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ニセコのダチョウ牧場(第2有島だちょう牧場)

ダチョウの孵化から解体まで行い、命を頂く事、牧場を営む事で得た、学びや気づきを記録しています。

命の大切さについて

2024年08月30日 | 命を頂く事について
今年も日本中からお子さん連れの家族が牧場に来場くださり、だちょうさんと楽しそうに遊んでいる様子が見られました。

長年牧場に遊びに来てくれているこどもたちの元気に育っている姿なども見られて、とてもうれしかったですね✨

ただ、夏休み明けの9月1日ごろの子どもたちは精神的に不安定になり、不登校や自殺という周りの方にとっても不幸なことをしてしまうリスクが高くなるといわれていて、帰っていった子どもたちが元気に過ごせているのか心配になる時期です。

周りの方が子どもたちの不調に気づいたり、子どもたちに直接届くことがあれば何よりだと思いながら今回文章を書きました。

長文になりましたが、読んでいただければと思います。

「命の大切さについて」

私はだちょうさんのふ化からと畜までして、だちょうさんから糧を頂いて生活しています。

命はとても貴重なものだとだちょうさんと関わる日々に教えられています。

例えば、ふ化に携わっていると卵が細胞分裂し、形作られ、無事生まれるというのは、当たり前のようで実は貴重なことだと気づきます。

細胞分裂の途中で止まってしまう子。

殻の中から出られず、鳴くこともできず、苦しそうに呼吸をし続け弱っていく子。

殻から出られたけれども立つことができず、もがきながら弱っていく子。

無事育つ子たちの傍らで、命を失う子たちをなすすべもなく、数えきれないほど看取りました。

また、産まれたとしても無事に大きくなり、皆さんに会って可愛がられる子ばかりではありません。

私の背丈を超すほどに大きくなっても、不慮の事故で骨折し、生きようと懸命にもがいたけれども死んでしまう子がいます。

産まれてからもなんらかの障がいがあるため体が大きくならず、徐々に体が思うように動かせなくなり、死んでいく子もいます。

もちろん、私の手でと畜して命をいただいたり、有精卵も細胞分裂をさせずに、お菓子にして販売させていただいたりしていますが、どの命も死ぬまで必死に生きようとしています。

その命を頂いて生きているのだから、無駄にならないよう、彼らの命から頂いたものを活かせるよう、私も精一杯生きねばならぬと学ばせていただいています。

こうした学びから、私がこうして元気にだちょうさんやお客さんたちと楽しく過ごすことができていることは、本当に奇跡的な確率で運が良いのだと感じ、日々を感謝しています。そして、皆さんもきっとそうだということについても共有したいと思い、牧場の体験に参加してくれた学生さんたちにはいつもこうした話を伝えています。

皆さんにはもしかすると至極当たり前の話かもしれませんが、こうしてこの文章を読んでいただけたのも何かの縁ですから、どこか心の片隅に留めていただければ幸いですし、苦しんでいる方がいたら、なにか手を差し伸べていただければと願っています。
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命を頂く事について

2023年04月05日 | 命を頂く事について
今年もだちょうさんの屠畜をして、お肉を作りました。

私は卵から愛情を持って育て、敬意をもって接し、心も身体も健康に育て、だちょうさんが必要以上に苦しむことなく済むように、その死が無駄なく活かされるよう丁寧に屠畜して、美味しいお肉にすることを目指します。
口で言うのは簡単ですが、毎日の積み重ねが大切で、お肉にするときに答えが出ます。

私は必ず屠畜した日にお肉や心臓を食べ、必要以上に怯えさせずに屠畜が上手く行ったかどうか、血抜きが成功したかどうかを確かめます。

屠畜の状況を振り返り、解体しながら、脂肪付き方や内臓の状態を確かめ、生育がどうであったか確かめます。

生産者としての大切なデータなのですが、それ以外にもこういったお肉と向き合う時間は自分が生きている事、だちょうさんや様々な命に生かされていることを見つめ直す大切な時間です。

雛の頃から大きくなれよと願い、その命を奪うことは残酷で心が痛み、目を逸したくなったり、お肉を作ることや愛情をかけることをやめたくもなりました。しかし、その心の動きから目を逸らさず、自分の愚かで弱い人間性を見つめ、迷い続けながら、それでも限りある時間だとしても愛情を注ぐことは、命を頂いて生き続ける私の責任のように思っています。

私が小屋に行くと毎日だちょうさん達は目をキラキラと輝かせて、私を迎えてくれます。
私がこの子たちから目を背けたくなるような人間にならないように、一緒に笑っていられるよう、生きねばならないと思っています。



今年もたくさんの方が牧場を訪れる季節が近づいてきました。

私に出来ることはほんのわずかですが、少しでもだちょうさん達から教えて貰ったことを皆さんへ伝えられるように頑張らなくてはなりませんね。







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幻のこいプリンについて

2022年05月19日 | 命を頂く事について


人気商品「幻のこいプリン」にはこだわりがあります。

今回はその名前の由来も交えて書こうと思います。

そもそもこの牧場で生まれたダチョウ卵をプリンにしたかった理由はたくさんあります。

①ダチョウ卵の細胞は全生物の中で一番が大きく、卵黄球の大きさから鶏卵以上になめらかでねっとりとした食感が得られるという研究結果がある。

②ダチョウ卵を割ると中身が大量である点や凝固点が高い点などに配慮したレシピがないため、卵を美味しく調理できない可能性が高くその結果、「大味」「美味しくない」といった評価を得ている可能性がある。

③日本全国の養鶏場に比べて圧倒的に飼養密度が低い、動物本来の力を発揮させられる環境で育てている貴重な卵であり、「美味しくない」という評価になることは残念。

④ダチョウ卵は鳥の卵の中では体の割に最も小さな卵でありながら、鶏の2倍の孵化日数を砂漠の過酷な環境でも耐える能力のある卵。

⑤牧場の有精卵率はとても高く、ダチョウ本来の能力が発揮された卵である

⑥自然放牧して草をたくさん食べて育つ、世界でも有数の環境で生まれたての新鮮なダチョウ卵を使えば、普段食べている卵のプリンよりも美味しいプリンが作れるのではないかという仮説を証明したい。

当時の私は製菓の勉強や仕事をしたことはなく、鶏卵のプリンさえ作ったことがありませんでした。

そこからは失敗の連続で、今考えると食べて頂いた方々に本当に申し訳ないレベルです。

まず、卵と牛乳の風味を出す為にはダチョウ卵の凝固点の高さが壁となりました。

一般的なプリンのレシピでは固まらず、温度を上げて長時間加熱することで風味が飛んでしまいます。
そこで、卵の黄身のみを使い、卵の量も増やすことで卵の味わいとコクを出し、ダチョウ卵の特質であるねっとりと舌に絡みつくような食感を得られました。
一方で、卵一個から作れるプリンの量が少なくなり、量産して採算が取れる商品ではなくなりました。

また、実際に販売を可能にするために、作業効率を下げないようにしながら細胞の大きな卵の攪拌はせず、適した網で丁寧に漉す方法などを研究し、空気を含みやすい卵の性質を抑えながら極上の舌触りを作る技法を考えました。

もちろん、卵自体の美味しさを向上するために、ダチョウ一羽一羽の健康管理は欠かせません。
草の状況や健康状況に応じた飼料の内容変更とその変更が味の変化にどのような影響を及ぼしたのか常に考察し続けています。
半年以上前の栄養状況が関わってきますし、年齢も影響しているので本当に難しいのですが、とてもやりがいを感じます。

先述したように、美味しさを伝えるために数が作れなくなり、採算は取れない商品になってしまったのですが、本当に美味しいプリンを作り、皆さんを感動させたいという想いで商品開発を続けてきました。
おかげさまでイベントやお店では売り切れる良い評判の商品になりました。
去年「有吉の夏休み」という番組の収録でいらっしゃった「めるる」さんという近年有名になったタレントさんには「今まで食べた中で一番美味しい」と言ってもらえました。

けれどもまだまだ美味しくできる可能性が有ります。
私には自分で育てているという強みがあり、健康にし、飼料内容の向上させるなど、これからもコツコツ楽しみながら研究していきたいと思います。

もしいらっしゃったときにプリンがあればぜひお試しください。
牧場で空気を感じながら、元気なダチョウを見て、ここでしか食べられない「幻のように貴重な」プリンを食べるという経験が味わえますし、少なくとも、ダチョウ卵が美味しいという事は伝わると思います。
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学生さんに伝えているダチョウ産業のこと2 と畜について

2021年03月29日 | 命を頂く事について
学生さんに伝えているダチョウ産業のこと。
いつもたくさん話すことがあるので、どうしても伝えきれないのですがとても大切な事なので、ここに書いておきます。

私はこの牧場を祖父が始めたころから、だちょうさんのお肉を食べて育ちました。
昔はと畜することは経済動物だから当然だと思って、何の疑問も持たずにいましたし、牧場の仕事を始めた時も、経営状況を改善するためにたくさんのだちょうさんをと畜して、商談会などで売り込みました。
当時は牧場の経営を改善して、続けていくことしか考えていなかったですし、と畜する自分が少し誇らしかったようにも思います。
けれども、長くだちょうさんと過ごすうちに違う考えが沸いてきたのです。

最初はだちょうさんのことをからかっているお客さんにむっとしたり、だちょうさんに変なことをされる方を見ているとになんだかおもしろくないなぁと感じるところから始まっていたように思います。
どうしてそのような感情が沸くのかを考えていくと、いつの間にか彼らにとても愛着を持っていることが分かったのです。
彼らにも個性や感情があるという当たり前のことに気づきました。
そして、私たちと何ら変わりない尊厳のある存在だと。

そうしていくと、次にどの子をと畜するか考えるのことが苦痛で、商品が売れることも嬉しくなくなっていきました。

ある一羽のだちょうさんのと畜を忘れることができません。
私が牧場にまだ慣れていないとき、彼は私を追い回し、死ぬ思いをさせた一羽でした。
長年付き合う中で、ある種の信頼関係を結びましたが、その彼をと畜すると決め、閉じ込めた檻の中で夜に心細いと鳴く声を聞いた時、胸が張り裂けそうでした。

ここまで少し長くなってしまいましたが、私はこういった経緯から、いかに彼らに苦痛と恐怖を与えないように、と畜するかを追求せずにはいられないのです。
世界中で動物を苦しませずにと畜する方法が考えられ、動物福祉(アニマルウェルフェア)を高めようとしています。現在、世界的にみると日本は遅れていると言われています。
ここではあえて何が優れているとか何が良くないということを論ずることはしません。どうも日本ではどちらかがどちらかを批判するばかりで、現実的にどのようにしたらよいのかの道筋を建設的に議論しておらず、結果的に動物たちにとってはかわいそうな現状が続いていることがとても残念です。
ただ言えることは、今現在、世界的に優れているという方法であっても100年200年未来の人から見たら、なんて野蛮でかわいそうなことをしていたと思われることになるかもしれないということ。そして、私自身が今できる最も良いと思う方法を自己満足と言われようとも追求していこうと考えているということです。
動物福祉とと畜方法にご興味がある方はテンプルグランディンという方の著作などご参考にされるのも良いかと思います。

まず、だちょうさんが生まれたときから人間に馴れてもらうことが大切です。
私はいつもと同じような格好で、馴れ馴れしく接することを心がけています。
私がと畜するときに、できるだけ不安と恐怖を感じさせないためです。
私は辛いのですが、目を背けないようにまっすぐ彼らを見つめ、愛情を注ぐことが使命だと思って、毎日語りかけています。
多くの人に接してもらう経験も大切だと考えています。
次に、いつもラジオを聞かせることが大切です。
日常の突発的な音に反応してけがをするリスクを低減させることと畜する前のいろいろな物音に対して過度の緊張を与えないためです。
また、牧場で卵から育て、と畜することによって移送する際のストレスが少なくなる事も大切です。生まれ育った環境から違う環境になると、動物はストレスを感じますし、個体によっては水が飲めなくなったり、食事が食べられなくなります。
緊張すると体と首がぴょんと伸びて、目がぎょろぎょろと周りを見つめるような状態になりがちです。体もこわばり、過度に痛みを感じやすくなってしまってかわいそうです。
次にと畜方法です。
原始的な方法ですが打額法というスタンニング(気絶法)をします。
脳のある部分をトンカチでたたいて揺らし、脳震盪を起こさせます。打額法は熟練すれば一撃で意識を落とすことが可能で、負荷を減らすことができます。
出来る限り集中し、負担を減らすことを意識します。
なお、炭酸ガスを使う方法が最も良いと考えられていますが、ガス室を作ることが必要で、実行できていません。
スタンガン(電気失神)は、筋肉が収縮して血が滞ってしまうと考えられるため行いません。

と畜の際は、いつもと変わらない呼吸ができるように心がけています。
動物は言葉を使わない分、様々な身体言語を読み取ります。
私の目の動き、動作や呼吸がおかしいとただならぬ気配を察知して、いたずらに興奮してしまいます。ですからいつも以上に気持ちを穏やかに、平静を保ちながらと畜に臨みます。
言うは易し行うは難しで、数日前から解体の準備をしながら、心の準備を整えることにしています。
の掃除や檻の準備、包丁研ぎなどのルーティンはとても大切です。

失神した後は首が下になるように吊り上げます。
呼吸を保てるよう、頸動脈だけを切ること。
心臓から血液が全て出るように、気道や食道を傷つけて呼吸困難になって窒息死しないように注意します。
苦しいこと、残酷なことに変わりはないのですが、それでも私は出来るだけ苦しまないようにこだわらずにはいられません。
首に刃を入れるとき、ああもう治らない傷を与えてしまうのだなといつも思います。手の中で徐々に力を失っていくだちょうさん達を見つめながら、悲しいような虚しいような、とてつもない空虚感を味わいます。
物質になってしまっただちょうさん達に手を合わせ、その命を大切に頂くこと、生きることを誓います。

この後はスピードと清潔な処理が大切です。内臓の熱や匂いがお肉の価値を下げるため、早く内臓を抜かなくてはならないのですが内臓を傷つけてしまうとお肉が汚染されてしまいます。頂いた命を無駄には出来ないので繊細かつスピーディーに処理しなくてはなりません。
衛生的で、血抜きをしっかり施した心臓やレバー、砂肝は大変美味しく食べられますし、誰かに美味しく食べていただく為にできる限りのことをします。
しっかりと準備を整えて、満足できる血抜きができ、素早く衛生的に処理できたお肉は本当に美味しいです。
逆にこういった準備や処理がしっかりできないと、とても後悔が残ると畜となってしまうので、在庫が無くなるからと急いでと畜しなければならないような販売方法はもうしません。

ダチョウのお肉というパッケージでウインナーやフランクフルトを道の駅などに卸し、とてもご好評いただいて、作れば売れる人気商品でした。けれども、と畜をやめてウインナーの生産も休止し、一時期はだちょうさんの雛も増やしませんでした。
忙しさなどから精神的にも肉体的にも疲弊し、しっかりとだちょうさんのお世話をできなかったことから、だちょうさんをお肉にする意味を見失ったからです。

ただ、一羽のだちょうさんや地球環境の変化に向き合う人々の姿が私の考えを変えました。
G20と51番というブログの記事にそのだちょうさんのことが詳しく書いているので、気になる方はそちらも是非読んでください。

私はと畜してお肉を食べてもらうことは、皆さんに物質的な充足感を得てもらうだけではなく、どのような想いでと畜しているのかを知ってもらって、精神的にも何かを得てもらいたいと思っています。
だちょうさんのお肉が買いたいという方は本当に多いのですが、こういった想いでやっているのでほとんど量は作れず、お売りすることもできません。
環境について啓発する観点からだちょうさんのお肉を販売することも大切だと考えていますが、まずはしっかりと自分の満足できるように足元をならさなくては、また元の木阿弥になってしまいます。

今年は本当に細々とですが、牧場のカフェでだちょうさんのウインナーを使ったホットドックを販売しようと思っています。この場所で、牧場のだちょうさん達を見ながら、色々な想いが詰まったウインナーを食べてもらうことができれば良いなと思っています。
今年学びに来てくれる子どもたちにも、大切に食べてもらいたいですし、ここでしか学べない大切なことを全力で伝えたいと思います。


鳥は飛ばねばならぬ、人は生きねばならぬ
                       坂村真民

だちょうさんは飛ばないですが、必死に生きていて、彼らの生きたいという命をこの手で頂いてきたということを皆さんに伝えながら、これからも命を頂きながら生きねばならないのだと思っています。





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牧場のことを伝える意味を、頂いた感想を通じて改めて考えました。

2021年02月28日 | 命を頂く事について
牧場には多くの子どもたちが修学旅行や研修旅行先として来ます。私はだちょうさんのお世話をしてもらったり、えさやりを楽しんでもらいながら様々なことをお話しします。特に、ふ卵器の説明、だちょうさんと触れあう雛の世話、と畜について一連の流れの説明することはこの牧場の営みがよく伝わるものです。
体験の最後や後日、子どもたちから感想をもらえます。
これからの人生の為になったとか、これからはご飯を大事に食べるといった感想がもらえて嬉しいことが多いですね。
その中で、印象に残った感想があり、今回ブログを書こうと思いました。
私はこの感想を夏に読んでから、いつか皆さんに発信したいなと思っていました。
この子どもが牧場体験にまっすぐ向き合ったこと、良い経験と気づきが短い牧場体験の中で得られたということがこの狭い感想欄いっぱいに感じられます。
きっと心の中に、やりきれない感情や割り切れない想いが渦巻いた状態で書かれたのでしょう。
私はこの子どもの感じた感情、思いがとても大切な学びだと思っていて、この感想が頂けたということに手ごたえを感じます。

体験では、だちょうさん達の生きている姿を見てもらいながら、牧場はこういうところで、こういうことをしていて、私はこう思っているということを出来るだけ伝えています。
体験の最後に、私の言っていることが正しいわけではなく、自分で考えるように子どもたちに伝えています。

割り切れない想いを正直に記してくれるまっすぐな子どもの心に比べると、とても鈍くなってしまった私の心にこの感想は響きました。
そして、自分の仕事を見つめなおすことやこれから来る子どもたちにどんなことを伝えたらよいかという学びになりました。
伝えるということを通して、何倍ものフィードバックを得られるのだなと思いますし、学ぶということは本当に奥が深いと思いました。

さて、改めて感想欄に記されていた子どもの想いはとても大切なものだと思っています。
到底心が受け入れられないということは、子どもの心の中でこの体験が、しばらくはくすぶり続ける火種となったということです

その中で一つどうしても注意しなくてはいけないことは、私や周囲の人、自分自身から心に対して安易に答えを与えてはいけないということです。

中途半端に分かったようなことを答えとして与えて、分かったように思えても、心の奥底は納得するわけがなく、心にひずみを生んでしまいますし、せっかくの経験がもったいないです。

人は心の揺らぎを感じてもそれを元に戻そうする力を持っています。
揺れが大きい人は感受性が強いともいわれます。ナイーブなひと、繊細な人とも。
そういう人の感性に頓着せずに強くあることが当然と強いる社会は、揺れが戻る前に大きく揺さぶり続けてしまうので、そういう人を傷つけてしまいがちですね。
ただ、揺らぐことのできる人は他の人の揺らぎや、自分の揺らぎを見つめることで大きな器を持ったり、人を不用意に傷つけない強い大きな人になったり、守ったりできる人になれたりする可能性があります。
逆に全く揺るがない人が多くの人を傷つけたり、誰かを気づかないうちに大きく傷つけていることが往々にしてあるように思われます。

学校教育というのはどうしても答えのある学問を教え、成績を上げることに焦点が当てられます。しかし、ただ答えのある問題が解けることだけで、社会は無事に渡っていけないものだと思います。

この牧場でだちょうさん達の姿から子どもたちに、大きく心を揺らすことや答えのない問い、心でくすぶり続ける火種を与えられます。

これらに向き合うことができれば、その子は強くなれると思います。

社会に出れば答えのない問い、地震のような心の揺れ、炎のように身を焦がす理不尽なことがたくさん与えられ、苦しむ経験をたくさんします。
そのことで、残念ながら命を絶ってしまう人もいます。

だから私はこの牧場で残酷なように思える事実を伝え、社会に出る前に子どもたちが答えのない問いに向き合ってもらうことが、これから社会で生きていく力を鍛えるために必ず役に立つと信じていますし、私が全力を尽くして少しでも伝えなければならない思っています。



一羽だけ発育が遅く、ずっと他の雛と離して飼ってきましたが、徐々に弱ってきている子。
このように手を尽くしても亡くなっていく雛たちを何度も何度も見送ってきました。
経済的な理由、労力的な理由で淘汰することも考えられますが、私はしません。
一度は辞めることも考えただちょうさんの卵を孵し、育てると決めた時から私は生まれてきた雛全てを、できる限り愛情をもって育てると誓っているからです。
経済的な利益のためだけにだちょうさんを育て、お肉にすることはもうしないと決めたこと、私が人として社会や生き物、自然、他者へどのような態度で生きたいのかを考え、問い続けていることが理由です。
この子は生きているだけで尊いと考えています。
その姿とその目は私に決して答えのない問いと自分の存在や信念について、目を背けてはいけないと教えてくれます。

鳥は飛ばねばならぬ、人は生きねばならぬと坂村真民さんという方の詩にあります。
鳥は飛ばなくても良いと思いますが、人は生きねばならないと思っています。

元気に雪の中ではしゃぐ雛というには大きくなりすぎた子達。
いつも前を向いて、今を精一杯生きている、尊い存在です。

読んでいただいてありがとうございます。
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