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沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

2012-01-03 | その他

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

首里の桃原、儀保付近の湧水

 首里城の西側にあたる丘陵の斜面は、首里城の城下町のようになっている。いくつもの集落が密集している。首里金城町に続いて、首里の山川から儀保(ギボ)に抜ける桃原(トウバル)本通りの付近の湧水を訪ねた。
 こちらは、とても深い谷川が流れている。でも谷川は排水路のような感じだ。飲み水、生活用水はやはり井泉に頼る。狭い地域に人口が多いから、井泉の水も豊富でないと生活できなかっただろう。  

       


  最初に行ったのは、佐司笠樋川(サジカサヒージャー)だ(左)。ここは、琉球最後の国王、尚泰の四男、尚順の屋敷だった「松山御殿」(マツヤマ ウドゥン)のすぐ裏側にある。いまだに尚家の敷地内である。



  といっても、かつての桃原村の貴重な水源だった。湧水はどこでも、祈願の対象だから、敷地を囲っている金網に「拝みをなさる方へ ここからご自由にお入り下さい」との表示があった。右写真は、この桶川とは無関係である。花街のあった那覇市辻の「二十日正月」行事の際の井戸への祈願の模様である。  

  
佐司笠樋川に行くため金網の戸を開けて入ると、驚くほど立派な樋川だった(上左)。琉球の黄金時代を築いた尚真王の長女、佐司笠按司加那志(サシカサアジカナシー)が、フクギの大木にいつも鷺(サギ)が止まるのを見て、掘り当てたという由来のある樋川だ。ちなみに、沖縄の井泉は、犬が濡れて帰ってきたので、水が湧いているのがわかり、井泉が見つかった、など湧水発見に動物かかかわっていることがよくある。



見事な琉球石灰岩の円形の石垣が三段に積み上げられている。芸術的ともいえる円形の石積みだ。恐らく、これだけの樋川は、沖縄でも指折りだろう。
どんな干ばつにも水は枯れず住民を助けた。村の貴重な水源だった。

いまでも水量が多く、井戸拝み(カーオガミ)に訪れる人が後を絶たないという。降りて行くと、石垣の奥の水源から石造りの樋で水を流していた。水槽は半円形で、これも見事な石積みだ(右)。そばに奇妙な石があった。直径1㍍くらいはある(右下)。何のためだろうか。他の井戸では見ない。

 

 それにしても、よく固い石をこれほど丸い形に仕上げたものだ。丸い石の外側の敷石も、この円形に石に合うように、石を加工している。
 琉球王府時代の石積みの技術には、つくづく感心する。それに、この樋川は、沖縄戦で激戦の地なのに、破壊されずに残ったのだろうか。説明はないので、多分残ったのだろう。


  
同じ敷地内のすぐ側に、「昔石道」(ンカシイシミチ)があった。石畳の道を降りて行く。また湧水がある。

世果報御井小(ユガフウ ウカーグヮー)という井戸だ(下)。王朝時代より炊事、洗濯など生活用水として使われた泉である。水がわいているので樋はない。
 

 
沖縄戦で埋没したけれど、昭和61年(1986)に掘り出された。その際、古い鍋や食器類が出土し、戦争中にここで炊事をし、飢えをしのいだ悲惨な状況が偲ばれたという。
 説明を書いた案内板が、もう剥げてきて字がまともに読めない。推測を含めてこんな説明だった。




桃原大通りから、急坂を上がると、安谷川嶽(アタニガータキ)に出た。アーチ型の門がある(左)。といっても門はただの門ではない。琉球では、神聖な御嶽(ウタキ)の前に立つ門が拝殿になる。首里王府の高級女神官の一人、大阿母志良礼(オオアムシラレ)が司る御嶽の一つである。由緒ある拝所だ。門のなかが聖なる場所である。

 この近くに安谷川(アタニガー)がある。石段を降りていくと井泉があった(右下)。あまり大きな井泉ではない。ここはなぜか、川の名がついていた。

次に、桃原本通りを下に少し降りると、谷川のそばに加良川(カラガー)がある。谷川が流れているが、この川の岸に共同井戸がある。川岸にある岩の洞穴から流れ出る水をせき止め、その前に石畳の水汲み広場が設けられている。
 加良川はなんと、大きなガジュマルの木の根のところにあたる(下)。


ただ、今は危ないから鉄板で蓋をしている。この井戸の上に橋がある。橋から井戸に降りてくる石畳の道が残っている。道幅を広くとり、川沿いに一段と高い道を設けて、水汲みに集まる人々が、順序よく出入りできるように工夫されているそうだ。すぐそばに石碑が建っている。この碑は、井戸とは関係ない。



 実は、琉球王府の時代、18世紀に初めて歌三線と台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」を創作した玉城朝薫(タマグスクチョウクン)の生誕の地を示す碑である。
朝薫は、王府で踊奉行(ウドゥイブヂョウ)をつとめ、中国から琉球国王を任命するためにやってくる冊封使(サッポウシ)を歓待するために、「組踊」を創作した。朝薫の創作した「執心鐘入」など「5番」と言われる「組踊」は、いまなお繰り返し上演される。

2010年、「組踊」はユネスコの無形文化遺産として認定された。

 

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