■パンカップ店主の昭和的こころ 「三角ベースボール」

アラカン・パンカップ店主の昭和的こころの復活記◇昭和の時代・日本の伝統を見直しませんか?!

「寄居小唄」を作詞した金子虹とは? ◆再発見 佐々紅華の会

2012-05-05 17:15:28 | 再発見 佐々紅華の会
【寄居小唄】【玉淀音頭】
金子十九歳(昭和7年)の時の作品・・・の作詞をした金子虹について▼

金子は秩父鉄道の寄居駅長まで務めあげた。寄居駅は鉄道3線(秩父線、八高線、東上線)が乗り入れ、また軍需工場もあったため、陸路においてきわめて重要な地点であった。そのため駅長ともなれば特権階級で鳥羽慎平(金子虹の長男)氏によれば、全国各地を鉄道で旅をする機会があったようで、金子虹の愛する石川啄木の生地も訪れたことがあるという。文...学青年であった金子は佐々紅華をはじめ、戦中戦後東京から疎開していた文化人との交流も深かったようで、ものの無い時代、特に食糧難の時代に画家 安井曾太郎に鳥羽家自慢の手打ちうどんをご馳走するといったら、紋付はかま姿で現れた、という話は忘れようにも忘れられない話である。
 また金子虹(鳥羽虹)は戦後組合運動に熱心で「秩父鉄道労働組合歌」の作詞までやっている。編曲(補曲)には佐々紅華の手が入っている。今度のイベント開催日5/13には鳥羽虹さんの長男 鳥羽慎平氏も【再発見 佐々紅華の会】副会長として当日スタッフとして参加予定です。皆様、どうぞ足をお運びください(入場無料 9時~15時まで・京亭・寄居)。



大正から昭和に活躍した 寄居町・埼玉ゆかりの作曲家・建築家・デザイナー 
     佐々紅華

 作曲家「佐々紅華」は、浅草オペラの創始者として数々の流行歌・・・代表作「君恋し」(佐々紅華没後の昭和36年 フランク永井がジャズ風にアレンジしたリメイク版 君恋しを歌い第3回レコード大賞を受賞)「祇園小唄」「寄居小唄」など・・・を生み出し一世を風靡した。佐々紅華は縁あって昭和7年からなくなる昭和36年1月まで寄居町に居住していました。その邸宅が現在の「京亭(虚羽亭)」です。紅華自身が設計した細部にまでこだわりぬいた建築の見学や紅華ゆかりの品の一部を展示いたします。【再発見 佐々紅華の会】

佐々紅華「寄居小唄」と「玉淀小唄」元譜

2012-05-05 16:23:15 | 再発見 佐々紅華の会

【パンカップ店主 5/13のイベント】
昭和6年頃の正喜橋(しょうきばし・寄居・埼玉)
当時吊り橋だった正喜橋、ヨイトマケの唄が聞こえてくる。のどかな昭和初頭の寄居風景。

こんななか寄居駅に務めていた十九歳の金子貳次(かねこたかつぐ/金子虹かねこにじ)という石川啄木を心から愛する文学青年と佐々紅華との出会いがある。寄居小唄という舞踊小唄の作詞が金子虹によるもの。
 まさに昭和の寄居風景だ。13番まであるがレコード吹き込みは1. 2. 3. 13. となっています。十九歳の青年に...しては「よく出来過ぎている」ということで「盗作」ではないかといわれたという。※彼は武町(うちの町内/寄居・埼玉)の鳥羽家に婿に入ったが昭和39年に54歳で亡くなった。夫人とよさんは平成18年に94歳で亡くなったが、お元気な時に古い冊子をワープロで打ちなおすよう頼まれた。手書きの文で、継ぎはぎをして書き直された個所もある。「寄居小唄」であった。昭和20年頃東京より疎開していた画家 安井曾太郎に鳥羽家自慢の手打ちうどんをご馳走するといったら、紋付はかま姿で現れたとか。巨匠らしい振る舞いに思わず笑いがこみ上げてきた。ちなみに金子虹の実家は俳人 金子兜太の本家と聞いた。  

 
        寄居小唄 
  金子虹作詞 佐々紅華作曲


色はうす紅 玉淀さくら 霞む日ごとの 水かがみ
まわる日傘に ほろほろと さても愛しい 花が散る

桑の雫に 白粉といて 夢のよにひく 眉の墨
紺の蛇の目が ちらほらと 水の玉淀 夕時雨

思ひかけはし よりゐに桟けて 君と逢瀬が ままならば
川を隔てた 西ひがし 泣いて苦労は せぬものを

城は鉢形 御城下町に 昔 鳴らした 意地もある
思いきるまい 心なら せめて二度咲け 山つつじ

君が来ぬ日は 鐘撞堂の 峯の朝ぎり 雨となる
恋のあま沼 瀬の水に ざんざ降れ降れ なみだ雨

小鮎躍るか 城下あらし 水が散る散る 銀の珠
よりゐ舞妓が ふりそでに サッと棹きる 鮎漁船

河鹿なけなけ 月夜の岸を 波の砕ける 岩陰に
白い素足が ほんのりと 露の笹原 とぶ蛍

朝も早よから 工場の煙は 繭が生糸に なるけむり
花の都の はで好み 一つ語ろか よりゐ絹

吹くよ秋風 雀の宮の 松の梢の 夕ぐれは 
チロロ チロロと なく虫に むせぶ川瀬も 身にしみる

高根山裾 紅葉の寺は 藤田、北條の 墓どころ
金襴どんすの 絵巻物 昔偲べと 松のかぜ

茸は松茸 羅漢寺山の 秋のみのりの ほどのよさ
鳥も帰るか 山越えて 風が泣くよな 鐘の音

君は一すじ 頼みの綱よ 妾しゃ 吊り橋 正喜橋
そぞろ歩きの 象ヶ鼻 月が二人の 縁むすび

よりゐ良いとこ 秩父の山が 雪の化粧(けはい)の しなのよさ
娘まけるな 紅つけて しゃんとすませよ ミス・ヨリヰ


柱と一晩をともにした佐々紅華 「京亭(寄居・埼玉)」 

2012-05-05 12:23:17 | 再発見 佐々紅華の会
5年の歳月を要した数寄屋造りの家

 『見事な数寄屋造りの、その家は、昭和6年(1931)から5年もの歳月をかけて建てられたという。書院障子や欄間の桟、唐戸の鏡板など室内のいたるところに施された繊細な意匠からは、建て主の並々ならぬこだわりが伝わってくるようだ。
 2階の客間をめぐる広縁に立つと、緑豊かな日本庭園の向こうに澄んだ水音を響かせる荒川の流れ、そして対岸には北條氏が築いた鉢形城跡を望むことが出来る。荒川の上流に位置する埼玉県寄居町玉淀の中でも、風景の美しさでは群を抜く景勝地が広がっているわけだが、知らず知らずのうちに視線が数寄屋造りの室内へと転じてしまうのは、その家がそれほどに見事な造りで、持ち主のが実際に住んでいたための生活感や、ぬくもりのようなものが、気配として感じられるからであろう。※』
 『・・・工事が始まったのは彼が45歳のときのこと。自ら図面を引き、家の模型までつくり、木材を京都から取り寄せ、工事に携わった大工たち全員に(鳶職人、大工方はすべて当時の寄居の職人)「佐々」の名前の入った半纏を特注したほど、心血を注いだ家である。※』

最初のイメージは上棟式での記念撮影と思われる自邸の建築風景
した右から2人目の帽子を持っているのが紅華。大工たち全員が「佐々」名の入った半纏を着ている。残念なことにこの上棟式の日取りだが京亭さんや携わった職人に聞いても判明しなかった。昭和6年(1931)だとすると9月21日午前11時20分に「西埼玉大地震」が起きているがその前の初夏の頃だと推察される(埼玉県大里郡寄居町付近 北緯36度9.5分、東経139度14.8分 を震源として発生した地震である。マグニチュードは6.9。震源の深さは3kmとたいへん浅かった)
 ※印 引用文:「由緒正しき宿」の物語②財界人・華族・武家・芸術家が住んだ家 文:相庭泰志 


紅華は、設計だけでなく、現場監督も自らやっていたようで上のイメージは職人たちに混ざって材木に腰をかける佐々紅華。昨日(4 may 2012)京亭の清島利典がこんなエピソードを話してくれた。
 「ある日、朝早く現場に来た職人が仕事の段取りを始めたところ、柱が1本足らない。どうしたものかと思案に暮れていたところ、そこに現れた紅華曰く『あまりにすばらしい柱だったので、夕べ寝床に引きずり込んで一緒に寝た』とか。


イメージは上棟前の現場。後ろに見えるのが吊り橋の「正喜橋(しょうきばし)」手前にはトロッコの線路がいくつも見える。


大正から昭和に活躍した 寄居町・埼玉ゆかりの作曲家・建築家・デザイナー 
     佐々紅華
 作曲家「佐々紅華」は、浅草オペラの創始者として数々の流行歌・・・代表作「君恋し」(佐々紅華没後の昭和36年 フランク永井がジャズ風にアレンジしたリメイク版 君恋しを歌い第3回レコード大賞を受賞)「祇園小唄」「寄居小唄」など・・・を生み出し一世を風靡した。佐々紅華は縁あって昭和7年からなくなる昭和36年1月まで寄居町に居住していました。その邸宅が現在の「京亭(虚羽亭)」です。紅華自身が設計した細部にまでこだわりぬいた建築の見学や紅華ゆかりの品の一部を展示いたします。
 
 【再発見 佐々紅華の会】

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