いするぎ便り

歴史を求めて季節を感じて…
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今石動城址

2012-05-31 | 日記

 JR石動駅から徒歩約20分、城山(標高187.3メートル ・ 一名「白馬山」)にある城山公園

桜の名所で有名な公園内の中央広場を進み、さらに案内板に従って右に折れ、約1.4キロメートル登っていくと、今石動城本丸跡に着きます。

 

散策MAP はこちら→小矢部市商工会HP

"walking" はこちら→小矢部市商工会HP

今石動城


  今石動城 は、天正13年(1585)4月、前田利家(加賀藩初代藩主)により佐々成政(越中国守護)に対する攻撃拠点として築城された山城(東西約41メートル 南北約27メートル)です。

利家によって、前田秀継(利家の弟)・利秀(利家の甥)親子が城に配置されました。

豊臣秀吉は同年8月、利家と今石動城に立ち寄り秀継・利秀に会った後、利家を率いて富山城に立て籠もる成政を制圧しました。

8月26日、成政は倶利伽羅峠において、秀吉に剃髪姿で降伏を申し入れたといわれています。

これにより、秀継は木舟城4万石の城主となり、利秀は今石動城の守将となりました。

ところが、11月29日、天正の大地震が発生し、木舟城は崩壊し秀継は圧死。

利秀は地盤の軟弱な木舟での復興を断念し、今石動に戻り、城下町作りに励みました。

 

こちらもご覧下さい。→ 前田秀継公夫妻・利秀公御廟<今石動の町立て>

                永傳寺<遊歩百選に選ばれた石仏の寺>

 

その後、文禄2年(1593年)利秀は、秀吉の朝鮮出兵に加わりますが、途中病を発し、今石動城へ帰り、12月19日、26歳で死去します。

翌年、前田利長(利家の長男)は今石動城を廃城にすることを決定しました。

 

今石動城は使用期間が短く、改修されていないため、前田家初期の典型的な山城の形を留めているとされています。

特徴として

      • 山頂にある主郭(本丸)が、ほぼ四角である。
      • 本丸に上がる登り口が二カ所ある。
      • 城の郭が全部階段状に作ってある。

などがあります。

「一般に山城は余り地形をいじらないで、最小限の労力で最大限の防御効果をあげることを狙い、手をかけないで自然の地形を生かして築くものである。これに対し、今石動城のような計画的で直線的なラインが見える形の城は大名クラスの力がないと作れない。」

「軍事的に守りを重視した城だった。・・・・また、城の範囲もかなり広い。軍勢の駐屯するスペースなどにあてたと思われる。前田氏が越中に進攻するための足掛かりとして作った城であることを考えると、無理からぬことといえる。」

小矢部市・小矢部市教育委員会「おやべ市の歴史と文化再見―小矢部郷土史読本―」平成15年3月発行  より

 

「きっとこの場所で、秀吉と利家、秀継、秀利親子が成政攻略の策をめぐらしていたに違いない」と

当時を想像しながら今石動城址まで登り、

たどり着いて市街を見下ろすと、

クロスランドタワーや建設中の北陸新幹線が眼下に広がっていました。

戦国武将達が思い描いた行く先はどんなものだったのだろうか?

そして、私達の未来はどうなるのだろうか?

420年余りの時が一瞬で通り過ぎたようでした