奥山舎 オウザンシャ

寺内はキリスト教とCharles Dickensの独立研究者。専門分野だけでなく広く社会問題に関心があります。

#イスラエル考2 イスラム教の成立、エルサレム、シオニズム(ユダヤ人のエルサレム帰還)

2023年11月21日 | 日記
 アラビア・メッカ生まれの商人ムハンマド(マホメット)(570頃-632)はユダヤ教とキリスト教の影響を受けつつ610年頃、天使ガブリエルを介して全知全能の唯一神アッラーの啓示をうけて預言者を自覚し、「アッラーのほかに神なし」とするイスラム(教)を創始した。ムハンマドはイスラムの預言者のひとりで、アッラーの教説を最も正しく説いた人とされている。イスラムではムハンマドの上位に5人の偉大な預言者がいるとされ、その5人とはアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスである。これらの5大預言者はユダヤ教とキリスト教とに重なり合っているから、3つの宗教は共に縁戚関係にあるようなものであるが、現実は、どの宗教も、わが神こそ唯一、と主張する。故に、これらの宗教はすべて、発生の時点から不寛容を特徴としていると言えるし、現実にそのようであったのだ。
 今日、3者の関係をいっそうむずかしくしているのがエルサレム問題であり、3者はともに、エルサレムはわが聖地、と互いに主張しあっている。
ユダヤ教はソロモン王の時代から西暦70年までの間、ここに神殿を築いていたし、イエスは神殿の商業行為に立腹して宮清め(マタ21.12-13ナド)を行っているし、イエスの弟子たちはイエス死後ここに日参している。
 イスラム教がエルサレムを聖地とする根拠は、ここがムハンマドの昇天地と見なすからである。ムハンマドは632年に、エルサレム旧市街の、約1キロ四方の城壁に囲まれた神殿の丘(ハラム・シャリーフ)にある巨岩から昇天したとされている。
 他方、この巨岩は、旧約聖書によれば、アブラハムが一人息子イサクを神のいけにえに捧げようとした場所であって(創22章)、ユダヤ教とキリスト教にとっては、イスラム教以前の聖地ということになる。
 エルサレム史をひもとけば、ここは636年にアラブの支配に落ちている。このときイスラム教徒はエルサレム神殿跡に、メッカ、メディナに次ぐ聖なるモスク、アルアクサ・モスクを建立している)。さらに691年、イスラム教徒のウマイヤ朝時代(661~749年)に巨岩をおおう形で「岩のドーム」と呼ばれるモスクを創建し、修復を重ねて今日に至っている。
 1038年、イスラム教徒のセルジューク朝(1038~1157年)が中央アジアでおこり、のちに小アジアに進出して1071年にエルサレムを占領した。この占領で、キリスト教徒によるエルサレム巡礼が困難となったことから、キリスト教徒は1096年に十字軍を派遣し、1099年にエルサレム王国を建国したが、この王国は1291年、イスラム教徒の軍隊マムルークに壊滅させられ、以後マムルーク朝が1516年まで支配し、その後にイスラム教徒のオスマン・トルコ帝国が1917年まで統治している。
 ユダヤ人にとっては、エルサレムは聖地であるだけでなく、パレスチナは父祖の地であり、神から授かったと信じる「乳と密の流れる土地」である。このパレスチナへ、ユダヤ人は1897年に復帰運動(シオニズム、シオンへの帰還)(イザヤ書51章、エレミヤ書3:14)を起こすが、1922年にイギリスがパレスチナの委任統治に入るや、ユダヤ人、アラブ諸国、イギリスの3者間で対立抗争が激化するのである。そんなとき、第二次世界大戦(1939~45年)が勃発して欧州在住のユダヤ人600万人が虐殺されるという悲劇がおこり、シオニズムを加速させ、大戦後の1948年、ユダヤ人はパレスチナでイスラエル共和国の独立を宣言している。これによってユダヤ人は、西暦135年に祖国を失って以来およそ1800年間世界を流浪し、ついに建国にこぎつけたということになるのだが、この建国は、パレスチナ人からすれば迷惑な話で、70万人の難民を出すことになったのである。今日(2002年現在)ではその数は、自然増もあって370万人に達している(以上、出典:寺内孝著『神の成長』アポロン社、2002、273-75頁)。


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