山道の奥の雑木林から空虚な風が吹いたことも妻は気付いているだろう。私は彼に言わせた。
「生き死には運命だろう。考えたところでどうにもならない」
「私がこの子を殺しても同じことを言いますか?」
敵も隙を見せない。私は彼に沈黙を指示した。
雑木林から漂ってくる風は死体の匂いをたっぷりと含んでいた。
「この子は七歳です。この子の人生は始まったばかりなのに、あなたはそれでも運命だとか宿命だとか、そんな四角四面の考えで受け止めてしまうのですか? この子が病気や事故で死んだとしても、私と言う母親に殺されたとしても、この子が望まない宿命を無理やり受けさせられていることに何も感じないのですか?」
私は彼の妻の台詞が甚だ耳触りである。台詞だけではない。この妻は、いや敵はもしかしたら本気で殺るかも知れないという、身体の中でうねる波動が、甚だ不愉快極まりない!!!
私は徹底して彼に沈黙を命じた。沈黙の中で彼は、彼の中に生まれた小さな生命体の波が津波の如く暴れ出しているのに気づいた。
そして遂に彼は私の命令を無視して沈黙を破った。
「なぜ、そこまで私を追いつめるのか…! なぜ、そこまで熱くなるのか…! なぜ、そこまで…」
この間の抜けた彼の愚問は、しかし愚問ではなかった。私は愕然としてしまったのである。彼の妻の狡猾で周到な計画にまんまと乗せられてしまったではないか…!
妻は言った。
「あなたを幸福にしてあげたいのです」
妻の言う意味が理解できない彼に、尚も続けた。
「あなたは不幸な人だから。かわいそうな人だから。でもあなたが私にくれたもので一つだけ後悔がないものがあります。この子を産ませてくれたことです。その恩に報いたいのです。あなたに幸福になって欲しいから、あなたに幸福という情を感じて欲しいから、おなたの心を覆っているものを剥がしたいのです。剥がす鍵がたとえ何であったとしても、それしかなければ、それを…! それを…!」
黙れっ!!!
私は彼の代わりに叫んでやった。
今や敵ははっきりと私を敵として意識しているようだ。もはや敵は私の正体を知っている。
私は――彼の中に流れる血である。
脈々と受け継がれ、これからも永劫受け継がれる血である。しかし血は同時に地雷でもあるのだ。身体の中に隠された地雷である。敵は覚悟してその地雷を探し踏みつける覚悟であろう。
ならば踏め! 踏んでみろ!!
はぁはぁと肩で息をする息子を抱きかかえて無様にもかれは狼狽している。
「もういけない、このままだと死んでしまう!」
そう叫ぶ彼を傍らで冷やかに見ている妻が言った。
「こんなことは何度もありました。ときにそれはわたしだったりもしました。心も身体と同じで怪我したり血を流したりするのです。あなたには心がない鬼夜叉だから知らないでしょう。身体の死も心の死も同じだと言うことを。このまま進みましょう。今止まったらここへ来た意味がありませんから」
執拗なまでの妻の強気に押されて彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。
雑木林の中に蠢く籠った湿気が彼と彼の妻に纏わりついたと同時に雨が降り出した。途端にフロント硝子が曇った。
彼の息子がぐったりとなればなるほど彼の気持ちは冷めて行った。私がそうさせているのだ。
今度は彼の妻が焦り出した。私は彼の苦しみも楽しいが、彼の妻の焦りや狼狽も心地よかった。
「向き合うって言ったでしょう。向き合うためにここに来たんでしょう? どうして眼を逸らすんですか?」
そんな妻の叫びを聞いて、彼は項垂れた。
「自分でもわからない…感情が高まれば高まるほど逆にどんどん冷めてしまう…いつもそうだった…頭の中と気持ちが全く反対になる。自分の意思が…わからない…」
そんなふうに彼は全く自信がないように力なく呟いた。
「きっと――この子が死んでも泣けないかも知れない。そんな気がする…。気持ちがどんどん冷たくなって、考えたりすることがやたら面倒臭くなって、哀しいとか、寂しいとか、辛いとか苦しいとか…そんなことがとてつもなく面倒臭いような気がする…。私は…やはり鬼夜叉なのかも知れない…」
さう言い放った刹那、妻の眼に彼の顔が鬼夜叉と重なって映った。妻の背中にゾクッと冷たいものが走った。つまり、それこそが私の顔であるのだ。私は彼の心臓から常に創られて永劫流れ続ける血であり、過去であり、未来でもあり、想いでもあり意思でもあり、そして鬼夜叉である。
雨が豪雨に変わった。フロント硝子の前は滝のようになった。彼と彼の妻は仕方なく運転を中止した。
運転席の彼に妻は息子を抱いてあげてと言った。息子の唇は紫色に変色している。
「身体は温かいでしょう…? 血が流れているから、体温があるからあなたの腕にも伝わってくるでしょう…? でもこの温もりがあなたの腕の中で冷たくなっていきます、きっと…! 感じてください。そして少しづつ少しづつ冷たくなっていく感覚も感じてください」
彼の妻の声は震えていたし、懇願のようでもあったが、私はこの敵を許さない!!! 許せない!!!
温もりだと!!! 体温だと!!!
私は思い切りその言葉に唾を吐いてやった。私が最も憎んだ言葉である。三百年も前に憎んだのだ。
今、私の耳には産声が聴こえる。雑木林の中から風の音に混じって、雨の音に混じって、闇の声に混じって産声が木霊している。何よりも愛おしい産声である。この産声を思い出す時、私は貧困も苦痛も忘れられるのだ。初めて産声を聴いたとき、その喜びをどう表現したものか。私の身体は喜びに溶けるかとさえ思えた。贅沢を願ってはいなかったが、いつか必ず白い米を食わせてやると誓った。私の身体が形としてある限り、どんなに苦労をしてもかまわない。いつかきっと白い飯を腹いっぱい食わせてやると心に誓った。
この子が私にくれたもの、それは果てしない喜びと温もりだった。
そう――私はこの子の小さな小さな手を握ってその温もりに溶けんばかりの喜びに浸ったものだった。今も、そう、今もあの産声が聴こえようぞ。
私の咳があるときから止まらなくなったとき、咳と一緒に血を吐くようになったとき、私は恐怖のぶんだけ吐いた血を呪った。背中に走る旋律はまるで意思があるかのように、頭の先まで、足のつま先まで、手の指の先まで這い続けた。そしてそれはこれから私の身に起こる宿命を嘲笑ったのである。
私は自分の叫び声に辟易した。うんざりするほどみっともない叫び声をあげていたのである。
――嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 死にたくない! この子を残して死にたくない! 誰か代わってはくれまいか! 誰でもいい、誰でもいいから代わってはくれまいか! この子を残しては死ねないものを!
私はとっくに動けなくなった身体で、何日も何日もそう叫んで過ごした。叶わぬことと知りながら、自分の胸を掻き毟りながら叫び続けた。
心臓を抉りだしたら楽になるだろうかと、生んで間もない愛しすぎる泣き声に耳を塞いで胸を掻き毟ったりした。
そして、そう、私は一人では生きれないこの子を残して死ぬことの恐怖と、気も狂わんばかりの悲しみの中で慟哭の祈りを捧げたのである。
――心を鬼にしておくれ…! 夜叉の心にしておくれ…! 悲しみを知らぬ心に、苦しみを知らぬ心に、私の命を奪うなら、代わりに夜叉の心にしておくれ…!
そうして私の心には重く厚く冷たい鉄の蓋がのしかかった。私の望んだとおりに、そうなった。
もう赤ん坊の泣き声も笑い声も聴こえない。赤ん坊のもみじのような手が私の頬に触れても何も感じない。
そしてだんだんと心が遠のき、記憶が遠のき、暗闇に溶け込んで行った。漆黒の闇に溶けた瞬間、静かに永劫の眠りが訪れたのだ。
そう――こんな豪雨の夜だった。
死と同時に、しかし生も訪れた。私は生きた。鬼夜叉の心を持ったまま、深く紅くドクドクと音を立てて、日々生まれ続けるのである。
私への妻の挑戦状は迷惑だった。私の耳の奥で聴こえ続ける耳障りな赤ん坊の産声に、色まで付けたのだから。
私はもう堪らない! もういけない! 叫ばずにはいられない! 抱いていたかったのだ! 白い米を腹いっぱい食わせたかったのだ! もみじのような手を握りしめて 赤ん坊の心臓の鼓動をこの耳で感じて、私の心臓の鼓動も伝えて、それから温もりのあるこの手で、冷たい死人の手ではなく、温もりのあるこの手で、この手で、握りしめていたかったのじゃあああぁぁぁ!!!
叫び声は彼にあげさせた。
「私は車を出て、この子を抱いて山を降りる! 病院を探す! 助けたい! この子を助けたい!」
もう私が彼に指示することは無くなった。私は今、眼が覚めた。彼の妻と息子と喜びを探そうと決めたから。
敵はついに地雷を踏んだ!
私自身が地雷だったのだ。
私は踏まれて爆発した。粉々に砕け散って再び死が訪れた。しかし私は死と同時にまたも再び生まれたのである。まだ冷めやらぬ灼熱のような精神の残骸を抱いたまま、私は生まれた。彼の息子の中に。
彼は妻に言った。
「二人で守りたい。この小さな命を」
「はい、守りましょう。何よりも大切な命ですから。あなたが私にくれたかけがえのない宝ですから。幸福にしてあげましょう」
「幸福に――そう、幸福にしてあげたい。自分よりも大切な命だから」
集中豪雨はすぎて、雲の切れ間から陽が射しこんだ。雑木林の中にも陽は溶け込んで、彼と妻は突き刺さるような眩しさに一瞬眼を細めた。
私はもう彼に逆らわない。
「生き死には運命だろう。考えたところでどうにもならない」
「私がこの子を殺しても同じことを言いますか?」
敵も隙を見せない。私は彼に沈黙を指示した。
雑木林から漂ってくる風は死体の匂いをたっぷりと含んでいた。
「この子は七歳です。この子の人生は始まったばかりなのに、あなたはそれでも運命だとか宿命だとか、そんな四角四面の考えで受け止めてしまうのですか? この子が病気や事故で死んだとしても、私と言う母親に殺されたとしても、この子が望まない宿命を無理やり受けさせられていることに何も感じないのですか?」
私は彼の妻の台詞が甚だ耳触りである。台詞だけではない。この妻は、いや敵はもしかしたら本気で殺るかも知れないという、身体の中でうねる波動が、甚だ不愉快極まりない!!!
私は徹底して彼に沈黙を命じた。沈黙の中で彼は、彼の中に生まれた小さな生命体の波が津波の如く暴れ出しているのに気づいた。
そして遂に彼は私の命令を無視して沈黙を破った。
「なぜ、そこまで私を追いつめるのか…! なぜ、そこまで熱くなるのか…! なぜ、そこまで…」
この間の抜けた彼の愚問は、しかし愚問ではなかった。私は愕然としてしまったのである。彼の妻の狡猾で周到な計画にまんまと乗せられてしまったではないか…!
妻は言った。
「あなたを幸福にしてあげたいのです」
妻の言う意味が理解できない彼に、尚も続けた。
「あなたは不幸な人だから。かわいそうな人だから。でもあなたが私にくれたもので一つだけ後悔がないものがあります。この子を産ませてくれたことです。その恩に報いたいのです。あなたに幸福になって欲しいから、あなたに幸福という情を感じて欲しいから、おなたの心を覆っているものを剥がしたいのです。剥がす鍵がたとえ何であったとしても、それしかなければ、それを…! それを…!」
黙れっ!!!
私は彼の代わりに叫んでやった。
今や敵ははっきりと私を敵として意識しているようだ。もはや敵は私の正体を知っている。
私は――彼の中に流れる血である。
脈々と受け継がれ、これからも永劫受け継がれる血である。しかし血は同時に地雷でもあるのだ。身体の中に隠された地雷である。敵は覚悟してその地雷を探し踏みつける覚悟であろう。
ならば踏め! 踏んでみろ!!
はぁはぁと肩で息をする息子を抱きかかえて無様にもかれは狼狽している。
「もういけない、このままだと死んでしまう!」
そう叫ぶ彼を傍らで冷やかに見ている妻が言った。
「こんなことは何度もありました。ときにそれはわたしだったりもしました。心も身体と同じで怪我したり血を流したりするのです。あなたには心がない鬼夜叉だから知らないでしょう。身体の死も心の死も同じだと言うことを。このまま進みましょう。今止まったらここへ来た意味がありませんから」
執拗なまでの妻の強気に押されて彼はゆっくりとアクセルを踏んだ。
雑木林の中に蠢く籠った湿気が彼と彼の妻に纏わりついたと同時に雨が降り出した。途端にフロント硝子が曇った。
彼の息子がぐったりとなればなるほど彼の気持ちは冷めて行った。私がそうさせているのだ。
今度は彼の妻が焦り出した。私は彼の苦しみも楽しいが、彼の妻の焦りや狼狽も心地よかった。
「向き合うって言ったでしょう。向き合うためにここに来たんでしょう? どうして眼を逸らすんですか?」
そんな妻の叫びを聞いて、彼は項垂れた。
「自分でもわからない…感情が高まれば高まるほど逆にどんどん冷めてしまう…いつもそうだった…頭の中と気持ちが全く反対になる。自分の意思が…わからない…」
そんなふうに彼は全く自信がないように力なく呟いた。
「きっと――この子が死んでも泣けないかも知れない。そんな気がする…。気持ちがどんどん冷たくなって、考えたりすることがやたら面倒臭くなって、哀しいとか、寂しいとか、辛いとか苦しいとか…そんなことがとてつもなく面倒臭いような気がする…。私は…やはり鬼夜叉なのかも知れない…」
さう言い放った刹那、妻の眼に彼の顔が鬼夜叉と重なって映った。妻の背中にゾクッと冷たいものが走った。つまり、それこそが私の顔であるのだ。私は彼の心臓から常に創られて永劫流れ続ける血であり、過去であり、未来でもあり、想いでもあり意思でもあり、そして鬼夜叉である。
雨が豪雨に変わった。フロント硝子の前は滝のようになった。彼と彼の妻は仕方なく運転を中止した。
運転席の彼に妻は息子を抱いてあげてと言った。息子の唇は紫色に変色している。
「身体は温かいでしょう…? 血が流れているから、体温があるからあなたの腕にも伝わってくるでしょう…? でもこの温もりがあなたの腕の中で冷たくなっていきます、きっと…! 感じてください。そして少しづつ少しづつ冷たくなっていく感覚も感じてください」
彼の妻の声は震えていたし、懇願のようでもあったが、私はこの敵を許さない!!! 許せない!!!
温もりだと!!! 体温だと!!!
私は思い切りその言葉に唾を吐いてやった。私が最も憎んだ言葉である。三百年も前に憎んだのだ。
今、私の耳には産声が聴こえる。雑木林の中から風の音に混じって、雨の音に混じって、闇の声に混じって産声が木霊している。何よりも愛おしい産声である。この産声を思い出す時、私は貧困も苦痛も忘れられるのだ。初めて産声を聴いたとき、その喜びをどう表現したものか。私の身体は喜びに溶けるかとさえ思えた。贅沢を願ってはいなかったが、いつか必ず白い米を食わせてやると誓った。私の身体が形としてある限り、どんなに苦労をしてもかまわない。いつかきっと白い飯を腹いっぱい食わせてやると心に誓った。
この子が私にくれたもの、それは果てしない喜びと温もりだった。
そう――私はこの子の小さな小さな手を握ってその温もりに溶けんばかりの喜びに浸ったものだった。今も、そう、今もあの産声が聴こえようぞ。
私の咳があるときから止まらなくなったとき、咳と一緒に血を吐くようになったとき、私は恐怖のぶんだけ吐いた血を呪った。背中に走る旋律はまるで意思があるかのように、頭の先まで、足のつま先まで、手の指の先まで這い続けた。そしてそれはこれから私の身に起こる宿命を嘲笑ったのである。
私は自分の叫び声に辟易した。うんざりするほどみっともない叫び声をあげていたのである。
――嫌だ! 嫌だ! 嫌だ! 死にたくない! この子を残して死にたくない! 誰か代わってはくれまいか! 誰でもいい、誰でもいいから代わってはくれまいか! この子を残しては死ねないものを!
私はとっくに動けなくなった身体で、何日も何日もそう叫んで過ごした。叶わぬことと知りながら、自分の胸を掻き毟りながら叫び続けた。
心臓を抉りだしたら楽になるだろうかと、生んで間もない愛しすぎる泣き声に耳を塞いで胸を掻き毟ったりした。
そして、そう、私は一人では生きれないこの子を残して死ぬことの恐怖と、気も狂わんばかりの悲しみの中で慟哭の祈りを捧げたのである。
――心を鬼にしておくれ…! 夜叉の心にしておくれ…! 悲しみを知らぬ心に、苦しみを知らぬ心に、私の命を奪うなら、代わりに夜叉の心にしておくれ…!
そうして私の心には重く厚く冷たい鉄の蓋がのしかかった。私の望んだとおりに、そうなった。
もう赤ん坊の泣き声も笑い声も聴こえない。赤ん坊のもみじのような手が私の頬に触れても何も感じない。
そしてだんだんと心が遠のき、記憶が遠のき、暗闇に溶け込んで行った。漆黒の闇に溶けた瞬間、静かに永劫の眠りが訪れたのだ。
そう――こんな豪雨の夜だった。
死と同時に、しかし生も訪れた。私は生きた。鬼夜叉の心を持ったまま、深く紅くドクドクと音を立てて、日々生まれ続けるのである。
私への妻の挑戦状は迷惑だった。私の耳の奥で聴こえ続ける耳障りな赤ん坊の産声に、色まで付けたのだから。
私はもう堪らない! もういけない! 叫ばずにはいられない! 抱いていたかったのだ! 白い米を腹いっぱい食わせたかったのだ! もみじのような手を握りしめて 赤ん坊の心臓の鼓動をこの耳で感じて、私の心臓の鼓動も伝えて、それから温もりのあるこの手で、冷たい死人の手ではなく、温もりのあるこの手で、この手で、握りしめていたかったのじゃあああぁぁぁ!!!
叫び声は彼にあげさせた。
「私は車を出て、この子を抱いて山を降りる! 病院を探す! 助けたい! この子を助けたい!」
もう私が彼に指示することは無くなった。私は今、眼が覚めた。彼の妻と息子と喜びを探そうと決めたから。
敵はついに地雷を踏んだ!
私自身が地雷だったのだ。
私は踏まれて爆発した。粉々に砕け散って再び死が訪れた。しかし私は死と同時にまたも再び生まれたのである。まだ冷めやらぬ灼熱のような精神の残骸を抱いたまま、私は生まれた。彼の息子の中に。
彼は妻に言った。
「二人で守りたい。この小さな命を」
「はい、守りましょう。何よりも大切な命ですから。あなたが私にくれたかけがえのない宝ですから。幸福にしてあげましょう」
「幸福に――そう、幸福にしてあげたい。自分よりも大切な命だから」
集中豪雨はすぎて、雲の切れ間から陽が射しこんだ。雑木林の中にも陽は溶け込んで、彼と妻は突き刺さるような眩しさに一瞬眼を細めた。
私はもう彼に逆らわない。