎氏の話の3回目

さて、新田次郎氏が中央気象台に勤務して、雷雨調査のために、生品神社の社務所に滞在していた同じ年の昭和14年に、ていと結婚しています。このとき新婚であったのか、このあとに結婚したのか、もう少しよく調べなければ分かりませんが、新田次郎(このときは、まだ藤原寛人)は27歳のときで公私ともに充実していた時期だったでしょう。
でも、このあと起こる出来事がなければ、彼は作家にならずに、気象学者か技師として、平凡な人生を送っていたかもしれません。

そして、人生の転機を迎えます。
昭和18年、満州国観象台へ赴任。この年に次男の藤原正彦氏が誕生。
昭和20年、満州で終戦を迎えると、新田次郎氏はソ連軍の捕虜として、拘束され、中国共産党軍によって、抑留されてしまいました。
残された家族は、命からがら逃げ、満州から引上げて帰国した。
このときの悲惨な状況を夫人のていが書いた。これが小説「流れる星は生きている」で、戦後の大ベストセラーとなり、のちに映画化、ドラマ化されるほどの評判となった。
新田次郎氏も1年間の拘束を解かれ、帰国。夫人の書いた本に触発され、作家を目指すことになる。
昭和31年に「強力伝」で直木賞を受賞。この後、順調に作品を発表していく。
新田次郎氏が偉大なのは、気象庁での勤務を続けながら、小説を書き続けたこと。彼は富士山気象レーダー建設責任者として、これを成功させた。このことはNHKの「プロジェクトⅩ」の第1話として取り上げられた。
昭和41年に気象庁を退職。
昭和49年に吉川英治文学賞を受賞。
小説「新田義貞」は昭和51年から昭和53年の2年間新聞掲載された。
そして、昭和55年2月15日、心筋梗塞で死去する。

経歴から分かるように、小説「新田義貞」は、新田次郎氏の最晩年に書かれた長編作品ということになるんです。
彼が最後に選んだ歴史上の人物が新田義貞だったということです。

さて、タイトルの新田次郎氏と斎藤佑樹くんとが、どこで結びつくかということになるでしょう。
まあ、2人とも生品神社に関係がある。
何となく、新田氏と関係がありそうな感じっていうのは分かりそうですね。
そのほかに、何が2人の共通点?
それは、
新田次郎氏、1912年6月6日生まれ。
斎藤佑樹くん1988年6月6日生まれ。
そう誕生日が一緒。
なーんだ、そんなことか、と思われる方も多いでしょう。しかし
1912年は明治45年、明治最後の年。
1988年は昭和63年、実質昭和最後の年。(昭和64年は数日しかない)
つまり、新田次郎氏は明治の最後の年に生まれた男。方や、斎藤佑樹くんは昭和の最後の年に生まれた男、なんです。

私は別に占星術を深く信じているわけではありませんが、ここに運命を感じてしまうんです。私は運命論者だから、人が誕生したとき、この世に何かしらの意味や運命を背負って生まれてくると思っています。
人は自分が思っている以上に他人から影響を受け、周りの人々に様々な感情を受けつ、与えつつ生きている。
一歩あるく度に、世の中に影響を与え、一言発するごとに、他の人に少なからずの禍福を与えている。(本人にその意思があろうとなかろうと)
それが、他人の人生を変えるかもしれないし、本来持っていた運命を気付かせるかもしれません。
それは、本人が………
すこし観念じみてきたのでここらでやめます。

要は彼ら二人の運命は何なのかいうことです。

まず新田次郎氏の人生の転機があったとすれば、満州で捕虜となり抑留されたことで、このとき殺されてもおかしくない状況だった。それを彼は切り抜けたことでしょう。
でもこの終戦の悲惨な出来事がなければ、新田次郎氏は作家にならなかっただろう。もし一歩間違えれば死んでいて、この世にいない。しかし生き残っていたら、別の人生が切り開かれていた。

そして、新田を名乗り、新田義貞の人生と運命を描いた。

新田次郎氏は逆風を順風に変える強運をもっていたということになるんです。
また、新田次郎の家族も満州からの引き上げで、一家全員が死ぬか、藤原正彦さんは残留孤児になっていた可能性が高かったという。
ここでもこの危機を乗り越えた。
この状況を夫人のていが小説化し、評判になったことにより、新田次郎氏は作家を目指している。この一連の運命の連鎖は、まるで作家が書いたような展開ですね。だれかがストーリーを描いたようです。ここに、「神の手」を感じる人もいれば、「人生の綾」を感じるという人もいる、「いやただの偶然だよ」という人だっているでしょう。
私はここに運命を感じてしまうのです。

では、斎藤佑樹くんの運命は何でしょうか。
まあ、彼はまだ若く、人生を語るほど生きているわけではありません。
でも彼は何かを持っているということだけは分かります。
それに強運を持っていることは間違いない。そうでなければ、甲子園で全国優勝することは出来ないし、大学野球のMVPに選ばれることもできないだろう。

ではその強運はどこからくるのか。
それが、「新田源氏の発祥地で生まれたことに意味がある」ということなんです。
そう結局ここに戻ってくるわけです。

「斎藤佑樹くんは新田源氏の生まれ変わりか」
ブログ開設の最初のころから書き継いできたこの説に、賛同してくれる方も意外に多い。コメントを下さる方には、彼の持っている雰囲気がタダものではない、サムライ雰囲気を漂わせているといった内容のものも多かった。

なぜ、そう感じるのでしょうか。

彼は普通とは違うものを持っている。
ただの野球の上手い人だけではない、こいつはどこか、違う。
何かを背負っていると。

そうそれが「斎藤佑樹くんは新田源氏の生まれ変わりか」説なんです。
この説はここまで書き継いできてやっと完結したんです。


追記……というわけで、泥沼化していた記事を一応載せました。ウィキペディアのように書きかけの内容で、随時、書き足していきます。
今読み返しても、どうにもならない論理で、いろいろ詰め込もうとして、全くまとまっていません。(じゃー今までの記事はまとまっていたのか、と言われると困りますが……)
しかし、これを載せないことには、先に進まず、次の展開ができないので載せてしまいました。ニアンスだけでも伝わればと思った次第で、新田次郎氏、斎藤佑樹くんが生品神社や新田源氏と関係があるということが分かっていただければ、それで、良かったのに、運命論を持ち出したのが失敗の原因です。
このあと新田次郎氏の息子藤原正彦さんの「国家の品格」で武士道についての話を書いたのですが、長くなったのでバッサリきりました。これはまた後で書きます。


新田次郎と新田義貞。その1

2007-07-27 22:27:57 | 歴史もの
「国家の品格」の著者である藤原正彦さんの父は、作家の新田次郎氏である。

「強力伝」で直木賞を受賞し、歴史小説「武田信玄」は、10数年前に中井貴一が信玄役でNHK大河ドラマとなった。(「風林火山」とはまた趣が違うので、一読お勧めします)
「八甲田山死の彷徨」は高倉健主演で映画化され、名セリフとともに大ヒットした。また現代小説の大家でもあり、山岳小説という新しい分野を切り開いた、昭和を代表する大衆文学の雄である。
また、夫人は藤原ていでこちらも作家。

ということで、新田次郎氏の家族は、みな藤原姓なのに、なぜ新田次郎氏だけ新田姓なのか?

その理由は、新田次郎氏が明治45年6月6日、長野県上諏訪町大字上諏訪角間新田で生まれたことによる。
本名は藤原寛人で、新田次郎はペンネーム。地名の新田から姓を、また次男坊という意味でこの名前となった。また「しんでんじろう」では響きが悪いので「にったじろう」にしたというのである。(ここでも新田と書いて「しんでん」と読む)
そこで、同じ新田姓である新田義貞に機縁を感じて、小説「新田義貞」を書いたという。
小説の解説で、新田次郎氏は新田義貞を始め一族の対してかなりの同情を寄せていることがわかる。
では以下引用。

「義貞の人間像について、新田次郎氏は次のように語ったことがある。『中世武士道を生きた人ですよね。馬鹿正直で、無骨で、純粋の坂東武者、大義名分のために死をおそれず、ぶつかってゆくんです。その性格を、海千山千の後醍醐天皇の野望に、うまく利用されたわけですね』こうした義貞像を、成長期から時代の流れに沿って追い、悲劇的な最後をたどっているわけだが、彼(新田次郎)は調べてゆくうちに、義貞が決して凡将ではなく、むしろかなりの智将でありながら、非情な政治に翻弄される姿に、同情を禁じ得なくなったようだ。
「西洋風にいえば、騎士(ナイト)とも言える、彼の人間性に惚れこんで書いた」』

騎士ですよ、ナイトですよ。時代小説の巨匠が義貞をこう評した。

たしかに、義貞は中世西洋映画に出てくる騎士に印象が重なる。

刀を抜けば、降ってくる矢を次々と切って落とす。神技と称される武芸を持ちながら、
雪中の海に船を浮かべ、横笛を吹いて親王を励ます、風流をも持ち合わせる。

顔に矢傷がある、無骨で、愚直な坂東武者でありながら、

月の夜、琴の音色に誘われて、たちまち宮中女官に一目惚れをする。

何とも、義貞は、人間味があふれてますね。


おっ新田次郎の話をしてない、では続きということで。
新田次郎と生品神社の関係は次回で……

歴史ミステリー小説「東毛奇談」の一部抜粋

2007-07-17 22:09:52 | 歴史もの
記事を書く時間がなかったので、歴史ミステリー小説「東毛奇談」の新田義貞の死後の出来事の部分を転載します。
本文は
http://pcscd431.blog103.fc2.com/ です。

では、以下小説部分掲載。



運命のとき、延元三年七月二日。その日、義貞は自らその首を掻き切った。
一瞬の出来事であった。
大将の死を見た家臣たちは、瞬時に悟った。騎乗の者は馬から飛び降り、徒士は駆け寄って、義貞の死骸の前に跪いた。そして無意識の内に腹を掻っ捌いて次々と死んでいった。どの死骸が大将のものか分からないようにした行為であった。
それは異様な光景であった。怒号とも叫喚ともつかぬ声を上げながら、義貞の家臣たちは、首に腹に自らの刀を立てた。忽ち、そこには数十の屍が山となって重なった。あまりにも呆気なく方が付いた。足利方は大して攻め懸けることもなく、相手方が自滅していく様を見ていた。
 新田方は馬回りの者が一人、本陣に帰り義貞の討ち死にを伝えたが、それ以外の五十余騎はすべて討ち死にした。それに対して、足利方には一人の死傷者もなかったのであった。
 暫くすると足利方の兵士らは、戦利品を漁り始めた。敵方の首だけではない。目ぼしい太刀や兜を拾い集めるのであった。その最中、一人の兵士が「これぞ大将の首なり」と声高に叫んだ。この兵は、素早くこの首を手に取ると、鋒に刺し抜き高々と掲げた。見るからに名のある武将である、発見した兵の顔に喜色が溢れていたのは言うまでもない。この兵は斯波高経の家臣で、名を氏家中務丞重国といい、その名が世に出た最初で最後の武功であった。
 ただ討ち取った首が、宮方の総大将義貞であるということを、重国どころか足利方の誰もがこのときは分からなかった。清和源氏の名門、新田宗家嫡流である義貞がこれ程の少数の兵で、しかもこのような畦道にいようとは思いも付かないことである。足利方の兵士は敵の小隊を易々と殲滅させた、と意気揚々に本営へと引き返して行った。
 越前の足利方大将である斯波高経に、戦況が告げられ、早速敵方の首検分が始まった。数十と集められた首の中で、高経は一つの兜首に釘付けとなった。その顔付きに見覚えがある。「もしや」と思い、急ぎその首を洗わせた。すると左の眉の上に矢傷があることを発見したのである。また、首の近くで見つかった肌守りの袋も高経に差し出された。高経は袋の中から手紙らしきものをつかみ出し、読んだ。その文面に身体が震えた。畏れ多くも後醍醐天皇の御辰筆で、義貞に宛てられたものであった。
 もう疑う余地はなかった。自身の知らぬ間に、敵の総大将を討ち取っていたのである。この上ない大功である。高経自身は黒丸城に押し込まれ、自軍の大敗も目に見えていた。この形勢不利をこんな形で逃れられるとは思いも寄らないことであった。時運の不思議さを高経もひしひしと感じた。
 高経は首改めを一通り済ますと、今度は義貞征伐のあった場所に多くの兵を差し向けた。そこで戦をしようというのではない、泥田の中を探索させるためである。義貞は源氏の重宝である鬼丸、鬼切り丸を常に身に着けていた。今ここにその二宝刀がないとなれば、死骸とともに紛れて落ちているに違いない。そう高経は踏んだのである。
 義貞の死地となった泥田には、篝火が焚かれ、刀を求めて這いずり回る兵士たちで入り乱れた。次々と太刀が見つかるがどれが源氏の重宝であるかは一見しただけでは分からない。集められた太刀は泥まみれのまま、高経の本営に運ばれる。これを一振り一振り高経が自ら吟味した。その目は、何かに取り付かれたように太刀を見据え、手や衣服に泥が付こうとも気にもならないほどに尋常さを失っていた。
異様な緊張感の中で雄叫びにも似た声が上がった。「これこそ、我が求めていたものぞ」高経の声が響いた。遂に鬼丸、鬼切り丸が見つかったのである。急ぎ太刀の柄を拭くと、黄金作りの太刀が目の前に現れた。銀のはばきに『鬼丸』と金象嵌され、もう一振りには金のはばきに『鬼切り』と銀象嵌された太刀であった。
「まさしく、この世の支配者が手にすべき名刀である」と嘆息すると、わが手にした喜びに浸っていった。太刀が放つ怪しい光に魅了され、いつまでも眺めた。時折、剣先を指でなぞると、その度にぞくっと冷たい感覚が体中を駆け巡る。
 高経にとってこれほど人生最良の日はなかった。敵の総大将を倒し、源氏の重宝を手に入れた。源氏の嫡流のみに伝わり、すでにその来歴は伝説となっている。清和源氏足利流に連なる斯波高経にとって、この二太刀は限りなく大きな意味を持っていた。降って湧いた幸運に高経はその夜、寝ることもなく、太刀を眺めて過ごした。その心中で湧き上がる感情を抑えることが出来ない。「もしや、己が源氏の棟梁に……」野望の炎が吹き上がっていった。
 数日後、高経のもとに尊氏からの使者が来た。二宝刀を将軍に献上するようにと命じてきたのである。
(誰が渡すものか)と密かに思うと、策謀を巡らせた。義貞を葬った寺に奉納したところ、その寺が出火して二宝刀も焼けてしまったと、虚偽の報告をし、偽の焼身を送りつけた。だが尊氏にこの嘘は通じなかった。
「末々の源氏が持つべき物ではない、即刻太刀を献上せよ。将軍家の重宝として嫡流に相伝する」と再び催促してきたのである。
高経は憤怒した。「末々の源氏とは何事ぞ」という同じ清和源氏として、我らを軽んじる発言が気に入らなかった。今までも尊氏個人のために戦っているのではない。尊氏に付くことに利があるから、従っているだけのこと。それに義貞を討ったのも、この太刀を見つけたのも己であり、一度手にした宝をそう易々と渡すほど御人好しにもなれない。
 高経は長櫃を新調させ、そこに鬼切り、鬼丸の太刀を隠してある。時々取り出しては、触れてみる。不思議な感覚が身体に行き渡る。手放すのはあまりにも惜しい、それに意地でも太刀を渡すまいと決意した。
この高経の言動は、尊氏の元にもれ伝わっていった。いくら寛容な尊氏でも、この高経の行為は許すことが出来ず、遂に激怒した。義貞を討った大功に対して何の恩賞を与えることもなく、逆に太刀を渡さないことを足利家に対する叛意であると見なしたのである。このときから、尊氏は高経ら一族を軽んじ始め、遠ざけるようになった。
 すべては、義貞の血を吸った太刀が起こしたことである。鬼切り、鬼切り丸の因縁は深い。
高経はこの尊氏の不興を恨み、遺恨とした。後に直義が挙げた反尊氏の乱に、中心派として与したのであった。だが、それも直義派が敗北すると、たちまち尊氏に降参した。そしてその証しとして、この太刀を尊氏に献上した。尊氏は喉から手が出るほど欲しかった宝刀を手に入れると、高経をあっさり許すのであった。太刀を手放した斯波家は、足利幕府の管領職を得て、後に重きを成すことになる。

義貞が討ち死にという報が、称念寺の白雲上人に伝わった。上人は、寺の時衆僧八人を連れ、合戦のあった場所に急ぎ駆けつけた。そこで義貞の遺骸を見つけだし、輿に乗せて、寺に運ぶと手厚く葬礼したのである。
上人は、義貞が死を予感させながらも、この時がこうも早くこようとは、思いもよらなかった。そして武運つたなく、志し半ばで逝かれた義貞のことを思うと、宿命の儚さを感じられずにはいられなかった。
そんな思いの中、宗祖・一遍が祖父河野通信の墓を訪ねて弔ったときに詠んだ歌を思い出した。

はかなしや しばしかばねの朽ぬほど 野はらの土はよそに見えけり

 河野通信は、武家と公家の間に起こった権力の争奪戦である承久の乱に巻き込まれ、公家に与して敗れた。そして奥州に流され、妄執と怨念を残して彼の地で死んだ。
 一遍は、墓石も墓標すらもない土饅頭となっている祖先の墓を供養して、慰め、憐れんだ。人の一生とはこれほどに無常であり、死んで屍となり朽ち果てれば、土に返るのみで、一切の妄執は、生きている間に本人を苦しめるだけであると悟ったのだった。
 一遍聖は祖父がこのような境遇であったからこそ得た境地であったが、今、白雲上人が肉親ではないにせよ、知音ともいうべき人を救えずにいたことを後悔した。たた今となってはどうにもならぬこと、ただ義貞がこの世に未練を残さずに成仏することをひたすら祈念するしかなかった。

 一方内侍は、義貞の子を宿したまま今堅田に残され、三年の間ひっそりと義貞の迎えがくるのを待っていた。そしてその地で女子を産み、いまは二歳になった。義貞と内侍の子は山吹姫と名付けられていた。
そこへ、戦況が好転し越前制圧を目前に控えていた義貞から、急ぎ越前に来るようにと迎えの者がやって来たのである。すぐに、幼い山吹姫を連れて隠処を発ち、まず義貞が拠点としていた杣山城へと向かった。だが一刻も早く会いたい内侍は、義貞が足羽にいることを聞きつけると、そこを目指した。だが途次で、宮方の瓜生弾正左衛門尉と不意に出会った。瓜生は馬から飛び降りると輿の前にひれ伏してこう言った。「どこにおいでになられるのですか、新田中将殿は討ち死になさいましたぞ」
 内侍は、あまりにも思いもよらないことで、胸はつまり気も絶えようかというほどで、声も出ずにそのまま倒れ伏した。
かえって、伝え手である瓜生氏の方が、感情に押され、はらはらと涙をこぼし嗚咽した。
「せめてどうか、あの方が討ち死になさった野原の草露の中に、この身を捨て置いてお帰り下さい。今なら、それほどあの方に遅れはしますまい。一緒に露と消えて果ててしまいたい」といって内侍は泣き伏せた。
「それはなりませぬ」と引き留めると、内侍の輿を無理に杣山城に引き帰させた。
城に帰った内侍は、これが、日ごろ義貞が住んでいたところかと見るとその中に、都にはいつ帰れるのかと指折り数える言葉ばかりが書き残されていて、このような形見を見れば見るほど悲しみが深まった。
ここで虚しく数日が過ぎていった。亡き跡も弔いたいと思っていたが、敵軍が迫りつつあり、辺りが騒がしくなってきた。そこで、瓜生氏は、内侍の身体を案じて山吹姫とともに京都へと連れ戻したのである。
 内侍は悲嘆に暮れながら、ある日、陽明門のあたりを通った。すると道端に多くの人が立ち寄って、ああ哀れなことだと声がするので何事かと立ち止まった見ると、越前の国まではるばる尋ねて会えずに帰った義貞が、首だけとなった姿で獄門の木にかかって晒されていた。目は塞がり色もすでに変わっている。義貞の変わり果てた姿に、京の人々は、哀れと思い、泪するものも多くいた。そしてこの悲嘆の群衆の中に混じって、内侍は愛した者の変わり果てた姿を見て、地面に泣き臥せった。この光景は、事情を知る者も知らぬ者も一層人々の泪を誘った。
 内侍は二目と見ることが出来ずに、その場にずっと泣き伏していた。あまりにも哀れな姿に、辺りの寺の僧が慰めて、寺に講じ入れた。そして内侍はその日の夜の内に黒髪を下ろして尼になった。しばらくは亡き人の面影に泣き悲しんだが、会者定離の道理を悟り、別離の苦痛にさ迷う夢から覚め、そののちに奥嵯峨の往生院の近くで庵を結び、朝夕、義貞の菩提を弔ったとも伝わる。
そして義貞の死の半年後に、尊氏は武家の棟梁というべき征夷大将軍に就任して、幕府を開いたのであった。