救急車で運ばれた病院で、僕を抱きかかえてくれたおじさんの大きく逞しい胸を思い出して歓喜しているとき、お母さんは警察のおじさんに連れて行かれた。無理心中は殺人の罪に問われるのだそうだ。お母さんが本気で僕を殺そうとしたわけじゃないことは、僕もお父さんも知っている。お母さんは感情のコントロールができなくなるだけで、そのときもそうだっただけだ。一種の発作にすぎない。
いつのときもお父さんは、お母さんがその発作に見舞われる度に、白け、冷める。
お父さんの世界から、お母さんに対する興味も関心も一気に消え失せる。お母さんもそれには気付いていて、でもお母さんはお父さんとは反対に益々興奮して、自分の気持ちを訴え続ける。お父さんは黙る。お母さんは黄色い声で喚く。お父さんはパチンコに行く。その背中にお母さんは灰皿を投げ付ける。投げ付けられた灰皿が背中に当たっても、お父さんはもう振り返ることはせず居なくなる。そしてお母さんはしばらく暴れる。
けれど心中はしない。お母さんは絶対にお父さんの居ないところでは心中はしない。だからお父さんがパチンコに逃げたあとは次の作戦を企てる。お母さんの頭の中には、どうしたらお父さんの気持ちがお母さんだけになるかということしかないから、僕のご飯をときどき忘れる。
けれど今回はお母さんが失敗した。
救急車で運ばれたことがまずかった。近くに漁師のおじさんたちがいたことは、未遂が目的のお母さんの成功ではあったけれど、警察に対しては誤まっての転落という筋書きで逃げ切りたいのに、逃げられない。
お父さんとの激しい言い争いの一部始終を聞いていたおじさんたちの証言で無理心中が明らかになってしまった。
取り敢えず僕とお母さんを助けるだけで、救急車までは呼ばなくてよかったのにと、お母さんは舌打ちしたかっただろう。
その日、お母さんは帰らなかった。
次の日も帰らなかった。その次の日も帰らなかった。
お父さんはお母さんを待つことをしないまま、気持ちがどんどん白けていった。
それでいてたまに泣きだしたりする。まるで女の人みたいにしくしくしくしく泣く。泣きながら僕を抱きしめ『ごめんな、ごめんな』と呟く。僕にはお父さんが僕に詫びる理由がわからないのに、お父さんは泣いては詫び、詫びては泣く。けれどしばらくして飽きるのか、不意に僕から顔を背け、今度は僕を憎みだす。憎む方の理由なら、僕は理解できるから納得する。僕が生まれたことがいけなかったんだ。僕の存在がお父さんの自由を奪うから。だって僕の存在はいつもお母さんの脅迫の武器になってしまうもの。
帰ってこないお母さんもしくしくしくしく泣いていることを知っている。お母さんも僕に詫びては泣き、泣いては詫びる。
ごめんね、ごめんねと繰り返す。お母さんにとって『ごめんね』という台詞は自分を慰めるおまじないなんだけど。
最近、お母さんは警察のおじさんや弁護士さんや、色んな大人の人から無理心中の罪の深さや虐待の罪の深さを教えられ、反省している。
『ごめんね、ごめんね』は『すみません、すみません』に進化した。オウムのように繰り返すおまじないは、けれど誰に向けられたものなのだろうか。
もしかして僕に対してだったら、お母さん、そんなに反省しなくてもいいよ、だって一番悪いのは僕なんだから。
雨がやまない。
あの日以来、ずっと雨が降り続いている。
雨の風景は僕の心を癒してくれる。僕の瞼の裏には玄界灘を藍色に染める雨の風景がくっきりと映っている。僕を抱いてくれたおじさんは今はどこにいるのだろう。会いたいな、もう一度。
つづく
いつのときもお父さんは、お母さんがその発作に見舞われる度に、白け、冷める。
お父さんの世界から、お母さんに対する興味も関心も一気に消え失せる。お母さんもそれには気付いていて、でもお母さんはお父さんとは反対に益々興奮して、自分の気持ちを訴え続ける。お父さんは黙る。お母さんは黄色い声で喚く。お父さんはパチンコに行く。その背中にお母さんは灰皿を投げ付ける。投げ付けられた灰皿が背中に当たっても、お父さんはもう振り返ることはせず居なくなる。そしてお母さんはしばらく暴れる。
けれど心中はしない。お母さんは絶対にお父さんの居ないところでは心中はしない。だからお父さんがパチンコに逃げたあとは次の作戦を企てる。お母さんの頭の中には、どうしたらお父さんの気持ちがお母さんだけになるかということしかないから、僕のご飯をときどき忘れる。
けれど今回はお母さんが失敗した。
救急車で運ばれたことがまずかった。近くに漁師のおじさんたちがいたことは、未遂が目的のお母さんの成功ではあったけれど、警察に対しては誤まっての転落という筋書きで逃げ切りたいのに、逃げられない。
お父さんとの激しい言い争いの一部始終を聞いていたおじさんたちの証言で無理心中が明らかになってしまった。
取り敢えず僕とお母さんを助けるだけで、救急車までは呼ばなくてよかったのにと、お母さんは舌打ちしたかっただろう。
その日、お母さんは帰らなかった。
次の日も帰らなかった。その次の日も帰らなかった。
お父さんはお母さんを待つことをしないまま、気持ちがどんどん白けていった。
それでいてたまに泣きだしたりする。まるで女の人みたいにしくしくしくしく泣く。泣きながら僕を抱きしめ『ごめんな、ごめんな』と呟く。僕にはお父さんが僕に詫びる理由がわからないのに、お父さんは泣いては詫び、詫びては泣く。けれどしばらくして飽きるのか、不意に僕から顔を背け、今度は僕を憎みだす。憎む方の理由なら、僕は理解できるから納得する。僕が生まれたことがいけなかったんだ。僕の存在がお父さんの自由を奪うから。だって僕の存在はいつもお母さんの脅迫の武器になってしまうもの。
帰ってこないお母さんもしくしくしくしく泣いていることを知っている。お母さんも僕に詫びては泣き、泣いては詫びる。
ごめんね、ごめんねと繰り返す。お母さんにとって『ごめんね』という台詞は自分を慰めるおまじないなんだけど。
最近、お母さんは警察のおじさんや弁護士さんや、色んな大人の人から無理心中の罪の深さや虐待の罪の深さを教えられ、反省している。
『ごめんね、ごめんね』は『すみません、すみません』に進化した。オウムのように繰り返すおまじないは、けれど誰に向けられたものなのだろうか。
もしかして僕に対してだったら、お母さん、そんなに反省しなくてもいいよ、だって一番悪いのは僕なんだから。
雨がやまない。
あの日以来、ずっと雨が降り続いている。
雨の風景は僕の心を癒してくれる。僕の瞼の裏には玄界灘を藍色に染める雨の風景がくっきりと映っている。僕を抱いてくれたおじさんは今はどこにいるのだろう。会いたいな、もう一度。
つづく