森の夕陽

気軽にノックしてください この部屋に鍵はかかっていません…

雨の風景 ②

2010-09-02 14:23:10 | 短編小説
 救急車で運ばれた病院で、僕を抱きかかえてくれたおじさんの大きく逞しい胸を思い出して歓喜しているとき、お母さんは警察のおじさんに連れて行かれた。無理心中は殺人の罪に問われるのだそうだ。お母さんが本気で僕を殺そうとしたわけじゃないことは、僕もお父さんも知っている。お母さんは感情のコントロールができなくなるだけで、そのときもそうだっただけだ。一種の発作にすぎない。
 いつのときもお父さんは、お母さんがその発作に見舞われる度に、白け、冷める。
 お父さんの世界から、お母さんに対する興味も関心も一気に消え失せる。お母さんもそれには気付いていて、でもお母さんはお父さんとは反対に益々興奮して、自分の気持ちを訴え続ける。お父さんは黙る。お母さんは黄色い声で喚く。お父さんはパチンコに行く。その背中にお母さんは灰皿を投げ付ける。投げ付けられた灰皿が背中に当たっても、お父さんはもう振り返ることはせず居なくなる。そしてお母さんはしばらく暴れる。
 けれど心中はしない。お母さんは絶対にお父さんの居ないところでは心中はしない。だからお父さんがパチンコに逃げたあとは次の作戦を企てる。お母さんの頭の中には、どうしたらお父さんの気持ちがお母さんだけになるかということしかないから、僕のご飯をときどき忘れる。
 けれど今回はお母さんが失敗した。
 救急車で運ばれたことがまずかった。近くに漁師のおじさんたちがいたことは、未遂が目的のお母さんの成功ではあったけれど、警察に対しては誤まっての転落という筋書きで逃げ切りたいのに、逃げられない。
 お父さんとの激しい言い争いの一部始終を聞いていたおじさんたちの証言で無理心中が明らかになってしまった。
 取り敢えず僕とお母さんを助けるだけで、救急車までは呼ばなくてよかったのにと、お母さんは舌打ちしたかっただろう。
  
 その日、お母さんは帰らなかった。
 次の日も帰らなかった。その次の日も帰らなかった。
 お父さんはお母さんを待つことをしないまま、気持ちがどんどん白けていった。
 それでいてたまに泣きだしたりする。まるで女の人みたいにしくしくしくしく泣く。泣きながら僕を抱きしめ『ごめんな、ごめんな』と呟く。僕にはお父さんが僕に詫びる理由がわからないのに、お父さんは泣いては詫び、詫びては泣く。けれどしばらくして飽きるのか、不意に僕から顔を背け、今度は僕を憎みだす。憎む方の理由なら、僕は理解できるから納得する。僕が生まれたことがいけなかったんだ。僕の存在がお父さんの自由を奪うから。だって僕の存在はいつもお母さんの脅迫の武器になってしまうもの。
 帰ってこないお母さんもしくしくしくしく泣いていることを知っている。お母さんも僕に詫びては泣き、泣いては詫びる。
 ごめんね、ごめんねと繰り返す。お母さんにとって『ごめんね』という台詞は自分を慰めるおまじないなんだけど。
 最近、お母さんは警察のおじさんや弁護士さんや、色んな大人の人から無理心中の罪の深さや虐待の罪の深さを教えられ、反省している。
 『ごめんね、ごめんね』は『すみません、すみません』に進化した。オウムのように繰り返すおまじないは、けれど誰に向けられたものなのだろうか。
もしかして僕に対してだったら、お母さん、そんなに反省しなくてもいいよ、だって一番悪いのは僕なんだから。

 雨がやまない。
 あの日以来、ずっと雨が降り続いている。
 雨の風景は僕の心を癒してくれる。僕の瞼の裏には玄界灘を藍色に染める雨の風景がくっきりと映っている。僕を抱いてくれたおじさんは今はどこにいるのだろう。会いたいな、もう一度。



                                         つづく

雨の風景 ①

2010-09-01 14:51:15 | 短編小説
 この子と一緒に心中してやる!
 お父さんと喧嘩したとき、よくお母さんはこの台詞を口にした。喧嘩の原因は僕にはわからないけれど、度々お母さんはヒステリーを起してそう言う。
「死ねるもんなら死んでみろ」
 逆上したお母さんはもう後へは引けず、僕を抱いたまま道路に飛び出そうとする。走り込んで来るトラックをギリギリで交わす緻密な計算を瞬時にして、お母さんは実行する。
 お父さんも、僕を抱いたお母さんの計算と同じ答えを頭の中で出していて、お母さんを止めたりはしない。
 バカヤロー! ! という運転手を恨めしそうに横眼で眺めて一旦ピークに達したヒステリーは、後に急激に冷めていく。再び家に戻る道すがら僕の頬や首や身体を気持ち悪いほど舐めまわす。ごめんね、ごめんねと呟きながら、僕の耳に呪文のように唱え続ける。
 一瞬の出来事を僕は理解することができずに、ただ恐怖だけが纏わりつく。
 僕の人生にはそんなことが度々起こった。
 あの日もそうだった。
 虹の松原を抜けて呼子まで足を延ばしてイカソーメンを食べようというお父さんとお母さんの計画は、初めは順調に進んでいた。お父さんもお母さんもイカソーメンが大好きだ。その日は朝から雨が降っていたから、僕の眼に広がる玄界灘の風景はひどく煙っていて、灰色と藍色の中間の色を映し出していた。フロントガラスを叩きつける雨粒の向こう側に何隻もの漁船が、ロープに繋がれて波と戯れている。高く浮かんだかと思うとぐんと沈み、横に揺れ、また浮かび、僕はしばらくその光景に見惚れた。まるで僕の姿だと錯覚したからだった。波に揺れるままに翻弄され、意思を持たない。波が静まれば僕も穏やか、波が荒れれば僕も荒れる。僕の人生は波次第。
 お母さんは機嫌よく鼻歌を口づさんだ。サザンオールスターズの愛しのエリーだ。
「それにしても似とうなぁ」
「なにが?」
「お前のイカ好きさ」
「誰に? 誰に似とうと?」 
 お母さんの顔色が少し変わった。
「ねえ、誰に似とおとって?」
「別に…」
「わかってる。加奈って…加奈に似てるって言いたいんやろ!!」 
 お父さんは『しまった』という顔をした。加奈とはお母さんの妹のことだ。
 お父さんは前にお母さんの妹とも付き合っていた。
「浮気とパチンコが趣味だからさ、どうしようもないね。少しはコレのことも考えたらどう?」
 コレとは僕のことだ。
「勝手に妊娠したのはお前の方やろうがって。俺は責任持たんぜって言うたぞ」
 僕は僕の生まれた経緯をいつの頃からか知っていたから特に驚いたりはしない。
 僕が驚いたのは――。
「コレが可愛くないと? ふつうは子どもが生まれたら気持ちも変わるもんじゃないと?」
 お父さんは黙っていた。僕が生まれたからと言ってお父さんの浮気癖は変わらないし、お母さんの病的なヒステリーも変わらない。結局何も変わらないから、お母さんの台詞は矛盾している。
 初め順調にスタートしたドライブも、こんな些細なことからだんだんと亀裂が入り、お母さんの機嫌はどんどん沈み始めた。お父さんもイライラが募りだし、窓を開けて、飛沫を上げるアスファルトにチッと唾を吐いた。いつものことだけれど。だからこの後の状況はもう僕には手に取るようにわかる。お父さんは眉間に皺を寄せて黙ったまま口をきかなくなり、感情のコントロールが効かないお母さんは黄色い声を上げ始める。それに辟易するお父さんは、今度はお母さんの感情を逆なでするように口笛を吹き始める。
 そろそろ来る!!!
 けれどそんな予感にも僕は驚かない。
 僕が驚いたのは――。
 港の漁港の近くに数人の漁師がたむろしていた。波の様子でも観察しているのだろうか。その姿がお母さんの眼にとまったとき、お母さんの本能的な計算が無意識の中に始まった。
 僕の背中に冷たいものが走った。
 足が震え、力が抜けているにも関わらず、異常な緊張に足は伸びた。
 僕が今、直面している現実が真実であることを僕だけが知っていた。
「ねえ、車停めてよ」
「なんでや」
「いいけん、停めて」
 何度も同じことを繰り返しているにも関わらず、想像力が欠落したお父さんは、お母さんの次の行動を読むことができない。
「雨の中、道路に飛び出すつもりか? トラック目がけて飛びこむつもりか?」
 お父さんにしては上出来な読みだった。
 お父さんは逆にスピードを上げた。
「おしっこだから、停めて」
「嘘じゃないや?」
「うん」
 やはりお父さんの想像力はここまでだ。お母さんの嘘に簡単に騙された。
 車は左に寄り、少しスリップして停まった。
「どこでするつもりや?」と言いながら僕を抱き撮ろうとしたお父さんの腕を振り払って「バカ、こんなとこでできるわけないやん」と小さく叫び、雨に打たれながらガードレールを跨いで低い絶壁に立った。
 またかと、うんざりした面持ちでお父さんは僕とお母さんを恨めしそうに眺めたが、車から出ようとはしなかった。煩わしいことや面倒なことに直面すると途端に気持ちが冷めてしまうお父さんは、お母さんのヒステリーが出ると鬱になる。
「今日こそコレと心中する。あんたの浮気癖がなくならないなら、生きてても私もコレも不幸やけん」
 勝手にしろと言うお父さんの不貞腐れた感情が、僕の胸を抉った。けれどそんなお父さんの無常さにも驚かない。
 僕が驚いたのは――。
 玄界灘の荒波の激しさと冷たさと、水の正体を知ったことだった。
 水は掴んでも掴んでも僕の指の間からするするとすり抜け、僕の身体に纏わりつき、もてあそぶけれど、決して僕の腕を支えてはくれず、また僕を抱きしめてもくれない。ただもがき苦しむ僕を嘲笑うだけで、まるでお母さんのようだったことだ。
 お母さんの計画は成功した。
 波にもがく僕は、漁師のおじさんの逞しく大きな懐に身を任せた。やがて深い眠りが僕を包んだ。



                                つづく


この作品は、原稿用紙に30枚の短編です。疲れたのでこの辺で区切ります…(笑)