森の夕陽

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鬼夜叉 ②

2010-09-12 12:01:51 | 短編小説
 ついに妻は手紙を残して姿を消した。
 手紙の第一行目にはこう記されていた。
『これ以上あなたについていくことができません』
 彼は頭を傾げた。
 彼はいつも妻の願いを聞き入れていたからだ。旅行がしたいと言えば彼は休みを取って連れて言った。人生の記念日には必ず外で食事をした。息子の入園や入学には必ず妻と一緒に参加した。だから彼が頭を傾げるのは当然である。私は彼のそんな姿を見るたびに可笑しくていつも嘲笑ったものだ。
 手紙はこう続いた。
『あなたの冷たさは底知れないものです。それは私にとって暴力にも感じられるのです』
 私はかれが益々無表情になっていくさまを見るときゾクゾクするほど楽しい。
『ときどき私はあなたの無表情な顔の裏側で、鬼夜叉のようなものが見え隠れしているように思えたりするのです。いいえ、むしろ鬼夜叉があなたと言う顔のお面をつけているのではないかしらと真剣に考えることがある程です。そんなとき、私は自分が狂っているのではないかと、本気で心配するのです』
 その通りだ。彼の妻は狂っているのだ。私は彼をよく知っている。私以上に彼のことを知っているモノはいないだろう。その私が言う、彼は狂ってはいない。
 彼は宙を見るような面持ちで口を半分開けている。
 それにしても鬼夜叉とは不愉快な言葉である。彼の妻は出て行って正解なのだ。もういいだろう。これ以上彼はその手紙を読む必要はないから、私は彼に閉じるように指示した。
 私の命令に従って彼は手紙を閉じようとした。
 素早く閉じればよかったのだ。素早く閉じて封筒にしまえばよかったのだ。なのに彼はゆっくりと折り目に従って閉じようとしたから、妻の記した次の文字が彼の眼に入ったりしたではないか…。
『私がここを出ようと決心するに至ったのは、私がとてつもなく恐ろしいことを考えるようになったからです。あなたの心が知りたいばかりに、あなたの心が見たいばかりに、あなたの心が動く瞬間はいつだろうと考えるようになりました。何をもってあなたの心が動くのか、真剣に考えてしまうのです。でもあれこれ考えても浮かびません。きっとあなたはたとえば会社が倒産してもあるいはリストラにあったとしても、これが人生だろうと言うでしょう。そして私と息子のためにこの家は残したよと無表情のまま優しく言ってくれるでしょう。もしあなたの寿命があと半年だと宣告されたとしても、やっぱりあなたは冷静に受けとめて、今後の私たちの生活に支障がないように準備してくれるのでしょう。あなたには悲しみとか苦しみとか、寂しさとか恐怖とかといった、そんな普通の感覚が備わっていないように思います。私の命があとわずかとしても、きっとあなたはそれさえ簡単に受け入れて甲斐甲斐しく私の看病にあたってくれることでしょう。人からみればそれはとても美しい姿に見えるでしょうね。けれど、いつしか私は、もしかしたらと思うようになったのです。それが今回の結果に至った原因です。私はこうして書きながらも実は手が震える始末です。あなたには到底分りえない感情でしょうが、私は怖くて仕方がないのです』
 彼の妻はどこまでも執拗に迫る。もしかしたら彼の妻は彼にではなく、『私』に挑戦しているのかも知れない。
 正直私は彼の妻にうんざりしている。失望している。余計なことなのだ。出て行くなら勝手に出て行けばいいものを、いささか私は憤りを覚えた。だから再び私は彼に指示をした。もう読むな、と。今ならまだ間に合うから――そう、彼は相変わらず宙を見つめたまま茫然としているから。
 今、彼の頭にあるものは残された息子の食事のことや、洗濯、家事の一切を彼がやらなければならない事実である。だから学校が給食であることが今の彼にとってとてつもなく重要な問題として安堵していた。
『もしも、息子が死んでも…』と書かれた文字が、さらに彼に先を読ませる結果となった。私は歯軋りした。彼が私の命令に逆らったからだ。私は一瞬焦った。
『もしも息子が死んでも、あなたは表情を変えないままこれが人生だろうと淡白に受け入れるのでしょうか。受け入れられるのでしょうか。いいえ、それはないでしょうと、そこに一縷の望みのようなものを感じた自分が恐ろしくて恐ろしくて、でもその思いが自分の中で消え無くなってしまって、思いの残像が脳裏に焼き付いてしまって、もう息子の顔もみることができないのです。もはや私は自分が全く信じられず、恐怖のあまりに狂ってしまったのだと思います。このままこの家にいると自分が何をするかわかりませんので、出ます。私の存在がなくてもあなたに何の影響もないことは知っていますが、生活面では迷惑をかけることになると思います。それのみお詫びします。』
 とうとう彼は最後まで読んでしまったが、焦るほどでもなかったようだ。考えてみれば私以上に彼を知っているモノはいないのだし、彼は彼のままである。
 今度こそ彼は私の指示通りに封筒にしまった。