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大鹿一族の歴史探訪

大鹿姓発祥の歴史から、一族の流れを探訪し、現代の大鹿までをつなぎます。 ー古事記から現代までー

2009/2/9 「故事来歴三重」

2022-06-27 14:28:40 | 日記

故事来歴三重・三重の歴史http://punt.jp/chunichi/machi/07_07_koji/koji_raireki06_2.html

◎大豪族の大鹿氏と関氏一族の反映
 東山道の不破関、北陸道の愛発関と並ぶ三関のひとつ東海道の鈴鹿関を擁し、古くから交通の要所としても重要な役割を果たしてきた鈴鹿。河川の流域や海岸平野を中心に、上箕田遺跡(中箕田町)や西川遺跡(郡山町)などの多数の遺跡と、日本武尊の墓と伝えられる白鳥塚古墳や、王塚古墳(国府町)などの古墳約1000カ所が集中していたことから、この地方には大豪族がいたことが証明される。
 なかでも、古代から中世にかけて栄えた大鹿氏と、室町時代に力を持った、平氏の嫡流をルーツとする関氏が知られる。正平22(1367)年、関盛政は自らの領地を5人の子に相続する。長男である盛澄は神戸氏を名乗り、神戸(現在の鈴鹿市神戸)の西にある沢城に、次男・盛門は国府氏として国府城に、三男・盛繋は関氏の本家として亀山城に、四男・実親は鹿伏兎氏として鹿伏兎城に入城。五男の政実は峯氏を称し川崎の峯城に入った。
 永禄10(1567)年、織田信長は滝川一益らに命じ高岡城(神戸城の支城)を侵攻するも、神戸の長臣の攻防もあり一旦引き上げる。翌年、再び攻め入った信長と和睦した当主・神戸友盛は、三男の三七郎(後の織田信孝)を養子にうけ入れ、それ以降、友盛は信長に従うことになる。ところが信孝との折り合いが悪く、友盛は隠居することに。その後、神戸城主は頻繁に変わることになる。

◎賑わいを見せた白子港と宿場町 
 江戸時代の鈴鹿を見てみると、神戸藩、亀山藩、紀州藩、津藩、久居藩、旗本領など、複雑な藩領が特徴的と言える。なかでも、紀州藩領の白子港は白子廻船を有し、江戸に進出した伊勢商人の物資積荷基地として繁栄を極めた。また白子地区を産地とする伊勢型紙は全国に流通。当時の資料などは伊勢型紙資料館で見ることができる。
 白子と言えば、天明2年12月(1783)、大黒屋光太夫が神昌丸で白子より江戸に向かう途中、アムチトカ島に漂着し、ロシアのエカテリーナ2世に拝謁した後、約10年の歳月をかけ西洋に関する情報を日本に持ち帰ったエピソードが有名だ。
 さらにこの地方には東海道や伊勢街道が通り、宿場として賑わいを見せた。東海道の石薬師宿と庄野宿、伊勢街道の白子宿と神戸宿は参宮客で活気にあふれた。

◎伊勢国府跡が発掘。2つの国府の不思議
 そんな故事来歴を持つ鈴鹿は、近年、奈良時代に伊勢国府があった地として注目を集めている。「国府」とは今の県知事にあたる国司が政務を執る役所があった場所で、日本の60あまりの国ごとに置かれたとされる。鈴鹿市には国府町という地名があり、国府氏という豪族もいたため、かつてはそこに伊勢国府があったと考えられてきた。しかしその後の発掘調査の結果、国府町の遺跡は平安時代のもので、奈良時代はそこから北の広瀬町に国府があったことが分かった。
 国府は東西600m、南北800mの規模。ここでは、中央政府から派遣された国司を中心に儀式と饗宴、政務の一部が行われていた。敷地には政庁に建っていたと思われる正殿・後殿・脇殿の基壇がしっかりと残っており、学術的価値も高い。しかし主な政務を司る建物群などは発掘されていないことから、元々は国府町にあった伊勢国府が広瀬町に移り、何らかの理由で再び国府町に移ったという推測や、国府町と広瀬町の国府が同時期に機能していたという意見もある。
 また一般的に、国府の付近には国分寺と国分尼寺が置かれるが、鈴鹿も例外ではない。しかし国分寺・尼寺は国府から約7㎞離れた鈴鹿市国分町で見つかっている点も興味深い。
 この地に国府があった理由としては、鈴鹿関を管理するのに適していたこと、そして、力のある大豪族がいたことが挙げられる。前述の大鹿氏は天皇家に采女を差し出しており、天皇家とのつながりも強かった。そんな大鹿氏が在庁官人になったという記述も見つかっているため、国府建設や運営においても力を発揮したことだろう。
 鈴鹿市では、今後も2つの伊勢国府の調査を続けながら、国分寺跡については平成27年を目処に歴史公園を整備していく予定だ。なお、伊勢国府や国分寺の出土品や調査結果は、鈴鹿市考古博物館でも展示されている。

取材協力/鈴鹿市文化振興部
中日新聞三重版から引用


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