奥山舎 オウザンシャ

寺内はキリスト教とCharles Dickensの独立研究者。専門分野だけでなく広く社会問題に関心があります。

#中世の残照を求めて草津下笠へ―2024年5月25日よりSNSの「note」を使用しています。

2024年06月27日 | 日記
sns の「note」は
 < https://note.com/ouzansha/n/n22588d1692df?sub_rt=share_pb >
をご覧ください。



見出しの地図は「城中」の位置を示すものです
 小幡川は「おばた」と呼んで「おばたかわ」とはいわなかった。夷川は「えべすがわ」と呼んでいたが正しくは「えびすがわ」でしょう。現在、「えべすかわ」は道路・用水路となり一部分しか判りません(以上の情報は、城中・小幡川・夷川の位置を含め、下笠氏から得ました。記して謝意を表します。川端59「城域」も参照しました)       【画像提供】OpenStreetMap http://www.openstreetmap ...

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草津歴史の道ウォーキング

2024年05月31日 | 日記
トップ写真の出典「近江 芦浦観音寺館」<https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/ashiura-kannonji-yakata/>

 つぎの名所旧跡をネットで検索し、ウォーキングで汗を流そう。日頃のストレス解消のために。

 起点の芦浦観音寺へのバス時刻表は
 草津駅西口 ⇒ 芦浦観音寺 バス時刻表
<https://www.navitime.co.jp/bus/diagram/timelist?departure=00193804&arrival=00616066&line=00093369&date=2024-06-01>
 あるいは壱岐代城へは「JR東海道本線草津駅または守山駅よりバス「片岡」バス停下車徒歩5分 」(出典<https://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.ikishiro.htm>)。

 ウォーキングのコースを調べるには google map、Yahoo!地図 - Yahoo! JAPAN、MapFan - 地図・ルート検索、地図マピオン(Mapion)などの検索エンジンがあります。ご自分で適宜決めてください。

 1.近江 芦浦観音寺館<https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/ashiura-kannonji-yakata/>
   芦浦観音寺址<https://www.shiga-ec.ed.jp/www/contents/1438304524592/html/common/other/55d173d3021.pdf>
 2.伊岐代城(いきしろじょう)<https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-ikishiro/>
 3.  一夜伏塚遺跡<https://www.shiga-bunkazai.jp/shigabun-shinbun/best-place-in-shiga/413/>
 4.  志那神社
<http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=365>
 5.  蓮海寺(志那地蔵)< https://kanko-kusatsu.com/spot/renkaiji >
 6.  志那城<https://masakishibata.wordpress.com/2015/03/22/shina/>
 7.  山崎宗鑑翁屋敷跡<http://fmellow.s103.xrea.com/kahitokuhi/sokan.html>
 8.  三大神社<https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/161/>
 9.  駒井城址<https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/96816d21252c80e842ecac53d1f2bc0f>
10.大久保忠隣公碑<https://blog.goo.ne.jp/ouzansha/e/c70e59aa5a24c53715f46bfa8618740d>
11.  老杉神社<https://kanko-kusatsu.com/spot/oisugijinja>
  老杉神社の一の鳥居を出て左折、浜街道横断するとすぐ西照寺(徒歩10分以内)
12.  西照寺<https://map.yahoo.co.jp/v2/place/scfr98bCA_c>
 老杉神社の一の鳥居へ戻り、鳥居を背にして「昔の下笠本通り」を直進すると町外れに「井本の高札場」(川端氏下記著書46頁)があります。郷土史家・川端善二氏は著書『ふるさと笠縫』で、下笠城の「大手門は東にあって、大手道は東に走り井ノ元の高札場へ続いていたと思う」(59頁)。この高札場で右折、直進するとすぐ左手に伊佐々川、浜通り、そして前方に2階建てのビルの下笠会館がみえる。この辺一帯が城中で下笠城のあったところ。
13.  下笠城址<https://blog.goo.ne.jp/ouzansha/e/6a6f82a3d6c45f1337e33fd2745022f9>
 びわこ通りを横断する徒歩5,6分で
14.  宗栄寺<https://map.yahoo.co.jp/v2/place/MuIrakVdHJo>
 宗栄寺前を徒歩3分ほど直進すると、下笠城主の菩提寺西光院。
15.  西光院<http://otera.jodo.or.jp/temple/28-372/>
さらに直進すると専崇寺、順光寺、専立寺。つぎは
16.  ai彩ひろば<https://www.kusatsugawaatochi-park.com/ai_top>
 ここで休憩。食事もよし。ai彩ひろばを出て、旧草津川堤の山側に向かって右側を直進すれば、徒歩40分ほどでde愛ひろば。
17.  de愛ひろば<https://www.kusatsugawaatochi-park.com/de_top>
  ここで休憩。食事もよし。
18.  青地城址<https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/4253/>
 青地城址を去り、旧東海道草津宿入口の草津宿黒門跡(新草津川の矢倉橋北詰)へ
19.  草津宿黒門跡<https://tabibito-iitabi.doorblog.jp/archives/65713895.html><https://ystsushin.exblog.jp/241979547/>
 ここを草津駅方面へ直進すると立木神社、道路を横断しさらに進むと所々に商店が立ち並び、買い物もよし。その中で目立つのが太田酒造
20.  太田酒造<https://www.google.com/search?q=%E8%8D%89%E6%B4%A5+%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%85%92%E9%80%A0&oq=%E8%8D%89%E6%B4%A5%E3%80%80%E5%A4%AA%E7%94%B0%E9%85%92%E9%80%A0&gs_lcrp=EgZjaHJvbWUyCQgAEEUYORiABDIICAEQABgPGB4yCggCEAAYgAQYogQyCggDEAAYgAQYogTSAQoxMTUzOWowajE1qAIIsAIB&sourceid=chrome&ie=UTF-8>
 さらに進むと、草津宿街道交流館(無料休憩所)
21.  草津宿街道交流館<https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/koryukan/index.html>。
   さらに進むと
22.  史跡草津宿本陣<https://www.city.kusatsu.shiga.jp/kusatsujuku/honjin/index.html>
 さらに進むと、トンネル手前右手角に
23.  高札場跡<https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/ishibe_kusatsu/kusatsushuku/kosatsubaato.html>
 高札場で右折すると旧東海道、直進すると中山道。トンネルの上はde愛広場、トンネルを抜けると
多数の諸店舗。
24.  草津駅
 駅前にスーパー2つ、ニワタス広場<https://niwatasu.jp/pdf/pdf_project1.pdf>近鉄百貨店、駅の向こうは大スーパー・アルプラザ、大ホームセンター・ディオワールド、レストランや諸店舗などがあり、休憩、買い物に事欠かない。

                   Good Luck! Have a nice time!

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#「大久保相模守忠隣公之𦾔趾」碑秘録

2024年03月25日 | 日記
ブログ執筆の動機
 体力維持のために毎日午後、1時間ほどウォーキングしています。そのコース上の「上笠一丁目27周辺」(下記注1参照)に「大久保相模之守忠隣公𦾔趾」の石碑があります。ここを通るごとに、碑上の人物はいったい誰なのか、という疑問を持ちましたが、いつも疑問止まりで終わっていました。あるときその疑問に深入りする機会に恵まれたのです。
 石碑の裏に建碑年「昭和十五年」(1940)、建碑者「井上見尾」(いのうえ みを)となっています。しかし、実際の建碑は平成九年(1997)7月、建碑の責任者は地元の中村さんです。この齟齬はどこにあるのか、そして碑上の人は誰なのかを中村さんに尋ねました。説明を伺ううちに中村さんの大きな努力の蓄積があるのを知りました。中村さんは長年の歳月を費やして多数の貴重な資料を蒐集されてA4のクリアーファイルに綴じておられます。その資料の出版を勧めましたが、中村さんにはその計画はないとのことです。これでは折角の努力が無に帰してしまいます。惜しいことですので、お節介で、おこがましいことと自覚しながらも、中村さんのファイルを、秘められた記録に終わらせることなく、公にすることで中村さんの努力を顕彰させてもらおうと思い立ちました。
 碑の人物は家康の近習で小田原城主だった大久保忠隣公(タダチカ コウ)です。

大久保忠隣公の生涯
 ――生誕、生誕地
 大久保忠隣は戦国時代の最末期、武田信玄と上杉謙信が死闘を繰り広げた川中島の戦い(天文22年;1553年)の年に三河国(愛知県岡崎市)で生まれました。
 ――武功
 忠隣の武功は永禄11年(1568)遠江堀川城攻めに始まり、三河一向一揆(1563)、姉川の戦い(1570)、三方ヶ原の戦い(1572)、小牧・長久手の戦い(1584)、小田原征伐(1590)などで現れ、徳川家康の厚い信頼を獲得し、永禄6年 (1563)以後、家康に仕えています(ウィキ「大久保忠隣」)(注2)。
  ――家康の重臣
 天正10年(1582)、本能寺の変発生時、徳川家康は和泉国堺にあり、当地で織田信長の訃報を得、急遽三河へ帰国します。この避難行に、大久保忠隣は家康に付き従い、途中、有名な伊賀越えをしています。忠隣が家康の重臣であることを示す一事です。 
 文禄3年(1594)、忠隣は父の死で遺領・相模国小田原の領主となり、のちに初代藩主に就任します。
 ――大久保忠隣と本多正信とのライバル関係
 慶長5年(1600)関ケ原の戦いのとき、忠隣は、東軍の主力を率いる徳川秀忠に従い、中山道を進みました。途中信濃国で上田城に籠城する西軍の真田昌行に阻まれます。忠隣は攻撃を主張したのに対し、本多正信らは、軍の一部を残して関ケ原へと進言し、結果、本多正信らの案が採用されます。のちに大久保忠隣と本多正信とのライバル関係が成立していく一件です(中村6;ウィキ)(注3)。
 同慶長5年、徳川家康は大坂城西の丸に重臣6人、井伊直正、本多忠勝、榊原康正、平岩親吉、大久保忠隣、本多正信を招き、家康の子息3人中、だれを世嗣にするかを諮問します。本多正信が二男結城秀康を推したのに対し、大久保忠隣は三男徳川秀忠を推挙します。家康は数日後に「相模守(忠隣)の申すところ我意にかなえり」と(中村6)。正信と忠隣のライバル関係がより鮮明になる事態です(中村6、8)。
 慶長10年(1605)徳川秀忠が2代将軍(位1605-1623)に就き、家康は駿河城に退いて将軍の後見人になります(中村7)。
 慶長12年(1607)、本多正信は2代将軍・秀忠付の年寄(老中)に就任します(ウィキ「本多正信」)。片や、大久保忠隣の就任は3年後の慶長15年(1610)です(ウィキ;中村7)。大久保忠隣と本多正信・正純父子との「いさかいは作りごとと」とする見解がありますが(ウィキ)、いつの世にあっても主導権争い・権力争いは不可避でありましょう。
 ――大久保忠隣、冤罪で失脚へ
 慶長16年(1611)、大久保忠隣は嫡子忠常(32歳)を病気で失い、失意のなかで、幕政に集中できず、家康を始め他の老中たちの不興を買います(中村7;ウィキ)。
 慶長18年(1613)1月大久保忠隣の養女を、常陸牛久(ウシク)大名の山口重政が娶ります。この件は、幕府の許可なく行われたとして(私婚)、山口重政は改易になります(中村7、12、53;ウィキ)(注4)。
 同年12月6日、家康が鷹狩りに出て相模中原で休養中のこと、浪人・馬場八左衛門が「忠隣に謀叛の企てがあるとの訴状」をもたらします(中村8)。馬場八左衛門という人物は、家康の第5子武田万千代の家臣でありましたが、不都合のゆえに忠隣にお預けの身となっていたのです。そのような立場でありながら、馬場八左衛門は忠隣の扱いに不満を抱いたことが原因で小田原城追放となっていました。彼の「訴状」はそのときの意趣返しとみられています(中村8)。ちなみに『近江栗太郡志』には、上記馬場八左衛門の「訴状」につき、「正信父子之を證す」(本多正信父子がこれを証明した)とあります(『近江栗太郡志 第2巻』の「第4編 江戸時代志」302頁;中村15に写しあり)。
 ともあれ、家康は馬場八左衛門の「訴状」を重視し、本多正信をひと足先に江戸へ返します(中村8)。老中本多正信という人は、一度は家康に弓を引いたことがありますが、身の処し方が巧みで、家康との関係を「君臣の間相遇こと水魚の如し」にしています(中村8)。なお、本多正信と大久保忠隣との性格の相違を評して、忠隣は「謹厳実直な武功派」、正信は「文官派」とあります(中村8)。
 ――大久保忠隣、改易
 同慶長18年(1613)12月、忠隣は幕府の命でキリシタン追放のために京へ出向き、翌19年(1614)1月17日京着(中村8)、18日から伴天連寺の破却、信徒の改宗強制、改宗拒否者の追放を行いますが(中村8,ウィキ「大久保忠隣」)、翌19日、一転改易になり(中村8、ウィキ「大久保忠隣」)、小田原城地没収、身柄は近江国井伊直孝にお預けとなります(中村8)。 
 この日(1月19日)、忠隣は京都の藤堂高虎邸で将棋を指していました。そこへ前触れもなく、突然、京都所司代板倉勝重が家康の上使として現れたことで、忠隣は全てを悟ります。忠隣、勝重にいわく、「流人の身になっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」。勝重は承知したと言われています(ウィキ)。忠隣は将棋を指し終え、「衣服を改めて上使と対面し、上意の趣を承った」と(中村9)。
 忠隣改易が知れると、京の市民は大慌てし、「洛中洛外、物騒がしかりしに、京童ども、忠隣罪蒙ると聞きて、すはや事の起こるぞとて資財雑具等ここかしこに持ち運び、以ての外に騒動す」と『藩翰譜』にあります(ウィキ;中村9)。
 1月21日、幕臣・安藤対馬守重信らが、大勢の家臣を率いて小田原に迫り城明け渡しを命じます(中村9)。 
 京にいた忠隣に、1月25日付で本多正信、土井利勝、安藤重信の3老加判の奉書が届き(中村8)、翌26日、安藤次右衛門正次を奉行とする軍勢が小田原城に到着、大破却を敢行します(中村9)。なお忠隣改易の理由については諸説あります(中村12)。
 ――大久保忠隣、近江国栗田郡中村郷上笠村で蟄居
 2月2日、忠隣は「わずか数人」の従者を伴って京を発ち(中村9、10)、「栗太郡中村郷」(「近江国栗田郡中村郷上笠村で。現・滋賀県草津市上笠一丁目525-出典中村9、59)に向かいます。当地で「5千石(50アール)の領地を拝領」し、「庄屋六郎左衛門家で蟄居」します(注5)。
 2月16日、忠隣は配所から旧領小田原城内にあった若宮八幡宮に無実の願文を奉納しています(中村11)。
 ――大久保忠隣の冤罪晴らし、家康に通ぜず
 3月2日、忠隣は天台宗大僧正・南光坊天海を通じて弁明書を家康に提出しましたが、家康の反応なしです。その後も、家康の老中・成瀬正成や彦根藩主・井伊直孝らが忠隣の冤罪晴らしを試みましたが、家康の許しは出ませんでした(中村11;ウィキ)。
 ――大久保忠隣、近江石ケ崎竜譚寺へ
 忠隣は六郎左衛門屋敷で三年間過ごしたあと、井伊直孝の厚意で佐和山(彦根市)の西隣、近江石ケ崎竜譚寺(龍譚寺)(リョウタンジ)に迎えられ、寺域に小庵を建てて幽居します(中村10、11、60、65)。
 ――家康没、大久保忠隣出家、没
 元和2年(1616)、忠隣は大御所家康逝去の報に接すると、比叡山常光院と、大久保家の菩提寺・京都本禅寺の住職を招請し、65歳で出家、道白と号し、寛永5年(1628)死去、享年75(中村11、ウィキ)。

 京都本禅寺の墓石(左奥から七郎右衛門忠世、相模之守忠隣、加賀守忠常(忠隣の長子)、加賀守忠職(タダモト)(忠常の長子)、忠職室、そのほか大久保氏一族の墓)(中村33、59)(中村さん撮影)

 
 ――大久保忠隣公と上笠人
 草津市上笠の人たちは忠隣の配流邸跡(現、滋賀県草津市上笠町525;現在は畑)を今でも「お屋敷」と呼んでいます。土地の古老田中光蔵氏の話によれば、殿様(忠隣)の住まわれた庄屋さんの屋敷は千五百坪程あって、屋敷のまわりに十尺程の掘りがあったそうです。屋敷から東へ向かって八尺道(現在でもほとんど同じ幅で舗装されている)があり、この道が殿様の通る道ときまっていましたから、殿様のでかけられる時には庄屋前広場(約百三十坪)に村民が土下座して見送り、忠隣公を慕うとともに、厚くもてなし、無聊(ブリョウ)を慰めていました(中村10、60)。
 本資料の蒐集者中村さんは忠隣公についてこう記しています。「無実の罪が晴れることを願って」あのような「願文を奉納し、其の日が一日も早くくることを祈った忠隣の胸中を察するに余りある。徳川家譜代の巧臣であって権勢並ぶ者がなかった人が、こうした心情になったことを思う時、哀れを感じるのは私だけ」だろうかと(中村11)。中村さんも忠隣公を慕い、敬愛する純朴な上笠人(カミガサビト)の一人です。
 ――庄屋・井上六郎左衛門家、その後
 その後、庄屋井上六郎左衛門の家は、子孫分かれて二家となり、本家を金左衛門、分家を伊兵衛と称していました。文化十年(1813)大坂城代であった小田原城主・加賀守忠真(タダザネ)(忠隣の子孫)は、先祖の忠隣が遠く近江へ配流された時に、上笠村の庄屋井上家が忠隣のために尽くした功労を聞いて非常に喜び、忠隣の二百回忌(文政十年、1827年)を機に、この年より毎年小田原米三俵を本家井上金左衛門宅へ、二俵を分家井伊兵衛宅へそれぞれ贈って先祖の恩に報いています。このことは、明治維新後もなお続き、昭和初年に至るまで大久保家より毎年金一封が贈られていました(中村10)。  
 その後井上家は、本家の金左衛門さんの直系子孫・井上見尾(みを)氏をもって絶えました。みを氏の従姉妹が四国へ嫁がれましたが、この方もすでに亡くなられ、井上家に伝わる文書は、この夫人の義妹、薦田弘助夫人に預けられ、現在、同家に保管されています(中村10)。
 ――大久保忠隣の子どもたち
 忠隣の長男忠常は既述のように病没しています。二男忠総(タダフサ)は外祖父石川日向守家成の養子となっていましたので無処罰ですみ、その後、大垣藩5万石の城主に取り立てられました。三男右京亮忠勝(教隆 ノリタカ)と、四男主膳正忠長(幸信)は川越に配流されましたが、三男右京亮は、元和元年(1615)津軽藩へ、四男主膳正忠長は南部藩へそれぞれ配所替えとなり、寛永5年(1628)父忠隣が没すると、共に配流を解かれて再び登用されました。五男内紀なりたかは外祖父石川日向守家成の養子となっていましたから配流を免れて日向守の隠居料5千石をそのまま拝領しましたが、大坂夏の陣で討死しています(中村12)。  
 ――大久保家、72年後に復権
 忠隣改易(1614)から72年後の貞享3年(1686)、子孫大久保忠朝(タダトモ)が小田原城主に返り咲き、10代続いています(中村60;中村70に「小田原藩主大久保氏略系図」あり)。この大久保家の復権で、忠隣の墓地は龍譚寺にありましたが小田原に移転(現存)され、分骨が京都の寺にあります(中村65)。

「大久保相模之守忠隣公𦾔趾」の建設について
 石碑の裏に建設年「昭和十五年」(1940)、建設者「井上見尾」(いのうえ みを)となっています。ただし「昭和十五年」が見尾さんの希望年かどうかは不明です(中村13)。
 井上見尾さんは庄屋井上六郎左衛門の子孫で、守山市(旧野洲町)欲賀(ホシカ)の寺へ嫁がれましたが、子どもに恵まれることなく、昭和12年(1937)2月28日(享年77)物故されました。見尾さんの墓地は上笠の墓苑にあります(中村60、80)。
 石碑の実際の建設は平成九年(1997)7月、建設責任者は地元の中村さんです。井上見尾さん健在の時、見尾さんご自身から建設の依頼がありましたが、事情があって実現が遅れました(中村80)。
 中村さんの記録と談話によれば、建設地は忠隣公の「屋敷跡」(中村13)・「蟄居されていた跡地」(中村60)で、現在は中村さんの所有地です。碑の建設にあたり、相談者となった人は本覚寺住職尊順氏と田中忠幸氏の家族で、碑の字体は井上見尾氏の掛け軸から転載されました(中村13)。建設費用につきましては、中村さんの親族・知人が協力されましたが、多くは中村さんの出費です。

 石碑の存在は私たちを近世の世界に誘ってくれます(注6)。大久保忠隣という人は家康の近習で、小田原城主になり、2代将軍徳川秀忠の老中にまで上り詰めましたが、身の処し方の不器用さもあって、ライバルから冤罪により権力の座から追い落され、不遇な三年間を上笠の地で過ごしたこと、そして当地で村人によって丁重に遇され、親しまれ、没後も敬愛の念をもって語り継がれ、逝去(1628年)から370年後の1997年に、村人によって碑でもって人柄を追憶されたということを。

  中村さんのクリアーファイル


注1. 出典は「リーフかさぬい」(笠縫まちづくりセンター発行、第157号)。
注2. ウィキ「大久保忠隣」は、ウィキペディア「大久保忠隣」の略で、以後は単に「ウィキ」とのみ略記されます。
注3.(中村6、ウィキ)「中村6」は中村さんのクリアーファイルの6頁を意味し、「ウィキ」はウィキペディア「大久保忠隣」の略です。
注4. 「改易」(カイエキ)は「江戸時代においては、武士に対して行われた士籍を剥奪する刑罰。士分以上の者の社会的地位を落とす身分刑であるが、禄や拝領した家屋敷を没収されることから、財産刑でもあるとする見解もある。また大名の所領を没収、減封、転封することを改易と呼ぶこともある。」(ウィキペディア「改易」)
注5. 「蟄居」(チッキョ)とは「武士に課された刑罰で、閉門のうえ一室に謹慎すること」を意味します(『草津市史』第二巻、138頁)。
注6. 「 近世は、江戸幕府の創立 (1603 年)から明治維新による東京遷都(1869 年)まで、あるいは関ヶ原の戦い(1600 年)から大政奉還 (1867 年)に至る間をさす。 」(立正大学日本史< https://www.ris.ac.jp/library/learn/cb6q790000000704-att/nihonshi.pdf >)

追記 本ブログの執筆者寺内は英文学とキリスト教の研究者ではありますが、日本史家ではありません。40年ほど前に当地に引っ越してきまして、付近をウォーキングしていますうちに、この地の歴史的背景に深く魅せられまして関心の向くままにブログを執筆しています。一生懸命に書いていますが、記事内容に誤りや、明らかな不足等がございましたら修正させてもらいますのでご指摘方よろしくお願い申し上げます。



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#中世城址の宝庫・草津市(滋賀県)

2024年02月18日 | 日記
 見出しの版画は歌川広重『東海道五十三次・草津』
 滋賀県草津市は中世城址の宝庫です。

 寺内孝は独立研究者です。研究対象は二件あります。第一は、英国19世紀の国民的作家Charles Dickensの研究を中心に英国19世紀の文学・社会の研究です。第二は、キリスト教研究です。英国はキリスト教を国教とする国だからです。
 毎日、体力維持のウォーキングをしています。そのコースに下笠(シモガサ)いちご園があり、毎年ここでイチゴを買っています。ある日、店の奧さんに、「この道の先に寺内町がありますが、“てらうちちょう”ですか“てらうちまち”ですか。」「“じないちょう”です。」「えっ!」驚きました。高校で「寺内町(じないちょう)」のことは習いましたが、本当にそういう地名が存在するなんて考えてもみなかったからです。この会話の続きに、奥さんが「下笠には馬場町(バンバチョウ)がありますやろ。あれは昔あの辺にお城があった名残りです。」「へーっ!!どこにあったのですか。」「わたしは他所から嫁に来たのでわかりません。」以来、このお城に関心を持ち続け、下笠馬場町を通るとき、古老に出あうと「この辺に昔お城があったと聞いていますが、御存じですか?」「お城?知りませんなぁ。」これの連発でした。だがあるとき、老杉神社(オイスギジンジャ)の前で草引きをしておられるお婆さんがおられましたので、同じ質問をしましたら、「お城は知りませんが、この辺一帯は馬場町といい、昔、下笠氏が取りしきっていました。この道を向こへ行けば市場(イチバ)というところがあり、そこに下笠姓の方がおられます。聞いてみられては?」「えっ!!! ありがとうございます。」びっくり、たまげた!下笠城主の下笠氏の血縁を想像させる下笠氏がおられるなんてっ!あとで分かってきた事なんですが、下笠城が滅びたのは室町時代(1336-1573)末期の1566年です。この時期は、応仁の乱(1467-77)後の、下剋上真っ盛りの戦国時代です。この乱世を終息させたのが織田信長と豊臣秀吉であり、その時期は本能寺の変(1582)の直後のことです。下笠城滅亡時から言えば、すでに458年が経過しているのです。そういう歳月を経ながらも、馬場町のお婆さんは下笠氏のことを語り継いでこられたのです。しかも現在、下笠城址の近隣に下笠姓の人がお住まいになっておられるなんてっ!!まったく驚きです。
 今年の1月、草津市の地図をみていて、拙宅の近くに駒井城址があるのを知りました。我が家からは徒歩20分ほどの距離です。その城址を見学することにし、集(アツマリ)地区に出かけました。途中、洗車している男性がおられましたので目的地を尋ねると「何か調べているの?」「いえ、下笠馬場町は、駒井城の馬場だったと思いまして…」「違うよ。あの馬場町は下笠城の馬場です。」「えーっ!?」またもや驚き。この時初めて、地図に載っていない下笠城の存在を知ったのです。この人は川端善二さんとおっしゃり、当地の歴史に精通され、著書『ふるさと あつまり』(1996)、『ふるさと笠縫』(2010)もある郷土史家で、しばしば講演もなさっている人だったのです。お陰で、郷土史のことをたくさん教えて頂きました。これを機に、インターネットで下笠城址を知らべますと、なんと!そこは私のウォーキングコース上にあったのです。
 こうなると、市場の下笠氏に無性に興味を引き立てられ、行ってみよう、となりました。その城址のすぐ近くに交番がありますので、そこで私の関心事を話し、「市場」の位置を尋ねますと、「交番のすぐ前が“市場”で、下笠家はすぐに見つかりますよ。」こうして「市場」を歩き、そこに下笠家が5軒ほであるのを知りました。
 下笠城主の下笠氏は国人領主(コクジンリョウシュ)で、「応仁の乱」の頃には「近江守護大名の六角氏に従い各地で戦っていたことが記録に残」っています(下記注参照)。その下笠城主、下笠信濃守・三郎左衛門弼之父子が、戦国時代末期の1556年に、青地城主・青地駿河守茂綱と戦い破れたのです。
 青地(アオヂ)城のあった青地地区は、前述の交番の前のびわこ道りをJR草津駅方向へ進み、JR琵琶湖線と国道1号線を越えた山側にあり、地図を開けば簡単に見つかります。この青地氏は、鎌倉時代の近江源氏で、南近江を支配していた守護大名・六角氏(佐々木六角氏)の血縁筋です。同様に、駒井城の城主・駒井氏も六角氏の血筋です。なお、青地城址の近辺に青地姓の方が少なくとも4軒あり、駒井城址の近辺に少なとも13軒の駒井姓がみつかります。

、国人領主とは「中世の史料において、在京の名目上の領主である中央官吏に対して在地の実質上の領主を指す言葉として用いられ(国人領主制)、国衆(クニシュウ)や在国衆(ザイコクシュウ)とほぼ同義であり、明確な違いは無い。 」(ウィキペディア) カギ括弧内引用文の出典は「滋賀県文化保護協会 新近江名所圖会 第297回 草津市下笠地区の歴史を辿る」。

 つぎに草津市に残る中世の城址を紹介します。
青地城址
1,近江守護佐々木氏一族に連なる土豪青地氏の居城で、現在は志津小学校の敷地となっており、校舎裏には石碑が立っている。かつての堀の跡である城池に昔の面影を残す中世城郭址。
 別名・部田城(ヘタジョウ―読み仮名・筆者寺内)、構造・平城、築城主・青地忠綱、築城年・鎌倉時代前期)、遺構・土塁、横堀(空堀)
(出典「青地城址あおぢじょうあと」< https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/4253/ >) 
2. <青地城の基本情報>
 通称・別名-部田城、所在地-滋賀県草津市青地町、旧国名-近江国、分類・構-平城、築城主―青地忠綱、築城年-鎌倉時代前期、主な城主-青地氏、遺構-曲輪、土塁、横堀(空堀)。
 鎌倉時代初期に青池忠綱により築城されたと云われる青地氏の居城。青地忠綱は近江守護佐々木定綱の一族で、近江源氏七騎の一人でした。その後、青地氏は観音寺城の佐々木六角氏の重臣となります。1573年に六角氏が織田信長に滅ぼされると青地城を去り、廃城となりました。その後、青地氏は前田利家、豊臣秀次に仕えました。  
<見所>
 主郭は小学校敷地となり、小槻神社まで一帯が城域です。南側は大規模な土塁と空堀が巡り、二郭と三郭は堀切で区切られています。
(出典「ニッポン城めぐり 青地城」< https://cmeg.jp/w/castles/6265 >)
3.「近江 青地城」
<訪城備忘録>
 小学校と神社一帯に堀・土塁がしっかり残ります。小学校と県道の間には大きな溜め池があり城池と言われています。県道の道沿いには案内板が設置してありますが今では薄くなって読めません^^;。小学校は周りより高い台地にあり、まさに城地という感じです。駐車は志津小学校の裏手小槻神社に駐車できます。神社にはため池手前の小道を右折して進みます。小学校から神社の一帯をぐるりと散策すると空堀・土塁などがいたるところで見らます。
<歴史>
 青地氏はこの地の鎌倉期の豪族小槻氏から発しています。青地城は青地氏十二代の居城と言われています。鎌倉中期、近江守護佐々木定綱の五男の馬淵定広の四男左衛門尉基綱が青地氏の養子となって定兼の後を継ぎ、その子河内守忠綱が初めて青地城を築き、近江源氏七騎の一人といわれます。天正元年(1573年)の六角氏滅亡とともに青地城も廃城となったようです。(青地氏はその後蒲生氏より養子が入り織田信長・織田信孝に従いますが、江戸期は加賀前田氏の家臣となったようです。)
(出典「近江  青地城」< http://www.466-bun.com/f7/sh-f0668aoti.html >)

駒井城(こまい)付駒井沢城(こまいざわ)
 分類・平城、築城者・駒井高郷か、遺構・土塁跡、堀跡、交通・JR東海道本線草津駅よりバス「集町西」バス停下車徒歩5分。
<沿革>
 六角佐々木氏庶流駒井氏の居城である。駒井氏は、六角満高の次男高郷にはじまる。高郷は、応永元年(1394)に近江国駒井荘を与えられたとされ、駒井城もこのときに築かれたものと推測される。現地の駒井氏発祥ノ地碑には「応永の乱の功により」とあるが、応永の乱は同六年(1399)のことであるため、時系列的な矛盾が生じる。駒井氏はその後、草津や矢橋の代官、大津の奉行などを務め、主に六角氏領内の水運を担う要職を歴任した。
 永禄十一年(1568)に織田信長が上洛の軍を起こすと、駒井氏にも転機が訪れるが、このころの駒井氏の事績には混乱がみられる。『日本城郭大系』によれば、翌十二年(1569)に駒井城は信長によって攻め落とされ、このときの城主は駒井兵庫介秀国であったとされる。また、集町の正三神社の縁起によれば、元亀元年(1570)に焼失した「宮殿(社殿か)」を駒井伊賀守永秀が翌年に再建したと伝わる。これら秀国や永秀については、その実在や系譜上の位置は明らかでない。
 史料上に明確に現れるのは、駒井美作守秀勝・中務少輔重勝父子である。とくに重勝は、後に豊臣秀吉に召し出され、大津奉行や草津・矢橋代官といったかつての駒井氏の拝職を歴任した。重勝は豊後国に2万5千石を領するまでに出世したが、関ヶ原の戦いで西軍に属し改易された。
 駒井城の廃城時期は明らかでないが、早ければ永禄十二年の落城時、遅くとも重勝 が豊後へ加増転封されるまでの間と推測される。
<手記>
  駒井城は、葉山川の支流中ノ井川が2度鉤手に折れる集町の集落内にあったとされています。ただし、駒井氏の活躍に比して、駒井城の詳しい位置や規模などについてはほとんど明らかとはなっていません。集落の北端に建分明神社があり、その脇に駒井氏発祥の地碑があります(上の地図の緑点)。城址碑ではありませんが、駒井城について記された唯一の碑です。滋賀県安土城郭調査研究所発行の『淡海の城』には明神社の裏手に藪があり、土塁の痕跡と推測しています。近年、明神社周辺は綺麗に整備しなおされたようで、『淡海の城』にいう「藪」というほどのものはありません。ただ、明神社は集落北側に広がる水田地帯に突き出した格好の場所で、南を除く三方は、明らかに水田より一段高くなっています。おそらく、かつてここは城の北端の物見台であり、土塁を隔てて周囲は泥田か湿地帯だったものと考えられます。草津市の遺跡地図では、正三神社の南側一帯を駒井城址としています。その南を流れる中ノ井川は、2度も不自然な鉤手に折れている時点でおそらく城の堀の役目も兼ねた遺構であり、城の南限であったことが推測されます。また草津市遺跡地図では、建分明神社から水田地帯を挟んだ東側を駒井沢城址としています。駒井沢城址について詳細は不明ですが、存在したとすれば駒井城の出城か支城であったものと考えられます。駒井沢城比定地に建つ三蓮寺は、やはり水田地帯に突き出た格好の場所であるとともに、水田地帯に対してはもちろんのこと、地続きの東側に対しても一段高く、おそらく近隣で最も高い場所であったものと思われます。ここに出城(というより出丸に近い感じですが)があったとしても、不思議ではありません。
(出典「駒井城(こまい)付駒井沢城(こまいざわ)」< https://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.komai.htm >)
つぎのサイトも有益「城郭探訪 駒井城 近江国(草津)」
< https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/96816d21252c80e842ecac53d1f2bc0f >

下笠城
1.下笠氏代々の居城。築城時期は不明だが、1452年に下笠高賀が老杉神社の社殿造営をした記録があり、その頃までには城館が存在したものと考えられる。下笠氏は1566年に青地茂綱との戦いに敗れ、滅ぼされた。遺構は存在せず、「城中」という旧地名と僅かに微高地となった地形が城の面影を残すに留まる。所在地 滋賀県草津市下笠町
(出典「滋賀県の城 下笠城」< https://masakishibata.wordpress.com/2015/03/22/shimogasa/ >)
2.下笠城は、築城年代は定かではないが下笠氏によって築かれた。戦国時代に下笠信濃守・弼之父子が居城していて、永禄9年に青地駿河守によって滅ぼされた。 
筆者注、弼(すけ)之(之は「し・の・これ・ゆく・ゆき」などと読み、「ゆき」か?)
(出典「近江下笠城」< http://www.oshiro-tabi-nikki.com/simogasa.htm >) 
3.築城期:南北朝期:宝徳四年(1452)、築城者・下笠信濃守 、城主・下笠高賀・下笠信濃守・三郎左衛門弼之、遺構・微高地、戦い・永禄九年(1566) ●下笠信濃守・三郎左衛門弼之父子 VS 〇 青地城主 青地駿河守茂綱。
廃城: 戦いに敗れて滅ぼされた。その後の下笠城は廃城。詳細不明。
出典「城郭探訪 下笠城 近江国(草津)」
< https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/7d2522e06972e48002905d5719862bdf >)


「草津市の下笠城遺跡が掲載されている資料を知りたい。」

<https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000094315>

< https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000006-I1000094315 >

1 近江栗太郡志 巻3 栗太郡役所∥編 栗太郡役所 1926年 S-2120-3
2 滋賀文化財だより 通巻237号?通巻261号 大津 滋賀県文化財保護協会 P No.242 小宮猛幸 「幻の下笠遺跡か (草津市下笠町 下笠城跡)」
3 草津市文化財年報 平成9年度 草津市教育委員会∥編集 草津市教育委員会 1999年 5B-7021-97
 4 日本城郭大系 11 新人物往来社 1980年 5-5200- 80 

出典「草津市の下笠城遺跡が掲載されている資料を知りたい。」

<https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000094315> 

< https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R000000006-I1000094315 >


山田城
1,山田氏代々の居城。詳細な時期は不明だが、鎌倉時代の築城と思われる。戦国期の城主に「山田左衛門尉秀資」の名が確認できる。山田氏は佐々木氏(六角氏)の影響下で鎌倉時代から室町時代にかけて同地を支配した一族で、山田湊を管理していたとされる。1568年、織田信長の上洛軍に抵抗して滅亡。但し、発掘調査で出土した遺物が15世紀初頭を下限とすることから、それ以前に城は使われなくなっていた可能性が指摘される。山田氏の滅亡後は織田方の城として機能し、1571年の比叡山焼き討ちの際には織田信孝が入城している。現在、城域には草津市立武道館が建つ。2000年に実施された発掘調査により、全国的にも珍しい円形の堀に囲まれた単郭の城館であったことが判明。2重の堀に囲われ、外側を囲む直径60mの堀は戦国期の増築と考えられる。城域の西側に橋脚と思われる杭が何本か検出され、当時は琵琶湖に面していたものと推測。また、城内には2ヶ所から井戸跡が検出されている。山田氏が管理した山田湊の位置は、浜街道沿いに南に向かった不動浜児童遊園付近と推定される。
(出典「滋賀県の城 山田城(滋賀県草津市)」
< https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-yamada/  >)
2.所在地・草津市南山田町、円郭式平城、築城主・山田秀資、築城年不明、主な城主・山田氏、織田信孝、遺構・横堀(空堀)。
 滋賀県草津市南山田町にあった城である。 遺構. 琵琶湖の南湖(琵琶湖大橋以南)の南東に位置し、城跡には現在草津市立スポーツ施設武道館が建っている。同地に遺構は残っていないが、平成12年(2000)の武道館建設に伴う発掘調査により堀跡などが発掘されている(その後埋め戻しされている)。発掘された堀は2条で内側の堀が13世紀に、外側が14~15世紀に構築されたと見られており、いずれも正円に近い円形に巡っていることが大きな特徴である。鎌倉時代に山田氏によって築かれたとされる。山田氏は鎌倉~室町時代にかけて琵琶湖の港である山田港を支配し、戦国時代には六角氏に従っていたのであろう。『日本城郭大系 第13巻』によると、永禄11年(1568)山田秀資が城主であった際に織田信長の侵攻によって同氏は滅ぼされ、後に信長が比叡山を攻撃した際には山田城に入ったという。また、信長の三男である信孝が一時居城としていたともいわれるが詳細は不明である。
(出典「山田城(滋賀県草津市)の詳細情報・周辺観光」ニッポン城めぐり) < https://cmeg.jp › castles >)

草津城
 草津にあったとされる平城。築城時期など、詳細は一切不明。草津宿本陣の付近にあったとされ、、草津2丁目の説と草津3丁目の説がある。どちらの場所も現在は住宅密集地となっており、遺構は存在しない。現在は住宅密集地となっており、遺構は存在しない。(出典「草津城(滋賀県草津市)< WordPress.com https://masakishibata.wordpress.com › kusatsu >」)

上笠城跡(上笠館跡)·
 草津市上笠地区にあったとされる中世の城館。築城時期・築城主など、詳細は一切不明。同地には皇室領の上笠村があったが、応仁の乱の最中に六角高頼に押領されている。上笠地区の北西端にあったとされる。かつては水田が広がっていたが近年の宅地造成で住宅地化が進んでおり、遺構は存在しない。
(出典「滋賀県の城 上笠館」<https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-kamigasa/  >)

追分城跡(史跡・草津市追分5丁目)
 城主も築城時期も分からない謎に包まれた城跡。方角的にはJR草津駅の真南に位置する追分(おいわけ)城は現在は八幡神社となっています。駅からは多少距離があるため、公共交通機関で訪問される方はJR草津駅でレンタサイクル(有料)を借りるのがおすすめです。
 料金などは「駅りんくん」のページを参照ください。追分城は日本城郭大系にも登場はしますが、「近江の顔・近江の城と古戦場」に収録されているが詳細は不明とのみあり、築城者やその時期などは分からないようです。現地に石碑や解説板はありませんが、神社の由緒書に豪族・宇野氏の名前がありました。追分城との関連性は分かりませんが、この近辺を宇野氏が支配していた時代があるなら、何らかの館は持ったでしょうし、それが追分城だった。
  もしくはそれがベースになって城郭化していったということは十分に考えられるとは思うのでですが。城郭の遺構は残りませんが、周辺はやや高台の位置になっており、中世武士の館が置かれる条件には合うでしょうが、完全に宅地化されており、ここも往時の姿を偲ぶことはできません。追分城だけだと消化不良になってしまうと思うので、冒頭で触れたレンタサイクルで、市内の他の城郭跡と合わせて散策されることをオススメします。
(出典「追分城(滋賀県)< http://maro32.com/%E8%BF%BD%E5%88%86%E5%9F%8E/ >」)

矢倉城跡
 矢倉城跡は現在、矢倉稲荷神社となっていて、南草津駅東口から徒歩10分くらいで行くことができます。土塁跡なのか、単に神社の境界を分かりやすくするために設けられた盛り土なのかは分かりませんが、神社の境内が城跡であれば土塁跡をそのまま転用した可能性もあるんじゃないかなぁと勝手に思っています。矢倉城は築城時期や築城者などの詳細は不明ですが、矢倉氏の居城であったと伝えられています。また、廃城時期も分かっていません。宿泊したホテルに近かったのでとりあえず訪問した感じの城跡ですが、あんまり遺構とかもなくて、まあそんなもんかなといった感じです。
(出典「お城を学ぼう 矢倉城(近江国・滋賀県草津市)」< https://ameblo.jp/castle-manabu/entry-12563391838.html >)

岡本城
 草津市岡本地区にあったとされる丘城。築城時期・築城主など、詳細は一切不明。同地区にある圓通寺付近が城域とされる。現在は名神高速道路が視界を遮るが、中山道を見渡せる位置にあったものと考えられる。
(出典「滋賀県の城 岡本城」<https://masakishibata.wordpress.com/2015/11/28/okamoto/  >)

近江 芦浦観音寺館おうみ あしうらかんのんじやかた
別名 芦浦城
 芦浦観音寺館は聖徳太子による開基、秦河勝創建の伝承がある古刹である。
豊臣秀吉の時代には船奉行を務め、江戸時代の貞享2年(1685年)に罷免されるまで続いていた。芦浦観音寺館は芦浦観音寺がそのまま城砦化したもので、周囲に土塁や石垣が残り、複郭の城であった。現在国指定史跡となっているが、拝観は予約制のようである。
(出典「滋賀県草津市のお城一覧 城郭放浪記」 < https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/ashiura-kannonji-yakata/ >)

伊岐代城(いきしろじょう)
 印岐志呂神社を城塞化した城砦。1335年、比叡山の僧・宥覚(ユウカク)が印岐代宮(印岐志呂神社)に砦を築いたことが始まりとされる。1335年12月、後醍醐天皇の足利尊氏討伐に呼応した宥覚は僧兵千人を集め、印岐代宮に砦を築いて拠点とした。京に向かう尊氏軍の背後を突こうとしたものの高師直の軍に急襲され、砦は一夜で陥落。この戦いで宥覚をはじめ多くの僧兵が戦死し、生き残った者は船で対岸の坂本に逃れたとされる。1572年に六角氏の残党が挙兵した際には織田氏の軍勢が乱入し、近江南部平定の拠点のひとつとしている。度重なる戦火で神社は焼失したが、慶長年間に芦浦観音寺と長束正家の手によって社殿が復興。大坂の陣の前には徳川家康が武運長久の祈願のために立ち寄ったとされる。志那港と中山道を結ぶ志那街道と浜街道の交点に位置する。現在も城域には印岐志呂神社が建つ。境内の正面には石垣が築かれ、その両脇に土塁と堀を巡らせて外枡形の虎口を形成。境内の西端に溝と低土塁、東端に低土塁と思われる地形が確認でき、社殿は周囲より僅かに高くなっている。但し、それらが城の遺構であるかは不明。元は不規則な多角形をした平坦地を持ち、その周囲を土塁と堀で囲っていたとされる。
所在地:滋賀県草津市片岡町  (カッコ内カタカナ読み仮名は筆者寺内)
(出典「滋賀県の城 伊岐代城」< https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-ikishiro/ >)

志那城
<沿革> 『日本城郭大系』では、志那氏の存在は確認されるものの詳細は不明としている。志那は、矢橋や山田と並ぶ琵琶湖の重要な湖港であったため、港を支配した在地領主の城館があったことは想像に難くない。戦国時代初期の連歌師山崎宗鑑は、初名を志那範重といい、志那の出身であるといわれる(諸説あり)。範重ははじめ将軍足利義尚に仕え、延徳元年(1489)に義尚が鈎で陣没すると、近江を去ったといわれる。これが正しければ、宗鑑は元志那城主かその一族であったと推測される。志那城と志那氏については、このようにほとんど詳細は不明である。志那港と志那街道は、対岸の坂本や比叡山との連絡で栄えていたため、信長による比叡山焼き討ち後は、徐々に衰退したといわれる。
 (出典「志那城」< https://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.shina.htm >)

下記の出典は『滋賀県中世城郭分布調査3』(滋賀県教育委員会発行、1985年、12-13頁)(下記下線部の城の「現況」は「不明」)
井上館(下笠町)、大路井城(おちのいじょう)(大路)、奥村城(馬場町)、下物城(おろしもじょう)、片岡環濠(片岡町)、片岡城(片岡町)、片岡館(片岡町)、
渋川城(渋川町)、中束城(長束町)、野路城(野路町)、野村館(野村町)、矢橋城(矢橋町)、山寺城(山寺町)、吉田城(志那町吉田)

2つの馬場町(ばんばちょう)
 草津市には「馬場町」が2つあります。草津市馬場町と草津市下笠馬場町(地元の人はこう呼ぶ。住居表示では下笠町馬場のようだ)。前者の馬場町は岡本城のあった岡本地区(岡本町)に隣接していますし、青地城址にも近いです。『栗太志』(1821)によれば、この「馬場の名は土豪青地氏配下の武士の馬場によったものとされている」とあります(カギ括弧内下記注参照)。

、カギ括弧内の出典は『古地図に描かれた草津』(発行・草津市、編集・草津市立街道文化情報センター、発行年・平成6年、20頁)。

草津市北東に隣接の栗東市守山市の城跡>
〇 栗東市の城跡
岡村城
 宇野氏の居城のひとつ。1300年代前半、宇野家永による築城。家永は関津城主・宇野源太郎の子で、室町幕府初代将軍・足利尊氏に仕えた人物。数々の戦功により、当地を与えられた。城域は若干の高台となっており、東海道に接して街道を監視する要衝であったと推測される。
所在地 滋賀県栗東市岡
(出典「滋賀県の城 岡村城」< https://masakishibata.wordpress.com/2015/03/22/okamura/ >)

手原城跡
 手原氏代々の居城。築城時期など、詳細は一切不明。JR手原駅前に手原氏と一族の里中氏が崇敬した稲荷神社があり、この付近に城があったものと考えられる。所在地 滋賀県栗東市手原
(出典「滋賀県の城 手原城跡」< https://masakishibata.wordpress.com/2016/02/28/tehara/ >

多喜山城(たきやまじょう)
通称・別名「日向山城」、所在地・栗東市六地蔵、旧国名・近江国、分類・構造「山城」、築城主・不明、築城年・不明
主な城主・佐久間氏(織田氏家臣)、遺構・曲輪、土塁、枡形虎口、櫓跡。
指定文化財、再建造物・説明板
 <歴史> 
 築城年代や築城者は定かではなく、城名を含めて詳細不明。近世の地誌類などでは、在地の土豪である高野氏の詰城と伝える。縄張の特徴から、織田信長方の城という見解もある。栗太と野洲郡を治めて六角氏と戦った信長家臣の佐久間盛信が築いた説、元亀争乱期の信長方の城という説がある。
 <遺構> 
 標高222.9mの日向山に築かれ、現在は公園として整備されている。日向山は、湖南平野から東海道を西上する際に最初にぶつかる山で、山上からは北麓を東西に走る東海道をはじめ、野洲川や琵琶湖を見渡せる。東西約50m×南北約30mの主郭、その西側に3段の曲輪を置くシンプルな構造だ。ほぼ全域を土塁で区画し、堀切や竪堀などはない。主郭の虎口は東側と西側にあり、いずれも喰違い虎口だ。西虎口は1度折れ、東虎口は3度折れて 主郭に通じる。主郭の北東隅には、東西約25m×南北約25mの土塁で囲まれた区画がある。主郭を囲む土塁と直結して、西・南側の土塁を設けているのが特徴だ。曲輪内は窪地のようになっている。
 <交通> 
・名神高速道路栗東ICから車で約8分
 <参考文献> 
・『図解 近畿の城Ⅱ』戎光祥出版、2015年。 
 <見所>
 標高222.9m日向山(多喜山)の山頂に主郭を置き、眺望は良く、主郭からは近江富士こと三上山、琵琶湖を見渡すことができます。主郭は、甘めの土塁が巡り、石垣が一見僅かに残るだけに思えますが、見どころは登城口から奥にあたる東側にあります。まず、東虎口は地形を利用し緩斜面を3度 クランクさせた多重桝形構造となっていることが確認できます。北東部には、案内図には「枡方」と記載される方状曲輪があり、地下室となる穴蔵構造をもつことから天守櫓があった可能性が指摘されています。小規模ながらもしっかりと織豊系城郭の特徴を感じられ、手軽に登城できる山城です。登城口に駐車スペースがあります。山頂までは721段の石段が綺麗に整備されており、ものの10分程度で辿りつくことができます。
(出典「ニッポン城めぐり」< https://cmeg.jp/w/castles/6168 >)

下鈎城跡(しもまがりじょうせき)
 下鈎集落にあったとされる平城。下鈎蓮台寺に関連する邸宅であったと考えられる。城主に「西沢喜重郎」の名が確認できるが、蓮台寺との関連は不明。
城域とされる付近には「奥屋敷」「殿ノ後」の旧地名が残り、水路が鉤状に巡らされている。所在地 栗東市下鈎。
(出典「下鈎城跡(滋賀県栗東市)」< https://masakishibata.wordpress.com/2016/02/28/shimomagari/ >)

蓮台寺城
 1.下鈎蓮台寺が城塞化した寺院城郭。1487年の長享・延徳の乱(鈎の陣)において、足利義尚方が陣所とした。下鈎蓮台寺は最澄による789年の創建とされ、隆盛期には七堂伽藍を備えた大寺院であったと伝えられる。1487年より始まった第一次六角高頼討伐(鈎の陣)では、足利義尚方の陣所のひとつになったとされる。寛永年間の火災で主要な建物が焼失し、唯一残った仁王門も1934年の室戸台風によって倒壊した。現在、城域には蓮台寺跡地の碑と日吉神社が建つ。下鈎蓮台寺は1987年に守山市内に移転しており、周辺は自治会館や福祉施設となっている。所在地ー栗東市下鈎(シモマガリ)
(出典「蓮台寺城」< https://masakishibata.wordpress.com/2016/02/28/shimomagari-rendaiji/ >)
 2.お城のデータ所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)下鈎 map:http://yahoo.jp/eemsoz 現状:寺院跡、区分:平城築城期:室町期か?築城者:蓮台寺氏、遺構:連台寺跡石碑目標地:なかよし福祉会駐車場:なかよし福祉会駐車場利用(日吉神社向かい)訪城日:2016.3.17 
<寺の由緒>
そもそも当寺は人皇第50代桓武天皇の御宇、延暦8年(789)に伝教大師が天照大神宮に詣で給う道中、今の草津市に宿泊なし給う砌、東方に紫雲たなびくを感見し給う。この地是れ有縁の勝境なり。忽ち一刀三礼薬師如来、日光月光に三尊を彫刻なし給う七仏の其の一也。七堂伽藍を建立し蓮台寺と号したまう。 然るにその後、兵火の為、堂塔伽藍古器宝物残らず焼失すといえども、本尊薬師如来日光月光十二神将仁王尊像等は不思議なるかな残らせたまう。その後再度堂宇建立し現在におよべリ。
<お城の概要>
 現在、城域には蓮台寺跡地の碑と日吉神社が建つ。周囲は自治会館や福祉施設になっており、遺構は不明。南側は葉山川が流れ、集落と城館の防衛になったか、現在は都市化が進み、住宅街となり往時に遺構は、蓮台寺跡や日吉神社の残存のみ。
<お城の歴史>
『滋賀県中世城郭分布調査3(旧:野洲・栗太郡城)』には、「栗東町一覧リストに 蓮台寺城 下鈎 不明」と記す。
『江州佐々木南北諸氏帳』には、「栗田郡 下鈎住 元丹波武士 西沢喜重郎」の名を記す。
 下鈎集落にあったとされる平城で下鈎蓮台寺は、「六角討伐の際に城塞化」したものか?。
『長享・延徳の乱・・・室町時代後期の長享元年(1487)と延徳3年(1481)の2度に亘って室町時代が行った淡海守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。なお、1度目の出陣は近江国栗田郡鈎(まがり)「現:滋賀県栗東市)」に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。』
 長享元年(1487年)、9代将軍・足利嘉尚は六角行高の征伐を決し、義尚が近江鈎に陣所を張ったが、陣中で死去した結果、六角討伐は中断となった。側近であった結城尚豊は近江を出奔し、行高は一時的に赦免されるに至った。
現在、城域には蓮台寺跡地の碑と日吉神社が建つ。周囲は自治会館や福祉施設になっており、遺構は不明。
 蓮台寺の護法神として蓮台寺が 天台宗に転宗した頃に勧請され たらしい。  
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1・3(旧:野洲・栗太郡の城)、栗東市地域資源活用ビジョン資料、さきろぐ(城郭レポート)
(出典「城郭探訪 蓮台寺城」< https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/42d55c83af62dbed4998619c3e322102 >)

〇 守山市の城跡
守山城
 宇野氏の支城のひとつ。1401年、宇野一元による築城。宇野氏は承久の乱を期に栗太郡一帯に強い勢力を持つようになった一族で、関津城を本拠としていた。天文年間に六角氏一門の種村氏が城主となり、六角氏の影響下となる。
1569年、織田信長の上洛の際に落城。その後、街道監視と金ヶ森御坊への牽制として稲葉一鉄が入城した。城域には現在、大光寺・守膳寺・守山幼稚園が建つ。弧を描く金森川に囲まれた高台の地形は、遺構が消滅した現在においても城の名残を伝えている。
所在地:守山市守山
(出典「滋賀県の城」< https://masakishibata.wordpress.com/2017/04/15/kusatsu-ikishiro/ >)

木浜城(このはまじょう)
 所在地・守山市木浜町、旧国名・近江国、分類・構造・平城、築城主・進藤長久、築城年・室町時代、主な城主・進藤氏、遺構・消滅。
 佐々木六角氏家臣の進藤氏の居城跡。六角氏の重臣であった進藤山城守の居城であったと伝えられています。1568年に、織田信長が近江に侵攻し六角氏を滅ぼすと進藤氏は織田信長の傘下に加わり、1573年の朝倉攻めや、1576年の石山本願寺攻めに参陣しています。現在の真正寺が城跡と推測されています。住宅開発により遺構はほぼ残っていません。
 例によって、ご近所さんにお聴きしても分かりません。運転免許センターか佐川美術館が道案内です。R477から南海部品をいかにも古の街道に入って集落の続くなか、暫く寺院が固まっています。その最西南、多分ここが干拓前の湖岸かと思われる集落外れ、水田境です。遺構らしいものは分かりません。現在のさざなみ街道やマイアミ浜とは、全く異なる湖岸の風景だったのでしょう。周辺は美術館通りやメロン街道の名が示す施設や水中考古学のメッカ琵琶湖博物館もすぐ南(風力発電が目印)です。国道付近の住所は守山市水保町ですが近くの交番、小学校は速野で、琵琶湖大橋の方からだと滋賀BK南の信号機から右(西)で写真のある石垣護岸の悪水路に出ます。後はリア攻マップ頼り、ナビ付き軽自動車がお勧めです。平日昼間は人通りがないと思われ、個人商店でお断りしてしか集落内には駐車場はありません。勿論、便益施設一切無し。尚、先程の数カ寺の中で光照寺さんは事前予約すれば、文化二年の伊能忠敬測量隊宿泊の資料閲覧可能と守山市教育委員会HPにあります。
(出典「ニッポン城めぐり」< https://cmeg.jp/w/castles/6235 >)

近江 小浜城(おうみ こばまじょう)
 1.詳細不明。城主は六角氏の家臣進藤氏が伝えられる。小浜城の遺構は定かではないが、『近畿の城郭』によれば小浜集落センターの辺りが進藤山城守館の伝承地で、それを取り囲むように城域が拡がっていたと推測されている。
(出典「近江 木庭真城 近江 拒ま上  城郭放浪記」< https://www.hb.pei.jp/shir
 2.別名:進藤屋敷、所在地:守山市小浜町、現状:小浜集落センター・集落、遺構:石垣・堀跡、区分:平城、築城者:進藤山城守貞治、城主:進藤賢盛。
 小浜城は、野洲川下流東岸の小浜集落中央付近に築かれていた。小浜地区はかつて野洲川の本流と支流(現在消滅した北流)に挟まれた三角州に位置し、野洲川から琵琶湖へ至る湊が発達していた。これは木浜(このはま)湊に次ぐ要津であった。かつては集落一帯に水路が取り巻き、縦横にきっちり地割りされた環濠集落だった。集落外周ラインには今も水路がめぐる。 
石垣遺構が、集落センターと消防用水槽の台座(下方部分に残存)
集落中央北側にある称名寺門前から南方にかけての路地は、かつて水路だった古写真が残っている。また現在集落センターとなっている辺りに城主屋敷があったとされ、水路に面して築かれていた石垣が、集落センターと消防用水槽の下方部分に残存している。城主進藤氏は木浜・小浜の要津を領したものの、六角氏の重臣として観音寺城内に上屋敷を構えていたので、小浜には小ぶりな陣屋程度の居館しかなかったと考えられている。
 <歴 史>
 小浜城は江南守護六角氏の重臣で木浜城主進藤氏の支城(下屋敷)であった。
 築城年代は定かではないが、戦国中期に進藤貞治によって築かれた。貞治・賢盛父子は、後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された。また六角義賢の六宿老として、三雲成持・蒲生賢秀・平井定武・後藤秀勝・目賀田綱清とともに進藤貞治の名が挙がり、観音寺城でも一際大きな上屋敷を構えていた。進藤氏は六角家臣として、将軍や有力守護大名たちとの外交役で多くの功績を立てたと言われ、浅井氏との合戦にも度々参加したが、観音寺騒動により主家六角氏と不和になり、信長の上洛戦が始まるとこれに従った。元亀2年(1571)佐久間信盛の与力となり、元亀4年(1573)の越前朝倉攻めや石山合戦に従事した。本能寺の変後織田信雄に属したが、やがて秀吉に転仕した。 
進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。
 △進藤貞治 (1497~1551)山城守。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。
<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>
⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。
<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長直参でなく、後藤家が信長に重用されるようになっていた。> 
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城
歴 史
 小浜城は江南守護六角氏の重臣で木浜城主進藤氏の支城(下屋敷)であった。
 築城年代は定かではないが、戦国中期に進藤貞治によって築かれた。
貞治・賢盛父子は、後藤氏とともに「六角氏の両藤」と呼ばれて重用された。
 また六角義賢の六宿老として、三雲成持・蒲生賢秀・平井定武・後藤秀勝・目賀田綱清とともに進藤貞治の名が挙がり、観音寺城でも一際大きな上屋敷を構えていた。
  進藤氏は六角家臣として、将軍や有力守護大名たちとの外交役で多くの功績を立てたと言われ、浅井氏との合戦にも度々参加したが、観音寺騒動により主家六角氏と不和になり、信長の上洛戦が始まるとこれに従った。
元亀2年(1571)佐久間信盛の与力となり、元亀4年(1573)の越前朝倉攻めや石山合戦に従事した。本能寺の変後織田信雄に属したが、やがて秀吉に転仕した。 
進藤長久 (*)山城守。野洲郡の豪族。六角高頼の臣。
 △進藤貞治 (1497~1551)山城守。野洲郡の豪族。進藤長久の息。六角定頼の側近。12代将軍・足利義晴と細川晴元の和睦の取次ぎ。1537年「法華一揆の乱」に永原重隆とともに上洛。延暦寺と法華宗の抗争を調停。1540年細川晴元の後詰として永原重隆とともに上洛軍。野洲木浜城主。息に賢盛。
<1525年六角定頼の動員に従う譜代家。>
⇔進藤賢盛 (*~*1583)山城守。六角の両藤と讃えられる重臣。進藤貞治の息。観音寺奉行衆。親後藤派。粟太郡の土豪。1560年「肥田城攻略」に従軍。「野良田の合戦」に敗戦。1567年弾正忠家支配を制限する「六角氏式目」に連署。織田家に臣従する。佐久間信盛与力。反明智派。木浜城主。
<織田家のなかでは初期に佐久間与力として、信長直参でなく、後藤家が信長に重用されるようになっていた。>
参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』 、淡海の城
(出典「城郭探訪 小浜(こはま)城 近江国(守山)」< https://blog.goo.ne.jp/kkkk_015/e/d9f3cfa0f97da93bf18668451a24e4e1 >)

金ケ森城(かねがもりじょう)
 所在地・守山市金森町、旧国名・近江国、分類・構造・城郭寺院、
築城主・川那辺氏、築城年・戦国時代、主な城主・川那辺氏、遺構・消滅
再建造物・石碑、説明板
 金森(かねがもり、金ヶ森とも)は、滋賀県守山市の集落地名。寺内町の初期形態として著名。
位置・旧野洲川氾濫原の微高地に位置する。中世には、東山道から琵琶湖の志那浦へ通じる志那街道が集落内を通っていたことから宿駅の役割を持ち、交通上重要な位置にあり栄えた。
 <古代の金森> 
 現在、町内の金森遺跡と金森東遺跡(ともに弥生時代~平安時代)から集落や井戸跡と方形周溝墓、土錘や土器などが出土していることから、早くから人間が居住していたことがわかっている。市内最大の箱庭古墳(前方後円墳か帆立貝式古墳 全長45m以上)があることから、力ある首長の存在が予測されている。7~8世紀以降、周辺には北東から南西に向かって条里制がひかれ、金森も条里集落の一つであった。また、壬申の乱における「安河浜の合戦」の主戦場を金森付近に比肩する説もあり、注目されている。平安時代には天台宗の影響が強く、仁願寺や興満寺という寺が勢力を持っていた。また、郡衙に関係する役人として川那辺氏が移り住み、地域の土豪として金森城を擁して指導的役割を果たすようになっていく。
 <寺内町としての金森> 
 14世紀に金森を支配していた川那辺厚春が本願寺五代目法主の綽如(シャクニョ)に帰依し、金森は天台宗から浄土真宗に信仰の基軸を大きく変えていった。その子川那辺在貞の時代には金森惣道場が開かれるにいたり、さらにその子川那辺矩厚(ツネアツ) は、存如(ソンニョ)に帰依し道西と名乗るようになった。金森惣道場(金森御坊)を中心として民家を環濠で取り囲んだ寺内町が形成されたのは、この道西の時代であると考えられている。江戸時代の「金森地図」(金森御堂保存)には周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られることから、金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあわせもった寺内町の初期的形態である、ということができる。現在も周辺には濠跡とともに大門や城ノ下などの地名が残されている。当時、二百軒を越える集落であった。
 寛正6年(1465年)、比叡山僧兵による「寛正の破却」(カンショウ ノ ハキョク)によって大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如は、高弟であった道西のもとに身を寄せた。さらに、付近の門徒衆を結集し比叡山の山徒衆に反抗。これを金森合戦といい、史上初めての一向一揆である。文正元年(1466年)11月には「報恩講」を勤修(「ゴン-ジュ」、「ゴンシュ」とも )した。蓮如は文明元年(1469年)には対岸の堅田へ移動したが、金森は本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成された。後に飛騨国高山城主となる金森長近は天文10年(1541年)までこの地で育ち、父の姓大畑から改名し、金森を名乗っている。戦国時代には、近在である三宅の蓮正寺と連携した城としての機能が整えられ、湖南地域の一向宗徒の拠点となっていた。金森の一向宗徒は、織田信長の近江入国・比叡山焼き討ちの直前に、元亀2年(1571年)6月から9月にかけて反抗した。金森には近在の村々から一向宗徒が集結したが、石部・常楽寺に本陣を構えた信長配下の佐久間信盛によって攻められ、比叡山焼き討ちを優先した信長と一時は人質を交換して和睦した。しかし、翌元亀3年(1572年)には信長は近在の百を越える村々が「金森・三宅への出入や荷担をしないよう」という起請文をとられ、町域はいったん荒廃しかけた。しかし同年、信長によって楽市・楽座の制札が与えられ、以後宿駅・市場の二つの性格を持つ集落となった。その後江戸時代に、琵琶湖渡航の主要港が矢橋港になると志那街道の役割が薄れ、金森も衰えた。
 <江戸時代の金森>
江戸時代の金森は旗本水野領となった。石高は855,7石。
 <現代の金森>
 守山市金森町として、本郷・城之下・上代・川向・信楽の5地区を有する自治会として活動している(約450世帯)(かつての寺内町は本郷地区)。また、金森山柿(約70世帯)は自治会として独立している。金森川と案内川河川公園で、ゲンジボタルの保護活動と絶滅が心配されているハリヨ育成活動が行われている
。近年、自治会内を南北にくすの木通り(市道古高川田線)が通った。さらにJR守山駅から市道泉町金森線がくすの木通りを通過して滋賀県道42号草津守山線(湖南街道)まで東西に横切り、交通の便が格段に向上した。また県・市の区画整理事業の対象となっており新たな住宅地の建設が続いている。医院、スーパーマーケット、県立守山中学校、市立守山南中学校、県立守山高等学校、立命館守山中学校・高等学校、守山市民ホールなどが近接している。
 <文化財> 
 懸所宝塔(重要文化財)、庭塚古墳(前方後円墳)-全長約50メートル 市内最大、金森遺跡-弥生時代~平安時代にかけての、集落・墓跡。
(文中のカタカナの読み仮名は筆者寺内)
(出典「ニッポン城めぐり」< https://cmeg.jp/w/castles/6234 >)

浮気城ふけじょう
 浮気城は観音寺城主・六角氏の家臣である浮気氏の居城として知られています。六角氏が織田信長によって滅ぼされると、以後は織田氏、豊臣氏に仕えました。1570年(元亀元年)に信長が金森御坊の一向一揆衆と対峙した際にこの城を拠点のひとつとして利用したと伝えられています。現在城址には住吉神社があり、境内には幅2m、高さ1.5mの土塁と堀が良好な状態で残っています。
築城主・浮家時房、主な城主・浮家氏、遺構・土塁、堀。
(出典「浮気城」< https://kojodan.jp/castle/2177/ >)

〇 守山市と栗東市の北東に野洲市が隣接する。ここには草津市に勝る多数の城址があります。素晴らしいですね。
 小堤城山城、岩倉城、永原城、桜生城、三上陣屋、木村氏館、三宅城、上永原城、北村氏館、三上城、三上館(下屋敷)、三上館(中屋敷)、三上館(上屋敷)、向山城があります。(以上出典「滋賀県野洲市のお城一覧 城郭放浪記」< https://www.hb.pei.jp/shiro/shiga/?c=yasu >)
 小清水城、岩倉城(弥勒寺城)、行畑館、野洲郡衙、小比江城、権吉屋敷、
桜生出城、南桜館、葭地城(比留田城)、木部城、吉川城、六条城、井口城、
夕日ヶ丘城、五条館(播磨守資頼館)、冨波城、鷹部屋敷、江部城、落窪城、
野田城、虫生城、光明寺館、高木館、吉地館があります。(以上出典「滋賀県の城」< https://masakishibata.wordpress.com/category/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E9%87%8E%E6%B4%B2%E5%B8%82%E3%81%AE%E5%9F%8E/ >)
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心壊(しんかい)の人―京アニ事件青葉被告の父のケース

2024年02月01日 | 日記
 世間には心が壊れている人がいる。周囲の難事に追われて冷静な判断力を失っている人のことを「心壊の人」と呼ぶことにしよう。京アニ事件の青葉被告の父は、被告が小学校3年のとき離婚した。この後の彼の行動から推測すれば、妻は彼に愛想を尽かしたのかもしれない。彼は家族に手を上げた。息子たちが反抗的な態度を見せると裸で外に立たせて水を浴びせ、ほうきの柄でたたいた。被告が中学生の時柔道大会で準優勝すると、記念の盾と柔道着を燃やせと言われ、泣きながら従った。父はトラック運転手の仕事をやめ、生活は困窮した。この人は生きる気力を失っている。その後に自死しているところを見れば、生きることに絶望していたのだろう。このような「心壊の人」には安息の場が必要だ。行政関係の人か、篤志家が、静かに根気よく近づき、子どもたちを養護施設に預けてはどうか、その間にあなたは生活保護を受けながら、ゆっくりと生活を立て直してはどうか、と。こういう手立てを講じていれば、青葉被告の犯罪も、兄と妹の自死も、防げていたかもしれない。
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過激な行動のあとで―連続企業爆破事件、京アニ放火殺人事件、秋葉原無差別殺傷事件

2024年02月01日 | 日記
 連続企業爆破事件の犯行者は49年間逃亡生活を送った。京アニ放火殺人事件の犯行者は、自らも全身にやけどを負い、重篤な状態から助け出されて死刑の判決を得た。秋葉原無差別殺傷事件の犯行者は死刑判決を得て執行された。第1の事件の犯行者は「後悔している」という言葉を遺した。第2の事件の犯行者は公判で「申し訳ございませんでしたという言葉しか出てきません」と謝罪した。第3の事件の犯行者は自分の行為は「万死に値する」という言葉を遺した。
 精神熱が高じて破裂すると、その後に残るのは「取り返しのつかない後悔」だけ。過激な行為は「悪」です。この人たちの言葉を心に刻んでおけば犯罪の抑止力になる。
 世間に不満があっても、他者を不幸に陥れる行為があってはならない。不幸を意識している人は、他の不幸を意識している人(こういう人は山ほどいる)と連帯することだ。そうすれば生きる気力が湧いてくる。そして不幸から脱する努力を積み重ねることだ。
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#われら定時制の会 #我ら定時制の会 #「われら定時制」の会 #「我ら定時制」の会

2023年12月08日 | 日記
「われら定時制」の会はつぎの経緯で生れました。前段が少し長くなりますが我慢してください。 
 寺内孝は太平洋戦争(1941-1945)の勃発前に生まれました。先祖は醍醐寺三宝院の寺侍でした。祖父は明治から大正期にかけて国鉄の車掌をしていました。そういう関係で、九州に行った時には当地で大量に炭を仕入れ、京都で販売して一定の財をなしました。大正時代の初期に、京都で5階建てのビルを建設する計画がありましたが、1,2の理由で、話が進みませんでした。この計画に代替するものかどうか知りませんが、祖父は、賀茂川をはさんで、植物園の対岸に家を3軒建てました。後にこれらの家は、理由は知りませんが、売却されました。それを知った、建築にかかわった大工の棟梁が大変驚き、残念がったという話を母から聞いています。祖母は段通(模様のある厚手の敷物 )織りに長けた人でしたが、1918年-1920年(大正7年-9年)に猛威を振るった スペイン風邪に感染して死亡しました。祖父は娘(7歳)(長男夭折)一人をほっておけないとの理由で、助役直前であった車掌職をあきらめ、京都駅近くで小さな宿屋を始めました。母は二条女学校に入学しましたが、何かの理由で大谷裁縫女学校に転校し卒業しました。母はわがままな性格の人で、生きる力に欠けていた人でした。わたしの父は、京都の友禅の型彫師で、友禅彫刻業を営んでいましたが、肋膜炎を患い、それがこじれて離縁に至りました。母のわがままな性格と無関係ではないと思っています。わたしは2歳でしたので父のことは知りません。我が家に、確かな跡取りがいなかったことと戦争が始まったことで、一家は坂道を転げ落ちるように転落していきました。祖父は昭和20年に栄養失調(だったと思います)で死亡しました。祖父健在の間は、鉄道員の恩給がありましたが・・・。生きる力に乏しく、我が儘な母は男児2人をかかえて、戦後の荒れ野で路頭に迷いました。わたしは中卒で就職しましたが遊び慣れして育ったものですから、仕事は長続きしませんでした。そうして2年間が過ぎたとき、これではいけないと猛省し、北野高校の定時制課程に入学しました。教室の机に座った時に、感激・感動で胸が震えたのを今も忘れていません。ここで出あった級友たちはみな素晴らしい人たちばかりでした。境遇が似ていましたので気心が通じ合ったのです。先生方は学者ぞろいでした。強い刺激を受けましたので、よし大学へ行こう、と決心したのです。決心したとはいえ、勉強なんてしたことがなかったものすから、それはそれは大変でした。中学校の勉強から始めなければなりませんでした。獅子奮迅奮闘、死に物狂いで勉強しました。貧しい生活の中でしたのでよくまあ結核(当時「国民病」といわれた)に感染しなかったものと何度思ったことか。お陰様でいまは定年退職、年金生活者です。
 私たちの学校は1937年 4月大阪府立北野夜間中学(定時制の前身)として発足し、2009年 3月閉課程となりました。この間、有為な人材が多数輩出しました。これは事実です。わたしの在学当時、ある先生が「昔は教師も生徒も紙一重だった。最近の生徒ときたら・・・」と嘆息されたのを記憶しています。
 定時制の同窓会・北辰会は1941年に発足しましたが、2024年12月31日をもって解散します。一卒業生としてまさに断腸の思いです。
 本年(2023年)4月、京都で、65年来の3人の友人と会いました。私たちのグループは6人でしたが、うち一人は50代半ばで心臓弁膜症で他界し、もう一人はコロナの最中、すい臓癌で亡くなりました。京都での集まりの席で、「われら定時制」の会の提案をしましたら、みな二つ返事で賛成してくれました。会の趣旨は、私たちの学校が存在していたことを発信することと、全国の定時制卒業生の仲間とネット上で手をつなぎあい、苦しい中を生き抜いてきたという感情を共有することと、いま定時制高校で学んでいる生徒たちに、私たちの存在を知ってもらい、エールを送ることです。「毎日はしんどくとも、くじけずに、真面目に辛抱強く働き学び、こけても、こけても、こけても、立ち上がれ!これが定時制魂だよ」と。私たちには資力はありませんから経済的な支援は出来ないのが残念ですが、せめて精神的な支えになれば、という心境です。
 私たちの学校はなくなりましたが、大阪にはなおも16校の府立高校定時制課程が存在し、堺市立・岸和田市立を合わせれば18校になります。私たちは戦争犠牲者の一面がありますが、今の生徒たちは経済格差社会の犠牲者とも言えるでしょう。子どもの7人に1人は貧困家庭といわれています。これらの子どもたちが、働きながら学ばなくともよい社会の実現を願わずにはいられません。

「われら定時制」の会、会員
定時制の課程 21期生 寺内孝、西田正夫、松井義隆、渡邊成彬(50音順)。

大坂の定時制高等学校を知る資料
< https://www.pref.osaka.lg.jp/kotogakko/hp/tei.html >
< https://www.osaka-c.ed.jp/sano-t-p/teitsu/28/ichiran.htm >
公益財団法人 全国高等学校定時制通信制教育振興会 <  https://kokotto.com/list/ >



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#寺内孝の経歴と業績

2023年12月08日 | 日記
経 歴
大阪府立北野高等学校定時制の課程卒業 / 神戸大学教育学部英語科卒業 / 大阪教育大学大学院修士課程(英語教育英語第二講座)修了 / 高校教員のかたわら研究に従事。定年退職後無職 
業績(ホームページhttps://tera-u-chi.sakura.ne.jpも参照してください)
 1.論文等
1.Charles Dickensの小説は大抵が扉のつぎに‘Characters’(登場人物表)を載せているが、このリスト(1980年代現在)には誤謬が含まれていた。Hard Timesでは"THOMAS GRADGRIND, his youngest son; a selfish ..."とあり、The Chimes in Christmas Booksでは"TUGBY, porter to Sir James Bowley"とある。これらは誤謬で、それぞれ、"THOMAS GRADGRIND, his eldest son; a selfish ..."、"TUGBY, porter to Sir Joseph Bowley"が正しい。この資料をOxford University Press に送り、同社から2通の書簡で謝辞と共に、上記の指摘が正しい旨、回答を得た。約100年間、誤記が見過ごされていたことになる。
2.Murray, James A. H., et al., eds.  The Oxford English Dictionary. (Oxford: Clarendon, 1933, 1989)に対し、"material" "quotations" "additions and corrections" など4、50の資料を提供した。この業績により、Oxford 社から5通の謝状を得た。
3.Norton Critical Editions, Charles Dickens, Hard Times: An Authoritative Text, Backgrounds, Sources, and Contemporary Reactions, Criticism.   Edited by George Ford and Sylvère Monod. (New York: Norton, 1966) はタイトルにあるようにHard Times.の権威テクストである。しかし本書には幾らかの不備が含まれ、拙稿For a Better Norton Critical Edition of Hard Times (Studia Anglistica No. 2 [1982] 所収)で指摘した。この業績により、① Monod教授(b. 1921-d. 2006)から’your eagle eyes’の評価を得た ② Charles Dickens. Hard Times(New York & London: Norton& Company, 2nd. ed., 1990, p. xii. / 3rd ed., 2001, pp. x, 239. / 4th ed., 2017, p. 253)に私の氏名が出た ③ 本論を含むHart Times関係5点の論文でPhilip Collins教授(b. 1923- d. 2007)から次の評価を得た:‛You must be not only the champion Japanese scholar on these topics, but also in many areas of verbal and textual detail the world champion!’ 
4.The Letters of Charles Dickens. (Oxford: Clarendon Press, 12 vols.)のSupplements の作成に貢献した。この業績により、Andrews, Malcolm, ed. The Dickensian に私の氏名が10回出た。なお同書簡の更なる不備を指摘し、Andrews教授から2019年8月28日付で”Thank you for your sharp-eyed alert to the Pilgrim inconsistency”の謝辞を得た。
5.インターネット上の討論の場The Dickens Forumに19回登場した。その中に、Forumの編集者Patrick McCarthy教授(b. 1922 - d. 2019)の次の記事(dated 11 November 2011)が含まれる。
Friends of the Forum,
 Being under the scrutiny of your fellow subscriber, Takashi Terauchi (Mr.) occasionally makes your editor nervous about his own fastidiousness.  Writing from Nomura, Kusatsu City, Shiga, Japan, Mr. Takashi Terauchi has been scrutinizing the text of the 12-volume Pilgrim Edition of _The Letters of Charles Dickens_ with the eye of a hawk.
6.The Mystery of Edwin Drood is Finished, not “Unfinished”を執筆し、学会誌に投稿したが掲載不可となり、ホームページに掲載。これがネット上のフォーラムVICTORIA (the online discussion forum for Victorian Studies)の目に留まり、2020年7月4日付で世界に配信され次の反応を得た。
①  I’m sorry it has taken me so long to get round to reading your essay on Drood with its highly ingenious argument identifying Grewgious’s clerk Bazzard as the mysterious Datchery who suddenly appears in Cloisterham and its discovery of such great significance in the title of his play The Thorn of Anxiety.  The essay does contain rather a lot of unproven, and often rather startling, assertions, such as that Dickens underwent a ‘spiritual conversion’ after Katey left Gad’s Hill, that he showed Ellen his will, and that his death resulted from an overdose of opium, but it certainly makes for lively reading and is calculated to send one back to the text with fresh interest.  I am sure it must have occasioned some lively discussion when you read it to the Japan Dickens Fellowship.  Thank you again for sharing it with me. (By Professor Michael Slater、dated 9 July 2020)
② Thank you for the two links leading to your articles which I found very interesting. I apologise for not writing sooner but it took me time to read the two articles and I am going to publish the first one about Charles Dickens (with the link naturally) life and excellent piece about his work. Not the second one as I don't quite understand it and the mind you wrote it; besisdes I'd rather avoid talking of a private aspect as faith and moral behaviour, as it can be so differently interpreted. I hope you don't mind though and I 'll make the most of the first one. (By Professor Annpôl KASSIS, dated 7 October 2020) 文中のthe first oneはThe Mystery of Edwin Droodを指す。the second oneは拙著Charles Dickens: his last 13 years.の前半部分を指し、その後、後半部分を提示し、現在反応待ち。
 2.著書
1.『チャールズ・ディケンズ「ハード・タイムズ」研究』あぽろん社、1996.
2.『簡素への誘(いざな)い―荒廃から再生へ』日本図書刊行会、2001.
3.『神の成長―古代ユダヤ教とキリスト教の神の研究』あぽろん社、2002.
4.Revivalism and Conversion Literature: From Wesley to Dickens.  Hon’s ペンギン、2005.
5.『英国一周鉄道知的旅日記』ブックコム、2008.
6.Charles Dickens: his last 13 years. ブックコム、2011.
7.寺内孝「ユダヤは『律法』で滅びキリスト者は『律法』破棄で勝利した―閉塞の支配知識階級と無学者の突破」、鶴見良次・編『成城イングリッシュ モノグラフ』第43号、青木健教授退職記念号(東京:成城大学大学院文学研究科、2012年3月、224-25頁)。
8.『キリスト教の発生 イエスを超え、モーセを超え、神をも超えて』奥山舎、初版(2018.11.28)、改訂版(2020.10.17)、二訂版(2021.3.26)、新装版第一刷(2021.12.27)。
 3.復刻:下記カタログに“FOREWORD”をつけて復刻
Stonehouse, J. H., ed.  Catalogue of the Library of Charles Dickens from Gadshill … Catalogue of the Library of W. M. Thackeray…(London: Piccadilly Fountain Press, 1935), with “FOREWORD” by Takashi Terauchi, a member of the Japan Branch of the Dickens Fellowship.(自費出版、2003年) 本復刻本はThe Dickensian (Spring 2004) の“Brief Notices” (pp. 62-63)とDickens Quarterly (June 2004)で紹介された。
所属学会 
ディケンズ・フェロウシップ日本支部 / 日本英文学会中国四国支部 / 日本ヴィクトリア朝文化研究学会
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#聖書の無誤性(せいしょのむごせい)と聖書無謬説(せいしょむびゅうせつ)

2023年12月06日 | 日記
 聖書の無誤性とは、聖書が原典において全く誤りがない神の言葉であるという、聖書の教理の前提である。この立場では「歴史と科学の分野を含んで完全に正確」であり、誤りの部分はないと主張する。無誤性は、聖書は「信仰と生活との誤りなき規範」であるが、歴史や科学の分野には誤りがあるとする聖書無謬説(限定無誤性、部分的霊感説)とは区別される。(出典:ウィキペディア「聖書の無誤性」) 付記、ウィキペディア「聖書無謬説」も有益です。
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#心神喪失状態と犯罪予防

2023年12月03日 | 日記
 神戸市で2017年に、32歳の男性が、祖父母と近隣住民の計3人を殺害し、母親ら2人に重傷を負わせた。被告は裁判の結果、心神喪失状態での犯行として無罪が確定しました。
 重ぐるしい事件です。この種の事件はどうすれば回避できるのでしょうか。思うに、被告の犯行動機は、ある日突然に発生したのではなく、いくつかの前段階があったのではないでしょうか。犯罪を予防するには、その前段階を捉えて、被告の環境を変えるべきではなかったか、と思うのです。病院となれば、抵抗感があるでしょう。むしろ人里離れた静かな環境、つまり療養所のような避難所が必要と思うのです。罪を犯しそうな人が、「助けて」の声を上げれば、助けてもらえる環境をつくるのです。そういう場所で、投薬をうけながらゆっくり回復してもらうのです。こういうアイデアは価値がありませんか。

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#聖書を妄信する人たち―キリスト教福音派 

2023年11月24日 | 日記
 アメリカにキリスト教福音派の人たちがいます。彼らは「聖書の言葉を一字一句大事にする」人たちです。その信徒数は米国人口の「4分の1近くを占め」ています(朝日新聞2023.10.19です)
 福音派自身は自らを、「聖書は神の霊感によって書かれ、誤り無い神のことばであるという、聖書の十全霊感(聖書信仰)を信じるすべての教会」と定義します。「アメリカの福音派」の信徒数は「同国の人口の4分の1を占め」ています(ウィキペディアの「福音派」です)。
 聖書は信仰の書であっても、真理を極めた研究書でありません。聖書は神を「天地万物」創造の「全能の神」と記しますが、これは事実ではありません。
 聖書の申命記4章34節に、「神」は「一つの国民を他の国民の中から選び出し、御自身のものとされた」とあり、ゆえに「イスラエルの人々」は自分たちを「神、主の民」と誇りにします。
 皆さんは、天地万物創造の全能神が1民族のみを偏愛するなんてことがあり得ると信じますか。わたしは拙著『キリスト教の発生』で、「神は全能神にあらず」、「神」はイスラエルの「民族神」に過ぎないと、繰り返し主張しています。
 聖書は古代人の発想に依拠しています。古代人の発想から抜け出さない限り、ハマスとイスラエルの対立は根本的には解決しないのではないでしょうか。
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#イスラエル考3 聖書とコーランと

2023年11月21日 | 日記
 聖書にもコーランにも不寛容の記述がある。
 聖書を言えば、敵を「撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。」(申命記7:2)、「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」(レビ記24:19-20)
 コーランを言えば、「これ、汝ら、信者の者、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間にするでないぞ」(第5章85節)、「聖典を頂戴した身でありながら真理(まこと)の宗教を信奉もせぬ、そういう人々に対しては、先方が進んで貢税を差出し、平身低頭して来るまで、あくまで戦い続けるがよい。」(第9章29-35節)(井筒俊彦訳『コーラン』岩波文庫、1987、上巻、155、254-56頁)。
 ハマスのイスラエル攻撃、イスラエルのハマス反撃に、これらの不寛容思想が相互に機能しているかどうかは分からないが、聖書もコーランも、それぞれがよって立つ聖典である以上、無関係とはいえないのかもしれない。
聖書の律法(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)は、モーセがシナイ山で神から授かった掟(ただし、創世記にはモーセは登場しない)である。
 他方、イスラム教の創始者ムハンマド(マホメット)は、西暦610年頃、天使ガブリエルを介して全知全能の唯一神アッラーの啓示をうけて預言者を自覚し、「アッラーのほかに神なし」としてイスラム教を創始した。イスラム教の聖典「コーラン」はムハンマドの教えを記述したもので、彼の死後に出版されたものである。
 イスラム教ではムハンマドの上位に5人の偉大な預言者、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスを置く。聖書の記述によれば、これら5人の預言者はすべて天地万物創造の全能神に連なっている。
 創世記によれば、「神」が、「土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり」、その「人」を「東の方のエデン」の「園」に「置」いた。つぎに「人」から「あばら骨」を「抜き取」って「女を造り」、「人のところへ連れて」行くと、「アダムは女をエバ(命)と名付けた。」エバは、「神」の造物なる野生物中で最賢の「蛇」の甘言に乗せられ、「神」の禁じた「善悪の知識の木」の「果実」を食べ、アダムも食べ、その罪ゆえに楽園「追放」にあった(創1・27-3・24)。
 その「アダム」が「妻エバを知」り、「エバは長男カインを産み」(創4・1)、次いで次男「アベル」(創4・2)を、そして3男「セト」を得る(創4・25)。長兄カインは、弟アベルへの神の愛をねたみ、アベルを「殺」す(創4・1-8)。カインはその罪のために主から譴責されるが庇護もされる。のちにカインは長男エノクを得、自分が「建てていた」町を、その子にちなんで「エノク」と「名付け」、カイン家6代がつづくなかで文明が始まる(創4・9-22;聖書フラ13注7参照)。3男セトはエノシュを授かり、「主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。」で創世記4章は終わる。
創世記5章はアダムの3男セトの系図で、セトから数えて9代下にノアが現れ(創5・1-29)、ノアが500歳のとき、3男児セム、ハム、ヤフェトを得る(創5・32)。
 創世記7章は洪水である。神は、「地上」に人が「増え」、「悪」が蔓延する様をみて、「人」を、そして「家畜も這うものも空の鳥」も「造ったことを後悔」し、「無垢」なノアを除いて「すべて」を「滅ぼす」ことを決め、ノアに「箱舟」の建造を命じる。ノアは神の指示に従い、妻と、3男児夫妻と、「清い動物をすべて7つがい」と、「清くない動物をすべて1つがい」と、「空の鳥」の「7つがい」とともに「箱舟」に「入」る。
ノア600歳のとき「洪水」が起こる。神は大雨を四十日間降らせ、「百五十日の間」水勢は引かない。
 創世記8章は水勢の衰えと下船である。ノア「六百一歳」のとき「水は乾」き、ノア一家とすべての生き物は「神」の指示で下船する。9章で、「ノアの息子、セム、ハム、ヤフェト」の「三人」から「全世界の人々」が「出」た、と(創9・18-9)。
 創世記は「神」を「天地万物」創造の「全能の神」と規定するが(創2:1、17:1)、神の実態はイスラエルの守護神、民族神に過ぎないと、わたしは拙著『キリスト教の発生』で繰り返し述べている。
 アラビア・メッカ生まれの商人ムハンマド(マホメット)(570年頃-632年)はユダヤ教とキリスト教の影響を受けつつ西暦610年頃、天使ガブリエル(下線部は下記「注記」を参照せよ。以下同)を介して全知全能の唯一神アッラーの啓示をうけて預言者を自覚し、「アッラーのほかに神なし」とするイスラム(教)を創始した。イスラム教では、創世記の「神」が生み出した5人、アダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスをムハンマドの上位に位置づける。
聖書もコーランも古代人の空想に依拠している。イスラエルもハマスも、聖典と信じる書の本質を見極めるべきであろう。我々は古代人の空想から脱して、人間みなきょうだいの観点から、新しい歴史を創造すべきであろう。

注記、天使ガブリエルは「ルカによる福音書」1:19に、「天使は答えた。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。』」とある。
注記。アブラハムは、ノアの長男セムの子孫で、セムから数えて9代目、遊牧民テラの長男である(創11・11-26)。モーセは、アブラハムの孫ヤコブに3男レビがあり、レビのひ孫である。 イエスの系図は新約聖書の「マタイによる福音書」第1章と「ルカによる福音書」3章にある。ルカではイエスはアブラハムの子孫とあり、マタイでは父ヨセフに連なる先祖はアダムとある。

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#イスラエル考2 イスラム教の成立、エルサレム、シオニズム(ユダヤ人のエルサレム帰還)

2023年11月21日 | 日記
 アラビア・メッカ生まれの商人ムハンマド(マホメット)(570頃-632)はユダヤ教とキリスト教の影響を受けつつ610年頃、天使ガブリエルを介して全知全能の唯一神アッラーの啓示をうけて預言者を自覚し、「アッラーのほかに神なし」とするイスラム(教)を創始した。ムハンマドはイスラムの預言者のひとりで、アッラーの教説を最も正しく説いた人とされている。イスラムではムハンマドの上位に5人の偉大な預言者がいるとされ、その5人とはアダム、ノア、アブラハム、モーセ、イエスである。これらの5大預言者はユダヤ教とキリスト教とに重なり合っているから、3つの宗教は共に縁戚関係にあるようなものであるが、現実は、どの宗教も、わが神こそ唯一、と主張する。故に、これらの宗教はすべて、発生の時点から不寛容を特徴としていると言えるし、現実にそのようであったのだ。
 今日、3者の関係をいっそうむずかしくしているのがエルサレム問題であり、3者はともに、エルサレムはわが聖地、と互いに主張しあっている。
ユダヤ教はソロモン王の時代から西暦70年までの間、ここに神殿を築いていたし、イエスは神殿の商業行為に立腹して宮清め(マタ21.12-13ナド)を行っているし、イエスの弟子たちはイエス死後ここに日参している。
 イスラム教がエルサレムを聖地とする根拠は、ここがムハンマドの昇天地と見なすからである。ムハンマドは632年に、エルサレム旧市街の、約1キロ四方の城壁に囲まれた神殿の丘(ハラム・シャリーフ)にある巨岩から昇天したとされている。
 他方、この巨岩は、旧約聖書によれば、アブラハムが一人息子イサクを神のいけにえに捧げようとした場所であって(創22章)、ユダヤ教とキリスト教にとっては、イスラム教以前の聖地ということになる。
 エルサレム史をひもとけば、ここは636年にアラブの支配に落ちている。このときイスラム教徒はエルサレム神殿跡に、メッカ、メディナに次ぐ聖なるモスク、アルアクサ・モスクを建立している)。さらに691年、イスラム教徒のウマイヤ朝時代(661~749年)に巨岩をおおう形で「岩のドーム」と呼ばれるモスクを創建し、修復を重ねて今日に至っている。
 1038年、イスラム教徒のセルジューク朝(1038~1157年)が中央アジアでおこり、のちに小アジアに進出して1071年にエルサレムを占領した。この占領で、キリスト教徒によるエルサレム巡礼が困難となったことから、キリスト教徒は1096年に十字軍を派遣し、1099年にエルサレム王国を建国したが、この王国は1291年、イスラム教徒の軍隊マムルークに壊滅させられ、以後マムルーク朝が1516年まで支配し、その後にイスラム教徒のオスマン・トルコ帝国が1917年まで統治している。
 ユダヤ人にとっては、エルサレムは聖地であるだけでなく、パレスチナは父祖の地であり、神から授かったと信じる「乳と密の流れる土地」である。このパレスチナへ、ユダヤ人は1897年に復帰運動(シオニズム、シオンへの帰還)(イザヤ書51章、エレミヤ書3:14)を起こすが、1922年にイギリスがパレスチナの委任統治に入るや、ユダヤ人、アラブ諸国、イギリスの3者間で対立抗争が激化するのである。そんなとき、第二次世界大戦(1939~45年)が勃発して欧州在住のユダヤ人600万人が虐殺されるという悲劇がおこり、シオニズムを加速させ、大戦後の1948年、ユダヤ人はパレスチナでイスラエル共和国の独立を宣言している。これによってユダヤ人は、西暦135年に祖国を失って以来およそ1800年間世界を流浪し、ついに建国にこぎつけたということになるのだが、この建国は、パレスチナ人からすれば迷惑な話で、70万人の難民を出すことになったのである。今日(2002年現在)ではその数は、自然増もあって370万人に達している(以上、出典:寺内孝著『神の成長』アポロン社、2002、273-75頁)。

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#イスラエル考1 ハマスとイスラエルの軍事衝突の根底に古代人の「律法」がある―古代人の思想から抜け出そう

2023年11月19日 | 日記
 2023年10月のイスラエル・ガザ侵攻は、同年10月7日、イスラム組織ハマスの大規模奇襲攻撃と、人質240人剥奪に始まります。
 歴史を紐解げば ユダヤ人はローマ帝国の支配に抗して2度蜂起(西暦66-70年、132-135年)し、結果、「生き残った者はほとんでいなかった」と記録されるほどの惨敗を喫しています(寺内孝著『キリスト教の発生―イエスを越え、モーセを超え、神をも超えて』の「律法、終末、メシア」7 ’すべて空(くう)なり‘参照)。
 ローマ帝国はユダヤ戦争終結後、ユダヤを「パレスチナ」と、エルサレムを「アエリア・カピトリナ」と改称しました。ユダヤ人は亡国したのです。彼らの中には戦前からパレスチナや欧州各地に居住していた人たちがいますし、戦後にユダヤを追われた人たちもいます。これらの人たちは世界各地に離散しましたが、その土地で帰化しなかった主因は、ユダヤ教の律法(モーセ五書、即ち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)があるからです。その掟の中で、ユダヤ人は天地万物創造の唯一神に「選ばれた」民と記されています(申7:7)。
 ユダヤ人は異郷の地で、1800年間、亡国の民の悲哀をなめました。第2次大戦後、彼らは大挙して、神が「与える」(創12:7、13:15)と誓われた「乳と蜜の流れる土地」(出33・3)・パレスチナに帰り、1948年にイスラエル共和国の独立宣言を出しました。この帰郷で、当地のパレスチナ人70万人が難民化しました。これがパレスチナ問題の発端です。
 難民の中から、あるいは難民を支持する人たちの中から、ハマスが誕生しました。イスラエルは、攻撃を仕掛けられれば存亡の危機に立たされますから激しい反撃に出ます。その反撃の仕方は、律法に支えられている部分があると思われます。「主なる神」いわく、敵を「撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。」(申7:2)、「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」(レビ24:19-20)
 イスラエルは、圧倒的な軍事力でハマス撲滅の挙に出ています。彼らは間もなく、いくらかの点で、所期の目的を達成するでしょう。だが、世界の民は、無辜の民の死と損傷と悲哀を凝視しています。イスラエルはある意味で、世界の多数者を敵に回している点があるといえましょう。ハマスはハマスで、再起を期するに違いありません。武器による殺戮の応報には限りがありません。
 思うに、律法に記された「神」は、天地万物創造の全能神ではありません。その「神」の本質は、イスラエルの守護神、民族神なのです。このことを、私は上掲の拙著で繰り返し主張しています。そうであるにもかかわらず、モーセに発する3つの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)は「神」を全能神と信じ、エルサレムにそれぞれの聖地を置いています。争いの根本に誤りがあるのです。われわれは古代人の発想から抜け出し、歴史を作りなおすべきでしょう。事の振り出しに戻り、人間みなきょうだいの観点に立ち、新しい歴史の創造に意を注ぐべきだと思うのです。

****
今回ユニセフの呼掛けに応じ、些少ではありますが、「ガザ人道危機緊急募金」に、「武器を持つな」と記して寄付しました。

寺内 孝 様 
この度は、ガザ人道危機緊急募金にご協力を賜り、心より感謝申し上げます。 お寄せいただきました募金は、緊急事態下の子どもたちのために、病気の予防、安全な水や栄養補助食の提供、教育の再建や子どもたちの保護などの支援活動に大切に活用させて頂きます。 下記の通りご寄付のお申し込みをお受けいたしましたので、ご連絡申し上げます。 
■受付番号    :10001034140
 ■受付日     :2023年10月24日 
■お名前     :寺内 孝 様 
■ご寄付の金額  :〇,〇〇〇円(ガザ人道危機緊急募金として)
 ※領収書について ご寄付領収日は、各カード会社からの当協会への入金日付となり2023年12月、また領収書ご送付は2024年1月上旬予定です。 なお、クレジットカードのご利用日は、お申込日ではなく、当協会でのお手続き日となります。 今後ともユニセフを通じて、緊急事態に直面した子どもたちにご支援を賜りますようお願い申し上げます。 ]
]公益財団法人 日本ユニセフ協会 
〒108-8607 東京都港区高輪4-6-12 
ユニセフハウス https://www.unicef.or.jp 
フリーダイヤル:0120-88-1052(平日 9:00-17:00)]
 Eメール:webbokin@unicef.or.jp
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#瀬戸内海の小島を 引きこもりの人たちや、生きることに疲れた人たち の楽園にーーこのアイデアどう思います

2023年09月23日 | 日記
 瀬戸内海にこういう小島が6つあります(調べれば、適切な島がもっとあるかもしれないが)。これらの島々を、引きこもりの人たち生きることに疲れた人たちのための楽園に出来ないだろうか。敷地は狭くとも、いくらかの野菜栽培は可能だろう。そして斜面でレモンなどの果樹を栽培するのだ。いくらかの収入になるのではないか。このアイデア、あなたはどう思いますか。

1.香川県三豊市 志々島
周囲3.8kmの小さな島。往時には1000人近い人口を擁したこの島ですが、現在の人口は19人(2022.1月現在)。
< https://islander.setouchi-tcd.com/shishijima/#:~:text= >
2.広島県三原市 宿祢島(すくねじま)
宿禰島、宿弥島と記されることもあります。大野浦海岸の正面に横たう佐木島の前に円墳形の宿祢島< 島で暮らすのは夫婦、子供二人の一家族四人のみ。< https://islander.setouchi-tcd.com/shishijima/ >
3.岡山県 黒島
周囲1・6キロの島。 「島民が、たった1人になりそうだ」と聞いて訪ねたのは、朝日新聞岡山総局の記者だった時だ。それから7年。「人口減」をテーマにした取材チームに加わった。 下調べに、島を管轄する瀬戸内市役所に電話をかけた。黒島に1人で残っていた方は、まだ住んでいますか。 「この秋に本州側に引っ越したようです。いまは無人になりましたよ」
< https://www.asahi.com/articles/ASM127SV4M12UHBI025.html >
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B3%B6_(%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C)#%E5%A4%96%E9%83%A8%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%AF >
4.岡山県 くじら島 
< https://www.asahi.co.jp/sp/potunto/ >  
岡山県、瀬戸内海にあるポツンとある島の南岸で発見したポツンと一軒家。衛星写真で確認すると、島の海岸沿いに建ち家らしき建物のまえには桟橋もある。捜索隊は対岸にある岡山県の浜辺の港町から捜索を開始する。地元の人に島について話を聞いてみると、すぐに通称・くじら島であることが判明。しかも渡船の船長まで紹介してもらい、早速、船でくじら島へ向かうことに。しかし、その一軒家は、改装中の建物であり立入禁止であることが発覚。
5. 広島県三原市 小佐木島(こさぎじま)
https://ritokei.com/voice/28391 >
人口4人、平均年齢が90歳を超える島を訪れる中で感じた活気を綴ります。
6.香川県 小与島(こよしま)
< https://www.instagram.com/p/BjivWDmFtVb/ >
< https://www.facebook.com/171818172971039/posts/1714188022067372/ >
小与島とは、岡山県と四国を結ぶ瀬戸大橋の橋脚のある与島の隣にある小さな島だという。瀬戸大橋建設時に、小与島をレジャーランドの島にしようという計画が立ち上がり、巨大なリゾートホテルを建てたものの、現在は営業していない。早速、小与島へと向かうが、沿岸には多くの船が停泊しており、島には家も何軒か建っているようだ。捜索隊も「ひと家族だけが暮らしているようには見えない」と疑心暗鬼になりつつ小与島へと上陸する。そこにはたった一軒だけで住んでいるのに楽しく暮らすご夫婦が!
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