雨上がり屋日記〜音楽を聴きながら縫うひと〜

歌を聴いたり縫ったり散歩したりごはん作ったり、いろいろしながら思ったこととか考えたこと。

感受性とガラスのハートはイコールなのか

2018-08-16 15:35:29 | 日記

わたしは娘が2人いるんですが、熱く語り合うことが多い親子です。笑


3人でだったり2人だったり、家の中だったり外だったり、朝だったりお昼だったり深夜だったり、電車の中だったり、同じ家に帰るのに出かけた帰りにわざわざカフェに寄ったり。



今思い出しても笑ってしまうのは、高校の廊下で三者面談の順番を待つあいだに白熱した会話をしてて、前の親子が教室から出てきたときにハッと我に返ったり。しかもそのときの話題はジャニーズJr.についてだった!笑

そう、内容はくだらないものが多いけど、深いものもたまにある。




ゆうべも、上の娘と話していて、どういう繋がりか忘れたけど、感受性が豊かなひとは必ずガラスのハートなのかっていう話題で白熱してました。


わたしは常々、「感受性を育てる」みたいな言葉に疑問を持っていて。

感受性はあればあるほど豊かな人生を送れるみたいに思われてるけど、わたしは感受性って持ってると結構辛いものだと思ってる。

たぶんわたしは、この年代の中では感受性が多いみたいな気がする。多い少ないって表現は間違ってるかもだけど、豊かか乏しいかって言いかたしたら、豊かがいいに決まってるみたいになるからね。あえて多い少ないにしてみる。


感受性が多いと、感動も多いと思うけど、悲しい苦しい痛い辛いさみしい切ないetc. そういうマイナスな感情も多い。多いだけじゃなく、ひとつひとつが大きくて深くて鋭くて重たい。

だけどそれを大抵の他人はわかってくれない。わかってほしくて話したりするけど、伝わらなくて孤独を感じて余計に苦しくなる。

そんな経験を重ねているうちに、誰にも話さなくなる。ひとりで抱え込む。苦しい。


そんな感じ!ほら、いいことないでしょ?笑



だからきっと、表現するんでしょうね。音楽にしたり絵にしたり文章にしたり映像にしたり。
それでアウトプットしないと苦しいんだろうね。
でも、表現者が全員そうじゃないから、そういうひとを見つけると仲間だなあって思ってしまう。それがたぶんわたしの「好き」の原点だと思ってる。


なんか話がそれてしまった。



娘と話してたのは、感受性が多いと傷つくことが多い。傷つきやすいガラスのハート。

でもね、娘が言ってたんです。
今までそのガラスのハートのせいですごく生きにくかった。人より辛いことが多かった。だけど、傷ついたらそっからだ!って。傷つくことで研ぎ澄まされる感性。だから傷つけてくれてむしろありがとうって思うって。感受性がなくなったら心がなくなるってことだから、そんなの死んだも同然だって。


誰が生んだんだ?この子。って思ってしまった。
すごい。かっこいい。強いじゃないかそんなの。むしろ最強だ!


わたしはこの多い感受性を持て余してて、楽になりたいがために、こんなのいらないなあって思ってた。綺麗な音楽聴いて、素敵な映画観て、いいねーいいねーって笑って生きれたらいいのになって思ってた。夜になってもなにも考えずにぐっすり寝て爽やかに起きて。


でも、それじゃ死んだも同然なんだ。



じゃあこのまま、痛いとか苦しいとか言いながら生きてくしかないな。


それで溢れるみたいに表現できたらいいな。


感受性が豊かなおばさんはちょっといやだから、このままガラスのハートを持つおばあちゃんを目指していくことにしよう!




ゆうべ聴いてたら眠れなくなった歌。きのこ帝国の夜鷹


変化恐怖症って名前つけた

2018-08-04 08:35:51 | 日記
このブログ、いったい何様のつもりで書いてるんだろうーーって急に恥ずかしくなり、ちょっと放置してました。笑

読み返したら、誰がわたしのことなんて知りたいんだーー!ってなり、最後まで読めないくらい恥ずかしかった。

でも!これは!
雨上がり屋がもっと軌道に乗って、HPとかできて(いや作ればすぐできるわけだけどそういうことじゃなく)、ちゃんとお店(店舗をかまえるという意味ではなくて)になったとき、あっこんなに前からずっとやっててこんなこと考えてる人が作ってるのねってなるための!準備であって!今読んでいただくためのものではない(いや今読んでくださったらもちろんとても嬉しいのだけど)!

っていう、だいぶめんどくさいブログ(書いてるわたしがめんどくさい)なのです。ふー。


なので、きゃー!って叫んでどこかに隠れたい気持ちを抑えながら書こうと思います。



変化が苦手って話です。

生きてる以上、日々刻々と変化していくわけで、それは誰にも止められなくて、仕方ないけど、わたしは変わってくことが怖くてたまらないのです。

勝手に、変化恐怖症って名前をつけてみました。


これだけは変わって欲しくないってものばかりが変わってしまう気がしてる。特にこの何年か。


ここだけは。これだけは。この人だけは。この人達だけは。って思うものばかりがあっさりなくなってしまったり変わってしまったりする。


よく考えてみると、ここは変わらないでほしいなって思う時点で、たぶん変わる予感がしてるんじゃないかとも思います。

もっとよく考えれば、こんな状況すごく貴重だ!存在が奇跡だ!最高だ!っていう、危ういものが好きなんじゃないかとも思います。


江國香織さんのキラキラヒカルっていう小説が、わたしは大好きすぎて、暗記するほど読んでるんですが、主人公の笑子ちゃんが七夕の短冊に願い事を書くとき、このままでいたいっていうのが本当の願いだけど、そんなの思った時点でもうこのままでなんていられないって、白紙の短冊を結ぶシーンがあって。
本当にそうだなあって思います。本当に大事な願いや気持ちは、言葉にしないほうがいい。
わたしは大事なものを見つけたとき、この白紙の短冊のことを思い出します。いつも。


そんなに怖い、変わってしまうっていうことだけど、変化は失うことでもあって、失うのは悪くないなって最近は思えたりもしてる。それは失ったものは変わらないから。
なんか一周してもとに戻る!みたいな変な感じだけど。
なくなったものや亡くなってしまったひとは、それ以上変わらない。そんな安心感を見つけてしまった。

つまりは、自分の中でずっと持ってるものは変わらないってことなのかな。

失ったものを思う気持ちを払拭するために、新しいものを見つけるやり方もあるし、それも前向きで素敵で、そうして進んで行きたい気持ちもあるけど、自分の中にあるその失ったものを思って、思い出して、あっためているのもいいのかな。

なんて思い始めています。

今まで出会ったりもらったりしたすてきなものや出来事や時間を、ひとつひとつ思い出して過ごしても、残りの人生じゃ時間足りないなー。とか思ったり。




最近娘が好きで聴いてるアーティストさんがテレビで、井上陽水の帰れない2人の続編として作ったと言ってた曲がすごく好きだった。
わたしも、ずっときのうを生きたいって思うこといっぱいあったなーって思った。
好きだなって思う人はどこかで繋がってるよね。帰れない2人って陽水さんと清志郎の共作だもんね。不思議だよね。


吉澤嘉代子さんの 残ってる