goo blog サービス終了のお知らせ 

大鹿一族の歴史探訪

大鹿姓発祥の歴史から、一族の流れを探訪し、現代の大鹿までをつなぎます。 ー古事記から現代までー

2007/1/20 「押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)妃」

2022-06-27 14:25:26 | 日記

押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)妃
妃:糠手姫皇女 【ぬかでひめ】.. ?~664
.<田村皇女,宝王・糠代比売王・田村王,嶋皇祖母尊>
父:敏達天皇
母:菟名子夫人(采女・伊勢大鹿首小熊の女)
[夫との血縁関係]:異母兄(2親等)・・・父敏達帝の子
571.. 父・敏達天皇没
593.. 田村王(舒明天皇)誕生、この頃、押坂彦人大兄皇子と結婚か
629.. 舒明天皇即位
641.. 舒明天皇没
664.. 崩御〔6月〕
(息子・舒明天皇の押坂陵内に葬られる)
所生の王子女
593~641.. 田村(舒明天皇;在位629~641)
中津王,多良王



妃:大俣王【おおまた】.. 生没年不詳
(兄):漢王
所生の王子女
茅渟王,桑田王



妃:桜井玄王【さくらいのゆみはり】.. 生没年不詳
.<桜井弓張皇女(日本書紀)>
父:敏達天皇
母:推古天皇
[夫との血縁関係]:異母兄(2親等)・・・父敏達帝の子
571.. 父・敏達天皇没
所生の王子女
山代王,笠縫王
*推古天皇の第七子。


妃:小墾田皇女【おはりだ】.. 生没年不詳
.<小治田王(古事記)>
父:敏達天皇
母:推古天皇
[夫との血縁関係]:異母兄(2親等)・・・父敏達帝の子
571.. 父・敏達天皇没
*推古天皇の第三子。日本書紀に「彦人大兄皇子に嫁ぐ」とある。子女は無しか。


 

2007/1/20 「敏達天皇后妃」

2022-06-27 14:24:08 | 日記

敏達天皇后妃
皇后:広姫【ひろひめ】..? ~575
.<比呂比売命(古事記)>
父:息長真手王
572..敏達天皇(35才)即位
575..皇后となる(1月9日)、崩御〔11月〕
所生の皇子女
押坂彦人大兄皇子,逆登皇女,菟道磯津貝皇女(斎宮;在任578)



皇后:額田部皇女【ぬかたべ】..554~628
. <推古天皇、豊御食炊屋姫>
父:欽明天皇
母:蘇我 堅塩媛(大臣 蘇我稲目の女)
(同母兄)用明天皇・(異母兄弟)敏達天皇・崇峻天皇
[夫との血縁関係]:異母兄(2親等)・・・父欽明帝の子
571(18才) 父欽明天皇没、この年敏達天皇(34才)の妃となるか?
576(23才) 皇后となる(18才とあるが年齢が合わない)(3月10日)
585(32才) 敏達天皇(48才)没
587(34才) 物部氏滅亡
592(39才) 即位、聖徳太子を太子とし摂政に任ずる
622(69才) 聖徳太子薨去
628(75才) 小墾田宮において崩御〔3月7日〕
(磯長山田陵に葬られる)
所生の皇子女
菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃),竹田皇子,小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃),
尾張皇子,“盧鳥”茲鳥”皇女,田眼皇女(舒明天皇妃),桜井弓張皇女



妃:春日 老女子【おみなご】.. 生没年不詳
. <薬君娘、老女子郎女>
父:春日 仲君
572..敏達天皇(35才)即位
575..妃となる(1月)
所生の皇子女
難波皇子,春日皇子,桑田皇女,大派皇子



妃:大鹿首 菟名子【うなこ】.. 生没年不詳
. <小熊子郎女>
父:伊勢大鹿首 小熊
所生の皇子女
太姫皇女,糠手姫皇女(押坂彦人大兄皇子妃)
*采女。伊勢国の大鹿首の娘。


 
 
 

2007/1/19 「ふたつの即位と薨去」 

2022-06-27 14:22:26 | 日記

[ふたつの即位と薨去]

欽明の系譜中、天皇となったのは、

 宣化の娘石比賣         沼名倉太玉敷(敏達)
 宗賀稲目宿禰大臣の娘岐多斯比賣 橘豊日(用明)・豊御気炊屋比賣(推古)
 岐多斯比賣の姨小兄比賣     長谷部若雀(崇峻)

敏達のみが継体の血を引き、舒明から天智へとつながる。用明・崇峻・推古は、いわゆる蘇我王朝の天皇である。岐多斯比賣(堅塩媛)は、記紀とも蘇我稲目の女とある。記の岐多斯比賣の姨小兄比賣は、紀では堅塩媛(岐多斯比賣に同じ)の同母妹の小姉君とある。崇峻紀でも「稲目宿禰の女」とある。「姨」は母の姉妹と妻の姉妹を指す場合があるが、記紀で表記が食い違っている。

 ○ --+ +-岐多斯比賣-+
+-+-小兄比賣 -+|-+-長谷部若雀(崇峻)
 宗賀稲目 -+ +|
+-+-倉王(欽明)=+-+-橘豊日(用明)
 日影皇女 -+ + +-豊御気炊屋比賣(推古)-+
+ +-忍坂日子人 -+-舒明
宣化 -+-+-石比賣 -+-+-沼名倉太玉敷(敏達) --+

欽明ほど画期をなした天皇はいないにもかかわらず、没年齢・没年干支・御陵(紀は桧隈坂合陵とある)が記載されないのは問題がある。紀の造墓記事もない。記憶・記録がないとは考えられない。

欽明治世は32年まである。「(三十二年夏四月)是の月に、天皇、遂に大殿に崩りましぬ。時に年若干。」である。敏達の崩年干支甲辰は584年、すると欽明没は敏達治世14年間だから570年となる。欽明治世32年だから、越年称元法(前天皇崩御の翌年即位改元する書紀の方法)で即位539年となって、540年とする紀の記述と1年ズレる。これを欽明治世を31年間とすると一致する。欽明31年にはなにがあるか。「三十一年の春三月甲申の朔に、蘇我大臣稲目宿禰薨せぬ。」。父子が相次いで亡くなる。

この1年のズレをどうしたか。蘇我稲目の没(570年)直後に高句麗の使者が越の海岸に漂着(4月2日)する。天皇は病と描写するが明らかに天皇不在である。敏達即位は夏4月3日である。そして次の天皇敏達が高句麗の大使に対応するが前年の出来事ではなく、漂着の記事と連続している。つまり敏達の即位を、欽明の没年に敏達が即位する。つまり例外的に当年称元法で即位する。欽明の没年=敏達の元年として、1年のズレを回避している。だから欽明治世31年間とするなら越年称元法で矛盾は生じない。欽明の崩御を蘇我稲目の薨去にすり替えていることになる。つまり実は欽明が先に570年に亡くなり、丁度一年後蘇我稲目が亡くなったのではないか。

そして越年称元法を崩してまでも、蘇我稲目の薨去を残したのはなぜか。欽明紀は、倭王であっても天皇ではなかった蘇我稲目を取り込んで、成り立っている。景行記紀の倭建と同じである。景行の治世に包括される倭建と同じく、短命だった欽明は蘇我稲目に重なり、古代史の画期をなす蘇我稲目は、天皇であった欽明と同一化される。だから没年齢・没年干支を書くわけにはいかない。

欽明記には「(春日の日爪臣の女、糠子郎女を娶りて生みませる御子、春日山田郎女。)、次に麻呂古王、次に宗賀の倉王。」とある。岐多斯比賣の子の「亦麻呂古王」(欽明記系譜)、「忍坂日子人の太子、亦の名は麻呂古王」(敏達記系譜)、「葛城直磐村の女広子は一男一女を生む、男子を「麻呂子皇子」という。当麻公の祖。(用明紀元年)」。麻呂古王は、虚空日高日子(穂穂出見の海人の國での名前)と同じで、無名という名前である。

 蘇我稲目 -+ +-麻呂古王
+-+
 日影皇女 -+ +-宗賀の倉王

従って、欽明とは別に筑紫王を相続する麻呂古王が存在する。蘇我稲目が倭王で、天国押波流岐広庭とは、まず蘇我稲目であった。倭王の姓である「天」の称号を持つのも当然である。麻呂古王が筑紫王、欽明(宗賀倉王)を近畿王(天皇)として即位させた考えれる。宗賀倉王は、宗賀という氏族名を持つから蘇我稲目の子であることは間違いない。蘇我稲目と日影皇女の子であり、日本天皇を殺したのは蘇我稲目となる。これは大伴・継体によって肥後倭王下にあった近畿(天皇系統)を再び筑紫の支配下に統属することを意味する。建内宿禰のような武力によらず、蘇我稲目の政治力・交渉力による。武力による覇権争いではなく、交渉によって倭王が決定することは、倭国の統一が成熟していることを示唆する。

さて、蘇我稲目の薨去を欽明の末年とすり替えたのは、即位に関連するからである。つまり蘇我稲目が531年に倭王に即位し、欽明が540年に天皇に即位したのではないか、ということである。稲目531年から571年、欽明が540年から570年である。筆者は前稿で、年の異なる二つの即位記事(『上宮聖徳帝説』と書紀)をいずれも欽明としたが、二回の即位自体矛盾である。訂正する。

継体記に継体の没年齢43歳とあるが、継体の没年齢でないことは、その治世28年間からみて即座に解る。これを仮に欽明に適応してみると、治世31年間として即位12歳である。欽明即位のとき「嫡子なれどこれ幼年」(継体紀)である。ほぼ間違いない(43歳没に対応する天皇は継体前後で他にはいない)。なぜ欽明の寿命が継体記に混入したかは、皇統譜の建前上(作為して)は欽明を継体の子とするから、応神・仁徳のようにズレを引き起こしていると考えられる。応神は5歳で立太子、15歳で矢河枝比売を娶り、宇治郎子は15歳で即位の例がある。

さらに重要なことは、欽明紀は韓半島に関する「対外記事」であって、国内(近畿内)のことは蘇我稲目で書き分けていることである。つまり欽明の「天皇としての事績」が全くないことである。葛城曾都毘古と建内宿禰(子の仁徳紀)と同じである。役割分担することで整理したのだろう。

これで宣化を除いて継体以後の没年が確定できる。宣化だけが例外的に崩年干支(または没年齢)が記載されないのは、欽明に譲位した疑いが生じる。筑紫君石井の乱を武力で討伐した大伴氏・継体一族への報復とバーターされたのではないか。蘇我稲目(欽明)と大伴氏・宣化の並立は矛盾だからである。

  531 540 570 584
 稲目 ----------------------------------------*571
 欽明 ------------------------------*
 敏達 -------------*

  584 587 592 628 641
 敏達 -------------*
 用明 --*
 崇峻 ---*   
 推古 ------------------------------------*
 舒明 ------------*


アーカイブ:古代史の杜(下記ホームページ・著作権は宮津徳也さん)を引用しています
http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/arc/index.html

 

2007/1/18 「伊勢大鹿氏」

2022-06-27 14:18:02 | 日記

      古代の有力氏族、伊勢大鹿氏

Q  『日本書紀』や『古事記』に出てくる伊勢大鹿氏とは、どういう人だったのでしょうか。伊勢国のどこにいたのですか。大きく二つの意見があるようですが、その概要を教えてください。
(平成八年二月 県外個人)


 『日本書紀』の敏達天皇四年(五七四)の条に「伊勢大鹿首小熊」という人物が見えます。その娘の菟名子は、采女として出て同天皇の夫人となり、太姫皇女(桜井皇女)と糠手姫皇女(田村皇女)の二人の皇女を生んだというのです。『古事記』にもほぼ同様の記述があります。なお、この糠手姫皇女は、のちの舒明天皇の母です。そうしたことで、大鹿氏は伊勢国では天皇系譜につながる唯一の古代氏族として注目され、伊勢国のどこを本貫地(律令制で戸籍に記載された地、転じて出身地、本籍地)にしていたのか、古くから議論があります。
 多気郡の相可(現多気町)を大鹿氏の本貫地とする説は多く、江戸時代から続いています。外宮神官度会延経の『神名帳』考証を受けた安岡親毅の『勢陽五鈴遺響』では、相可の相鹿上神社の祭神が天児屋根命で、「相鹿大鹿相同シキニ拠テ大鹿首ノ始祖ハ天児屋根命ナリ……大鹿ハ今ノ相可ト称スルニ相同ク大鹿首ノ本貫ノ地ナルヲ其祖神ヲ祀ル処ナリ」と記しています。相可と大鹿の音が似通っていることと相鹿上神社の祭神を主な根拠としていますが、これを受けた記述は多くあります。平成四年発行の『多気町史』でも、「伊勢大鹿首は、異説もあるが、相可付近に住んでいた当地方の豪族であったと考えられる」としています。また、伊勢神宮の創祀を考える上で高見峠を越えて大和と伊勢を結ぶ交通の要衝である相可を強調する研究者もいます。
 一方、北伊勢の河曲郡(現鈴鹿市)に大鹿氏の本貫地があったという説も多く、古くからありました。本居宣長は『古事記伝』の中で「伊勢大鹿首は、神名帳に伊勢ノ国河曲ノ郡大鹿ノ三宅ノ神社あり、此ノ地より出たる姓なり」とし、神宮神官の御巫清直も「伊勢式内神社検録」(大神宮叢書『神宮神事考証』所収)の「河曲郡大鹿三宅神社」の項で「其(大鹿首)子孫久シク連綿シテ……其大鹿氏ノ居処ヲ大鹿村ト称ス。本郡ニ隷セル国分村是ナリ」としています。これらの説に関係する文献史料としては、『延喜式 神名』のほか、『太神宮諸雑事記』の治承三年(一〇六七)十二月条に、以前のこととして「河曲神戸預大鹿武則」の名が見え、『皇大神宮建久已下古文書』では山辺御薗(現鈴鹿市山辺町)内の大鹿村は国分寺領と号すとあります。
 こうした文献史料だけでなく、『神戸史談』や『鈴鹿市史』では、現国分町付近に大鹿山古墳や大鹿氏の伝承にちなむ古墳のあることを取り上げ、考古学の立場からも言及しています。さらに、最近では、岡田登氏によって、詳しい文献分析と発掘調査などの考古学的成果を踏まえた論考がなされています。以下、その概略を紹介することにします。
 まず、「北伊勢地方の主要交通路(東海道)に本貫をおく伊勢大鹿氏は、景行朝頃に中央と絆を深め、雄略朝には采女(三重の采女)を出し、さらに安閑朝に屯倉が設置され、その管理者になった」と、書紀記載以前の大鹿氏について考察されています。そして、前述のように伊勢では天皇系譜につながる唯一の氏族となり、壬申の乱では大海人皇子を助け、氏寺(大鹿廃寺)の創建に際しては、天皇と関係の深い川原寺に用いた瓦と同式の瓦の使用が許されたというのです。また、伊勢国府の造営に協力し、国分二寺の創建では「率先して自らの本貫地を提供して、その造営に助力した」とまとめられ、現在進めている伊勢国府跡・伊勢国分寺跡周辺の発掘調査の成果が取り入れられています。
 多気郡・河曲郡のいずれに大鹿氏の本貫地があったとしても、古代伊勢国では重要な働きをしていた有力な氏族であったと考えられます。
参考文献
・仲見秀雄「古代の神戸」『神戸史談』第六号 昭和四十二年
・『鈴鹿市史』第一巻 昭和五十五年
・岡田登「伊勢大鹿氏について上・下」『史料』一三五・一三六号 皇学館大学史料編纂所 平成七年

県史Q&A
http://www.pref.mie.jp/BUNKA/TANBO/Q_A/


2007/1/18 「舒明天皇」

2022-06-27 14:17:07 | 日記

舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。諱は田村皇子(たむらのみこ)。 和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。

先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年)に死去した時、継嗣を定めていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとした言う説と他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したと言う説がある。また近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と庶子である用明天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたために、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。

ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。

在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 高表仁は、天皇と礼を争った。 唐には使者の他にも学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れた。

『本朝皇胤紹運録』や『一代要記』などでは、49歳で崩御と伝えられている。古い史料による確認は困難なものの、母である糠手姫皇女が舒明よりも20年以上長く生きて天智天皇3年(664年)に死去している事や、子である天智天皇らの年齢を考えると、ほぼ正確な年齢(もしくは数年の誤差)ではないかと見られている。

系譜

天皇系図 26~37代押坂彦人大兄皇子(敏達天皇皇子で、母はその最初の皇后である広姫)の子で、母は糠手姫皇女(敏達天皇皇女で押坂彦人大兄皇子の異母妹)。

皇后:宝女王(たからのひめみこ、後の皇極天皇。茅渟王の女)
葛城皇子(かずらきのみこ、中大兄皇子・天智天皇)
間人皇女(はしひとのひめみこ) 孝徳天皇の皇后
大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)
夫人:法提郎女(ほていのいらつめ。蘇我馬子の女)
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、吉野太子)
采女:蚊屋采女(かやのうねめ、姉子娘?。賀陽臣の女?)
蚊屋皇子(かやのみこ、賀陽王) 三島真人の祖
妃:田眼皇女(ためのひめみこ。敏達天皇の皇女)
『日本書紀』が記す以上の皇子女の他、『一代要記』『帝王編年記』などに布敷皇女(母は法提郎女)・押坂錦間皇女(母は粟田臣鈴子の女 ・香櫛娘)・箭田皇女(母は蘇我蝦夷の女 ・手杯娘)の名を伝えるが、所拠不明である。

当時皇室の系図(下)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Emperor_family_tree26-37.png#file

 

             歴代天皇一覧
1 神武 2 綏靖 3 安寧 4 懿徳 5 孝昭 6 孝安 7 孝霊 8 孝元 9 開化 10 崇神
11 垂仁 12 景行 13 成務 14 仲哀 15 応神 16 仁徳 17 履中 18 反正 19 允恭 20 安康
21 雄略 22 清寧 23 顕宗 24 仁賢 25 武烈 26 継体 27 安閑 28 宣化 29 欽明 30 敏達
31 用明 32 崇峻 33 推古 34 舒明 35 皇極 36 孝徳 37 斉明 38 天智 39 弘文 40 天武
41 持統 42 文武 43 元明 44 元正 45 聖武 46 孝謙 47 淳仁 48 称徳 49 光仁 50 桓武
51 平城 52 嵯峨 53 淳和 54 仁明 55 文徳 56 清和 57 陽成 58 光孝 59 宇多 60 醍醐
61 朱雀 62 村上 63 冷泉 64 円融 65 花山 66 一条 67 三条 68 後一条 69 後朱雀 70 後冷泉
71 後三条 72 白河 73 堀河 74 鳥羽 75 崇徳 76 近衛 77 後白河 78 二条 79 六条 80 高倉
81 安徳 82 後鳥羽 83 土御門 84 順徳 85 仲恭 86 後堀河 87 四条 88 後嵯峨 89 後深草 90 亀山
91 後宇多 92 伏見 93 後伏見 94 後二条 95 花園 96 後醍醐 97 後村上 98 長慶 99 後亀山 100 後小松
北朝 1 光厳 2 光明 3 崇光 4 後光厳 5 後円融 6 後小松
101 称光 102 後花園 103 後土御門 104 後柏原 105 後奈良 106 正親町 107 後陽成 108 後水尾 109 明正 110 後光明
111 後西 112 霊元 113 東山 114 中御門 115 桜町 116 桃園 117 後桜町 118 後桃園 119 光格 120 仁孝
121 孝明 122 明治 123 大正 124 昭和 125 今上 ※赤字は女性天皇

 

          皇室飛鳥時代

┬(27)安閑天皇
├(28)宣化天皇─上殖栗皇子─十市王─(多治比)麻呂─島(丹党祖?)
└(29)欽明天皇┬(30)敏達天皇┬忍坂彦人大兄皇子┬(34)舒明天皇─→
       │       ├春日皇子    └茅渟王┬(35)皇極天皇/(37)斉明天皇
       │       ├大派皇子        └(36)孝徳天皇─有間皇子
       │       └難波皇子─大俣王─栗隈王─美努王─(橘)諸兄(葛城王)〔橘氏へ〕
       ├(31)用明天皇─┬┬聖徳太子(厩戸皇子)─山背大兄王
       ├(33)推古天皇 │├来目皇子
       ├(32)崇峻天皇 │├当麻皇子
       └穴穂部間人皇女 ┘└殖栗皇子