[敏達の系譜と宣化末裔]
するとここに重大な問題を引き起こす。欽明こと蘇我稲目も最初の敏達こそ、宣化のつまり継体の血を引く、つまり皇統譜を継ぐが、用明から推古は全く天皇家と無関係になる。だからこそ死せる手白髪に超高齢出産(ほぼ58歳)させてまで、欽明を継体の子とする。この改竄とどちらが前後するか解らないが、敏達系譜にも作為を加える。
① また伊勢の大鹿首の女、小熊郎女を娶りて生みませる御子は、布斗比賣命、次に寶
王、亦の名は糠代比賣王。
② また息長真手王の女、比呂比賣命を娶りて生みませる御子は、忍坂の日子人の太子、
亦の名は麻呂古王。
③ 日子人の太子、庶妹田村王、亦の名は糠代比賣命を娶りて生みませる御子は、岡本
宮に坐しまして、天の下治らしし天皇(舒明)。
③で庶妹田村王というが、田村王はいない。そこで「亦の名、糠代比賣」で①の寶王とつなげている。なぜ亦の名の糠代比賣でつなげるのか。さらに②の息長真手王は、継体系譜に「息長真手王の女、麻組郎女を娶りて生みませる御子は、佐佐宜郎女。」「佐佐宜郎女は、伊勢神宮を拝ちたまひき。」とある。継体期の息長真手王が敏達期に出てくるのは不審。従って、忍坂の日子人の太子も庶妹田村王も浮いている。
欽明ー敏達ー忍坂日子人太子となるが、太子になった記事も太子の扱いもない。息長真手王が特定の個人名ではなく、正直な愚直なという意味のマデなら、旧大和王朝の外戚としてその再興を図る息長の王となる。つまり譲位させられた宣化の系統を、唯一の天皇として係累を守っているとできる。だから継体のとき麻組郎女を娶合わせたように、今また広比賣から忍坂日子人太子が生まれ、宣化系の太子を名乗っているとも解釈できる。
紀では「伊勢大鹿首小熊の女、菟名子夫人が太姫皇女ーまたの名は桜井皇女ーまたの名は田村皇女という(舒明天皇の母)を生んだ。」とある。微妙に異なるが、太姫皇女=田村王とする。記は寶王、紀は布斗比賣で齟齬を生んでいる。
伊勢大鹿首は九州出身の蘇我氏には縁が薄そうである。結局記紀の主張は、息長真手王の生んだ太子日子人が、采女の伊勢大鹿首の娘が生んだ田村王を娶って岡本宮の舒明天皇をうんだ、ということである。これが庶妹というから父は同じとなる。記紀の系譜どおりだとすると、欽明以外に天皇の正統性を持つ天皇はいない。葛城氏・平群氏が倭王であったときは、皇統は二王系あったが、今の蘇我氏のときは皇系は切れた(宣化系の断絶)とみられる。それゆえに蘇我氏を皇系に入れざるを得なかったのだろう。
天智・天武天皇にとって舒明は父であり、忍坂日子人は祖父・田村王は祖母である。その系譜・続き柄が曖昧だったとは考えられない。しかも蘇我蝦夷は殺害され、その勢力は面影もなかった時代である。だが記紀の系譜が作為されていることは、決して記紀の描く系譜でなかったことを意味する。
検証はできないが、宣化には三人の男子があり、宣化から四代の大和王朝系の皇統譜があったのではないか。その痕跡が、太子の名のみを負う忍坂日子人ではないか。また崇峻紀には宣化の皇子とする宅部(やかべ)皇子を殺す記事があり、宣化ー宅部皇子ー上女王という系譜を載せる。上王とは小石比賣の子である(欽明系譜)。宅部皇子は、「また川内の若子比賣を娶りて生みませる御子、火穂王、次に恵波王。」のどちらかであり、石比賣が庶妹に当たる。
宣化 --+-小石比賣 -+
+-上王
宣化 --+-宅部皇子 -+
上王が田村王である確証はないし、世代もズレる。
旧大和王朝を支えたのが息長氏であり物部氏だったのだろう。大伴金村は失脚し(大伴狭手彦が活躍)、物部氏は守屋のとき蘇我馬子に滅ぼされる(587年)。息長氏は外戚であり、政治力・武力で支えることはできない。蘇我氏を抑えて天皇になることができず、舒明のとき蘇我系統として即位するしかなかったのだろう。
宣化 -+-石比賣 --+
+-+-敏達 --+
欽明(蘇我稲目)-+ +-忍坂日子人 -+
息長真手王 --+-+-比呂比賣 -+ +-舒明
伊勢大鹿首-+-田村王 -+
[ 蘇我稲目以降 ]
蘇我氏にすれば縁の薄い舒明をなぜ天皇にしなければならなかったか。九州肥後王が倭王を奪還して、蘇我氏の後ろ盾だった筑紫の倭王を失ったからである。『隋書』によれば、開皇20(600)年と大業3(607)年に、倭王が中国王朝隋に遣使し、大業4(608)年には裴(はい)清が倭国に来たとある。その裴清の報告によると、「竹斯国より以東は皆倭に附庸する」とある。竹斯国は筑紫国。附庸は大諸侯についている小国。つまり倭王という侯王に従属している小国である。附庸の語に、倭国に対する隋の立場が示されている。近畿はもちろん筑紫国より以東の国である。推古は筑紫を領していたが、そのまま倭王に附庸していたのである。
物部守屋と蘇我馬子の戦いは、一般的には拝仏派と崇仏派の戦いとみられているが、肥後と筑紫の代理戦争でもあったのではないか。葦北国造日羅が大和へ到り、日羅側の内紛で殺される。その前の高句麗の使人が殺される事件と合わせ、高句麗や百済が、倭の五王を継承する肥後王を倭王とすべきか、蘇我氏を倭王とするのかの外交上のトラブルとみられる。蘇我稲目が日本天皇を殺して倭王となったものの安定せず、稲目が亡くなると国内情勢も流動化する。崇峻代の近畿軍精鋭2万の派遣(任那での戦闘なし)も、崇峻天皇の暗殺もその動きとみられる。
中国では隋が統一すると、高句麗・百済がこれに従い東アジアも安定へと向かう。『隋書』に登場する倭国(タイ國)は邪馬台国を継ぐ肥後王であり、倭王は間違いなく蘇我氏から肥後王に移っている。『隋書』の倭国を大和王朝とする説があるが、「竹斯国より以東は皆倭に附庸する」は筑紫国より東の国(当然大和国を含む)と言っているのであり決定的に矛盾する。大和が大和に附庸する訳がない。また『隋書』の記事はあくまでも九州を対象としている。(破綻した論理・解釈に固執するのは学問的な態度ではない。)
果たして大業4(608)年は推古16年であり、裴世清が難波津から大和へ来ている。前年15年(607)の7月に「小野妹子を大唐に使わす」、翌推古16(608)年の4月に帰朝したとある。紀は大和王朝(推古)が主体的に「小野妹子を大唐に使わす」と書くが、『隋書』の記事と対応しており、倭王の遣隋使に随行したに過ぎない。「上(煬帝を指す)、文林郎裴清を遣わして、倭国に使いせしむ」で、煬帝が遣使するのが主体である。このときの隋の煬(よう)帝の国書は当然倭王に渡されたのであり、附庸国に国書を渡すことはない。それを小野妹子が百済人に掠め取られたとするから、書紀編者の脚色に驚く。
八年に新羅征討軍として推古は境部臣を将軍として一万の兵を送る。倭王の命による任那救援のための倭国合同軍であろう。推古十年四月には来目皇子を将軍として2万5千人の兵を筑紫に派遣する。前回と将軍・兵力は格段の差である。だがこのときは翌年七月に筑紫から引き返してくる。皇子の死や病気を理由とするが、理由にならない。本当の理由は隠される。この出兵は隋との外交を認めさせるためだったのではないかと考えられる。その初めての中国外交が遣隋使に随行することだった。その推古さえ、拮抗しながらも倭王に附庸していた。
不十分ながら「欠史十代」シリーズはひとまず終わることにする。
アーカイブ:古代史の杜(下記ホームページ・著作権は宮津徳也さん)を引用しています
<ahref="http: www.mctv.ne.jp="" ~kawai="" vtec="" arc="" index.html"="">http://www.mctv.ne.jp/~kawai/vtec/arc/index.html</ahref="http:>
敏達天皇
御子のヌナクラフトタマシキ命は、他田宮(をさだのみや)において天下を治めること十四年であった。
この天皇が、庶妹(ままいも)のトヨミケカシキヤヒメ命を妻として生んだ御子は、シヅカヒ王、またの名はカヒタコ王、次にタケダ王、またの名はヲカヒ王、次にヲハリダ王、次にカヅラキ王、次にウモリ王、次にヲハリ王、次にタメ王、次にサクラヰノユミハリ王である。八柱。
また、伊勢の大鹿首の娘、ヲクマコ郎女を妻として生んだ御子は、フトヒメ命、次にタカラ王、またの名はヌカデヒメ王である。二柱。
また、オキナガマテ王の娘、ヒロヒメ命を妻として生んだ御子は、オシサカヒコヒト太子、またの名はマロコ王、次にサカノボリ王、次にウヂ王である。三柱。
また、春日のナカツワクゴの娘、オミナコ郎女を妻として生んだ御子は、ナニハ王、次にクハタ王、次にカスガ王、次にオホマタ王である。四柱。
この天皇の御子たちの合わせて十七王の中の、ヒコヒト太子が、庶妹のタムラ王、またの名はヌカデヒメ命を妻として生んだ御子は、岡本宮において天下を治めることとなる天皇、次にナカツ王、次にタラ王である。三柱。
また、アヤ王の妹、オホマタ王を妻として生んだ御子は、チヌ王、次に妹のクハタ王である。二柱。
また、庶妹のユミハリ王を妻として生んだ御子は、ヤマシロ王、次にカサヌヒ王である。二柱。
合わせて七王である。
甲辰年四月六日に亡くなられた。御陵は川内の科長(しなが)にある。
■用語解説
他田宮 をさだのみや 奈良県桜井市戒重の地という。
伊勢大鹿首 いせのおほかのおびと 伊勢を本貫とする豪族。
春日 かすが 古くは丸邇臣を名乗り、春日に本貫を移して春日臣を称した。
岡本宮 をかもとのみや 奈良県高市郡明日香村雷の付近。舒明天皇とその皇后の斉明天皇の宮であり、「岡本宮において……天皇」は、舒明天皇を指す。
甲辰年
四月六日 きのえたつのとしの
うづきむゆか 西暦584年に相当する。書紀は585年。
川内の科長 かふちのしなが 大阪府南河内郡太子町葉室の地。
糠手姫皇女 (ぬかでひめのみこ) 【生没年】 ?~664(天智3)
【系譜】
敏達天皇の皇女。押坂彦人(おしさかのひこひと)大兄皇子の妃。
母は伊勢大鹿首(いせのおがのおびと)小熊の女莵名子。田村皇子(舒明)の母。太姫(ふとひめ)皇女の同母妹
【略歴】
舒明天皇即位前紀によれば、押坂彦人皇子の妻となり、舒明天皇を生んだことがみえ、天智3年6月薨去した嶋皇祖母命(しまのすめみおやのみこと)は舒明天皇の母、天智天皇の祖母にあたる糠手姫のことである。『紹運録』によれば、押坂彦人皇子との間に、推古元年(593年)、舒明天皇を生んだとある。
【参考】
糠手姫の母の出自である伊勢大鹿首は、『延喜式』神名張に伊勢国河曲(かわわ)郡に大鹿三宅神社がみえることから、この地を本拠とする豪族であったと思われる。