この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。
ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。
たとえば、会社のなかで、若手の社員が
「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。
その提案を肯定的にとらえようとすれば、
「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」
と見ることもできるでしょう。
しかし、否定的に見れば、
「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。
うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」
と感じる人もいるでしょう。
この二つの見方のうち、
どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。
そして、前者の見方が正しいならば、
自分はなぜ後者の見方をしたのか、
この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、
その根本原因をたぐっていく必要があるのです。
そうした原因を見いだしたならば、
それを取り除いていく必要があるのです。
『釈迦の本心』より
ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。
たとえば、会社のなかで、若手の社員が
「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。
その提案を肯定的にとらえようとすれば、
「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」
と見ることもできるでしょう。
しかし、否定的に見れば、
「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。
うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」
と感じる人もいるでしょう。
この二つの見方のうち、
どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。
そして、前者の見方が正しいならば、
自分はなぜ後者の見方をしたのか、
この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、
その根本原因をたぐっていく必要があるのです。
そうした原因を見いだしたならば、
それを取り除いていく必要があるのです。
『釈迦の本心』より