1956(昭和31)年4月3日の未明、
東京立川から福岡芦屋基地へ向かっていた米軍大型輸送機C-119が
西黒森の東斜面に激突して大破、搭乗員4名全員死亡という航空事故があった。
1956年といえば、
朝鮮戦争が1953年に休戦協定を結び一息ついた頃ではないかと想像するが、
福岡芦屋基地を中継点に多くの物資が
朝鮮半島にまだまだ運び込まれていた時代だったのかもしれない。
事故当時の愛媛新聞によると、
石鎚山系に墜落したと確実視されたのが、事故翌日の4/4。
4/5から警察関係、地元消防団、基安鉱山関係者など大勢の人々が捜索活動に繰り出す。
苦労して事故現場が主谷と特定できたのが、事故から3日後の4/6だった。
同日、米軍船舶隊員4名が瓶ヶ森二千石原にパラシュート降下している。
また愛媛山岳界の著名人、幾島照夫氏も案内役として一役買って出たという。
瓶ヶ森林道もないこの当時の捜索はさぞ難儀だったろうと想像にかたくない。
捜索隊の事故現場到着は4/7。
まだ雪の残る主谷本谷上部で、亡くなった搭乗員の収容作業がはじまる。
4/10瓶ヶ森県営ヒュッテを経由して西之川に下山後、松山の協同教会に安置。
4/11松山空港から東京立川基地へ運ばれた。
もう63年も前の出来事だが、
事故現場である西黒森の東斜面には、
飛行機の残骸が今もなお少なからず残っているという。
新聞記事で事故を振り返ると、現場を訪ねてみたい思いが湧いてくる。
枝葉が落ちて見通しの効くこの時期は、遺留品を見つけやすいだろうと、西黒森へ向かった。
西黒森の北コルから主谷沿いに下降。
主に右岸をメインに捜索する。
繊維。搭乗員の衣類、飛行機の備品だろか。
降着装置、タイヤは無い。
ジュラルミンにリベット。
機体
ゴム類
ゴム製車輪のついた器具、フランジのボルトは錆びてない、
液体の入った50L位のアルミ缶、コックはまだしっかりしているようだ。
中の液体は当時のままだろうか。
エンジン部品
バルブとバルブスプリング
碍子つきのオルタネーター
親指位の径のアルミパイプ、潤滑系か?
600mm長のボンベ、鉄製で重たい。
谷を下降し続けて、
H=1100mにはC-119のエンジンが谷に半分埋まっていた。
このC-119のエンジンはライト R-3350 サイクロン 18 空冷18気筒54.9L
シリンダーの周囲に空冷特有のアルミフィン、
タイミングチェーンらしきものも。
遺留品探しは大物のエンジンを見られたことで目的は果たせた。
だから主谷の下降はここまでにした。
エンジンのそばに腰掛けて眺めながら行動食をほおばり、しばらく時間を過ごす。
体が冷えてきたら、気持ちにキリをつけて谷を登り返しにかかった。
ありがとうございます。
山を歩いていると、自然の素晴らしさに感動することもあり、また人間の営みに心を打たれることもあるようですね。
子供のころのニュースを思い出します。
亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。
現在でもこの地域は飛行ルートになっているらしく、旅客機も上空によく見かけます。
往時をご存知の方からコメントいただき光栄です。
忘れ去られていく出来事を
少々ほじくりかえしたような気分です。
回収基地は作業終了後、きれいに整備されていたことを思い出します。
対潜哨戒機、搭乗員12名全員死亡の惨事だそうですね。たしか夜明峠を中心に成就尾根から水晶尾根にかけて残骸が残っていたという話を聞かされたことがあります。
回収基地の件は知りませんでした。もう知る人ぞ知るの古い話ですね。ありがとうございます。
図書館で調べたくなりました。