森の夕陽

気軽にノックしてください この部屋に鍵はかかっていません…

鬼夜叉 終章

2010-09-19 21:10:10 | 短編小説
 山道の奥の雑木林から空虚な風が吹いたことも妻は気付いているだろう。私は彼に言わせた。
 「生き死には運命だろう。考えたところでどうにもならない」
「私がこの子を殺しても同じことを言いますか?」
 敵も隙を見せない。私は彼に沈黙を指示した。
 雑木林から漂ってくる風は死体の匂いをたっぷりと含んでいた。
「この子は七歳です。この子の人生は始まったばかりなのに、あなたはそれでも運命だとか宿命だとか、そんな四角四面の考えで受け止めてしまうのですか? この子が病気や事故で死んだとしても、私と言う母親に殺されたとしても、この子が望まない宿命を無理やり受けさせられていることに何も感じないのですか?」
 私は彼の妻の台詞が甚だ耳触りである。台詞だけではない。この妻は、いや敵はもしかしたら本気で殺るかも知れないという、身体の中でうねる波動が、甚だ不愉快極まりない!!!
 私は徹底して彼に沈黙を命じた。沈黙の中で彼は、彼の中に生まれた小さな生命体の波が津波の如く暴れ出しているのに気づいた。
 そして遂に彼は私の命令を無視して沈黙を破った。
「なぜ、そこまで私を追いつめるのか…! なぜ、そこまで熱くなるのか…! なぜ、そこまで…」
 この間の抜けた彼の愚問は、しかし愚問ではなかった。私は愕然としてしまったのである。彼の妻の狡猾で周到な計画にまんまと乗せられてしまったではないか…!
 妻は言った。
「あなたを幸福にしてあげたいのです」
 妻の言う意味が理解できない彼に、尚も続けた。
「あなたは不幸な人だから。かわいそうな人だから。でもあなたが私にくれたもので一つだけ後悔がないものがあります。この子を産ませてくれたことです。その恩に報いたいのです。あなたに幸福になって欲しいから、あなたに幸福という情を感じて欲しいから、おなたの心を覆っているものを剥がしたいのです。剥がす鍵がたとえ何であったとしても、それしかなければ、それを…! それを…!」
 黙れっ!!!
 私は彼の代わりに叫んでやった。
 今や敵ははっきりと私を敵として意識しているようだ。もはや敵は私の正体を知っている。
 私は――彼の中に流れる血である。
 脈々と受け継がれ、これからも永劫受け継がれる血である。しかし血は同時に地雷でもあるのだ。身体の中に隠された地雷である。敵は覚悟してその地雷を探し踏みつける覚悟であろう。
 ならば踏め!  踏んでみろ!!
 はぁはぁと肩で息をする息子を抱きかかえて無様にもかれは狼狽している。
「もういけない、このままだと死んでしまう!」
 そう叫ぶ彼を傍らで冷やかに見ている妻が言った。
「こんなことは何度もありました。ときにそれはわたしだったりもしました。心も身体と同じで怪我したり血を流したりするのです。あなたには心がない鬼夜叉だから知らないでしょう。身体の死も心の死も同じだと言うことを。このまま進みましょう。今止まったらここへ来た意味がありませんから」
 執拗なまでの妻の強気に押されて彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。
 雑木林の中に蠢く籠った湿気が彼と彼の妻に纏わりついたと同時に雨が降り出した。途端にフロント硝子が曇った。
 彼の息子がぐったりとなればなるほど彼の気持ちは冷めて行った。私がそうさせているのだ。
 今度は彼の妻が焦り出した。私は彼の苦しみも楽しいが、彼の妻の焦りや狼狽も心地よかった。
「向き合うって言ったでしょう。向き合うためにここに来たんでしょう? どうして眼を逸らすんですか?」 
 そんな妻の叫びを聞いて、彼は項垂れた。
「自分でもわからない…感情が高まれば高まるほど逆にどんどん冷めてしまう…いつもそうだった…頭の中と気持ちが全く反対になる。自分の意思が…わからない…」
 そんなふうに彼は全く自信がないように力なく呟いた。
「きっと――この子が死んでも泣けないかも知れない。そんな気がする…。気持ちがどんどん冷たくなって、考えたりすることがやたら面倒臭くなって、哀しいとか、寂しいとか、辛いとか苦しいとか…そんなことがとてつもなく面倒臭いような気がする…。私は…やはり鬼夜叉なのかも知れない…」
 さう言い放った刹那、妻の眼に彼の顔が鬼夜叉と重なって映った。妻の背中にゾクッと冷たいものが走った。つまり、それこそが私の顔であるのだ。私は彼の心臓から常に創られて永劫流れ続ける血であり、過去であり、未来でもあり、想いでもあり意思でもあり、そして鬼夜叉である。
 
 雨が豪雨に変わった。フロント硝子の前は滝のようになった。彼と彼の妻は仕方なく運転を中止した。
 運転席の彼に妻は息子を抱いてあげてと言った。息子の唇は紫色に変色している。
「身体は温かいでしょう…? 血が流れているから、体温があるからあなたの腕にも伝わってくるでしょう…? でもこの温もりがあなたの腕の中で冷たくなっていきます、きっと…! 感じてください。そして少しづつ少しづつ冷たくなっていく感覚も感じてください」
 彼の妻の声は震えていたし、懇願のようでもあったが、私はこの敵を許さない!!! 許せない!!!
 温もりだと!!! 体温だと!!!
 私は思い切りその言葉に唾を吐いてやった。私が最も憎んだ言葉である。三百年も前に憎んだのだ。
 今、私の耳には産声が聴こえる。雑木林の中から風の音に混じって、雨の音に混じって、闇の声に混じって産声が木霊している。何よりも愛おしい産声である。この産声を思い出す時、私は貧困も苦痛も忘れられるのだ。初めて産声を聴いたとき、その喜びをどう表現したものか。私の身体は喜びに溶けるかとさえ思えた。贅沢を願ってはいなかったが、いつか必ず白い米を食わせてやると誓った。私の身体が形としてある限り、どんなに苦労をしてもかまわない。いつかきっと白い飯を腹いっぱい食わせてやると心に誓った。
 この子が私にくれたもの、それは果てしない喜びと温もりだった。
 そう――私はこの子の小さな小さな手を握ってその温もりに溶けんばかりの喜びに浸ったものだった。今も、そう、今もあの産声が聴こえようぞ。
 私の咳があるときから止まらなくなったとき、咳と一緒に血を吐くようになったとき、私は恐怖のぶんだけ吐いた血を呪った。背中に走る旋律はまるで意思があるかのように、頭の先まで、足のつま先まで、手の指の先まで這い続けた。そしてそれはこれから私の身に起こる宿命を嘲笑ったのである。
 私は自分の叫び声に辟易した。うんざりするほどみっともない叫び声をあげていたのである。
 ――嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 死にたくない! この子を残して死にたくない! 誰か代わってはくれまいか! 誰でもいい、誰でもいいから代わってはくれまいか! この子を残しては死ねないものを!
 私はとっくに動けなくなった身体で、何日も何日もそう叫んで過ごした。叶わぬことと知りながら、自分の胸を掻き毟りながら叫び続けた。
 心臓を抉りだしたら楽になるだろうかと、生んで間もない愛しすぎる泣き声に耳を塞いで胸を掻き毟ったりした。 
 そして、そう、私は一人では生きれないこの子を残して死ぬことの恐怖と、気も狂わんばかりの悲しみの中で慟哭の祈りを捧げたのである。
 ――心を鬼にしておくれ…! 夜叉の心にしておくれ…! 悲しみを知らぬ心に、苦しみを知らぬ心に、私の命を奪うなら、代わりに夜叉の心にしておくれ…!
 そうして私の心には重く厚く冷たい鉄の蓋がのしかかった。私の望んだとおりに、そうなった。
 もう赤ん坊の泣き声も笑い声も聴こえない。赤ん坊のもみじのような手が私の頬に触れても何も感じない。    
 そしてだんだんと心が遠のき、記憶が遠のき、暗闇に溶け込んで行った。漆黒の闇に溶けた瞬間、静かに永劫の眠りが訪れたのだ。
 そう――こんな豪雨の夜だった。
 死と同時に、しかし生も訪れた。私は生きた。鬼夜叉の心を持ったまま、深く紅くドクドクと音を立てて、日々生まれ続けるのである。
  
 私への妻の挑戦状は迷惑だった。私の耳の奥で聴こえ続ける耳障りな赤ん坊の産声に、色まで付けたのだから。
 私はもう堪らない! もういけない! 叫ばずにはいられない! 抱いていたかったのだ! 白い米を腹いっぱい食わせたかったのだ! もみじのような手を握りしめて 赤ん坊の心臓の鼓動をこの耳で感じて、私の心臓の鼓動も伝えて、それから温もりのあるこの手で、冷たい死人の手ではなく、温もりのあるこの手で、この手で、握りしめていたかったのじゃあああぁぁぁ!!!

 叫び声は彼にあげさせた。
「私は車を出て、この子を抱いて山を降りる! 病院を探す! 助けたい! この子を助けたい!」
 もう私が彼に指示することは無くなった。私は今、眼が覚めた。彼の妻と息子と喜びを探そうと決めたから。 
 敵はついに地雷を踏んだ!
 私自身が地雷だったのだ。
 私は踏まれて爆発した。粉々に砕け散って再び死が訪れた。しかし私は死と同時にまたも再び生まれたのである。まだ冷めやらぬ灼熱のような精神の残骸を抱いたまま、私は生まれた。彼の息子の中に。
 彼は妻に言った。
「二人で守りたい。この小さな命を」
「はい、守りましょう。何よりも大切な命ですから。あなたが私にくれたかけがえのない宝ですから。幸福にしてあげましょう」
「幸福に――そう、幸福にしてあげたい。自分よりも大切な命だから」

 集中豪雨はすぎて、雲の切れ間から陽が射しこんだ。雑木林の中にも陽は溶け込んで、彼と妻は突き刺さるような眩しさに一瞬眼を細めた。
 
 私はもう彼に逆らわない。

鬼夜叉 ③

2010-09-17 09:02:56 | 短編小説
 しかし、やはり私は今少し焦っている。彼の中で小さな波がうねったからだ。世知原茶はやはりまずかったし、妻の言う『鬼夜叉』という言葉も不味かった。
 単純な疑問ではあった。その単純な疑問が彼にとっては得体の知れない生命体でもあったのだ。彼の身体の中に不意に生まれたその生命体はじわじわと進化し始めた。
 それを私は敵とした。
 彼は益々苦しんだ。私はしかし以前のように苦しむ彼を見て嘲笑うわけにはいかなかった。彼は今初めて『自分の中に感情がない』ことを知ったからである。
 彼は色々と過去を振り返り始めた。彼は記憶する限り泣いたことがないことを思い出した。悲しいと感じたことさえない。そういえば日々ニュースで流れる悲惨な事件や事故を耳にしてもそれは自分とはなんら関わりのないことだと考えた。親の死においても彼は泣かなかったことを思い出した。人はいつか必ず死ぬものだと受け止めた。たとえそれが人より早く訪れたとしても、大した問題とは思えないのだ。それが親ではなく妻だったらどうだろうと彼はそんなことまで考え出した。しかし結論は同じだった。彼の妻もとっくに見抜いていた通り、たとえ妻に早い死が訪れたとしても彼の心には何の影響も示さないだろう。しかし、そういうことを彼が知ったことこそが、私にとっての問題なのである。彼は何も知らなかったのだ。知らないまま生きてきたのだ。知らないということを知ったことは私にとって大きな障害になるだろう!!
 私は焦った。
 彼の中で生まれた生命体はなんだろう…?
 私は焦りの中で考えた。しかし実はとっくに知っていた。彼の妻が見抜いた『鬼夜叉』が生んだのだ。
 私は彼とともに生きてきた。だから彼のことで知らないことはない。彼の息子のことも知っている。彼の息子もまた彼なのだ。それだけではない。五十年前の彼も、百年前の彼も、千年前の彼も私は知っているのだ。彼はときに男でもあり、ときに女でもあった。私は彼とともに生まれて、尚、日々生まれ続けるものである。彼の身体の中でいつの瞬間も生まれ続け、そして轟々と音を立てて流れ続けるものである。千年前の彼、百年前の彼、五十年前の彼の想いの姿のまま、細く紅い世界で永劫流れ続けるものである。
 妻の存在は失敗だった。
 私は今初めて後悔している。だから妻を呼び戻すことは何としても避けなければならない。あの妻は私の敵となる。

 彼の中で動揺が始まった。
 一度生まれた生命体は凄まじい勢いで進化していった。私は強く命令したが、彼は益々私への反抗をむき出しにし始めた。そして彼はついに帰郷を決めてしまった。
 彼は彼の妻に手紙を書いた。
 『私と一緒に世知原に還ってくれませんか? そこであなたともう一度、いえ、初めて向き合いたいと思っています』という簡単なものだったが、彼の妻は応じるだろう。

 彼と妻、そして息子を乗せた飛行機は羽田空港を後にして、九州へと飛んだ。私とともに…。
 福岡空港で一旦乗り換えて長崎空港へ再び飛んだ。
 彼は決して懐かしいとは思わない佐世保湾に浮かぶ九十九島を眺めた。しかし彼の妻は彼を凝視している。正確には彼の中に生きる私を――である。
 敵は強かで、私を引きずり出そうなどと考えているようだ。危険を感じた私は強く彼に命令することにした。彼がどんなに私に反抗しようとも、私の命令に逆らうことなどできやしない。そう、彼は結局私自身なのだから。
 しかし、今私の中に一抹の不安がよぎる。
 私のたった一つの弱点に敵は気付いているのではないか、そんなことを不意に思ったからである。しかし私はそんなはずなどあり得ないと思いなおして高を括った。これまでの中で私の存在を見抜き、敵として体当たりしようと試みた者などいなかったからだ。
 妻は空港を出るとレンタカーにしましょうと言った。長崎市内からたっぷり二時間かけて世知原へ向かうことにした。佐世保を抜けていくつもの山を越えて、息子は少し酔ったように青くなっていた。
 息子の体調に気遣って彼は少し休むことを妻に要求したが、妻は一気に進むことを望んだ。世知原へ着いても何もないのだから急ぐ必要はないと彼は言ったが、妻は聞き入れない。
 ところが息子の様子が悪化していった。
 熱まで出てきたのである。そして見る見るぐったりしてしまった。仕方なく車を山道の勾配に停めた。これ以上続けるわけにはいかないと感じた彼は路線を変更して病院を探そうとした。
 私の差し金である。
 しかし妻は一気に進むことを譲ろうとはしなかった。敵は強かである。私は舌打ちをした。
 私は自分が迂闊だったことを今知った。
 彼の妻は本気なのだ。この妻は元々私の私の存在を見抜いた奴だったことを最初に考えるべきだったようだ。
 彼は妻に言った――「この子が心配じゃないのか」と。しかし愚問だった。まんまと妻の計画に落ちたようなものとなった。狡猾、且つ執念深い妻は彼に言った――「この子にもしものことがあったらあなたでも泣きますか? 私はあなたが本気で泣く姿を見たいから、あなたの本物の涙を見たいから、この子は放っておいて先に行きましょう!!」
 一気に彼の表情がいつもの間の抜けた面持ちに変わっていった。それは私が最も好んだ表情であり、同時に妻をもっとも混乱させ苦しめた表情である。私がさせたのだ。
 そう――彼の表情のすべて、彼の想いのすべては私のものなのだ。
 妻が言った。
 「今ここでこの子が死ななくてもねいずれ私がこの子の首に手を掛けないと言う保証はありません。それをあなたはどう思いますか?」
 妻の真剣な眼差しは彼を混乱させるのに充分だった。これ以上の混乱はまずいから、私も真剣にならざるを得ないようだ。
 

 

鬼夜叉 ②

2010-09-12 12:01:51 | 短編小説
 ついに妻は手紙を残して姿を消した。
 手紙の第一行目にはこう記されていた。
『これ以上あなたについていくことができません』
 彼は頭を傾げた。
 彼はいつも妻の願いを聞き入れていたからだ。旅行がしたいと言えば彼は休みを取って連れて言った。人生の記念日には必ず外で食事をした。息子の入園や入学には必ず妻と一緒に参加した。だから彼が頭を傾げるのは当然である。私は彼のそんな姿を見るたびに可笑しくていつも嘲笑ったものだ。
 手紙はこう続いた。
『あなたの冷たさは底知れないものです。それは私にとって暴力にも感じられるのです』
 私はかれが益々無表情になっていくさまを見るときゾクゾクするほど楽しい。
『ときどき私はあなたの無表情な顔の裏側で、鬼夜叉のようなものが見え隠れしているように思えたりするのです。いいえ、むしろ鬼夜叉があなたと言う顔のお面をつけているのではないかしらと真剣に考えることがある程です。そんなとき、私は自分が狂っているのではないかと、本気で心配するのです』
 その通りだ。彼の妻は狂っているのだ。私は彼をよく知っている。私以上に彼のことを知っているモノはいないだろう。その私が言う、彼は狂ってはいない。
 彼は宙を見るような面持ちで口を半分開けている。
 それにしても鬼夜叉とは不愉快な言葉である。彼の妻は出て行って正解なのだ。もういいだろう。これ以上彼はその手紙を読む必要はないから、私は彼に閉じるように指示した。
 私の命令に従って彼は手紙を閉じようとした。
 素早く閉じればよかったのだ。素早く閉じて封筒にしまえばよかったのだ。なのに彼はゆっくりと折り目に従って閉じようとしたから、妻の記した次の文字が彼の眼に入ったりしたではないか…。
『私がここを出ようと決心するに至ったのは、私がとてつもなく恐ろしいことを考えるようになったからです。あなたの心が知りたいばかりに、あなたの心が見たいばかりに、あなたの心が動く瞬間はいつだろうと考えるようになりました。何をもってあなたの心が動くのか、真剣に考えてしまうのです。でもあれこれ考えても浮かびません。きっとあなたはたとえば会社が倒産してもあるいはリストラにあったとしても、これが人生だろうと言うでしょう。そして私と息子のためにこの家は残したよと無表情のまま優しく言ってくれるでしょう。もしあなたの寿命があと半年だと宣告されたとしても、やっぱりあなたは冷静に受けとめて、今後の私たちの生活に支障がないように準備してくれるのでしょう。あなたには悲しみとか苦しみとか、寂しさとか恐怖とかといった、そんな普通の感覚が備わっていないように思います。私の命があとわずかとしても、きっとあなたはそれさえ簡単に受け入れて甲斐甲斐しく私の看病にあたってくれることでしょう。人からみればそれはとても美しい姿に見えるでしょうね。けれど、いつしか私は、もしかしたらと思うようになったのです。それが今回の結果に至った原因です。私はこうして書きながらも実は手が震える始末です。あなたには到底分りえない感情でしょうが、私は怖くて仕方がないのです』
 彼の妻はどこまでも執拗に迫る。もしかしたら彼の妻は彼にではなく、『私』に挑戦しているのかも知れない。
 正直私は彼の妻にうんざりしている。失望している。余計なことなのだ。出て行くなら勝手に出て行けばいいものを、いささか私は憤りを覚えた。だから再び私は彼に指示をした。もう読むな、と。今ならまだ間に合うから――そう、彼は相変わらず宙を見つめたまま茫然としているから。
 今、彼の頭にあるものは残された息子の食事のことや、洗濯、家事の一切を彼がやらなければならない事実である。だから学校が給食であることが今の彼にとってとてつもなく重要な問題として安堵していた。
『もしも、息子が死んでも…』と書かれた文字が、さらに彼に先を読ませる結果となった。私は歯軋りした。彼が私の命令に逆らったからだ。私は一瞬焦った。
『もしも息子が死んでも、あなたは表情を変えないままこれが人生だろうと淡白に受け入れるのでしょうか。受け入れられるのでしょうか。いいえ、それはないでしょうと、そこに一縷の望みのようなものを感じた自分が恐ろしくて恐ろしくて、でもその思いが自分の中で消え無くなってしまって、思いの残像が脳裏に焼き付いてしまって、もう息子の顔もみることができないのです。もはや私は自分が全く信じられず、恐怖のあまりに狂ってしまったのだと思います。このままこの家にいると自分が何をするかわかりませんので、出ます。私の存在がなくてもあなたに何の影響もないことは知っていますが、生活面では迷惑をかけることになると思います。それのみお詫びします。』
 とうとう彼は最後まで読んでしまったが、焦るほどでもなかったようだ。考えてみれば私以上に彼を知っているモノはいないのだし、彼は彼のままである。
 今度こそ彼は私の指示通りに封筒にしまった。

鬼夜叉  ①

2010-09-10 15:38:45 | 短編小説
 私は彼が苦しんでるのを知っている。苦しいという感覚が彼にとって初めての経験であることも知っている。
 それだけではない。私は彼の妻の苦しみも知っているのだ。
 彼の苦しみと彼の妻の苦しみは同じものではない。
 彼の妻は口を開ければ息子の愚痴を訴える。
 7歳になる息子はおとなしく無口で、それは彼によく似ている。
「――蛙がね、死んでたのよ」
「そう…」
「あの子の部屋でよ…」
「そう…」
「きっとあの子が…」そこまで言って妻は口を噤む。彼と彼の妻との会話はそこで終わる。
 この会話は蛙が蛇に変わるか、秋頃だと鈴虫などに変わるくらいで、基本的な内容はほぼ同じである
「どうしてあの子は平気で生き物を…」
 妻はいつもそこまで言って口を噤む。だから彼はいつもそこで話は終わったのだと思う。そのあとの妻の零すため息に気付くことはない。
 しかしこの頃は彼も苦しみ出したのである。
 私はそれがやたら可笑しく思えたりする。何しろ悩むことに経験のない彼は、悩む心に対してどう向き合っていいのかさえわからずに、ただ茫然と無意味に立ちつくすからだ。
「私、この家を出るかも知れないわ」という妻の台詞が、彼の頭の中で空回りしているのである。妻に出られることは彼にとって望ましいことではない。妻が息子の行動に気味悪がっていることと、息子にある種の恐怖を感じていることが原因だとはわかっているが、だからといって彼はどうしていいのかが全然わからない。
 私はおかしくてたまらず、彼に言ってやった。
 ――蛙を殺したことがどうして問題なんだ、と。
 すると彼はそれもそうだと簡単に納得する。彼の妻は、蛙は小動物に変わり、さらに動物に変わり、やがては犯罪に結びつくのではと心配しているのである。私はそれを知っているが、彼はそれに気付かない。彼の考えは蛙から先に発展することがないのである。
 私は再び彼に言ってやった。
 ――先のことを考えても考えても仕方がないよ、とね。彼も納得した。
 彼はとにかく暗闇を好んだ。静寂を好んだ。孤独を好んだ。
 闇のペタつく湿気は彼の肉体に心地よく、静寂の中の孤独は彼の精神を解き放ち、そして安定を与える。彼は時折、無意識の中で叫んだ。静かな眠りを妨げるなと。そして彼の望む静かな眠りを妨げるものが、この頃現れたのである。正体は息子であり、妻である。
 彼は苦しんだ。妻がいなければ、息子がいなければ、彼の望みとする静寂と孤独の中で生きられたものをと。
 彼は他に何も求めなかった。財産も地位も女も。
 また彼は家族に家を買い与えた。安定した生活を与えた。不自由のない人生を与え続けた。
 私はいつも可笑しかった。
 彼の無表情が愉快で愉快で思考の幅の狭さが楽しく、焦点の合わない妻との会話を聞いてるだけで心地よく満たされた。
 しかし、彼の無意識が犯されつつあるのだ。彼は妻の阿鼻叫喚による結果に翻弄され始めていた。私は尚、彼のために日々、退屈と静寂と孤独を与え続けて行く。それが私の使命なのだから。
 それでも――。
 それでもこの頃の彼の様子がわずかに違っているのだ。
「ねえ、このお茶、どう?」
 彼の妻が出したお茶を啜ったときである。
「あれ、このお茶…」
 彼の心にザワッと風が吹いた。
「やっぱり!! やっぱりア味の違いがわかるんだ。そう、世知原茶よ。懐かしいでしょう」
「そうか…」
 そう言って彼は自分の心に鍵をかけた。
「世知原にも長く帰ってないけど、一度帰ってみない?」
 九州は長崎のはずれの松浦と言われる地域でこの世知原茶は盛んである。
「とっくに両親が高いしている実家は兄貴一家のもので、もう実家とは言えんよ」
「それでもいいじゃない。気晴らしにもなるわ。あの子にもあなたの生まれた田舎を見せてあげたいし」   
 彼の妻は執拗だった。私は彼の妻にイライラした。しかしもっと私の神経を刺激したのは彼の動揺である。この時、初めて彼は私に反抗しようとしたのだ。
 私は彼を絶対に行かせないし、彼は結局私に逆らうことはできない。
 彼は妻に言った。
「やはり、やめよう…」
 私は心地よかった。それでいいのだから。しかし妻は益々執拗だった。そして妻は阿鼻叫喚の中で決断した。
 彼の妻が今、もっとも心配している内容が私には迷惑極まりない。

雨の風景 ③最終章

2010-09-03 14:49:25 | 短編小説
 お父さんは毎日僕におやつを買ってくれるようになった。
 でもそれ以外はほとんど僕を無視している。
 お母さんは未だ帰って来ない。お母さんの代わりにお母さんの妹の加奈おばさんがいる。
 お父さんも加奈おばさんも僕には全然関心がない。僕は独りで学校の準備をして、独りで通う。帰ると誰もいない部屋で宿題をする。海の底で僕を抱いてくれたおじさんのことを想いながら。そうすると寂しくない。
 僕とお父さんの狭い木造二階建ての家は、お母さんが加奈おばさんに代わっただけで、他は何も変わらない。ただ家の中で金切り声や罵声が減り、何より僕が道路に投げ出されたり、お母さんに抱かれてベランダの手すりに立たされたりすることは無くなったから、お母さんの表情を観察することも無くなった。それでもお母さんのことは気になったから、いつもいつも想った。けれど想えば想うほど嫌われた。ぼくにはお母さんの気持ちがよくわかる。なぜだかわからないけどよくわかる。お母さんは僕を嫌い、僕を恨み、僕を――恐れる。
 加奈おばさんは出て行った。
 僕を嫌って出て行った。
 別の人が来た。その人も、やがて僕とは暮らせないと言って出て行った。
 お母さんが刑務所から出たことをきっかけに、お父さんはお母さんを迎えに行った。
 あんなに辟易していたのに、独りになると簡単に迎えに行った。実はお父さんは独りでは寂しくて生きられない性質だった。
 お母さんはまたお父さんと暮らせるのなら喜ぶだろうと僕は想ったけれど、意外にも躊躇していた。
「健人が…」
 僕がいたら帰らないと言いたいみたいだ。
 そんなに僕が嫌いなの? 
 お父さんは黙ったまま返事をしなかった。
 もしかしたら僕は山に捨てられるかも知れない。ヘンゼルとグレーテルみたいに山に捨てられるかも知れない。そんなことを想ったらどうしようもなく怖くなって、お父さんに抱きついた。お母さんに抱きついた。
 お願い、僕をどこにも捨てないで。僕はずっとここにいたい。お父さんとお母さんの傍にいたいから、いい子にしているから、学校へもきちんと行くし、勉強だってちゃんとやる。今までだってそうだったから、これからだってそうするよ。お母さんを困らせたりしないから、お父さんを困らせたりしないから…!!!
 僕は泣きながら訴え、お父さんに抱きついた。お母さんに抱きついた。お父さんとお母さんは蒼白の面持ちで僕を恨めしそうに眺めていた。
 
 訪問者があった。
 その日も雨が降っていた。
 あの日以来、雨がやんだことがない。
 嫌な予感がした。
 思えば僕の人生はいつも雨が降っている。藍色の海が僕を慰めてくれるけど、記憶の中のおじさんが僕を癒してくれるけど、その日の訪問者を僕は憎んだ。
 訪問者は僕と、お父さんとお母さんを引き離すために来た。僕をどこか遠くに連れていくことが目的で来た。
 僕は騙されない。どこへも行かない!! 
 訪問者は僕へゆっくりと近づいて言った。
「健人くんだね?」
 返事などするもんか!
「健人くんだよね?」
 何度聞いても僕は頑なに答えない。
「おじさんはきみの味方だよ」
 嘘に決まっている。だってお父さんもお母さんも訪問者の後ろに隠れるように座って、肩を震わせているから、きっとお父さんとお母さんの味方だ。僕の敵だ。
「これからおじさんは、きみが幸せになれるところに案内するよ」  
 お父さんとお母さんの傍よりいいところなんてありはしない。そうでしょう? お父さん。そうでしょう? お母さん。
 お父さんとお母さんは訪問者の後ろに隠れたまま、ただ泣いている。どうしてなの? どうして僕を追い出そうとするの?
 僕はお父さんとお母さんとで話がしたいよ。おじさんなんかじゃなくてお父さんとお母さんと話したいよ。なぜなにも言ってくれないの? なぜ黙って泣くだけなの?
「健人くん、きみは会いたい人、いるかな?」
 ドキッとした。刹那、胸が熱くなった。僕を抱きしめてくれた漁師のおじさんを思い出したからだ。おじさんの逞しく、広い胸を思い出したからだ。なにかとてつもない保障に掻き抱かれたようなそれは、今思い出しても身体中が焼けそうになる。
「あの…ときの…おじさん…僕を…助けてくれた…」
 とうとう喋ってしまった。誰にも言いたくなかったのに、僕独りの、僕の胸の中だけの宝物だったのに、人に喋って価値を下げるのはこの上ない屈辱だと思っていたのに、僕は喋ってしまった。まんまと狡猾で嘘つき訪問者の誘導尋問に引っ掛かってしまった。
 悲しさと悔しさで僕の胸は張り裂けて、今にも爆発しそうだった。眼から溢れる涙がしょっぱい。
「会えるよ」
 えっ―――!
 またもドキッとした。心臓が鐘のように鳴り響く。
 会える――? 会える――?
「おじさんと話をしてくれたら、きっと会える。話してくれるね?」
 会える――!!!
「おじさんの言うことを聞いてくれるね?」
 もう騙されたってかまわないと覚悟を決めた。
「よおし、いい子だ。眼を閉じてごらん」
 僕は言われるままに眼を閉じた。
「何が観えるかな?」
 雨が降っていた。
 雨の風景はいつでも僕を癒してくれる。
 フロント硝子に広がる玄界灘は雨に煙っていて、藍色と灰色で縞模様に広がっている。海風が波と戯れている。
 綺麗だった。とても…。
「何が聴こえるかな?」
 耳を澄ませてみる。風の音に混じって港に繋がれた何隻かの漁船の縄の軋む音が聴こえる。それから――。
 雨粒が水面に吸い込まれる音。それから――。
『こん子と一緒に心中してやる!!』
 僕の静寂をお母さんの罵声が奪った。
『こん子を抱いて海に飛び込んでやる!!』
『飛びこめるもんなら飛びこんでみろ!!』
 続いてお父さんの怒声。
『本気だから…本気だから…』
 そんな台詞に僕はあまり驚かなかった。お母さんの口癖だと知っているからだ。
 それより僕が本当に驚いたのは――。
 お母さんは少し離れたところで、波の観察をしている数人の漁師のおじさんを横目に見ながら、ガードレールを乗り越え、低い絶壁に立った。僕はお母さんの小さく細い、頼りなげな胸に抱かれて震えた。僕を簡単に捨てる腕だと知っている。僕を利用し、僕を埃のように振り払う腕だと知っている。だからあまり驚かなかった。
 本当に驚いたのは――。
 お父さんはお母さんが飛びこまないと高をくくっている。想像力に乏しいお父さんはいつも高をくくっている。トラックのスピードを緻密に計算して飛びこむお母さんの行動にいつも高をくくっている。そしてあとから驚く。驚いたからと言ってどうすることもしないまま、白ける。
 だから今度もお父さんが、平然とお母さんの行動を無視するように、遠くから対岸の火事を観ている様子にも僕は驚かなかった。
 それより僕が本当に驚いたのは――。
 ふてぶてしいお父さんの冷めきった表情に逆上したお母さんは、いよいよ漁師の眼を計算しながらじりじりと後ろに下がる。そして宙に浮いた。空中で簡単に僕はお母さんの両腕から解き放たれた。
 僕が本当に驚いたのは、この瞬間だったのかも知れない。
 僕の身体が生まれて初めてお母さんの薄汚い腕から解き放たれた、この瞬間。
 ずぶずぶずぶと僕を飲み込む波は、思ったよりも温かく、もがいてももがいてもスルスルとまるで意思を持ったように僕から逃げる。それでいて僕に嘲笑いかけるみたいだった。
 それでも僕は自由だった。
 両手両足、全身を動かして僕は自由だった。あのとき、きっと僕も嘲笑い返した。
「――そして?」
 訪問者が僕に尋ねた。
「そして…?」
 僕はその次を思い出そうとして混乱した。おじさんはいつ僕を抱き抱えて助けてくれたのだろう。おじさんの感触は未だ全身に体温とともに感じているというのに。
「そして…?」
 僕は助けられたと言ってやった。
「どうやって…?」
 訪問者はさっきまでとは違う厳しい表情になって僕に詰問する。
「きっと漁師のおじさんのひとりが僕を抱き抱えて助けてくれた」
「そのおじさんはどこにいるのかな?」
 どこにって…!
僕は問い詰められて悲しくなったけれど、訪問者はそんな僕の気持ちなんて構わず続けた。
「そのおじさんはきっと漁師のおじさんじゃないよ。きっと健人くんをこれから逝くべきところに連れて逝ってくれる人だと思うよ」
 逝くべきところ――?
「いいかい? 健人くん、きみはあの時死んだんだよ」
 この時、なぜか訪問者が味方に思えた。おじさんともだぶって見えた。僕に自由をくれる、僕を解き放ってくれる人、そんな感じがした。
 ――死んだんだよ。
 その台詞がまるで通り過ぎる風のように僕の耳を優しくくすぐる。
 お父さん、お母さん、本当なの?
 何度もそう尋ねるけど、お父さんとお母さんの耳に僕の声など聴こえるはずもなく、ただ恐怖に震えながら訪問者の動きを凝視している。
 僕は死んだ? 僕は死んでいた?
 何度も尋ねた。これが真実であることを願って、これが夢でないことを慟哭の祈りをささげて尋ねた。
 どうか裏切らないで。今更嘘だと言わないで。
 あの日以来、ずっと雨が降り続いている理由を僕は今知った。
「ごめんね、健人…許してね、健人…」
 それからお母さんは嗚咽しながらオウムのようにそればかりを繰り返した。初めて名前を呼ばれた僕は、なんだか照れ臭かった。そして嬉しさに戸惑った。
 けれど本当に戸惑うのはこれからの僕の道だった。
 僕はどうしたらいいのだろう。自由になった心と身体を持て余したまま途方に暮れていた時、再び出会った。おじさんに――。
 温かく、逞しく、大きく、かけがえのない永遠の保障に、僕は再び抱かれた。全身が痺れて、細胞のすべてが涙線に変わったかのように、僕は僕の涙に埋もれた。しょっぱい海の味がした。
 ついて逝っていいの? ついて逝っていいの? 
 さようなら、おとうさん。さようなら、お母さん。僕はおじさんについて逝くね。

 僕の好きな雨の風景はいつまでも消えることはなかった。

         

                      おしまいです。
                      読んでくださってありがとうございました。