月のあかり

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【国会:衆議院外務委員会】 03/19 密約問題参考人質疑 Part 2 (齋藤氏、東郷氏)

2010年03月26日 10時48分58秒 | 政治・雇用
※内容が3時間にわたるため、今回は参考人の齋藤氏と東郷氏の意見開示部分です。
 できるだけ動画を忠実に起こし内容としており、言葉の言い回しや表現が口語的で
 あることをご了承ください。


□鈴木
ありがとうございます。次に斉藤参考人にお願いします。

■斉藤邦彦(以降、斉藤と略す/参考人 元外務事務次官)
 ただいまご指名に預かりました斉藤邦彦でございます。最近公表されました、いわゆる密約問題に関する有識者委員会報告それから外務省調査チームによりますいわゆる密約問題に関する報告書これを読みました。
まず最初に、多大な時間と労力を費やしてこのような報告書をまとめられた北ハコ先生をはじめとする記者委員会の委員の方々それから外務省調査チームのメンバーの方々僭越でございますが深い経緯を評したいと存じます。

有識者委員会の報告は4つの項目について検討しておられます。
私はこのそれぞれの項目について意見あるいは感想を申し上げたい。

  ◆◆ (核持ち込み問題はアメリカと政府の理解に差があった)
 一番目は核搭載艦船の一時寄航の問題でございます。
私はこの問題につきまして、何が持ち込みであるかという点につきまして日本とアメリカの間で了解の差が生じると思っておりました。直接のきっかけとなりましたのは昔の国会の議事録を読んだことでございます。一つは昭和43年1968年4、月17日の衆議院外務委員会における三木外務大臣の答弁でございます。
これは有識者委員会報告書の24ページの脚注の上のほうにも引用されております。ここで三木外務大臣は核兵器を常備している軍艦の航行は無害通航とは考えない従って、これを拒否する権利を留保するという主旨の発言をしております。
もう一つの議事録は、昭和43年3月17日ほぼ一ヶ月前でございますが、これは衆議院予算委員会本会議の三木外務大臣の答弁で領海をさーっと通り抜けていくことは無害通航であって事前協議にはかからないという発言をしております。
この一ヶ月の間で、無害通航了解に関する日本政府の立場でございますが、日本政府の立場は明らかに変わっているわけでございます。これをアメリカに相談をした形跡がございませんので、日本政府が一方的に認識を、理解を変更したということでございます。

 私はこれは日本国内の強い反核感情、それからアメリカの核抑止力に日本の安全は最終的に依存している安保体制全体、それから核の存在は肯定も否定もしないといういわゆるNCND政策これらの要素を考慮して下された政治決断であったと理解しております。
これに対してアメリカ政府側から抗議があった形跡はございません。
これはアメリカ側におきまして日本の強い反核感情を理解し、この点を追及すれば日本政府が認識・理解を変えたことを追求すれば日本政府を窮地に追い込む、日米安保体制にも非常に大きな影響を与えるという判断の元に日本政府には何も言わないというこれまた高度の政治判断を下した結果であったと思っています。

2番目は朝鮮半島有事と事前協議という問題でございます。
私はこの当時まだ1959年60年当時、朝鮮の停戦から7年しか経ってない、挑戦情勢についてアメリカは強い危機感を持っていたと思います。
で、万一の場合は一瞬の遅滞もなく出動していく必要がある。そのためには日本の基地からも出動を行うというその権利これを確保しておく必要があるという強い希望があったと思います。
事前協議制度というのは米軍の行動に対して日本政府が一定の発言権を持つという新しい仕組みでございます。
が、朝鮮有事に関してはそういうことに拘束されることなく直ちに行動を開始できるようにしたいというのがアメリカの立場だったと思います。
日本政府は当時の情勢にかんがみましてこのようなアメリカ政府の要求を十分に理解してこれに応じたということであります。なぜ不公表にしたかということにつきましてはこれは私の推測に過ぎませんけども少なくとも大きな理由の一つはこのような合意文書を公表すれば、北朝鮮・中国を無用に刺激することになるのでそれを避けたいと判断されたのではないかと考えております。

3番目は沖縄返還、有事の際の再持込のことでございます。私、若泉さんの本が出ましたときこれを読みましたが、当時から総理大臣であっても外務大臣を含む外交当局と全く協議をせず、政府の職員でない方を使って協議をして署名をされその文章はまた外交当局には見せないというこういう合意は、政府あるいは国を拘束いたします、いわゆる国際約束には当たらないのではないかと考えておりました。ただ、今申し上げたことは、いわゆる非公開朝鮮議事録というものが意味のない文章であったということでは全くなくて、これは佐藤総理の総理大臣としての非常に重要な政治的な決定であったと思います。総理大臣として、沖縄の核抜き返還という至上命令をどうしても実現するためにはこういう約束が必要だと判断をされて、それでもし有事の際アメリカから沖縄への核の再持込の要求があればこれは総理大臣として「Yes」という約束をアメリカに与えるこれが沖縄の核抜き返還には必要だというご判断の元に政治家としての判断をされた結果がこの文章であったと思っています。

いずれにいたしましてもこの報告書は、有識者会議の文書にも書かれておりますけど1969年の佐藤・ニクソン共同声明および総理大臣のナショナルプレスクラブの演説によりまして朝鮮有事の際、事前協議があれば日本政府はそれに前向きかつ速やかにという合意にたったと理解しております。

4番目。沖縄返還と現状回復費の肩代わりについてでございますが、私はこの問題にかかわったことが一度もございません。従って私の知識は新聞・雑誌、あるいは本、こういうものを読んだ結果の知識にとどまっておりましたが、今度の有識者委員会の報告書を見ましてこういうことであったのかという理解をしたということでございます。

最後に有識者委員会報告書のは外交文書の管理と公開についても検討を加えておりまして、審査の遅れとそれから公開の不十分さにおいてご批判をされておられます。かつて外務省の職員だった人間としてこのご批判は残念ながら的を得たものだと考えざるを得ません。資料はなにぶんにも膨大でございまして、それに携わる陣容には不十分でございます。これは弁解になって申しわけございませんが審査の遅れがあるというのは事実だと思います。それから公開が不十分だという点につきましては、やはりわれわれの審査はどうしても安全サイドに立ってしまう。疑わしいときは公開しないという結論になることが多い、多かったと思います。今度外務大臣を本部にする文書の管理・公開についての検討委員会ができたそうでございますけれども、まことに人為を得た適当な措置ではないかと考えております。

以上でございます。

□鈴木
ありがとうございました。次に

■東郷和彦(以降、東郷と略す/参考人 元外務省条約局長)
  ◆◆ (密約問題があったから政府答弁と実態に乖離)
 東郷和彦でございます。私は1988年4月から99年8月まで外務省条約局長として勤務いたしました。
本日はまず、60年安保条約改定時の核持込に関するいわゆる密約問題に関連して条約局長在任中、およびその後いかなるかかわりを持ったかをご報告し次に今回発表された捜査報告について意見を述べたいと存じます。
まず、条約局長在任時日本の安全保障に関する最大の問題は、日米安全保障に関する周辺事態法の国会審議でありました。密約問題はこの国会審議で何回か取り上げられましたが政治的に大きな問題になったことはありませんでした。
しかし、この問題は政府が行っている答弁内容と実態との間に大きな乖離(かいり)が生じており全く説明不能という状態をあまりに長期に抱え込むことになりかねない、いずれこのままではすまなくなると考え、局長の任期が終わりになる頃、本件が将来問題化したときにその任に当たる人たちが問題の本質とこれまでの検討の経過を直ちに把握できるようにと考えました。条約局長室にあった資料を整理いたしました。

  ◆◆ (外務省が管理していた58点の関連文書は歴代条約局長の引継ぎ)
本件については前任の条約局長よりひと束の資料を引き継いでおり、これに条約局長室で探した若干の資料を加え日米安保関連資料を5つの赤色の箱型のファイルに前来順に並べました。
第一の箱より60年の安保条約改定時
第二の箱に小笠原・沖縄返還交渉時
第三の箱に74年のいわゆるラロック発言への対応
第四の箱に81年のいわゆるライシャワー発言への対応
最後に90年代それぞれに関連する資料を収めました。
その上で、全資料58点のリストを作成しそのうち最重要資料16点に二重丸を付し、さらに本件においての政策的評価についての意見書を書きました。
A4の紙で意見書は3ページ。リストは4ページ、計7ページの文書を二部作成し、一部は赤ファイルの第一の箱の一番上にいれ、資料とともに後任の条約局長に引き継ぎ、もう一部は封筒に封をして北米局長にしかるべく送付いたしました。
その際、文書作成作業の過程で使用した私物のフロッピーが手元に残ったままになりました。以後、手元に残ったこのフロッピーはどなたにもお見せすることなく、この問題についても外務省在職中かかわることはないままに2002年外務省を退官し、その後この問題に大きな関心を寄せないままに歳月が過ぎました。
しかしながら、昨年5月、4名の元外務次官が核持込に関する非公式了解が存在していた主旨の発言を匿名で話したという報道に接しました。
4名の次官の発言は「もうそろそろこの問題を明らかにしなければならない時期に来たのではないか」と考えさせられるものがありました。そこでこのときから、アメリカ側発表資料、わが国における各種報道などを勉強しなおし8月以降いくつかの記事をメディアに発表しました。
以上の経緯を経て、昨年12月4日に有識者委員会により本件に関する見解を聴取されました。
よって私はフロッピーの中にあった7ページ文章を委員会に提出し、これに関し私が承知するすべてを詳細にお話しました。
退官後その扱いに苦慮してまいりました7ページ資料、有識者委員会という場を通じ外務省・日本国民、そして歴史に対してお返しすることができたと考えております。

  ◆◆ (
次に今般発表された調査報告について5点お話したいと存じます。
第一に発表された資料の中には、赤ファイルの中核をなしていたと記憶する非常に貴重な文章がございます。
その主要なものを読み私はこの問題について大筋これまで何が起きていたのかということは理解できるようになったと考えます。
第二に、それでは何が起きたのか。この点につきましては1968年1月27日付の東郷邦彦「北米局長が示した小笠原への出張」期中での、牛場次官・ジョンソン大使、東郷局長の懇談記録が内容を語っていると思います。
赤ファイルの中で非常に記憶に残っていたものですが、第一ページの欄外の書き込みの記憶はなく、従って歴代の次官が書き込む前のコピーが条約局長室にあったと思います。
この文章により3つの段階で、すなわち60年安保条約改定時のとき核持込につき日米の間に認識の差があったこと、次に63年ライシャワー大使より大平正義外務大臣にこの点について問題提起がなされたけれども、日本側で明確な意思統一に至らなかったこと、そして最後に68年、期中での話し合い以降本件を深追いしないという方針が固められそれが実に今日まで続いたという経緯が明らかになったと考えます。

第三に、それでは当時のアメリカ・外務省の人たちにそういう処理でよいとして安閑としていたのか。今回公開された文章は決してそうではなかった経緯を示していると思います。
赤ファイルが作成当時、74年ラロック発言のあと約1ヶ月後にわたり松永信夫条約局長が作成した一連の文章の原義が強い印象に残っておりました。今回その一部が公開され、松永局長は今回の発言は重大な政治不信、国内政治の混乱を招くとし事態の打開のためにいわゆる非核2.5原則への転換を提言、これが田中総理の発言案と説明資料の鍵になっていた経緯が明確に読み取れました。実現こそしませんでしたが、当時の政治家・官僚ともに事態の打開のために必死の努力をしたことの認識ができるものと思います。

第四に、以上の事態の総括でございますが
問題の本質は日本の安全保障であると思います。冷戦時代、同盟国アメリカは大戦抑止の中核としてNCNDすなわち艦船上の核がどこにあるのかを明言しない戦略をとっておりました。他方、二つの原爆の投下を受けた日本国民はいかなる核兵器も持ち込ませないという強烈な国民感情を持っております。この二つの立場は絶対に両立しません。その不可能のぎりぎりの中で事前協議制度と、お互いが深追いしないという共通の立場を通じわが国の安全保障が追及されました。結果として冷戦時代、日本の安全保障は完全に担保され日本は米国を恐れさせる一大経済発展を遂げたと
しかしながらそこに政府と国民の大きな乖離が生じてしまいました。冷戦終了後20年、今回ようやくその乖離を埋められたと思います。

第五に今後どうすべきか
冷戦終了とともに91年以降、アメリカは核兵器の艦船への搭載を原則やめました。従って現時点では非核三原則を唱えても日本の安全保障は損なわれません。しかし今後については何らかの理由でアメリカが艦船搭載核兵器についてNCND政策に戻るかもしれません。私は万一そのような事態になったら日本は海上への持込は認めるという非核2.5原則に立つことが最善と考えます。いずれにしましても、今後は少数の政治家と官僚だけではなく国民レベルで真剣に議論し成熟した安保政策を導いてほしいと心から願うものであります。

  ◆◆ (発表された文書には欠落がある)
最後に文書管理についてでありますが赤ファイルに収めた文書すべてが今回発表されたわけではありません。有識者委員会は当然あるべき文書が欠落し、一部の文書は廃棄された可能性があると指摘しました。
もしそれが本当なら外務省は文書管理の実態と今後の対応についてきちんと向かい合って対応を願うものであります。

Part 2 終わり



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