goo blog サービス終了のお知らせ 

大鹿一族の歴史探訪

大鹿姓発祥の歴史から、一族の流れを探訪し、現代の大鹿までをつなぎます。 ー古事記から現代までー

2009/2/9 「伊勢国分寺第跡 1」

2022-06-27 14:32:21 | 日記

伊勢国分寺第31次発掘現地説明会
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/ato_isekokubunji.htm

2006/01/15追加:
伊勢国分寺第31次発掘現地説明会

□「伊勢国分寺跡 第31次発掘調査現地説明会資料」鈴鹿市考古博物館 より
平成11年度:講堂の基壇確認。
平成12年度:金堂及び講堂の規模確認。
平成13年度:中門基壇(19.5×11・9m)、廻廊(中門と金堂を結ぶ・68×51m巾7m)を確認。
平成14年度:南門基壇(17.6×11.2m)、伽藍地の東1/3が築地塀で区画されていることを確認。
平成15年度:北東院から推定食堂と思われる堂跡を検出、僧坊(講堂北・72×9m)跡を発掘。
平成16年度:塔の発見を目的に伽藍地の南東地を発掘するも、塔の手がかりは発掘されず。
平成17年度:第31次発掘調査:
最終年度として塔の発見を主眼にして、塔跡の可能性がある残されたほぼ最後の区画として、金堂東(やや南)に調査区を設定し調査を実施。
その調査結果は、「大きな目的であった塔については、何ら手がかりを得ることは出来なかった。(是迄の調査結果も踏まえ)築地塀で囲まれた180m四方の伽藍地内には塔が無かったという結論」に至る。
この地は国分尼寺ではないかという見解に対しては、「しかし、尼寺であるという明確な証拠」の発見もなく、伽藍地以外での塔建立の可能性も信じて、今後の検証を行っていく方針である  とする。

※「史蹟 伊勢国分寺」については、第31次調査でその妥当性が揺らぎ、伊勢国分寺跡についての再検討が必要になったものと思われる。
妥当性については、後述「★4)「国史跡 伊勢国分寺跡」の妥当性について 」を参照下さい。
(要するに、「史蹟 伊勢国分寺跡」される遺跡は、実は国分寺跡ではなくて、例えば「国分尼寺」などの他の寺院跡である可能性の追求、さらに、以上であるならば、伊勢国分寺跡は別にあるのではないかという視点での探索が必要でなないかと思われる。)
☆お断り
以上の見解で、鈴鹿市教育委員会をはじめとする関係各位のご努力・成果などを否定する意図は全くありません。
むしろ逆に、伊勢国分寺を巡る関係各位のご努力・成果に深く感謝するものであります。

※第31次発掘調査より
第31次調査区図:赤線の区画が第31次調査区です。
第31次調査区1:西より撮影
第31次調査区2:東より撮影:いづれも白テープで表されている区画は築地塀跡で、その両側の土に色が変わっている部分が溝の遺構。
第31次調査区3:調査区東部分を北から撮影:同じく築地塀跡とその両側の溝の遺構です。写真中央は大量の瓦がある瓦溜まりです。
第31次調査区4:上と同じく調査区東部分を北から撮影:瓦溜まり土孔部分。
第31次調査区門:築地塀を切る形で門が構えられていたとされる。
第31次調査区溝1:西南隅の溝  第31次調査区溝2

※今回の調査で、この調査区一帯は東西45、南北30mの築地塀(当初は柵であったと考えられる)で囲まれ、南に門を設けた小規模な院が構成されていたことが確認された。院の中には建物跡は確認 出きす、また院が正方形でないため、塔院である可能性 はないものと判断された。またその他の顕著な出土遺物もないため、院の性格は不明とする。

□「史蹟 伊勢国分寺」現況
伊勢国分寺講堂跡1
伊勢国分寺講堂跡推定礎石:講堂跡には礎石と思われる石は唯一残存する。
伊勢国分寺講堂跡2

□出土遺物:但し、いずれも今回(31次)の出土ではなくて、以前の出土遺物の展示と思われます。
伊勢国分寺軒丸瓦
伊勢国分寺刻印瓦  伊勢国分寺刻印瓦「匂」  伊勢国分寺刻印瓦「+」
伊勢国分寺鬼瓦1   伊勢国分寺鬼瓦2
伊勢国分寺塼

□現国分寺(国分町に現存):
現在は無住と思われる。
本堂は傾き、倒壊寸前の様子だったと思われますが、現在は床下には本堂を支える鉄骨の基礎にする頑丈な鉄筋コンクリート基礎が設けられ、その基礎から柱を支える鉄骨(H鋼)が架せられ、本堂の倒壊を防止する工事がなされています。
恐らく地区の人たちの努力と推定されます。
この国分寺の詳しい沿革は未詳ですが、この地に「伊勢国分寺」と称する寺院が再興されていることは、この地が古の国分寺の地であったことの無言の主張の可能性もあると思われます。
常慶山国分寺1:部落の中に本堂・鐘楼・小堂・庫裏(集落の集会場?に転用?)のみあり、門・築地塀などの囲いはない。
常慶山国分寺2
常慶山国分寺3:棟瓦で「伊勢国国分寺」を著す。
常慶山国分寺4:国分寺の扁額を掲げる。
常慶山国分寺5:昭和38年には国分寺梵鐘が鋳造されたようです。

□「伊勢国分寺陳跡碑記」(亨和2年)
「伊勢国分寺跡Ⅰ」鈴鹿市教育委員会、2002.3 より
国分町内の「花木山光福寺には国分寺の由来を説く亨和2年(1802)の石碑がある。
この石碑によれば当地には南院・北院の2か寺があり、南院が僧寺、北院が尼寺と云う。
伊勢国分寺陳跡碑:左図拡大図
 東面し、碑の大きさは一辺34.5cm角、高さ92cmを測る。(実測)
光福寺本堂扁額:本堂に懸かる「南院」扁額
碑文(正面)
碑文(左面):不鮮明なため、写真の右と左は同一のものを掲載。:第2面
碑文(背面):全体写真の撮影は困難なため、上下2枚の写真を合成(中央部で合成)
碑文(正面及び右面)
碑文(左面):最終面
※写真写りも悪く、また私には解読できない文字も多々ありますが、
「伊勢国分寺陳述碑記
  権僧正真淳撰 細谷方明書并テン額
・・・・
貞和2年建立・・・・」で終る。
※要するに江戸後期には、光福寺・現存国分寺附近が「北院」法華尼寺とされ、
南院が金光明護国之寺とされる伝承があったと思われます。
この地では古瓦の出土を見たようです。



□吉田東伍 「増補 大日本地名辞書」より

 伊勢寺《イセデラ》 今村名と為る、松江村の西、堀坂山の東麓を云ふ、大字伊勢寺|岩内 深長等あり。
恵雲寺《エイウンジ》は国分寺と称す、伊勢寺村に在り、古の尼寺なるべし、河曲郡国分寺は僧院なりけん。〔伊勢名勝志五鈴遺響)○日本後紀云、大同四年、始遷志摩国国分二寺僧尼、安置伊勢国国分寺。○日本往生極楽記に見ゆる、上平郷の尼と云ふも此に任せるにや、曰「尼某甲、伊勢飯高郡上平郷人也、暮年出家、偏念弥陀、尼多年意剥手皮、奉図極楽浄土、雖有懇志、不能自剥、干時一僧来問、剥尼手皮、忽焉不見、図浄土之相、一時不離其身、命終之時、天有音楽。○延喜式、飯高郡物部神社、今国分寺々域に在り、〔五鈴遺響〕日本書紀、継体天皇二十三年の条に、物部伊勢連あり、旧事紀云「物部建彦連公、伊勢荒比田連等祖」
  ※伊勢寺は国分寺と称し、古の尼寺との見解があるようです。国分寺は河曲郡とする。伊勢寺:現松阪市伊勢寺町世古

 国 分《コクブ》 今川曲村の大字也、山辺の東北に接す.国分寺は今浄土宗を奉じ、常慶山と号す、〔東海道図会〕蓋僧寺なり、飯高の伊勢寺を参考すべし。大鹿三宅神社は今国分の大鹿《オホカ》山に在り、天神と称す、延喜式に列し、神宮雑書に「建久三年、大鹿村号 国分寺領」と見ゆれば、村名旧大鹿、蓋伊勢大鹿首の祖神なり、社畔土中より古瓦を出す。〔五鈴遺響神祇志料〕○敏達紀曰、采女 伊勢大鹿首小熊女、曰菟名子夫人、生太娘皇女与糠手姫皇女。姓氏録曰、大鹿首、津速魂命三世孫、天児屋根命之後也。○古事記伝云、大鹿首は伊勢より出たる姓なり、続紀(十七)伊勢大鹿首、又(廿三廿四)大鹿臣子虫、神宮雑事記、治暦三年、河曲神戸預 大鹿武則、東鑑、伊勢国大鹿俊光、大鹿兼重、大鹿国忠など云人見ゆ。
鬼太《キタ》神社は延喜式、河曲郡に列す、今川曲村大字|木田《キタ》の八王子是なり。
補【大鹿三宅神社】○神祇志料 今国分村天神山にある天神蓋是也(式内社検録)
 按、本書引神宮雑書に建久三年注進状当御国内大鹿村を国分寺領と号すとあれば、当村大鹿村を廃て国分村と唱ふる事知べし  蓋伊勢大鹿首の祖天児屋根命を祀る(古事記・日本紀・神宮雑事記・東鑑)
  ※僧寺は河曲郡国分にある浄土宗常慶山国分寺との認識のようです。
 
 塔 世《タフセ》 今津市に入る、安濃川(一名塔世川)以北の総名なり。五鈴遺響云、塔世は今町家と為り、別に穢人の居を塔世村と呼ぶも、往昔はさにあらず、塔世寺(四天王寺)康平五年の古田文によるも、七百余年来の称する所なり、其古田文は
 (中略)
補【塔世】安濃郡〇五鈴遺響 塔世は津府城の属邑に今はなれり、塔世の上橋を渉て川岸の巽位に塔世村と称する穢人の居あり、其屠児を指して今はいへども、往昔は今の塔世町万町の辺は都て塔世町なり、神鳳抄異本に土深と記せしは伝写の謬なり、然れども前の康平五年の古田文に四天王寺字は塔世寺の文を填れば、七百有余年称する処なり。
 
四天王寺《シテンノウジ》 本尊薬師如来、俗説に国分寺なりと云は非なり、鎌倉武家の頃、邑主加藤氏の重興にや、又山之庵と云へば、旧は山頭に在りしか、永享年中禅僧永龍中興す、元亀の比、北畠国永此寺に祈願したる由、国永卿記に見ゆ、文禄三年、織田信包の母堂(即信長の母)津にて逝去し此に葬る、富田氏寺禄五十石を給附し、藤堂氏堂宇を修造す、塔世薬師堂と称す。〇五鈴遺響云、文化二年、塔世寺薬師仏関龕して、詣人に拝せしむ、仏躯の中空虚にして物を容るに似たり、探り見るに一巻軸及び糸巻様の物に坪糸を巻纏するあり、又準尺一本を得たり、其冊子及旧案を披くに、承保四年及び康平五年の古文書あり、其文に薬師仏は僧定(石+疑)物部美沙尾本願に依て、物部吉守服部重孝等此像を造りて仏体中に秘むといふなり、此冊子及旧案は四天王寺に今に蔵せり。
 (中略)
按に塔世寺は物部氏安努建部君の創立なるべし、五鈴遺響は承保四年の造立と為せど、康保旧案に弘仁天長の勘註を曰へば、弘仁以前なるやも知るべからず。
  ※四天王寺が国分寺との「俗説」もある(あった)ようです。

★1)史蹟伊勢国分寺跡発掘情報(問題の発端あるいは所在)

中日新聞2006/01/06記事:
『伊勢国分寺跡に「院」』『鈴鹿市考古博物館、発掘調査で確認』
「鈴鹿市考古博物館は5日、同市国分町の伊勢国分寺跡第31次発掘調査結果を発表した。(中略)
伊勢国分寺跡は1922(大正11)年10月に国の史跡に指定された。88(昭和63)年度から寺域の確認や国分寺のシンボルである塔跡や墨書土器の発掘調査に取り組んだが、計画的な年次調査の最終年度の今回も墨書土器や推定される七重の塔跡は発見できなかった。国分寺跡は全国に60余りあるが、国の史跡で発掘調査をして塔跡が見つからなかったのは伊勢国分寺跡だけ。(後略)」

※以上の記事によると、31次にわたる伊勢国分寺調査(今回は計画発掘の最終年度)でも「塔跡」の検出を見ないという。
これは何か「異様な結果」とも思われる。

★2)「鈴鹿市考古博物館」ホームページ情報

☆「国史跡 伊勢国分寺跡」より抜粋・要約
○伊勢国分寺跡の発掘調査
・伊勢国の国分寺は現在の鈴鹿市国分町に建てられ、鈴鹿川左岸の標高43m前後の丘陵上に位置する。
・奈良時代中期の伊勢国府跡は現在の広瀬町長者屋敷遺跡であることが確認済。(国史跡国分寺からは西南約7kmに位置)
・この地は豪族「大鹿(おおか)氏」(『日本書紀』に登場)の本拠地と考えられる。
・近年、国分寺の南面に奈良時代前半期の河曲郡の郡衙遺構が発見された。
・大正11(1922)年、国分町字堂跡を中心とした約200m四方が「国史跡伊勢国分寺跡」に指定された。
・尼寺跡についてはこれまでその正確な位置が不明なままであった。
○僧  寺
・国分集落の西方で、字「堂跡」「西高木」「西谷」地区に所在し、現在は畑や水田となっている。
付近にはおびただしい瓦片が散乱し、戦前には西側に土塁(築地)が残存していた。(国史跡伊勢国分寺跡指定理由)
・昭和63年度から3カ年実施した伽藍地の範囲を確定する発掘調査で、四周の築地跡と雨落溝が検出され、
寺域は東西178m×南北184mの規模であることが判明している。
・平成11年度の調査では講堂の位置・規模を確認。
講堂は現在、石碑が建てられている土壇付近において確認された。講堂基壇地下の基礎地形は東西約33m・南北約21mを測り、その平面形態から7間×4間の柱間を持つ建物が想定される。築造当初の基壇はほとんど失われているが塼による基壇化粧の基底部が残存しており、平瓦・丸瓦で補修された箇所も見られた。講堂北西部では軒瓦が軒から落下したままの状態で並んで出土した。
・平成12年度の調査では金堂の位置・規模を確認。
金堂はさらに基壇の残りが悪く、基礎地形の範囲から東西約28m・南北23mの基壇と5間×4間の建物が想定される。なおこの基礎地形は創建当初のものと見られ、その一部は瓦片を含む整地層によって壊されている。この整地層は改築に伴うものと考えられ、南辺部にはせんからなる改築時の基壇基底部が残されている。
・その他主要伽藍である塔・中門・南門については平成13年度以降、調査を行っていく予定である。

※塔については、第31次調査でも明確にならなかったと報じられる。

○尼  寺
・現在の国分集落内に花木山光福寺があり、その境内に建てられた「伊勢国分寺陣跡碑記」には当地には「南院」(僧寺)と「北院」(尼寺)が存在したことを記している。この内容の真偽はともかく北院とされる字北条一帯と南院とされる字南浦の両者とも古瓦の散布地であることは間違いない。
・平成5年の北条一帯(北院)調査で集落のすぐ西から大規模な瓦溜まりが検出された。鬼瓦のほか僧寺とは異なる奈良時代中期の軒瓦が出土し、翌年の集落北側の調査で大規模な区画溝や柵列が検出されるなど現集落と重なるようにして尼寺跡が存在することは確実視されるようになりつつある。
○南浦(大鹿)廃寺
・「南院」の地はこれまで尼寺跡とも考えられてきたが、平成3年度からの調査によって大規模な瓦溜まりとともに伽藍地の東限を示すと見られる溝や掘立柱建物を確認した。およそ100m四方の伽藍地が推定される。
・出土瓦の大部分が白鳳期(7世紀後半)に遡るもので、この寺院跡が尼寺跡ではなく、白鳳時代の寺院であることが判明したため南浦(大鹿)廃寺と命名した。(※この命名は大鹿氏氏寺の意と思われる)
・出土瓦には平安時代にまで降るものもあり、10世紀代まで寺院として機能していたと思われる。
○河曲郡衙(かわわぐんが)
・平成6年、史跡伊勢国分寺跡の南方に東西に並ぶ柵列で区画され、整然と並ぶ掘立柱建物の倉庫群が発見された。
・平成7年、範囲確認調査で、10棟の倉庫が「コ」の字状に配置されていることが確認された。倉庫の中で最大のものは8.4m×6mの規模で、柱を据え付けるために掘られた穴は一辺が1m以上もあり、柱は30cmを越える太いものが用いられ、床を支える束柱を持つ倉庫である。この倉庫は、稲穀を保管する「正倉」と呼ばれる倉庫であり、河曲郡「郡衙」の附属施設と推定される。
また倉庫の東150mの博物館進入路や駐車場からも方位を揃えた掘立柱建物群が確認された。床面積が75平方メートルと伊勢国分寺周辺で最大級に及ぶ高床式の建物も検出されている。河曲郡衙の官舎であるか、あるいは郡衙の役人である「郡司」の任についていた豪族大鹿氏の居宅ではないかと考えられている。


2009/2/9 「伊勢の大鹿首氏の系譜と氏人」

2022-06-27 14:31:13 | 日記

□ 伊勢の大鹿首氏の系譜と氏人

(問い) 伊勢大鹿首(伊勢大鹿氏、大鹿首)が当方の祖先とされたものです。このサイトでは、【伊勢氏】とされています。伊勢氏と大鹿氏は別系統ではないでしょうか?
 また、【菊間国造 大鹿国直】と【大鹿首】には何か関連有りますでしょうか?
 
   (ohshika様より、08.5.4受け)

 (樹童からのお答え)


1 伊勢氏と大鹿氏の同族性

 伊勢の大鹿首氏については、『姓氏録』未定雑姓右京にあげられ、「津速魂命三世の孫、天児屋根命の後なり」と見え、その系譜が中臣連一族に出たことが記され、これではきわめて漠然としていますが、詳細な中臣連の系譜には、崇神・垂仁朝に活動した大鹿島命の子に①大楯命、②相鹿津臣命、③臣狭山命の三名をあげて、①が常陸の中臣鹿島連の祖、②が伊勢の大鹿首・川俣連の祖、③が中臣連の祖と記されます。
 一方、伊勢朝臣氏は、『姓氏録』左京神別にあげられ、天底立命孫(ママ)天日別命の後なりとのみあり、具体的な系譜は不明です。この家が伊勢国造の家であることはまちがいないところですが、「国造本紀」には、神武朝に天牟久怒命の孫、天日鷲命を国造に定めるとあり、「天日別命=天日鷲命」で天日鷲命すなわち少彦名神の後裔に位置づけられそうにも見えます。しかし、伊勢朝臣が伊勢直の後で、先に中臣伊勢連を賜っており、天牟久怒命(天椹野命)は天忍雲根命(天村雲命)と同神で、年代的にその子の天種子命(中臣連祖)の兄弟に天日別命が位置づけられるとみられます。これは、伊勢国造が中臣連の初期に分かれた氏族ということを意味します。天椹野命は「天神本紀」に中跡直(ナカト)の祖と見えますが、伊勢国河曲郡中跡郷に起る氏で、式内社の奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)を奉斎したとみられます。
 川俣連も、鈴鹿郡川俣神社に関連するとみられますから、後の鈴鹿・河曲二郡のうち河曲郡に起ったとみられます。『姓氏録』河内神別にあげられる川跨連と同じで、この氏は天児屋根命の九世孫の梨富命の後と同書の記事にありますが、梨富命とは相鹿津臣命の曾祖父にあたります。
 大鹿首氏の後裔は三重郡で大鹿三宅神社を奉斎したとみられますが、一族が山辺御園や河曲神戸にも居たことが史料に見えますので、相互につながりがあることが推されます。すなわち、ここまでの記述で、伊勢氏と大鹿氏は中臣氏族という同系統であることが知られます。

 
2 大鹿首氏の系譜と氏人

 大鹿首氏の系譜は、相鹿津臣命の子に若子命をあげて「大鹿首・川俣連の祖」と記し、その後は系図史料に見えません。とはいえ、伊勢有数の豪族として、敏達天皇の後宮に入った菟名子(小熊子郎女ともいい、桜井皇女などの母。伊勢大鹿首小熊の娘)を出しており、奈良時代の後宮女官として大鹿臣子虫が見え、従五位下まで昇叙されています(『続日本紀』天平宝字五年〔761〕六月条など)。
 氏の姓は臣、さらに宿祢に変わり、平安中期頃には山城権少掾に任じた大鹿衆忠、伊勢少掾に任じた大鹿徳益、伊勢介に任じた大鹿国廉や相撲人に大鹿一族が見えます。伊勢の在庁官人として大きな勢力をもっていたことが分かり、これが源平争乱期にも『東鑑』文治三年四月に「介大鹿俊光、散位大鹿兼重、惣大判官代散位大鹿国忠」が見えます。その後の中世での動きは分からなくなります。中世の丹波には大鹿氏が見えますが、これは伊勢から行った可能性もあります。

 
3 東国の大鹿氏など

 先に大鹿首の先祖が常陸にも関係したこと、先祖に相鹿津臣命がいたことをいいましたが、「相鹿」(アフカ)が音の類似から大鹿に通じることが知られます。ところで、常陸国行方郡には相鹿の里があり、『和名抄』の逢鹿郷(潮来市北部の大賀一帯。鹿島神宮の北西で北浦対岸)にあたります。中世下総の土豪に大鹿氏があり、相馬郡取手城(大鹿城)の主で常陸守護でもあった小田氏の配下とされますから、相鹿の里との所縁も考えられます。
 こうした事情からみて、古代上総にあった菊間国造の初祖とされる大鹿国直との関係も、管見に入っていませんが、居地や通婚などの所縁があった可能性もないとはいえません。菊間国造は上古の房総に繁衍した上海上国造の一族で、武蔵国造などと同族で出雲国造と同じ天孫族・天津彦根命の流れですから、中臣氏族とは男系では関係が見られませんが、女系を通じる所縁もないとはいえません。

 (08.5.5 掲上)

引用先・古樹紀之房間(こきぎのへや)古代氏族研究会公認HP
http://shushen.hp.infoseek.co.jp/index.html

 

2007/1/21 「古代の伊勢国造の後裔」

2022-06-27 14:30:09 | 日記

古代の伊勢国造の後裔

(1) 伊勢国造は中臣連の初期分岐であって、初め伊勢直を姓氏とし、のちに中臣伊勢連、中臣伊勢宿祢、中臣伊勢朝臣、伊勢朝臣という姓氏に変わりましたが、平安中期以降はまったくといっていいくらい史料に見えません。これは、太田亮博士も指摘するように、他姓(主として桓武平氏か)を仮冒したことによるものと思われます。
伊勢国造の本拠地については、史料や古墳などの事情からみて、伊勢北部の三重・河曲・鈴鹿郡(現在の四日市市・鈴鹿市)あたり、三滝川・鈴鹿川流域にあったとみられますが、斎藤忠博士も、古代の伊勢国は「三重県鈴鹿郡に国府村あり、伊勢国の北部、鈴鹿川の流域の地帯」にあったと考えています(『古墳文化と古代国家』)。
史料では、『小右記』長徳二年十月の三重郡大領として中臣伊勢常海、『平安遺文』(4-1416)には、康和元年(1099)十月の三重郡司として中臣伊勢宿祢(欠名も、同年〔承徳三年〕の別史料から「良平」か)が見えますから、古墳分布などと合致します。
上記地域には、伊勢国造一族の中跡(ナカト)直が河曲郡中跡郷にあったほか、中臣氏族の大鹿首や川俣県造も勢力を持っていました。河曲郡の延喜式内の奈加等神社(鈴鹿市一ノ宮町)に関して、由緒の一説には、雄略天皇二三年に伊勢国造高雄束命が勅を奉じて創建し、中跡直廣幡が宣旨より初代の祭主となったと伝えます。また、現在は桑名神社に合祀の中臣神社(桑名市本町)は桑名郡の式内社で、神武天皇時の功神で伊勢国造の遠祖天日別命を祀るから、桑名郡あたりまで伊勢国造の領域であったのかもしれません。
 伊勢中部には和珥氏族の飯高県造一族、南部には度会神主・荒木田神主などが居りましたから、こうした配置から考えてもおのずと伊勢国造の領域は伊勢北部に落ち着きます。
 
(2) これら伊勢北部の地に平安後期以降栄えたのがいわゆる伊勢平氏と呼ばれる一族です。そのなかには、正しく桓武平氏の流れもあったとしても、主家の姓氏を仮冒したものもかなりいたと思われますので、確実なところを押さえて、考えていく必要があります。あるいは、庄田・富田・関(信兼一族)など確実なものは除外して、あとは全てに疑いの目を向けたほうがよいのかもしれません。
 
(3) 以上に記してきたことを踏まえて、実系がそうした古代伊勢国造の後裔ではないかとみられるものを敢えてあげてみますと、次のような一族ではないかと推されます。
①『尊卑分脈』で貞季・季衡兄弟の弟にあげる貞衡の後裔としてあげる桑名九郎良平の流れで、「平」を通字とする三重・大和一族。
三重郡司の中臣伊勢宿祢良平の族裔と推されます。ただし、桑名には桑名首の後裔も含まれていそうで、この辺の混合があるのかも知れません。
②伊勢三郎義盛の一族。
父が三重郡司といい、関係地が古代伊勢国造の領域にありますので、名乗りの伊勢も出自の姓氏によるものと考えられます。
③政所執事の伊勢氏も可能性あり。
伊勢氏の実際の出自が室町・戦国期の鈴鹿・河曲郡に勢威をもった関一族の鎌倉期分岐だとすると、関一族も同様に考えられるのかもしれません。
④三重郡阿倉川に居住した舘(たて、たち)一族。
舘氏は源平争乱期に見える舘太郎貞康、同十郎貞景が著名で、平貞盛末流の伊勢平氏と称されますが、系図が多種多様なうえ、平貞盛の郎等にすでに舘氏が見えており、古代豪族の末裔とみられます。舘貞康には、伊勢氏と同様に平季衡の曾孫・頼宗の子とする系譜所伝(「浄覚寺系譜」)があり、通字が「貞」であって、しかも、応永年間に伊勢貞純(ママ)が舘貞康の子孫を代官として阿倉川に置いたという所伝もあって、これが正しいときは伊勢氏が三重郡に所領を持っていた可能性があります。
  なお、元久元年(1204)の三日平氏の乱のとき、三重郡日永の楯三郎が立て籠もったこともあり、この楯は舘と同じか。
⑤中臣姓(天武朝の右大臣中臣金連の後裔と称)で京都の吉田神社の祠官鈴鹿氏。
 天平神護年間に山城国に来住と伝えるが、金連の後裔というのが疑問が大きい上、なぜ鈴鹿を名乗るのか不審です。 
 
 貴信を踏まえて検討してみたところ、私としても思いがけない結論を導き出したことになります。足利氏と縁の深い室町幕府の名族の上杉氏・高氏に系譜仮冒がみられることは、かつて別稿で指摘しましたが、伊勢氏にもそれがあった可能性が高いことに驚いた次第です。
 なお、これらの関係で新しい史料が出てくれば、再検討して結論が変わるかもしれませんが、その辺もお断りしておきます。
 
  (06.4.24掲上)
   


2009/2/9 「故事来歴三重」

2022-06-27 14:28:40 | 日記

故事来歴三重・三重の歴史http://punt.jp/chunichi/machi/07_07_koji/koji_raireki06_2.html

◎大豪族の大鹿氏と関氏一族の反映
 東山道の不破関、北陸道の愛発関と並ぶ三関のひとつ東海道の鈴鹿関を擁し、古くから交通の要所としても重要な役割を果たしてきた鈴鹿。河川の流域や海岸平野を中心に、上箕田遺跡(中箕田町)や西川遺跡(郡山町)などの多数の遺跡と、日本武尊の墓と伝えられる白鳥塚古墳や、王塚古墳(国府町)などの古墳約1000カ所が集中していたことから、この地方には大豪族がいたことが証明される。
 なかでも、古代から中世にかけて栄えた大鹿氏と、室町時代に力を持った、平氏の嫡流をルーツとする関氏が知られる。正平22(1367)年、関盛政は自らの領地を5人の子に相続する。長男である盛澄は神戸氏を名乗り、神戸(現在の鈴鹿市神戸)の西にある沢城に、次男・盛門は国府氏として国府城に、三男・盛繋は関氏の本家として亀山城に、四男・実親は鹿伏兎氏として鹿伏兎城に入城。五男の政実は峯氏を称し川崎の峯城に入った。
 永禄10(1567)年、織田信長は滝川一益らに命じ高岡城(神戸城の支城)を侵攻するも、神戸の長臣の攻防もあり一旦引き上げる。翌年、再び攻め入った信長と和睦した当主・神戸友盛は、三男の三七郎(後の織田信孝)を養子にうけ入れ、それ以降、友盛は信長に従うことになる。ところが信孝との折り合いが悪く、友盛は隠居することに。その後、神戸城主は頻繁に変わることになる。

◎賑わいを見せた白子港と宿場町 
 江戸時代の鈴鹿を見てみると、神戸藩、亀山藩、紀州藩、津藩、久居藩、旗本領など、複雑な藩領が特徴的と言える。なかでも、紀州藩領の白子港は白子廻船を有し、江戸に進出した伊勢商人の物資積荷基地として繁栄を極めた。また白子地区を産地とする伊勢型紙は全国に流通。当時の資料などは伊勢型紙資料館で見ることができる。
 白子と言えば、天明2年12月(1783)、大黒屋光太夫が神昌丸で白子より江戸に向かう途中、アムチトカ島に漂着し、ロシアのエカテリーナ2世に拝謁した後、約10年の歳月をかけ西洋に関する情報を日本に持ち帰ったエピソードが有名だ。
 さらにこの地方には東海道や伊勢街道が通り、宿場として賑わいを見せた。東海道の石薬師宿と庄野宿、伊勢街道の白子宿と神戸宿は参宮客で活気にあふれた。

◎伊勢国府跡が発掘。2つの国府の不思議
 そんな故事来歴を持つ鈴鹿は、近年、奈良時代に伊勢国府があった地として注目を集めている。「国府」とは今の県知事にあたる国司が政務を執る役所があった場所で、日本の60あまりの国ごとに置かれたとされる。鈴鹿市には国府町という地名があり、国府氏という豪族もいたため、かつてはそこに伊勢国府があったと考えられてきた。しかしその後の発掘調査の結果、国府町の遺跡は平安時代のもので、奈良時代はそこから北の広瀬町に国府があったことが分かった。
 国府は東西600m、南北800mの規模。ここでは、中央政府から派遣された国司を中心に儀式と饗宴、政務の一部が行われていた。敷地には政庁に建っていたと思われる正殿・後殿・脇殿の基壇がしっかりと残っており、学術的価値も高い。しかし主な政務を司る建物群などは発掘されていないことから、元々は国府町にあった伊勢国府が広瀬町に移り、何らかの理由で再び国府町に移ったという推測や、国府町と広瀬町の国府が同時期に機能していたという意見もある。
 また一般的に、国府の付近には国分寺と国分尼寺が置かれるが、鈴鹿も例外ではない。しかし国分寺・尼寺は国府から約7㎞離れた鈴鹿市国分町で見つかっている点も興味深い。
 この地に国府があった理由としては、鈴鹿関を管理するのに適していたこと、そして、力のある大豪族がいたことが挙げられる。前述の大鹿氏は天皇家に采女を差し出しており、天皇家とのつながりも強かった。そんな大鹿氏が在庁官人になったという記述も見つかっているため、国府建設や運営においても力を発揮したことだろう。
 鈴鹿市では、今後も2つの伊勢国府の調査を続けながら、国分寺跡については平成27年を目処に歴史公園を整備していく予定だ。なお、伊勢国府や国分寺の出土品や調査結果は、鈴鹿市考古博物館でも展示されている。

取材協力/鈴鹿市文化振興部
中日新聞三重版から引用


2007/1/19 「大鹿欣孝さんの先祖探し」

2022-06-27 14:26:53 | 日記

天児屋根命は天罪や国罪を払う上首の神として天照大神にお仕えし、後裔は天皇家と古代の神の子孫との間を取り持ち、神様の霊を慰める大役を果たし天児屋根命四世大鹿島命は伊勢神宮の初代神官となり、その後代々中臣を姓とする。 ...

仁徳天皇の時代、国摩大鹿島命の後裔、国摩真人が高天ケ原の西にある鬼ケ城に神壇を築いて祈った結果、神の啓示によって神妙剣と称する刀術を創業した。これが「鹿島の太刀」という刀法の始まりと伝えられる。そして、真人四十二代目に吉川左京覚賢という

国摩真人は天孫降臨以来の神司天児屋根命 (春日大社祭神) の十世神孫・大鹿島命の子孫で中臣氏に当り、 「もののふ」 の語源となる天理石上神宮を本拠とする物部の大連(おおむらじ)の一部と共に祭祀を司っていたが、 佛教と云う新興宗教の伝来と共に信者の ...

そのころ、荒ぶる神の所業を、倭姫命は中臣の大鹿島命と伊勢の大若子命と忌部の玉櫛命を遣わして天皇に申し上げさせた。 天皇が仰せられるには「その国は大若子命の先祖の天日別命が平定した国である。大若子命よ、お前がその神を祭り鎮めて倭姫命を ...


--------------------------------------------------------------------------------
お名前: 大鹿欣孝(おおしかよしたか)   
初めまして。
私は大鹿(オオシカ)という者です。現在兵庫県宝塚市在住です。
 
「 今回アメノコヤネ命の子孫といわれる大鹿首(オオカノオビト、又は伊勢大鹿首)について問い合わせさせて頂きます。」
 
実は自分の先祖探究をしており、関係であるHPを検索したら、大鹿首(伊勢大鹿首)を知る事に。別筋で、新撰姓氏録の出典として、大鹿首はアメノコヤネの後裔との事です。また大鹿家の先祖と言われたのですが。大鹿首が大鹿家の先祖かどうかは闇の中です。全く判りません。
 
 大鹿首は、元は京都(右京区)でお生まれになったとの事。その大鹿首(伊勢大鹿首)が四国の香川県に渡っていたのかどうかご存知無いでしょうか。
 大変なデータをお持ちであり、古い文献についてもご存知ではないかと思います。 
 
 私の大鹿家本家は香川県仲多度郡満濃町です。しかしここも分家。江戸時代後期に香川県三豊郡大野原町からの分岐です。大野原町には室町時代頃から住んでおり、菩提寺に聞くと鎌倉頃までは遡れるかも知れないとの事です。
 
 また、大鹿首は、古墳時代に伊勢大鹿首小熊の記述が。
そして大鹿首の祖先は、相鹿津臣命、そして国摩大鹿島命、そしてアメノコヤネ命ということになるのでしょうか?
 大鹿首=大鹿家先祖という説がより信憑性を増す事を祈る次第であります。。
 本家のある香川県にしか大鹿家の先祖の手掛かりが無く、先祖の事をどうしても知りたいこと、そして大鹿首が先祖であることを望むあまり今回の問い合わせとなりました。
 大鹿首が、どこの出自で、またどのような経路で移住して行ったか判明すれば有り難いのですが。
 
 「それよりももっと知りたいのは、大鹿首もしくはその末裔の一族が、讃岐の国(香川県)に在住した形跡はありますでしょうか?」ということです。 

 今、各神社その他大学などに問い合わせ中ですが、全く手がかりが有りません。
 そのあたりを加味して、お返事下されば幸いです。
 尚、返事頂ける場合は、
    ohshika@toyogrp-unet.ocn.ne.jp
までよろしくお願いします。会社パソコンで、帰宅したらメール出来ませんが、個人使用なので全く問題無しです。
携帯メールは、yoshi.oshi.66aobadai2.@docomo.ne.jpです。この場合は、あまり長い文章はキャッチできませんので悪しからずご了承下さい。見ず知らずの家系のために無理なお願いを致しまして大変恐縮しております。

[2003年6月18日 10時46分43秒]